SSブログ

ムナグロや胸の黒さに戸惑ふて [伊豆大島の鳥たち]

munaguro1_1.jpg 波浮港手前のトウシキ海岸沿いにムナグロ(チドリ科)が数羽いた。東京都の絶滅危惧Ⅱ種指定。東南アジアやオーストラリアでの越冬を終え、繁殖地シベリアへ向かう途中の立ち寄りだろう。頭や胸から腹が真っ黒の夏羽になっていい頃だが、まだ寒の戻しがあってか、夏羽へ戸惑っている感なり。

 ムナグロは5,6年前の8月下旬に西側(我がロッジ前)で5羽の小群を見た。これは秋の渡りゆえ、シベリアから南の越冬地への渡り途中。これで秋と春の渡りの両方を見たことになる。小さな身体ながら、地球を南北に旅しつつのスケール大きな営み。

 ムナグロを見たちょい先に、火山灰の柔らかいうちに噴石が飛んできた凹み(Bomb sags)を見た。「伊豆大島ジオパーク」案内板は火山弾のような書き方で、ちょい意がわからぬゆえ調べた。火山弾・塊の下の凹み。落下してめり込んだ構造のことらしい。その近くに、二つの溶岩流が合流してできたとかのトンネルもあった。

bombsag_1.jpg 鳥の地球規模の営み、火山活動などの悠久に触れて、己はちっちぇ~!と想うのも「伊豆大島暮らし」かな。


コメント(0) 

日本橋川(22)「魚河岸」の芭蕉と杉風と其角 [日本橋川]

nipponnbasiuogasi1_1.jpg 次は「日本橋魚河岸」について。橋北詰に「魚河岸発祥の地」石碑あり。説明文を要約。・・・日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いは、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干物を荷揚げする「魚河岸」があった。日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表の店先の板(板舟)に魚を並べて売買を行った。大正十二年の関東大震災後に、現在の築地に移った。 当時の写真(上)が添えられていた。

 魚河岸の歴史は、魚問屋「尾寅」十三代目・尾村幸三郎著『日本橋魚河岸物語』(青蛙房刊)が詳しい。「魚河岸」は本船町がメインストリートで、本小田原町、按針町、長浜町。上記の「板舟」権利を有する者が商売できた。三浦按針(ウィリアム・アダムス)が住んでいて(現・按針通りに旧居跡の石碑あり)、英国の市場取引の方法を指導の説もある。

 同書は何年も前から高田馬場の古本市で眼にしてきたが、この機についに買ってしまった。私事ついでに、あたしは日本橋に行くたびに「はんぺん」好きかかぁに、「神茂」で土産を購う。「神茂」そばの佃煮屋「鮒佐」店先に、芭蕉の句碑あり。こう書かれている。

nihonbasiuogasi_1.jpg 松尾芭蕉は、寛文十二年(1672)二十九歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝八年(1680)までの八年間、ここ小田原町(現・室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られている。

 これには諸説あり。芭蕉はト尺(ぼくせき)が京都から江戸に帰るのに同道して江戸に下ったが、住んだのは小田原町の淡水魚問屋・杉山杉風の「鯉屋」二階。『日本橋魚河岸』の著者は俳人ゆえ「魚河岸と俳句」の章を設けているが、ト尺への言及はなく、杉風や其角について詳細に記している。(写真上は句碑説明文に添えられた江戸時代の魚河岸の絵)

 嵐山光三郎『芭蕉紀行』(新潮文庫)にはこんな記述もある。・・・芭蕉が甥の桃印(二十歳)と妾の寿貞と暮らしていたが、桃印と寿貞が密通。妾とはいえ実質的な妻ゆえ密通死罪。それを隠すために杉風の深川の草案(養鯉場跡の番小屋)に移った。

 なお、其角は日本橋堀江町(江戸橋寄り)で医者竹下東順を父に、榎本氏を母に生れた。14歳にして才気発揮で芭蕉に認められて蕉門の首席をしめる高弟へ。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』で、・・・宝井其角の家の跡に「其角」という料亭があって何度か行ったことがある、と記している。堀江町よりさらに西側が「元吉原」だ。「元吉原」より北の「油通町」には明治時代に長谷川時雨が生れ育って『旧聞日本橋』(岩波文庫)を著している。古地図で昔の町名を探りつつ江戸・明治に想いを馳せる愉しさは奥が深い。書き出したら止まらないので、ここで止める。


コメント(0) 

寒もどし熾火加減の肴かな [週末大島暮し]

okibikagen_1.jpg 四月上旬の大島は、初夏の陽気あり、一転して寒もどしあり。「春寒し、しみ返る、冴返る」。 昨年の煙突落下で諦めていた薪ストーブだったが、前回の島暮しで、島のS青年が直して下さったので、寒い日に再び薪ストーブが愉しめた。

 真冬じゃないから、熾火がちろちろ加減の按配がいい。この辺のコツは、薪ストーブ二十年余の年季。酒は絶ったが、島暮しでは少量を嗜む。神津島の焼酎「島」を呑んだ。

 ちろちろの熾火が酒の肴。一杯が二杯になる。久し振りの炎と酒に、頬が染まった。


コメント(0) 

日本橋川(21)「日本橋」慶長と明治の見聞 [日本橋川]

nihonbasihirosige1_1.jpg 史跡案内板から離れ、資料をひもとく。お馴染みになった三浦浄心著『慶長見聞集』より「日本橋 市をなす事」の章より。

 ・・・日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時分、新規に出来たり、その後此橋御再興は元和四年戌午の年なり。大川なりとて川中へ両方より石垣をつき出しかけ給ふ。敷板のうへ三十七間4尺5寸(約68㍍)、広さ四間五寸(約8㍍)なり。此橋におゐては昼夜二六時中諸人群をなしくびすをついて往還たゆる事なし。

 江戸町中で町人が渡れる最初の橋で、昼夜の区別なく大勢の人が往来した橋だと書いている。そしてこう続く。

 ・・・然るに件の日本橋にふみ入人、老若男女、尊きも賤きも、智者も愚者もをしなへて心正路にありて人よくわれもよく此橋を渡る事わたくしの智からにあるへかたす。橋は菩薩の尊形を表し給ふゆえだと書いている。皆さん、お行儀よく橋を渡っていて、誰もが日本橋を師として鏡として常にこゝろに懸おき、世を渡っていると書いている。まぁ、徳川への賛美文だな。

nipponnbasi1_1.jpg 次は『井上安治の色刷り明治東京名所』(角川書店刊)の木下龍也解説文をひくと、そんなきれいごとでは収まらぬ。・・・寛文二年(1662)の『江戸名所記』には、混雑のうちに帯を切られて刀や脇差を失ったり、巾着や手に持ったものをもぎ取られたり、たまたま犯人を見つけてもたちまち人ごみにまぎれ見失ったりした人たちがいた、と記している。ラッシュアワー並の混雑が伺える。そこには善い人も悪い人もいるってぇのが世の中ってぇものだろう。

 写真上の広重「日本橋雪晴」は、下流から俯瞰で見た日本橋。手前に魚河岸が、遠くに江戸城が描かれている。写真下の井上安治が描く「日本橋」は、同じく下流の江戸橋から見て、魚河岸より対岸の赤煉瓦の三菱七つ倉、その向こうの赤煉瓦造り洋風建築(明治15年竣工の日本橋電信支局)に焦点が当てられている。望む日本橋は石造り二蓮アーチ橋以前、明治六年(1873)五月竣工の「西洋風を以って、中に馬車道、左右に人道」の木橋。他に明治の『風俗画報』に描かれた山本松谷の「日本橋新年の景」は、橋正面から正月晴着の人々と、橋中央を初荷の日の丸をたなびかせた山車、鉄道馬車が描かれている。賑わってはいるがラッシュアワーというほどの混みようではない。


コメント(0) 

裏藪へ浦島草が誘ひ込み [週末大島暮し]

urasimasou1_1_1.jpg 半年ぶりの大島暮し。四月上旬滞在は初めて。台所仕事のかかぁが、窓の外を見て言った。「おまいさん、藪際に奇妙な花がたくさん咲いているよう」。ロッジ裏は深い藪。藪ん中からコジュケイの鳴き声が毎朝のように聞こえ、ケンケンと雉も鳴き、ゲッゲッとタイワンリスも啼く。藪から野生化したクジャクが出てきたこともある。

 カメラを持って裏藪にまわった。奇妙な花は図鑑をひもといて「浦島草」と知った。サトイモ科テンナンショウ属。花のように見えるのは仏炎苞。肉穂花序を包む大形のもので、肉穂花序から浦島太郎の釣糸に例えられる長~い紐状が伸びている。こやつ性転換もする。仏炎苞の裾がちょっと開いているのが雄花。しっかり閉じた雌花は媒体虫のキノコバエを閉じ込める。秋に赤い実をつけるが有毒なり。似た植物に「マムシ草」があるが、長~い紐状がない。別名「蛇草」。

urasimasouup_1.jpg 奇妙で不思議な植物。解説される言葉も馴染みがない。★仏炎苞:ぶつえんほう。植物の苞のうち、肉穂花序を包む大形のもの。ミズバショウやザゼンソウなどのサトイモ科植物にみられる。★肉穂花序:にくすいかじょ。肥大した太い花軸の表面に多数の小さな花が並び密集した花序のこと。

 園芸サイトを見たら一苗が800~1000円ほど。色変わり珍品は5000円を超える。ロッジの裏藪際には何万円分あろうや。

 子規の句に「枕もと浦島草を活けてけり」がある。根岸の子規庵での句だろう。妹・律が活けたか。山口青邨の句に「蜑が家の簾の裾の浦島草」もある。「蜑=あま、漁師」で「蜑が家」は漁師の家。芭蕉は秋田・象潟(きさかた)での句に「蜑の家や戸板を敷て夕涼」。これらをひもとく手許の歳時記は、遊子館刊の大岡信監修シリーズの四冊だが、植物編の表紙絵は「蝮草」だった。

 島暮し二十年余だが、身近に未知で妖しい自然への「扉」がいっぱいある。


コメント(0) 

日本橋川(20)「日本橋」のお勉強 [日本橋川]

nipponnbasi5_1.jpg 日本橋川シリーズ、やっと「日本橋」に辿り着いた。日本橋の歴史書、資料は多いが、まずは橋の碑文集から。最初は「日本橋重要文化財 ・日本橋・指定の意義」なる碑文要約・・・

 「明治時代を代表する石造アーチ道路橋。ルネサンス式の橋梁本体と和漢洋折衷の装飾の調和も良く意匠的完成度も高い。建設省国道に係る物件の初重要文化財指定」


 かくも重要な文化財を、なぜに高速道路で被ったか。次は歴史案内板の文を要約。・・・架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)頃。幕府は五街道の起点を日本橋とし、江戸経済の中心となる重要な水路にもなった。橋詰に高札場あり、魚河岸があった。幕末の繁栄の様子は、安藤広重の錦絵でも知られている。

★追記:平成29年(2017)7月21日の新聞一面トップに「日本橋景観改善へ 首都高地下化 国・都が検討 着手は早くても五輪後」の記事が踊っていた。十年、二十年の大プロジェクトらしいから、あたしは日本橋の上の青空を見ることができないかもしれないが「あぁ、良かった・良かった」と思った。

nipponnbairyu_1.jpgdourokiten2_1.jpg さすが日本橋。説明文は長い。・・・現在の日本橋は明治四十四年に石造二蓮アーチの道路橋として完成。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆。青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表す。橋中央にある日本国道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴った道路整備を契機に、同四十七年に柱からプレートに変更。プレート文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆。平成十年に照明灯装飾品を修復。同十一年五月に国の重要文化財指定。

 史跡案内板は橋の彼方此方にある。・・・慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治44年3月に現在の橋に生れ変わった、のプレートもあり。次は「日本橋由来の記」なる碑板。旧漢字やカタカナを今風に、句読点も入れて読み易くして全文を紹介。

 ・・・日本橋は江戸名所の随一にして、其名四方に高し。慶長八年、幕府諸大名に課して城東の海浜を埋め市街を営み、海道を通し始て本橋を架す。人呼んで日本橋と称し、遂に橋名と為る。翌年、諸街道に一里塚を築くや、実に本橋を以て起点と為す。当時既に江戸繁栄の中心たりしこと推知す可く。橋畔に高札場を置く、亦所以なきにあらす旧記を按するに、元和四年改架の本橋は長三十七間余幅四間余にして、其後改架凡そ十九回に及へりと云ふ。徳川盛時に於ける本橋付近は、富賈豪商甍を連ね、魚市あり酒庫あり、雑闇沸くか如く。橋上貴賤の往来昼夜絶えず、富獄遥に秀麗を天際に誇り、白帆近く碧波と映帯す。真に上図の如し。明治聖代に至り、百般の文物日々新なるに伴ひ、本橋亦四十四年三月新装成り今日に至る。茲に橋畔に碑を建て由来を刻し以て後世に伝ふ 昭和十一年四月 日本橋区

 橋に立ち止まってじっくり碑文を読む人も少なかろうゆえ、以上は橋の碑文集。次回は資料を多少読んでみる。


コメント(0) 

行春やお鉢巡りの脚は古稀 [週末大島暮し]

miharayamakakou1_1_1.jpg 今回の島暮しは十二日間。きっかけは、斜め隣の別荘・M夫人(目白在住)を誘って、「新宿歴史博物館」開催の「中村彝展」を観に行ってのこと。あたしは島の露天風呂「浜の湯」好きで、その隣に中村彝(つね)さんの「首像碑」あり。その彝さんの目白(下落合)の朽ちたアトリエが、この三月に復元保存されて記念館になった。中村彝と新宿と伊豆大島のトライアングルがらみで、久し振りの島暮しになった次第。

 M一家が二泊三日の島暮しで、その後に我がロッジにあたしの弟が遊びに来てくれた。彼は腰痛ながら三原山お鉢巡りに意欲を持った。噴火後の表砂漠開通時に、島通いの友人らと登って(歩いて)以来で、思いがけず六十代最後の“山登り”に相成り候。

 急坂に脚も息もあがった。ヒィヒィと喘ぎつつ登って、三原(山)神社からお鉢巡りへ。最初に歩いたのは行きどまりの「火口見学道」だった。改めて「一周コース」へ。お鉢巡りは「右まわり」だそうだが、そんなこたぁ知らぬゆえ「左まわり」で歩いた。

miharayamakakou2_1.jpg 「あぁ、六十代最後の山歩きだ」とつぶやきつつ、路肩ロープを頼りに頑張った。六十代最後ってぇことは、数えで「古稀」なり。

  行春やお鉢巡りの脚は古稀

 ・・・「行春や~」と始まれば、芭蕉の「行春や鳥啼魚の目は泪」が口をつく。『おくのほそ道』の矢立の句。「魚の目は泪」を、千住の魚屋の店先の魚の眼も濡れて~と解釈した書があったように覚えているが、どうも合点がゆかぬ。

 目下、このブログは「日本橋川シリーズ」途中。いよいよ日本橋に辿り着いて、尾村幸三郎著『日本橋魚河岸物語』を読んだ。「魚河岸と俳句」の章あり。著者は俳人ゆえ同章に力が入っている。芭蕉が伊賀・上野から江戸に出てきて草鞋を脱いだのが日本橋魚河岸は淡水魚問屋を営む杉山杉風の家「鯉屋」二階。杉風(さんぷう)はご存知、芭蕉のパトロン。「魚の目」は魚問屋・杉風の別れの泪とわかって初めて合点した。

 行春やお鉢巡りの脚は古稀  ・・・二度登る馬鹿と言わず、これからは足腰鍛えて年に一度は三原山火口一周コース歩きに挑戦しましょうかねぇ。


コメント(0) 

日本橋川(19)花柳章太郎・玉三郎の「西河岸橋」 [日本橋川]

 nisikasibasi1_1.jpg「一石橋」下流、三越裏から八重洲方面に通じる「日銀通り」に架かるのが「西河岸橋」。その橋詰に史跡案内あり。

 ・・・このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として栄えてきた。この橋は、日本橋から一石橋までの右岸地域が「西河岸」という地名で「西河岸橋」と命名。初代(明治24年架設)の橋は、弓弦形ボウストリングトラスという当時最新式の鉄橋でした。関東大震災の被害で、大正14年に現在の橋になった。架設後65年を経たので平成2年に痛んだ部分を修復した。

 「西河岸橋」といえば、泉鏡花『日本橋』になる。「西河岸橋」から南、呉服橋と鍛冶橋の中間辺りが「檜物町」(現・八重洲一丁目)で花柳界だった。泉鏡花が檜物町の芸者物語を書いたのは大正3年、41歳で、その後に自ら脚曲化もした。

nisigasijizou2_1.jpgnisikasijizou5_1.jpg 「清葉」姐さんに姉の面影を見た医学士・葛木が「一石橋」で栄螺と蛤を投げ(放生)て、巡査に咎められて困っているところを、奔放な「お孝」姐さんが助け舟。そこに抱えの若い「お千世」が合流して西河岸のお地蔵様へ。その帰りに「青葉」姐さんと鉢合わせ。事件はそこから始まる。その謡うような美文一節を紹介しよう。

 ・・・雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名知つて、一所に詣でる西河岸の、お地蔵様が縁結び。・・・これで出来なきや、日本は暗闇だわ~。 もう一節をひこう。

 ・・・あゝ、七年の昔を今に、君の口紅荒れしあたり。風も、貝寄せ(春の西風の意)に、おくれ毛をはらはらと水が戦(そよ)ぐと、沈んだ栄螺の影も浮いて、青く澄むまで月が晴れた。と、西河岸橋、日本橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、松の姿の常盤橋、雲の上なる一つ橋、二十の橋は一斉に面影を霞に映す~。

 21歳で無名だった新派・大部屋俳優の花柳章太郎が、『日本橋』の「お千世」役を切望して西河岸地蔵尊に祈願。この「日限(ひぎり)地蔵尊」は、心から祈念すれば日ならずして御利益に授かるとかで、花柳章太郎は「お千世」役を得て一気に人気女形になった。章太郎は昭和40年に70歳没だが、昨年末(平成24年)、日生劇場で坂東玉三郎が25年ぶりに『日本橋』の「お孝」役を演じた。

 その地蔵尊は、今も西河岸のビルの狭間にひっそり建っている。縁結びの絵馬がやけに艶っぽい。玉三郎も公演前にお参りしたのかしらと「西河岸地蔵」を見ていたら、証券会社勤めらしきオジさんや青年が一目憚るように熱心に何やら祈念していた。そこぞに好きな女がいるや、いや、上昇株との出会いを求めてか。

 「西河岸橋」は古色蒼然風だが、かつての花街の妖艶・情念ドラマがここで展開されたと思えば、妙に艶かしい。


コメント(0) 

日本橋川(18)鏡花と夢二の「一石橋」 [日本橋川]

itikokubasi7_1.jpg 歌川(安藤)広重が「一石橋」からの風景「八つ見のはし」を描いた。広重は八代洲河岸に勤める定火消同心の息子。『江戸切絵図』を見ると馬場先御門前(八代洲河岸)に「定火消役屋敷」あり。ここからも今の「丸の内」が八重洲だったとわかる。

 広重は安政2年の江戸大地震の翌年から「名所江戸百景」を描きだした。あの橋の絵は、早くも復興後の景色か、はたまた幻や。これまた興味深い謎だが、それを含んでも江戸庶民のバイタリティーが伺える。比して今の日本は復興も行政がんじがらめで遅々と進まぬような。

 ★広重の「名所江戸百景」スタートと同年刊『安政見聞録』は地震詳細レポートだが、版元と絵師は処罰された。この全頁は「日本社会事業大学」のサイト「デジタルライブラリー」で見ることが出来る。あたしは勉強不足ゆえ読めぬ。日本人なのに日本語が満足に読めぬ悔しさよ。

 「一石橋」(写真正面が常磐橋、右側が一石橋)は「道三堀」と「外濠川」が埋め立てられ、直角カーブした所に架かっている。橋の両詰めに案内板あり。二つの記述をまとめる。 ・・・江戸初期に西河岸町と北鞘町を結ぶ木橋が架けられた。北側の金座御用の後藤庄三郎、南側の御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があって「五と五」で「一石」とか。明治6年(1873)に最期の木橋が撤去され、大正11年(1922)に鉄筋コンクリート・花崗岩造りのモダンな橋になった。アーチ部分が石積み、重厚な石の高欄、親柱、照明。現在の橋は平成9年竣工で、大正時代の親柱一基のみが残されている。

maigosiraseisi41_1.jpgyumeji_1.jpg 「一石橋」南詰めの親柱脇に、都指定文化財「一石橋迷子しらせ石標」(写真左)あり。その史跡案内文を要約。・・・江戸時代後半、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かった。迷子は町内で保護することになってい、安政4年(1857=広重が「八つ見のはし」を描いた翌年)に迷子探しの告知石碑を建立。右側面に「迷子を知らせる紙」を、左側面に「迷子を探す紙」を貼った。

 泉鏡花『日本橋』は、橋の南の檜物町(ひものちょう/ 現・八重洲一丁目)花柳界芸者の物語。医学士・葛木が「一石橋」で栄螺と蛤を捨てて(放生)、巡査に訊問される。そこに「お孝」姐さんが助け舟。事件がそこから展開するが、詳しくは次の「西河岸橋」で記す。

 「一石橋」を呉服橋方向へ渡って左折角が「みずほ信託銀行」で、同ビル端に「夢二・港屋の地」の碑あり。竹下夢二30歳、大正3年(1914)に当地で「港屋絵草紙店」を開き、自身デザインの版画、封筒、絵葉書などを売った。岸たまきと結婚、離婚、同棲、また別居と繰り返し、この店で紙問屋の娘・笠井彦乃と出逢ったそうな。

 絵描きが自身デザイン商品の店を開くのは、山東京伝も同じ。彼は30歳で吉原の「お菊さん」と結婚、馬琴が弟子入り。翌年に手鎖50日の刑。33歳の寛政5年に「お菊さん」病死の悲しみのなかで自身デザイン商品を並べた煙草入れ屋を銀座一丁目に開いた。誰もが迷子みてぇ~に生きている。


コメント(0) 

日本橋川(17)島崎藤村の「鍛冶橋」監獄 [日本橋川]

kajibasienkei.jpg 島崎藤村は「鍛冶橋監獄」に実兄の面接に行く。書かれているのは『破壊』に次ぐ長編『春』。明治41年の「東京朝日新聞」連載。内容は執筆より15年ほど前、明治26年夏から29年夏の自身の体験。

 当時のプロフィール。明治25年が満21歳で明治女学院教師。教え子への恋に悩む。仲間と『文学界』創刊。22歳で放浪。関西、鎌倉円覚寺滞在、そして東北へ。11月に母と兄の家族が上京し三輪に住む。23歳で再び明治女学院教師。北村透谷が25歳で命を絶つ。ちなみに筆名・透谷(とうや)は「数寄屋橋」のスキヤから。長兄・秀雄が公文書偽造の疑いで収監。樋口一葉を知る。24歳で本郷新花町に移転。仙台の東北学院教師赴任・・・。

 理想の春、芸術の春、人生の春を問う青春小説だが、ここでは「鍛冶橋監獄」の長兄との面会場面に注目。彼は本郷新花町(現・湯島二丁目)の家で母に起こされる。「今度という今度は無罪と思ったが・・・」母の言葉を背に、町から町へ歩いてやっと陽が昇る。

 鍛冶橋監獄前には、すでに7時開門を待つ人々。番号札は十九番。次は面会順の籤箱で三十番をひく。長い待ち時間。判決決定の囚人を乗せる箱馬車が巣鴨へ走り去る。面会室に入る。小窓が開いて兄と面会。湯島に戻ると空は真紅だった。

 兄は上告が認められて名古屋裁判所へ移動。監獄署前で兄が出てくるのを待った。橋のたもとでしばし和む。煙草を差し出す。巡査が黙認してくれる。高輪辺りまで見送った・・・とあった。未だ東京駅なし。兄に希望が見えたところで、彼は仙台への教師赴任で上野発の列車に乗る。東京駅は大正3年開業で、上野駅は明治18年開業。

 あたしは目下、松田裕之著『高島嘉右衛門~横浜政商の実業史』読書中だが、高島は今でいう「外国為替管理法」違反で万延元年(1860)に日本橋の小伝馬町牢屋に入った。囚人療養施設・浅草溜から石川島人足寄場へ。苛酷な日々を生きのびて、新橋~横浜間の鉄道用地(後の高島町)埋立事業をやり遂げ、次第に政商に昇り詰めて行く。

 「鍛冶橋監獄」から「小伝馬町牢屋」に話が遡ったのでここで止める。写真は井上安治絵の「鍛冶橋遠景」。外濠川がこんなに大きかったとは。遠くのアーチ橋が「鍛冶橋」。その向こうの洋風建物が警視庁や鍛冶橋監獄や。次回は改めて「一石橋」。泉鏡花、竹下夢二がからむ。


コメント(0) 

日本橋川(16)木下杢太郎の「八重洲橋」撤去 [日本橋川]

toukyoueki1_1.jpg 東陽堂「風俗画報」が明治29年から15年間に及ぶ企画で全64冊の『新撰・東京名所図会』(絵・山下昇雲)を発行。その「麹町区の部」を見ると・・・

 外濠川に架かる「鍛冶橋」の真ん前が「東京府廳」。道を隔てて「日本郵便会社」(今年3月開業のJPタワーと同じ場所)。そして現・丸の内寄りに「東京裁判所」、明治7年完成の「警視廳」、明治20年完成の「鍛冶橋監獄署」が並んでいる。その前に架かっていたのが「八重洲橋」。この絵を見ると「鍛冶橋監獄廳」跡に東京駅が建ったのがわかる。同監獄は明治36年に市ヶ谷監獄と合併する。

 現東京駅の写真で説明すると、駅の裏側に幾本もの線路をまたぐ長橋があって、外濠川に架かる「八重洲橋」があった。そして駅舎は「鍛冶橋監獄廳」跡。当時この辺が「八重洲」。その名は豊後に漂着したオランダ船の航海長ウィリアム・アダムス(三浦按針)と共に乗っていたヤン・ヨーステン(和名・耶楊子=やようす)が、家康の通訳を務めてここに屋敷を構えていたことから。写真下は丸ビル横の彼らが乗っていた蘭船デ・リーフデ号。なお三浦按針は日本橋「按針通り」に旧居跡あり。

yaesunofune_1.jpg 「八重洲橋」は明治17年(1884)に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋。大正3年(1914)に東京駅の開業で撤去。しかし大正14年に東京駅入口として再び架橋。昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。野田宇太郎著『改稿東京文学散』の「丸の内」の章では外濠川の埋め立て、詩人・木下杢太郎設計の「八重洲橋」が壊される愚策を涙ながらに記していた。

 「ステーション・ホテルが東京の代表的ホテルとして出現して間もなく大正七年八月のこと、詩人木下杢太郎がその七十一号室に泊まった」と書き出す。満州赴任で遅れていた処女詩集『食後の唄』の序文を書くためだったが、彼は序文にこの二年間の東京の様変わりに抑えきれぬ腹立たしさを記せずにはいられなかったと記す。そして・・・

 「昭和二十二年までの江戸城濠の光景を思い出す。そこには八重洲橋という幅広い頑丈な石と鉄との橋が架かっていた。東京駅が出来て明治以来の橋は一度取り払われ、大正十二年の震災以後また架設されていたのである。この橋が木下杢太郎の設計であることを知る人は少なかった。詩人で小説戯曲の作者であり、評論家であり、歴史家であり、また美術家であると共に、医学者であった木下杢太郎は、震災後の新しい東京の復興に際して、橋の設計までしていたのである。」

 木下杢太郎『食後の唄』序文に重ねて、野田宇太郎もまた戦後復興の心なき破壊的建設法によって、美しい外濠川が埋め立てられ、美しい橋が毀されてゆく現場を見つつ、こう嘆いていた。「水が片っ端から埋め立てられるのは、人間が生きながら埋められるようなものである。そして詩人が設計の橋は他にない。真の文化にお構いなしの敗戦国役人らしい破壊作業であった。」


コメント(0) 

日本橋川(15)幻の「道三堀」「外濠川」 [日本橋川]

yatuminohasi_1.jpg 江戸時代は「(旧)常磐橋」下流に架かる「一石橋」に立つと、「外濠川」の「呉服橋」「鍛冶橋」が見え、「日本橋川」上流の「常磐橋」、下流の「日本橋」「江戸橋」が見え、さらに「道三堀」の「銭瓶橋」「道三橋」を見渡すことができたので、ここを「八つ見橋」とも言ったそうな。広重が『八つ見のはし』(左)を描いている。「一石橋」から正面に見えるのが「道三堀」に架かる「銭瓶橋」。今は「道三堀」も「外濠川」もない。

 菅原健一著『川跡からたどる江戸・東京案内』(洋泉社)、酒井茂之著『江戸・東京 橋ものがたり』(明治書院)より、両川について簡単にまとめてみる。 「道三堀」(江戸切絵図の青色)は、徳川家康が江戸入りした直後(天正18年・1590)に江戸城を造るための資材・物資の船運水路として最初に開削。「和田倉濠」から「道三橋」「銭瓶橋(ぜにがめばし)」を経て外堀(日本橋川)へ。『江戸切絵図』では「銭亀橋」表示。慶長年間にはこの堀に面した河岸は、多くの材木商が軒を並べた材木町、柳町という傾城(遊女町)もあって、「銭瓶橋」近くには江戸最初の銭湯もあったらしい。後に一帯は大名屋敷になり、「道三堀」は明治43年(1910)に埋め立てられた。

 「外濠川」(絵図の赤色)は、神田川と共に江戸を代表する河川で「常磐橋」から「呉服橋」「鍛冶橋」「数寄屋橋」「山下橋」を経て汐留川へ合流。ちなみに「呉服橋」に北町奉行所、「数寄屋橋」に南町奉行所があった。この川は戦災瓦礫の埋め立て地にされて、昭和22年(1947)に東京駅の「呉服橋」「鍛冶橋」を皮切りに順次埋め立てられた。昭和37年の河川法改正で「外濠川」の名が消えて、現在の「日本橋川」へ。

kietakawa1_1.jpg 三浦浄心著『慶長見聞集』いわく、「江戸町東西南北に堀川ありて橋も多し。其数をしらす」。江戸は縦横に水路が巡る美しい町だったに違いない。しかし多くの川が震災・戦災の瓦礫の捨て場になり、残った川の上には首都高速が走っている。まぁ、明治幕藩政治以来、江戸を知らぬ役人によって東京は激変を繰り返している。荷風さんが浅草、深川、荒川放水路、三ノ輪、玉ノ井に足を向けたのもよくわかる。

 明治時代は「鍛冶橋」「八重洲橋」前の内堀側、つまり現「東京駅」の辺りは「鍛冶橋監獄」だった。詩人で小説・戯曲の木下杢太郎設計の「八重洲橋」、また島崎藤村が「鍛冶橋監獄」の実兄・秀男を訪ねる『春』についても記したいが、長くなったので次回へ。


コメント(0) 

日本橋川(14)「旧常磐橋」大改修中なり [日本橋川]

kyutokiwabasikoji.jpg 「新常盤橋」下流が「盤」を「磐」に替えて「旧常磐橋」。常磐門の枡型門一部が残って小公園あり。橋は明治10年(1877)に常磐門の石垣を使って西洋式二蓮アーチ橋として架橋。昭和3年に都内最古の石橋で国指定史跡。

 『慶長見聞集』に「御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋より大きなれはとて是を大橋と名付たり」とある。それが大猷公(だいゆうこう=家光)になって「大」が同じで改名して「常磐橋」になったとか。

 その橋が目下、ご覧のような大規模改修中。今年3月27日の「東京新聞」都心面に、この改修工事の記事が大きく載っていた。橋の痛みが激しく3年前に通行禁止。そこに3.11の東日本大震災。アーチがゆがみ、路面陥没、アーチ下の石がずれ落ちかかる等で3億円予算で橋解体、石積み直すとあった。

nipponnbank2_1.jpg 今は工事塀で囲まれているが、昨年見た時は枡型門跡に近寄れて、地震で歪んだ石にチェックマークが付けられていた。その小公園に「青洲澁澤榮一」銅像が建つ。明治6年の「第一国立銀行」初代頭取ゆえで、「旧常磐橋」左岸は重厚な「日本銀行」(写真左)。明治29年の辰野金吾設計の重要文化財。なお「日本銀行」創業当初は、日本橋川が隅田川に合流する「豊海橋」手前にあって、史跡案内に当時の明治建物が金属板に刻まれている。

 また佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』は「金座裏の十手持ち」が主人公だが、その「金座」は『江戸切絵図集』を見れば、その地に「日本銀行」が建っているのがわかる。南分館に「貨幣博物館」あり。入場無料ながら充実の展示。小判から紙幣の歴史が丁寧に説明され、「金座絵巻」もあった。「金座」が幕を閉じたのは明治2年の造幣局設立まで。

tokiwabasi5_1.jpg 「日本銀行」裏(北側)は「三井越後屋」改め「三越日本橋本展」裏に接している。昭和10年完成で、当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築だったそうな。

 そして架橋として現役なのが「旧常磐橋」下流60メートルの「常盤橋」。二蓮アーチ型を踏襲のデザインで、大きな親柱が印象的。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。