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日本橋川(13)「外濠橋」「龍閑川」の謎 [日本橋川]

ohboribasi1_1.jpg 「鎌倉橋」を下ると左岸に「龍閑川」跡あり(左写真の駐車場下)。正面にはJRの煉瓦アーチ高架橋が連なり、日本橋川に石組アーチ橋「外濠橋」が架かっている。日本橋川の関係書やサイトは、なぜか「外濠橋」に言及せぬ。鉄道架橋ゆえのスルーだろうが、日本橋川に架かる橋には違いなく、ここでは「外濠橋」と「龍閑川」そして「新常盤橋」について記す。

 「外濠橋」は、神田駅開業(中央線開通)の大正8年(1919)の架設だろう。鉄道サイトを拝見すると橋の図面、石積みアーチ橋の工事中写真、竣工時の写真など掲載で興味深い。高さ10メートルの親柱が四隅に建つ立派な姿だった。アーチ中央には誇らしげな鉄道エムブレム。気付かず撮った写真を改め見れば、今も鉄道マークあり。

sintokiwabasi1_1.jpg 大正14年には山の手線、京浜東北線も開通。電車がひっきりなしに走っているが、90年余も経て崩壊の危険なしや。さらに東北・上越新幹線も加わって補強拡張。目下は東北縦貫線の高架工事中。

 「外濠橋」で日本橋川を越えた神田寄りの煉瓦アーチ架橋下は駐車場。続いて外堀通りを跨ぐ鉄筋「龍閑橋架道橋」。再び煉瓦アーチへと続く。その煉瓦壁に昭和7年に消えた町名入り「第一(本銀町)高架橋」のプレートがあった。この辺りには、大正時代が息づいている。

 高架橋下を抜けると「江戸通り」と交差し、「外濠橋」並列で「新常盤橋」(写真上)が架かっている。大正9年(1920)架設で、当初は路面電車が走っていた。現在の橋は昭和63年(1988)竣工。橋右側歩道下から川面を覗けば「東北・上越新幹線」を支えているのか鉄柱基礎が建って、その奥に「外濠橋」のアーチが見える。河岸を渡れば目前に東京駅。振り帰れば神田駅。

meijiryuukanhasi_1.jpg 次は「龍閑川」。菅原健一著『川跡からたどる江戸・東京案内』(洋泉社)によると、「龍閑川」は神田と日本橋の境界線。明暦3年(1657)の大火後に火除土手が作られ、天和3年(1683)に土手沿い北側に広い道ができ、元禄4年(1691)頃に沿って「龍閑川」が開削された。川は「龍閑橋」から小伝馬町牢屋敷を経て「浜町川」(明治座近く)に合流し、「神田川」経由で「隅田川」に流れていた。

 「龍閑川」堤は松並木。北側は神田の職人町。江戸湊から龍閑川で運ばれた資材が荷揚げされ、加工・製品化されて日本橋商人が売った。この水路は安政4年(1857)に埋め立てられ、明治16年(1883)に浜町川が神田川まで延長された時に再び防火・排水用に開削。戦後になって「龍閑川」は不用河川として戦災残土の処分場所に。下水道使節が埋設されて昭和25に埋め立て完了。

ryuukannhasiato_1.jpg 「龍閑川」の変遷は、江戸から現在までの歴史になる。最後の「龍閑橋」は、外堀通り脇の小緑地に記念保存され、明治時代の写真も添えられていた。


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日本橋川(12)佐伯泰英著『鎌倉河岸捕物控』 [日本橋川]

jidaisyosetu3_1.jpg 池波正太郎が昭和42年から清水門前を役宅にした『鬼平犯科帳』シリーズを始めた。その50年前の大正6年に岡本綺堂が「三河町の親分」こと『半七捕物帳』シリーズを開始。今は佐伯泰英が「鎌倉河岸」から「常磐橋」沿いを舞台の『鎌倉河岸捕物控』シリーズを書いている。

 日本橋川沿いを自転車で走りつつ、思いもかけず上記捕物3シリーズをちょい読みすることになった。日本橋川沿いが、それだけ江戸の歴史や情緒を秘めているってこと。また日本橋川を拠点にするのも、時代小説のひとつの定石なのかも、と思った次第。

 佐伯泰英は神田雉子町名主の齋藤家三代によって著された『江戸名所図会』(7巻20冊)の、長谷川雪旦による絵「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商う図」を見たことから、同シリーズを書くきっかけになったとか。現在は22巻目が発売中(ハルキ文庫)。小説舞台の界隈を自転車で走っていたら、「龍閑橋高架橋」が東北縦貫線工事中で、その工事壁面に「豊島屋」の絵の一部が漫画タッチで描かれていた。

tosimayanoe1_1.jpg 同シリーズの時代は寛政から享和へかけて。主人公は常磐橋門外の「金座」裏の宗五郎親分と、むじな長屋育ちで呉服の松阪屋手代から十代目の若親分になる(なった)政次。二代目親分が「金座」に入った強盗を手首を斬られつつ守ったことで、将軍家光公認の由緒ある十手持ち。

 同じむじな長屋育ちで、宗五郎親分の代から手先になった独楽鼠の亮吉と、「龍閑橋」の船宿の船頭になった彦四朗がいる。彼らが集う場が「豊島屋」。雛祭りの旧暦2月18日から19日朝までに白酒1400樽が売れる大繁盛店。三人か憧れ、後に政次と所帯を持つことになる看板娘しほがいる。

 同シリーズの巻頭に「鎌倉河岸」「豊島屋」「常磐橋」「金座」など『江戸切絵図』通りの地図が載っている。捕物小説は江戸の彼方此方で事件が起こるが、同シリーズは事件前と解決後に必ず「鎌倉河岸」に暮す人々の交流があたたかく描かれているのが特徴。読んでいるってぇと、フィクションながら江戸の日本橋川界隈の情緒が漂ってくるようがちょっとうれしい。


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日本橋川(11)江戸繁昌と米機掃射の「鎌倉橋」 [日本橋川]

kamakurabasi1_1.jpg 『江戸切絵図』を見ると「神田橋」の下流が「常磐橋」。今はその中間辺りに昭和4年完成の震災復興橋「鎌倉橋」が架かっている。鉄筋コンクリートのアーチ橋。ここらは昔の「鎌倉河岸」。

 橋たもとに「鎌倉河岸跡」史跡案内板あり。以下要約。・・・天正18年(1590)の家康入国の初期から同河岸は魚、青物など生鮮食品をはじめ木材、茅などの物資集積地。江戸城築城では鎌倉からの石材を荷揚げしたので「鎌倉河岸」。別史料では、鎌倉から来た材木商たちが築城の木材を荷揚げしたので「鎌倉河岸」とあり、どちらが正しいや。案内板の説明はこう続く。

kamakurabasi2_1.jpg ・・・『江戸名勝誌』には(鎌倉河岸は)神田橋より常磐橋の辺の御堀はたを云」とあり。また『俗江戸砂子』には「鎌倉町、かまくらがしと云、御堀ばた米屋多し」と記されている。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などを荷揚げ。この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋が売り出す雛まつりの白酒は有名で、時期になると余りの繁盛に店内で絶倒する客があった。同店は戦災までこの河岸で営業していたが、現在も神田(猿楽町1丁目)で営業中。昭和にになっても建築材料の荷揚げが行われていました。当時の「鎌倉町」は、現在の内神田一丁目六番地、二丁目二・三番地の区域。

 文中の「豊島屋」の繁盛ぶりは、(7)で記した神田雉子町の名主、齋藤長秋、莞齋、月岑の三代による『江戸名所図会』(7巻20冊)の長谷川雪旦の絵「鎌倉町豊島屋白酒を商ふ図」に描かれている。自転車で周囲を走っていたら、神田駅~龍閑橋辺りの高架鉄道工事現場の壁画に、その絵の一部が漫画タッチで模写されていた。

kamakurabasidankon1_1.jpg さて、鎌倉橋の欄干に「昭和19年(1944)11月の米軍による爆撃と機銃掃射の被弾跡」があった。今も生々しい銃痕跡。昭和の江戸っ子が悲鳴あげて逃げ惑ったのは70年ほど前のこと。この橋のたもとに佇めば、江戸から平成の四百数十年余が見えてくる。人の営みは間違っていなかっただろうかと。


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日本橋川(10)「神田橋」と半七親分 [日本橋川]

kandabasi1_1.jpg 「神田橋」際に「物揚場跡」石碑と「内神田一丁目」史跡案内板あり。要約する。

 ・・・この界隈には徳川家康の江戸城築城と町造り資材を運んだ荷揚げ場あり。神田橋は江戸城外郭門の一つで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道。要所ゆえ明治の頃まで建造物なし。明治初期の地図には交番と電話があるのみ。空き地の状態は第二次大戦戦後まで続いた。 神田は江戸っ子の職人、商人でごったがえした下町と思いきや、そんな一画があったとは。・・・そして昭和五十八年、神田橋土木詰所の敷地に内神田住宅が完成して九十世帯が住み始めました。

 この案内板には明治30年頃の神田橋の絵と、江戸切絵図(安政三年・1856)が掲載。外濠門側の石垣の高さよ。内堀と同じく濠際は敷地より土手状に高かったのだろう。そして絵図をよく見ると「御宿稲荷」あり。ひょっとしてと自転車で走りまわれば、今も「御宿(みしゅく)稲荷」があった。以下、神社の由来。

kandabasimei30_1.jpg ・・・徳川家康は関東移封の際に神田村郷士宅に投宿。そこに宇迦之魂命(うかのみたまのかみ)が祀られていた。後に幕府が家康の歩んだ記念に社地を寄進。大震災と戦災で焼失して三度の再建。ここは昔「神田三河町一丁目」。家康と共に三河国の臣下が住みついてのこと。また鎌倉から来た材木商たちが築城の木材を荷揚げした場で「鎌倉河岸」。昭和10年から「神田鎌倉町」そして今は「内神田一丁目」。

 オットォ~、「神田三河町」と云えば「三河町の半七親分」じゃないか。岡本綺堂『半七捕物帳』。同捕物帳に地元舞台の二話あり。「神田橋」門外の鎌倉河岸で赤ん坊を抱いて倒れていた男の謎『三河万歳』と、「一ツ橋」門外の事件『雪達磨』。ここでは後者を紹介しよう。

kandabasi2_1.jpgmisyakuinari_1.jpg ・・・半七の縄張り内ですから、威張って話せます、と半七老人が語り出す。文久2年は元旦から大雪。「一ツ橋」門外の「二番御火除地」隅に大きな雪達磨。十七日に雪が解けて、中から死体が出てきた。半七は南京玉を見つけた。ここから贋金造りの一味を捕まえる物語。

 鬼平の役宅が清水門外。半七親分が三河町。そして今は佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』シリーズが人気。捕物小説は日本橋川沿いが定石らしい。


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日本橋川(9)荷風の「錦橋」 [日本橋川]

nisikibasi1_1.jpg 「一ツ橋」の下流が鉄筋コンクリート・アーチ橋「錦橋」。昭和2年の架橋ゆえ「江戸切絵図」に橋はなく、この辺りは「二番御火除地」が広がっていた。

 ここで注目は「一ツ橋」から下流に向かって露出の護岸石組。皇居の石組と同じく角がキチッと決められて、その内側が「乱組」。石をよく見れば工事を請け負わされた藩の印が刻まれているかもしれない。高層ビル乱立の東京に、江戸が覗いている。

 「錦橋」は「神田錦町」からか。その「錦町」は一色なる旗本が二軒いて「二色」が「錦」になったとか。武家地がなくなったり火除地の空地は、明治になると概ね軍隊用地か文教地区になる。ここは南高(東大)、華族学校(学習院)、電機学校(東京電機大)、英吉利(イギリス)法律学校(中央大)、神田高等女学校(神田女学院)など文教地区の観を呈した。

nisikibasigogan_1_1.jpg ここからは余談。永井荷風に昭和4年『夜の車』がある。・・・人力車に乗るってぇと車夫が身の上話をする。倅が遊女と心中し、命は助かったが監獄暮し。亡くなった女には母と眼の見えぬ婆さんがいた。打っちゃって置けずに植木職をしつつ夜なべ仕事で車夫をし、彼女らに仕送りをしていると語る。そう聞けば乗る方もば蟇口の底を叩くこともある。

 そんな義理人情も薄れ、車夫が運転手の時代になった。日比谷で車に乗れば運転手がこう言った。「今日は土曜日。お遊びに行くならいいところへ案内しますよ」。日比谷通りで<神田橋>をわたって<錦橋>を左に見たあたり。震災復興の区画整理が終わったばかりで(<錦橋も出来たばかりで>)、貸家の札が多い。横丁の路地へ。案内された二階屋のなまめかしい部屋。泊まりで遊ぶなら隣の空家へ。押入れの引き戸を開ければ、そこが隣の家の部屋になっている仕組み。荷風さんが、そこでどんな遊びをしたかは読んでのお楽しみ。

 まっ、ビルだらけの神田錦町だが、そんな時代もあったというハナシ。


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日本橋川(8)鴎外・南畝の「一ツ橋」 [日本橋川]

hitotubasi4_1.jpg 「一ツ橋」たもとに史跡案内あり。まず橋名の由来を前述『慶長見聞集』からひき、こう続ける。「橋近くに松平伊豆守の屋敷があって伊豆橋とも言われた。その屋敷跡に八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居を構えて「一ツ橋家」と称した。明治6年(1873)「一ツ橋」を撤去。今の橋は大正14年(1925)架設。橋の北側の如水会館一帯は商科大学(一橋大)があった」

 この説明には五代将軍綱吉が欠けている。綱吉がここに大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立した。享保2年(1717)正月大火で焼失。その跡地が火除地「護持院原(ごじいんがはら)」になった。現在の神田警察の南側辺り。

 森鴎外に『護持院原の敵討』あり。物語は天保4年暮。大金奉行の山本老人が金部屋警護の宿直中に襲われた。老武士は「敵を討ってくれ」の遺言を残した。22歳の長女りよ、19歳の倅宇平に、姫路在住の実弟・九郎右衛門が助太刀を名乗り出た。女りよの同行は許さず、老武士に世話になり、かつ敵の顔を知る文吉が同行した。

hitotubasi1_1.jpg 敵を探して日本中を彷徨う暮らし。当てのない旅の虚しさに宇平が消えた。路銀も絶えた頃に「敵が江戸にいる」の知らせ。江戸中を探し求めて、ついに敵を見つけた。「龍閑橋」を経て「鎌倉河岸」から神田橋外の「元護持院原二番」に出たところで敵を捕まえた。

 りよの奉公先に宇平が走った。「母危篤」と外出を願う。宇平の顔を見たりよは、敵を見つけた知らせと直感し、遺品の短刀を忍ばせて走った。見事に敵討ち成功。翌朝の護持院原は見物人が押し寄せた。江戸に絶賛の声が湧き上がる。三人それぞれに幕府から褒美が与えられた。

 森鴎外はこう締めくくる。屋代弘賢は彼らを讃美する歌を作ったが、幸いに太田七左衛門が死んでから十二年立(ママ)っているので、もうパロディを作って屋代を揶揄(からか)うものもなかった。

  屋代弘賢は当時の学者。彼と交流のあった七左衛門は「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた狂歌の大田南畝の晩年名。南畝ならば勧善懲悪、封建的道徳・美徳に熱狂の世を笑っただろう、の意をこめて鴎外は小説を締めくくった。思わぬところで大田南畝(蜀山人)が出てきた。鴎外・南畝が出てくれば荷風の出番になろう。それは次にまわして「江戸切絵図集」を見れば、一ツ橋門外にちゃんと二番~四番までの「御火除地=護持院原」が広がっていた。あれもこれも隠居読書の愉しみなり。


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日本橋川(7)けんもほろろの「雉子橋」 [日本橋川]

kijibasi1_1.jpg 「宝田橋」の次が「雉子橋」。専大前交差点から皇居方面へ架かる。写真上の橋向こう左ビルは「住友商事・竹橋ビル」で、角を曲がると「毎日新聞社」。

 橋たもとに橋名由来の看板があるも、ここは文久2年(1862)刊の古書『慶長見聞集』をひく。同著は明治・大正・昭和と何度も復刻されて、今は中丸和伯注(江戸資料叢書、新人物往来社、昭和44年刊)を読むことができる。同著に「江戸の川橋にいわれ有る事」の章あり。

 「家康公関東へ御打入以後から唐国帝王より日本に勅使わたる。数百人の唐人江戸に来たり。これらをもてなし給ふには雉子にまさる好物なしとて諸国より雉子をあつめ給ふ。此流の水上に鳥屋を作り雉子をかきりなく入置ぬ。雉子小屋のほとりに橋一つ有けり。それを雉子橋と名付けたり」

kijiba5_1_1.jpg さらに下流の橋へ言及。ついでゆえ引用を続ける。「其下に丸木を壱本わたしたる橋有りければ、是をひとつ橋とまろき橋共いひならはす。扨(さて)又、御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋よりおおきなれはとて是をは大橋と名付けたり」

 橋たもと看板には、こんな説明もあった。「江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。“雉子橋でけんもほろほろに叱られる”。 旧雉子橋は、この橋より百メートル程西側に架けられていました」

 そこで『江戸切絵図』は「日本橋北・神田辺之絵図」を見る。「神田橋」近くに「雉子町」あり。神田雉子町は現・神田司町。雉子小屋があった地か、はたまたここに移ったか。神田雉子町名主の齋藤幸雄(長秋)、幸孝(莞齋)、幸成(月岑)の三代が、かの『江戸名所図会』(7巻20冊)を著した。また雉子町には陸羯南の「日本新聞」社があった。正岡子規が大学を諦めて(落第)、母と妹を羯南の根岸宅の西隣に越してきて、彼の新聞社記者になった。根岸から雉子町へ徒歩通勤。神田の歴史は探ればキリなく奥が深い。

 『慶長見聞集』にある「数百の唐人~」を調べようとしたが、酒井茂之著『江戸・東京 橋ものがたり』(明治書院)に書かれていた。「唐人というのは、朝鮮通信使のことで、朝鮮国王が江戸幕府に派遣した使節である。将軍がその職につくと、慶賀のために慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回も使節は来日した」

 まぁ、その度に雉子料理では関東に雉子がいなくなったのでは。あたしは手賀沼ほとりで野生の♂雉子に出逢い、やや興奮して写真を撮ったことがある。


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日本橋川(6)鬼平渡れぬ「宝田橋」 [日本橋川]

takaradabasi3_1.jpg 渡部一二著『江戸の川・復活』(東海大学出版会)は日本橋川テーマの書だが、「俎橋」のちょい下流「宝田橋」について、こう記していた。

 ・・・旧小出河岸近くに架かる橋。橋の名になっている「宝田」は、江戸開城以前からあった村の名前。清水門がまっすぐ正面にみえる位置にあった。小説(池波正太郎『鬼平犯科帳』)にでてくる橋。

 同小説シリーズのどの物語や。あたしはバカゆえ『鬼平犯科帳』文庫本①から順に「宝田橋」が出てくる物語を探した。何巻読んでも出てこぬ。『鬼平』ファンのかかぁに訊いた。「おまいさん、その橋は江戸時代にはなかったんじゃないかい」。

takaradabasi5_1.jpg 改めてネット検索。「あららっ」。昭和4年に初めて木橋が架けられ、現在の橋は昭和43年に架設。これじゃ『鬼平』に出てくるワケがない。渡部先生はどこぞのサイト引用で、ご自分では調べなかったらしい。写真上は清水門より50メートルほど手前から見た「宝田橋」。また、まっすぐ正面とも言い難い(写真下の地図参照)。

 池波正太郎は「江戸切絵図」の清水門前「御用屋敷」を、フィクションで「鬼平役宅」にした。この「御用屋敷」だった地には、平成19年完成の千代田区役所本庁舎・九段第3合同庁舎が建ってい、その脇道「竹平通り」に架かるのが「宝田橋」。

 この地は、戦時中は憲兵下士官の宿舎で、戦後はGHQの日本人職員や引揚者が住んでいた大蔵省関東財務局管理の地。ネットに平成10年の「第142回国会・行財政改革・税法等に関する特別委員会」議事録がアップされている。益田洋介議員が松永光大蔵大臣、橋本龍太郎内閣総理大臣に、国有財産の洗い出しと処分の必要を迫って、その例として「竹平寮」に言及している。「ここは元陸軍の宿舎。戦後に国有財産として管理され、引揚者の方に賃貸していた。現在120戸のうち19戸がお住まい。時価150億円。こういうものが戦前の姿のまま残されている。売却した方がいいでしょう」。いつやるか、今でしょう。・・・かくして更地になり、千代田区役所本庁舎・九段第3合同庁舎になったらしい。

takaradabasitizu_1.jpg さて、なぜに「宝田橋」か。太田道灌が長禄元年(1457)に日比谷入江際に城を築いた当時、この地は千代田村、祝田村、宝田村で、そこから「千代田城」。千代田区の由来もそこからか。徳川家康が江戸に来るってぇと江戸城拡張で上記三村を移転させた。宝田村は氏神様「宝田神社」と共に日本橋に移転。それが今も「べったら市」で有名な「宝田恵比寿神社」。この辺のことは同神社サイトに書かれていた。

 なお、清水門内「北の丸」は田安家、清水家の屋敷だったが、明治からは「近衛歩兵連隊」の駐屯地。あの「竹橋事件」にはせ参じた兵士もいたかもしれぬ。


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日本橋川(5)「俎橋」の鬼平と忠吾 [日本橋川]

manaitabasi3_1.jpg 日本橋川は「堀留橋」「南堀留橋」を経て、靖国通りの「俎橋」(写真上)に至る。千代田区サイトと九段坂公園案内板より、まずは「九段坂」の歴史・・・。

 神保町へ続く「靖国通り」開通は、武家地が廃された後で、明治37年(1904)に路面電車が開通。当初は九段坂が急で登れず、坂脇に勾配を緩くした専用軌道を設けていた。関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し(長くして)傾斜を緩くする工事で、市電(都電)を中央に設置。さらに「九段坂公園」の説明文は続く。

 ・・・この「高燈篭」(写真左)は、坂上の靖国神社前にあって、品川沖の船はもちろん、遠く房総からも望見されたとか。つぅワケで、路面電車開通までは尾崎紅葉をはじめ「硯友社」(飯田町の坂上)作家ら、また永井荷風、田山花袋もみぃ~んな歩いて神田~九段坂を歩いていた。その急な九段坂上からは海も臨める眺望だったらしい。

takatoudai1_1.jpg そして「俎橋」。九段坂公園の案内板には「江戸名所図会」の「飯田町(中坂・九段坂)」(写真下)の金属版あり。江戸の「俎橋」は、かくも小さな木橋で「今魚板橋(いままないたばし)」。九段坂を下って「俎橋」を渡るとT字路。神保町への直進路はなかった。「俎橋」上流は「俎河岸」で日本橋川の最上流荷揚げ場。

 九段坂から「俎橋」手前で右折すると「清水門」あり。「江戸切絵図」を見ると清水門前に「御用屋鋪」がある。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)でこう書いている。・・・私は「鬼平犯科帳」を書くとき、京都から江戸へ帰任した長谷川平蔵が、一時、目白台に屋敷をもらっていたので、どうも、小説の上から、これを役宅にしてしまうと不便のような気がして、清水門外に[御用屋鋪]と切絵図にあるのを利用させてもらい、ここへ役宅を置き、目白台の屋敷には、長男辰蔵に留守番をさせることにしたのである。

manaitabasi5_1.jpg ゆえに『鬼平』には「俎橋」が「俎板橋」の名でよく登場する。例えば文庫本10巻目収録『五月雨坊主』。・・・駆けつけて来た忠吾に平蔵が言う。「またしても、俎板橋のたもとに出ているだんご屋で、餡ころ餅をしこたま買い込み。ふとんの中にもぐりこんで絵草紙でもめくりながら、むしゃむしゃと食っていたのであろう」「よ、よくご存知で・・・」。

 絵図を見れば「俎橋」たもとに、「だんご屋」がありそうな気がしないでもない。


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日本橋川(4)馬琴「飼い鳥」物語 [日本橋川]

bakinido_1.jpg あたしが野鳥撮りを始めると、馬琴の別の顔「鳥飼い」の姿が見えてきた。馬琴は文化4年(1807)41歳、『椿説弓張月』で名声を得て、『上総里見八犬伝』に入ろうかの時期。流行作家の忙しさに精神困憊し、「折々逆上して口痛の患あり」。イラ立って家人に当たりだした。病弱ながら医者を目指す息子がいて、息子がお路さんを貰えば、お路に嫉妬する妻・お百がいた。

 お百は、ここ飯田町中坂の下駄屋の娘。養子を迎えたが不縁。その後釜に馬琴が入った。世話をしたのは奉公先の蔦屋重三郎と師・山東京伝。お百、不細工で悪妻。『馬琴日記』に・・・夜にいり、お百、また予に対して怨みごとをのべ、身を<井戸>に捨てるなどという」とあり。

 これは小池藤五郎著『山東京伝』に書かれていた。忙しさと家人のゴタゴタ。「これじゃ頭がおかしくなってしまう」で、小鳥を飼い出した。最初に「ウソ」を飼った。あたしは今年正月に近所の戸山公園でウソを撮った。胸の紅いのが♂。桜の蕾や紅葉の実を食っていた。

 馬琴が飼い鳥を始めると、江戸中の鳥屋が次々訪ね来て、あっという間に百羽ほどになった。「牛籠船河原なる鳥屋庄兵衛、安藤坂の鳥屋金次、小石川飛坂なる鳥屋松五郎、粂吉などと云う者、日毎に和鳥・唐鳥をもて来て見せて売まくす」。

 「文政10年(1827)5月8日 昼後、エゾ鳥其外庭籠の鳥騒候につき、立出、見候へば、大きなる蛇、縁頬(えんがわ、縁側のこと)へ上り、庭籠へかかり候様子につき、予、棒を以、手水鉢前草中へ払落し候へば、縁の下へ入畢(はいりおわんぬ。畢=ひつ、おわる、おえる)。」 など『馬琴日記』には鳥飼いの記録も多し。大蛇にイタチも出たか。

 馬琴さん、百羽は余りに多かった。これは大変な事態と翌年に多くを処分も、カナリアなど幾種は生涯飼い続けた。天保5年(1834)の68歳の時には、ついに『禽鏡』(きんきょう)と題した巻物6巻の鳥図譜(図鑑)も出版。馬琴が文を書き、末娘の夫で絵師の渥美覚重が絵を描いた。

bakinido5_1.jpg 以上はブログ紹介済の細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』(吉川廣文館刊)より。なお馬琴は天保7年(1836)に神田明神下から四谷信濃町辺りに移転。四谷ポタリング中に「馬琴終焉の地」と書かれた地図看板を発見。周辺を何度も走ったが「終焉の地」は見つからず。きっと住民が史跡表示を外したのだろう。

 写真上は「滝沢馬琴宅跡の井戸」表示がある地図看板。あたしは「南堀留橋」近くのマンション「ニューハイツ九段」(写真下)エントレンス奥の井戸を眺めつつ、史跡保存に感謝し、ここで馬琴が硯の水を、また鳥たちの水も汲んだかぁ~としばし灌漑。

 追記:馬琴は文政七年(1824)に飯田町宅を長女の婿に与え、息子・宗伯に買い与えた神田明神下同朋町へ移転・同居した。この頃のことは『曲亭馬琴日記』に詳しく、後日読んだ。また深川の生誕地、神田同朋町、終焉の信濃町を自転車で巡った。これらはいずれ記す予定。


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日本橋川(3)馬琴の井戸 [日本橋川]

bakintakuido_1.jpg 日本橋川「堀留橋」辺りの住所看板を見ると「南堀留橋」右岸に「都旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」表示あり。 「おお!」と思い、自転車で同井戸を探すもすぐには見つからぬ。そのはずで「馬琴の井戸」は史跡表示なしのマンション入口をズズッと入った奥の玄関脇にあった。

 現住所は千代田区九段北1丁目5番地。マンション名は「東建ニューハイツ九段」。旧住所は「飯田町中坂下」。馬琴さん、この地に寛政5年(1793)の27歳から文政7年(1824)の58歳まで、神田明神下に移るまで約30年間住んでいた。

 森田誠吾著『江戸の明け暮れ』(新潮社刊)には、馬琴の曾孫・橘女の回想録『思ひ出記』に、当時の飯田町がこう紹介されていたとある。「・・・御維新までは山の手の銀座で、当時の金持ちは飯田町に地所を持っていることを、一つの誇りにしていた。(中略)。中坂からこの坂下へかけては、町屋で相当いいものがあったし、芸者もいいのが居た」。 武家地のはざまの開けた町だったらしい。なお、馬琴が去った後は長女・お咲が住み、その婿に自家製の薬(亡くなった馬琴長男で医師・宗伯が遺した薬だろう)を売らせつつ、三日にあけず呼びつけて雑用をさせていたとか。

 野村宇太郎著『改稿東京文学散歩』(山と渓谷社、昭和46年刊)に、「馬琴の井戸」訪問記がある。著者は大正4年の内田魚庵の『思ひ出す人々』の「震災で破壊された東京の史蹟の其中で最も惜まれる一つは馬琴の硯の水の井戸である」という文章に出会って、同井戸を訪ねたと記す。震災で破壊され、戦災で壊された昭和26年が最初の訪問。「荒涼とした戦災ではあったが、(井戸)跡は板囲いをした工務店の瓦置場の中に、井戸の形だけが何とか生きのびているだけであった」。

 著者はその18年後にまた訪ねる。今度は手作りの案内板が出来ていた。「ここは滝沢馬琴が寛政5年以来31年間住まい、名高い八犬伝などの書を著述したところで、この奥に当時の井戸がある」。工務店が馬琴の井戸を文化財としてしっかり保存していることに感激した。さらに昭和46年に三度の訪問。すでに工務店はなく、工事の板囲い。中をのぞくと馬琴の井戸だけがポツンと残されていたと追記。それから42年後にあたしが訪ね撮ったのが、この写真。

 あたしは2011年1月のブログで森田著『江戸の明け暮れ』と高牧實著『馬琴一家の江戸暮らし』(中公新書)の読書備忘録を記している。二冊とも馬琴が律儀に家事、歳時、家計などを克明に記した日記より、江戸の暮しを探った書。両著を読んだあたしは生意気に、こんな事を記していた。<江戸の戯作者らが魅力的なのは、大田南畝が「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいたように酔狂、風流、粋、不良の危うさ、不沈人生の面白さゆえで、比して馬琴は倹約と保身を信条に、しかも「勧善懲悪」の読み物で人気作家になった。つまらん男よ。>


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日本橋川(2)高松藩主は釣りキチだった [日本橋川]

horidomebasi1_1.jpg 「三崎橋」から「新三崎橋」「あいあい橋」「新川橋」そして「堀留橋」(写真上)辺りは、元和6年(1620)の江戸大改修工事で埋め立てられていた。ここは右岸(飯田橋側)を走れば、その頃の史蹟案内板三つを読める。

 最初の案内板は「飯田町遺跡周辺の歴史」。まずは神田川と日本橋川の歴史紹介。(1)でアップの絵図通り、埋め立て地が「松平讃岐守=讃岐高松藩上屋敷」になっていて、平成12年の遺跡発掘で同上屋敷跡、江戸初期の盛土や石垣、板の土留め護岸による「堀跡」が写真掲載されていた。 

 二つ目の案内板は「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」。初代藩主・松平頼重は水戸藩二代目藩主・光圀の兄。神田川の向こう側、後楽園一帯は水戸藩上屋敷で、兄弟仲良く隣に屋敷を構えていた。ちなみに讃岐高松藩の下屋敷は、目黒の現「自然教育園」。明治に火薬庫になり、大正10年に朝香宮の邸地へ。それを西武の堤康次郎が買収してプリンスホテルを建てようとして住民が反対。これは『ミカドの肖像』シリーズで記したばかり。

horiati_1.jpguki_1.jpg 三つ目の案内板は「讃岐高松藩上屋敷の庭園跡」。屋敷内庭園に造られた池跡から出土した漆塗り浮子の写真(左)が掲載されていた。殿さまは、よほどの釣り好きだったとみた。いや、馬琴と交流のあった江戸家老・木村亘(わたる)の趣味だったか。

 昨年11月に、長辻象平著『江戸釣魚大全』備忘録を記した。享保8年(1723)に同書を著した津軽采女政兕(まさたけ)が釣りに熱中したのは、それより36年前の綱吉「生類憐みの令」の頃からか。長辻氏は江戸の釣りブームの第一期を元禄以前(~1687)、第二期を享保(1716~)、第三期を天明から幕末[1781~)としたが、この漆塗り浮子は、江戸の釣りブーム考察に貴重な資料になろう。

 なお史蹟案内板には、明治維新後の「神田川と日本橋川」について、こう説明していた。「この地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道・飯田町駅が開業。明治36年(1903)に日本橋川を再び開削して神田川と接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物ターミナルになった」。

 「飯田町駅」は貨物駅で、飯田橋駅と水道橋駅の間。現・日本橋川右岸の「ダイワハウス東京ビル」辺りにあった。日本橋川を埋め立て、また開削して両川を接続させた理由が分からなかったが、物資の舟運と鉄道のターミナル化と知って納得なり。この辺で「俎橋」方面に下ってみよう。


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日本橋川(1)神田川との分岐「三崎橋」 [日本橋川]

misakibasi2_1.jpg 春めいて目的ないまま自転車に乗った。ややして「そうだ、日本橋川に沿って走ってみよう」。まずは神田川から日本橋川への分岐、飯田橋と水道橋の間の「三崎橋」へ。写真の正面に流れ行くのが神田川。右の橋が「三崎橋」で、ここより日本橋川が始まる。

 「三崎橋」に佇みつつ、神田川上流をざっと振り返る。水源は井之頭公園で、これに善福寺池を水源の善福寺川、暗渠化された桃園川、妙正寺川が神田川に合流。明治通りと新目白通り交差点下の「高戸橋」へ。「江戸川橋」を経て「飯田橋」辺りからここに流れ込む。

 あたしは神田川は「高戸橋」際マンションに一時期在住した。何階だか忘れたが広いルーフバルコニーがあって、眼下の神田川の小滝と魚道が発する川音が絶えず聞こえていた。コッカースパニエル種の愛犬がいて、高戸橋から椿山荘下までの川沿いが日々の散歩道だった。この辺の川の水は澄み鯉や水鳥が遊び、アユが遡上したと話題になり、春は桜の名所だった。

horidometizu1_1.jpg 昔の神田川(平川)は、日比谷入江に注いでいたが、徳川家康・秀忠による「江戸大改造=神田川開削」工事(完成は元和6年、1620年)で、神田山を掘って神田川を通し、お茶の水~万世橋~浅草橋を経て隅田川へ。これによって低地の日本橋辺りの洪水が解消。それまでの外堀が内堀にもなった。

 同工事で従来の日本橋川は、隅田川からの舟運水路、内堀となり、「三崎橋」から下流四つ目の「堀留橋」辺りまでが埋め立てられた。写真左は文久3年(1863)の「尾張屋版江戸切絵図・飯田町」一部だが、日本橋川が埋め立てられて途中でなくなっているのがわかる。

 そして明治36年(1903)、再び開削されて「日本橋川」と「神田川」がつながる。かくして現在の日本橋川は写真上のように「三崎橋」より始まる。写真の「三崎橋」上に飯田橋駅から水道橋駅へ走る中央線が写っている。そして残念なことに首都高速5号池袋線が護国寺~飯田橋を経て、ここより日本橋川沿い上を走る。これは東京オリンピックに合わせるべく用地買収を省いて川の上に首都高を造ったせい。無残にも花のお江戸の日本橋上をも被っている。江戸時代から続く川の風情、情緒を壊した道路行政の愚策。江戸文化を知らん役人の仕業。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』で「木端役人には愛想がつきる」と記していた。

 そう、椿山荘下の神田川際に「芭蕉庵」あり。芭蕉は29歳の寛文12年(1672)に江戸に来て、日本橋はト尺(ぼくせき、水沢友治郎、または太郎兵衛)宅に身を寄せた。彼の世話で芭蕉は神田上水の関口辺りの工事に従事したのが由来。実際にここに住んだかは定かじゃないが、広重『名所江戸百景』に「せき口上水水端はせを庵椿やま」が描かれている。さて、日本橋に向かって、もう少し走ってみよう。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(24)総括 [『ミカドの肖像』]

kensuimejiro1_1.jpg このシリーズを終える。文庫本約800頁を要した「ミカド巡り」から最後の約50頁が結論らしい。著者は「伊藤博文ら明治国家の創設者たちが創ったのは天皇機関説で、明治天皇は機関説の支持者だったが、そのシステムを壊したのは陸軍だった」。 これは周知のこと。それだけ?

 著者唯一の意見は「僕は、この一世一元の制が、欧米の近代国家観をとりいれた天皇機関説と相容れなかったとみている」 「天皇崩御は不意に訪れ、その儀式は一大浄化作用の場となり、あたかも国家が生き物のように消滅し再生したかのようである」 さらに<天皇も複製技術革命の洗礼を受け、さらに「空虚な中心」になる> これで終わり。

 「なんじゃこれ!」。著者もこれで終われぬと思ったか、内容的にはタブーでもなんでもないのに、仰々しく重大なことを記すかの<禁忌[タブー)X(n)「天皇安保体制」幻想>と、「哲学者Nとの対話」からなる「エピローグ」を設ける。

 いかなるタブーに言及か。<僕は「天皇制安保体制」という明文化されざる構想としての天皇を利用しようとする発想を「天皇安保」と名づけてみることにした。「空虚な中心」の位置が視えてくるからである」 何が言いたい? 再び天皇機関説が出てくる。

 「昭和天皇自身も“天皇機関説の信奉者”で、万世一系を保持するためにも、時の政権から距離を置きながら政治的責任を被らないとする生存戦略。それが「視えない制度」=「空虚な中心」=「秩序の安全装置」=「天皇安保」になっていると繰り返す。タブーでもなんでもない。周知の認識だろう。

 次章「哲学者Nとの対話」は、自分でまとめられぬ頭を他者の力に頼る禁じ手なり。あたしも時に、架空の「かかぁ」をここに登場させる。それでやってみよう。

 ・・・僕は日本の天皇制を語るに“視えない制度”って言葉がふさわしいと思う。中心に権力がない、中心が虚だから、周縁が次々に吸い込まれるブラックホール。それが天皇安保。ゆえに日本に権力闘争も革命も起こらず、ブラックホールのみが新鮮さを保ち続ける。・・・と同章の記述をかかぁに説明すると、こう言った。

 「それだけなら小冊子でよかったのに。そんなのにあんたは真面目に付き合って全部読んだぁ」 「うん、著者は新知事就任の記者会見で<『ミカドの肖像』を読んだかぁ>」と言っていたし・・・」 「で、読んで虚しくなった。きっと書いている本人も自己中心が空虚。ゆえに絶えず虚勢を張っている、カラ威張りしている、自慢する、無理をする、他者を貶める。権力も名誉も金銭の欲も欲しくなる。そうやって生きていなきゃ自分がなくなっちゃうの。それが彼でもあるわけよ」 

 「う・うまいことを言うなぁ。でも空虚ゆえ新ビジョンで東京を世界一の都市にしてくれるかも」 「ばっかねぇ、あんたはミカドを意識して生きてきたことが一度でもあって。それに今の日本はオリンピックやっている場合じゃないの。もし決まれば、それこそ<ブラックホール>で、いま日本が抱えている諸問題が吸い込まれ風化されちゃう」 「あぁ、いまの日本は地道に生きる道を探る大事な時だが、都政も国政もまた高度成長を夢見て、さぁ走り出せって感じになってきた」「そうやって生きる虚しさについて、あの人は何も書いていないの。それよりもあんた、もう寒桜にメジロが群れているよぅ。さぁ、お弁当持って公園に行きましょ」 「かかぁ、おめぇの正体はひょっとして佐高信か、はたまた本田靖春か!」。 (END)

 写真はまだ六分咲きの寒桜に群れる「懸垂メジロ」、可愛いでしょ。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(23)天皇機関説 [『ミカドの肖像』]

syouwatenno_1_1.jpgmeijitennosinsyo_1.jpg 以下、井上ひさし『二つの憲法』よりひく。伊藤博文は「大日本帝国憲法」発布半年前の明治天皇臨席「帝国憲法草案審議」にあたり「枢密院における憲法制定の根本精神についての所信」でこう演説したと記す。

 「我国ノ基軸ハ何ナリヤ」。欧州は宗教が基軸も、日本の仏教は「衰替(すいたい)ニ傾キタリ」で、神道も「宗教トシテ人心ヲ帰向セシムル力ニ乏シ」。それで「我国ニ在テ基軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」。・・・お・おい、そりゃ違うだろう、と叫んでみたが、かくして皇室を基軸に「大日本憲法」が作られたと説明。井上ひさしは「神道と皇室が別と考えられていることに驚いた」と記していた。

 まっ、「ウソも方便」だな。あたしも、これは伊藤博文らが学んだ吉田松陰「松下村塾」の「一君万民論」、はたまた「尊王」思想の延長で、国の基軸を「皇室」にしたんじゃないかなと思った。

 松本健一著『明治天皇という人』では、北一輝は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をこう批判したと記す。・・・「五箇條の御誓文」には「万機公論ニ決スヘシ」とあるように、維新革命は民主主義革命じゃなかったか。「国民の国家」であるべきだろう。しかも「萬世一系」とはなんぞや。鎌倉幕府から徳川幕府末期までの武家政権によって、天皇は主権を奪われていたではないかと。

 なお、昭和天皇は青年期の御学問所で白鳥庫吉(学習院教授)の授業を受けていて、その残された教科書には「我が国には上代よりいひ伝へ来りし神代の物語あり、建国の由来、皇室の本源、及び国民精神の神髄みな之に具(そな)はれり」で、これらは神話。天皇は現人神(あらひとがみ)ではないと、しっかり教えられているとか。(古川隆久著『昭和天皇』)

 またプロシャ風憲法導入派の井上毅が、「議員内閣制」のイギリス型憲法を勧める大隈重信らを追放したのはなぜか。松本健の同著「福沢諭吉と井上毅」の章をひく。・・・福沢諭吉はすでに明治8年刊の『文明論の概略』で、国体を「皇統」という血統に求めるべきではないと記していた。国体(ナショナル・アイディンティティ)は人種、宗教、言語、地理それぞれの国によって異なる。ゆえに「国体」と「正統(政権)」と「血統」は別。

 日本は血統が続くも、政権は何度も変わり、外国に侵略されずに同じ言語風俗変わらずで「国体」は失われなかった。大事なのは皇室「血統」ではなく、「国体」が失われなかったこと。ゆえに「自国の政権を外国によって失われぬよう、人民の智力を進めて文明開化が必要」と説いていた。さらに明治14年の『帝室論』では、皇室は政治という権力闘争の埒外のシステムで、皇室の尊厳と神聖とを、政治が濫用してはいけない、と記していたとも指摘。これは後に美濃部達吉らが主張の「天皇機関説」につながる。

 その福沢諭吉、大隈重信らは井上毅の巧みな裏工作で追われるが、井上は福沢諭吉の著作(『学問のすゝめ』など)に若者たちがなびき、これでは父親や兄の抑えがきかなくなる。危険思想だとの判断で、彼らを排斥したと説明されていた。かくして日本は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」で天皇主権国家となる。

 各著、各長文より、あたしなりにこうまとめ理解したが間違いなかろうや。はい、ボケ防止の隠居勉強です。(★写真は古川隆久著『昭和天皇』(中公新書)、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書) ともにわかり易い書です。)


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