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(1)東京弁、旧仮名の次に~ [くずし字入門]

edomiyagesyo1_1.jpg 「新宿歴史博物館」で開催中の<くずし字に親しもう~「絵本江戸土産」で見る江戸時代の新宿>と題された『古文書講座・初級コース』を受講中。5月18日から毎土曜日の全5回。

 あたしは英語が喋れぬ。これは息子に託し米国ハイスクールを卒業してもらった。ということで、あたしは日本語です。しかし若い時分は不勉強。無教養のまま隠居爺になってしまった。

 まずはガキ時分に遣ってい、いつの間にか忘れてしまった「東京弁、江戸言葉」を古今亭志ん生、志ん朝の落語CD、口演本などから思い出す努力をした。次は旧仮名に挑戦。文語文法は頭痛くなるも駄句ひねるゆえ、徐々に身に付きつつある。ってぇことで、残るは江戸庶民が読めた程度に「くずし字」が読めるようになりてぇ。

 かつてもそう思ったことがあるのだろう、本棚に『かな用例辞典』あり。真剣に取り組みもせずに投げ出した記憶がある。ってことで『古文書講座・初級コース』受講に相成候。講師は龍澤潤先生。5月18日の第一回目。同年配の爺さん・バアさん約七十名。まぁ、教室は熱気、意欲が充満していた。

 教材は講師自作の『江戸土産』より抜粋21頁。漢字のくずし字は読めぬが、ふりがな(ルビ)付き。ならば「いろは」のくずし字を覚えれば、なんとか読めるようになるかも知れぬ。講座とは別に、あたしはまず管野俊輔著『書いておぼえる江戸のくずし字 いろは入門』を購った。


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明日葉の島のパワーや街育ち [週末大島暮し]

asitaba2_1.jpg 大島から戻ったら、ベランダに蒔いておいた新宿の江戸野菜「内藤唐辛子」がびっしりと発芽していた。昨年に3苗いただき、二百を越えるたわわな赤い実を収穫。食し、友人に分け、そして残りを乾燥保存した種からの発芽なり。目下、成長に合わせて間引きしつつ育てている。自家栽培で年を越えた歓びひとしおなり。

 併せて島の野菜即売場「ぶらっとハウス」で入手の「明日葉の種」も蒔いた。これも発芽~双葉。そして本葉が出てきた。間違いなく明日葉なり。日々成長を見守る愉しさ。

 今迄にも明日葉の苗、種を東京へ持ち帰ったことが幾度かあった。一度も根付かず。土が合わぬゆえ、と諦めていただけに、これまたうれし。プランター二つほどに6苗ほど大きく育てれば、時に収穫して天麩羅、おひたし、サラダ、炒め物で食せましょう。利尿、抗菌、ミネラルやビタミン豊富。多年草ゆえ長く楽しめそう。


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深度五ぞ磯際に住まふ怖さかな [週末大島暮し]

kaibatu5m_1.jpg 大島滞在中の4月17日夕方のこと。ロッジがグラッと揺れた。テレビで「三宅島震度5強」の速報。今回、島に渡ると至る所に「標高表示板」あり。ロッジ前の磯際道路に「海抜5㍍」の看板。

 「うへぇ、怖っ」と島の知人に言えば、「てやんでぇ、津波が怖くて島に住めるか。東京は飯田橋に行ったら海抜4㍍だったぞ」。そういう彼んチは都道沿いゆえ15㍍はあろうが、海際はやはり怖い。なにせ打ち寄せる波音を聴きつつ眠る地ゆえに。

 東京のウチのトイレに、伊豆大島のハガキ大の、緑から茶へのグラデーション等高線地形を貼り重ねた立体工作地図が飾ってある。トイレに座る度、その模型地図を見ながら、津波が来たらどう逃げようかと考える。

 あれは平成12年の三宅島噴火前の群発地震だった。島の友人が「凄く揺れた。怖くなかったかぁ」と飛んできた。この地は岩盤上か、微塵も揺れず。「だめだよぅ、災害情報なしの暮しは危険ゆえ、テレビくらい買えよ」。一度島に渡れば1週間、10日と滞在するようになった数年前にテレビを持ち込んだ。くだらんテレビをつい見てしまう。「テレビなし生活の方が良かったぁ」と反省しきり。

tunami6_1.jpg 東京では都内最高地の新宿戸山公園・箱根山(海抜44㍍)をマンション7Fから眺める暮し。東京に戻って約1ヶ月後の5月15日、新聞に「南海トラフ津波 伊豆・小笠原諸島死者1774人」の想定記事。大島への最大津波高は15.76㎝で死者37人とか。「YAHOOニュース」では、大島では高台への避難が困難とみられることから、緊急避難施設として津波タワーの整備を計画しているとあった。町から離れ、舗装道路もなく、島の行政からも忘れられたわがロッジのあたしらは、その37人のなかにも数えられてもいないのだろう。

 島を去る仕度を終えてベランダに出た時に、背後から「白いカラス」が飛んできた。かかぁと同時に「アッ」と声が出た。あたしらは新宿御苑で「白いスズメ」を撮ったことあり。北の丸公園の半分白いカラスが話題になって見に行ったこともある。まぁ、信じてもらえんだろうが「白カラス」を見た。縁起良いゆえ、宝クジを買ってみようかしら。一億円当たったら、島ロッジ庭に自前津波タワーを建てようっと。


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日本橋川(30)参考資料一覧 [日本橋川]

toyomibasi1_1.jpg 「豊海橋」の先は大川(隅田川)。右側に永代橋が架かっていた。ふとした思い付きで始めた「日本橋川」。数回で終わると思っていたが、凝り性ゆえ30回シリーズになってしまった。江戸弁、旧仮名のお勉強と同じく、東京生まれには必要な地理歴史の、それは楽しい遊びだった。以下、参考、引用した資料を一覧して終える。

 ●鈴木里生『江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会) ●渡部一二『江戸の川・復活』(東海大学出版) ●原信田実『謎解き 広重「江戸百」』(集英社新書) ●嵐山光三郎『芭蕉紀行』 『悪党芭蕉』(新潮社) ●朝日新聞社社会部『神田川』(新潮文庫) ●野村宇太郎『改稿東京文学散歩』(山と渓谷社) ●細川博昭『大江戸飼い鳥草紙』(吉川廣文館) ●『江戸切絵図集』(ちくま学芸文庫) ●池波正太郎『江戸切絵図散歩』(新潮文庫) 『鬼平犯科帳 10』(文春文庫) ●長辻象平『江戸釣魚大全』(平凡社) ●森田誠吾『江戸の明け暮れ』(新潮社) ●高牧實『馬琴一家の江戸暮らし』(中公新書) ●小池藤五郎『山東京伝』(吉川廣文館) ●菅原健二『川跡からたどる江戸・東京案内』(人物往来社) ●酒井茂之『江戸東京橋ものがたり』(明治書院) ●『慶長見聞集』(人物往来社) ●石本馨『大江戸橋ものがたり』(学研) ●佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』(ハルキ文庫) ●永井荷風『夜の車』(全集より) ●岡本綺堂『半七捕物帳』(光文社) ●現代日本文学全集『泉鏡花・徳富蘆花集』 『島崎藤村集(二)』(筑摩書房) ●長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫) ●井上安治画・木下龍也『色刷り 明治東京名所絵』(角川書店) ●山本末谷・画『明治東京名所図会』(講談社) ●野口富士男『わが荷風』 『しあわせ/かくてありけり』(講談社) 『私のなかの東京』(岩波現代文庫)『昭和文学全集14』(小学館) ●『谷崎潤一郎全集 第十七巻』(中央公論社) ●野村尚吾『伝記 谷崎潤一郎』(六興出版) ★その他、各橋詰の史跡案内板の文章や写真、また関連ブログも参考にさせていただきました。

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日本橋川(29)「豊海橋」日本の曲がり角 [日本橋川]

nipoonginkou1_1.jpg 「湊橋」から日本橋川に架かる最後の「豊海橋」へ。途中に「日本銀行創業の地」の史跡案内あり。・・・明治十五年十月十日、日本銀行はこの地で開業した。明治三十九年四月、日本橋本石町の現在地に移転した。

 創業地の建物の絵が刻まれたプレートに、これだけの文章。うむ、何か臭うなぁ。井上安治の絵「永代橋際日本銀行の雪」(左)の木下龍也の解説文をひく。・・・日本銀行は明治十五年設立。翌十六年四月永代橋西詰にあった開拓使物売捌所(うりさばきしょ)を譲りうけて業務を開始。うむ、この開拓使物売捌所・・・ どこかで読んだ記憶があるぞ。

 設計は帝国博物館、鹿鳴館、ニコライ堂設計のコンドルさん。ヴェニス風ゴチック煉瓦造り。同所は政府が北海道開拓のために明治二年に設置の行政官庁。1400万円を投じて竣功するも、長官・黒田清隆が同郷の薩摩出身者に38万円で払い下げようとした。木下龍也は、北海道物産の売店にすぎないのに、かくも贅沢な建物で「公費天国の面目躍如、苦笑するほかはない」と記すが、苦笑では済まされぬことになる。

toyomibasi41_1.jpg 薩摩藩閥の裏取引と世論沸騰。大隈重信らも反対した。しかし薩長藩閥は政府を混乱させたとして大隈重信、福沢諭吉らを追放。これに乗じて伊藤博文、井上毅らはプロシア型憲法、つまり「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「大日本帝国憲法」制定に至る。

 この建物こそ、日本が戦争に突き進む曲がり角の象徴。そんな明治を振り返りつつ歩めば、目前に現われたのが「豊海橋」。すでに永井荷風の月夜散策コース、東京湾汽船発着所探しで何度も訪ねた橋なり。橋詰の案内板をひく。

 ・・・日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至る。現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に架設。形式名はフィーレンデール橋。梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもの。我が国では本橋以外に数例しかなく、稀少価値の高い橋です。そして荷風の「断腸亭日乗」の文章がひかれていた。

 橋から大川(隅田川)を見れば、右側に美しいアーチ型の永代橋が見えた。次回に「日本橋川シリーズ」に引用、参考にした全資料を一覧し、このシリーズ終了です。


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まゝならぬまゝごとのまゝしま暮らし [週末大島暮し]

simasigoto2_1.jpg 惹句書く虚業で生業ってきたゆえに、田舎暮しの出来ぬやわな身体で、生活技術もなく、独り暮す力もない。今回はまずロッジの鍵が開けられぬ。Y自動車にバールとドライバーを借りてきた。

 「おまいさんはバカだねぇ」を背に、ドアをこじ開けるのに奮闘。その日の夕陽は、年に数度の美しさだったらしいが、それを愉しむ余裕もなかった。二日目は庭仕事。草刈機エンジンがかからぬ。島のSに始動を頼む。三日目は薪の仕込み。チェーンソーのエンジンはかかったが、チェーン張りの調整ままならず弱腰仕事なり。次の日はベランダにオイルステイン塗り。金ヘラと電動サンダーでペンキを剥がしてハケで塗る。草刈りと同じく休み休みの作業。島の男なら、これしきのことサッとひと仕事だろうに。 逞しき骨太の手に出逢うと、わが手のひ弱さよと思う。情けねぇ。

 海へ出る道にアオダイショウがとぐろを巻いていた。総毛立つも、恐々見れば弱っていた。やがてカラスが来て、雉子も来てどこかに運んで行った。芭蕉に「蛇くふときけば恐ろし雉の声」がある。ここには、そんな自然の摂理が当たり前にある。家の外壁をタランチュラ級の大蜘蛛がスパイダーマンのようにツツーッと走った。爬虫類や蟲が怖くては田舎暮しは出来ない。

 島暮し二十年余。都会の生まれ育ちで、虚業で生きてきた男に田舎暮しは容易ではない。あぁ、色剥げた自作ベンチよ。これも塗り直しか。やらなければならぬ作業は次々にあって、次第に老いた身体がついて行けない。


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日本橋川(28)「湊橋」の不義密通 [日本橋川]

minatobasi4_1.jpg 「茅場橋」から下流の「湊橋」の間の右岸に「亀島川」が合流。「日本橋水門」から永代通りに架かる「霊岸橋」。「亀島橋」~「高橋」~「南高橋」を経て隅田川へ。霊厳島については、すでに「東京湾汽船の昔の発着場」調べ、かつ永井荷風の月夜散歩路として紹介済。

 「湊橋」橋詰に案内板あり。・・・この橋は霊厳島(現在の新川地区で通称こんにゃく島とよばれていた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が立ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。橋名由来は、江戸湊の出入口から。現在の橋は、関東大震災の復興期に再建され、平成元年の整備事業で装いを新たにしました。

minatobasi3_1.jpg 案内板には「江戸名所図会」が紹介されていた。この絵は「山王祭・其三」で、当時の山王祭の様子が描かれたもの。日本橋川沿いにズラッと倉庫が建ち並んでいる。祭りの行列は日本橋川左岸から「湊橋」を渡って、また上流に戻って「霊岸橋」を渡っている。倉庫前には天幕付き観客席があって見物人がびっしり。「湊橋」を渡った右岸にも莚に座った観客。祭り見学の船も多い。当時の山王祭りは神田祭りと共に江戸天下祭り。永田町の日枝神社と連動で、この地でもかくも盛大に行われたってことだろうか。

 現在の「湊橋」はコンクリートアーチ橋。タイル仕上げのモダンな橋で、中央に下り船か、立派な帆かけ船のエンブレムが飾られていた。ええっ、タイトルの不義密通

minatobasi1_1.jpg 「湊橋」を渡って「霊岸橋」の間の一画に、谷崎潤一郎の祖父が次女に持参金代わりに持たせた百両で買った「真鶴館」あり。明治44年、潤一郎は永井荷風の好批評にブルブル震える感動を得た翌年、徴兵検査に脂肪過多症で不合格。「真鶴館」に籠って執筆。当時の同旅館経営は従兄の江尻雄次。潤一郎は、彼の妻で女将の「お須賀さん」とよからぬ関係になったらしい(噂)のだ。「東京日日新聞」の『羹』連載中なれど、執筆よりお須賀さんとのイチャツキの方が愉しかった。結果、江尻夫妻は離婚し、江尻氏は後に歯医者になった。某が佐藤春夫に歯医者紹介を依頼されて江尻歯科を紹介。潤一郎は秘密がバレると烈火の如く某に怒ったそうな・・・。


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タラの芽の採り残し食ふ島暮し [週末大島暮し]

taranome_1.jpg 島の食事情(4月中旬の)を記す。ガーデニングに凝って、野菜やハーブを育てた時期がある。しかし島通いに間があけば、庭は藪に化す。実のなる木を植えるも、収穫時期を逸する。海への防風林でアケビがいっぱい採れるそうだが、その時期も逸する。

 タラの芽然り。一度どっさり採ったこともあるが、その後は旬の時期に当たらない。今回も採り残しを幾つか採って、明日葉を加えて天麩羅をいただいた。隣と斜めロッジの庭には明日葉が自生も、わがロッジ周りは木イチゴが自生。その若い葉が明日葉に似ていて、間違えて友人に食わせたこともあった。

 今回はスーパー「げんろく」に、明日葉の茎をピ-ラーで薄切りしたのが売ったいた。いかにもサラダ向きで購う。呑み屋「ごろう」作とかで、それが縁で何年か振りで「ごろう」で呑んだ。

 かかぁは料理好き。島の料理巧者直伝の「ハンバ飯」を、誰もが絶賛の味で作ってくれた。明日葉を刻んだ炒め物も飯の上にのせれば絶品。一方、島ゆえに魚が新鮮・旨いと思われるも、そうは問屋が卸さない。野菜即売所はあるが、魚即売所なし。スーパーの地魚コーナーも僅少。旨い魚は内地に運ばれるのだろう。比して新宿小田急ハルク地下へ行けば、全国の旬の魚がズラッと並んでいる。

 かくして2週間滞在で食った地魚はアカイカ、カツオ、イサキ、波浮で採れたシジミだけ。魚より野菜が豊富。島の友人に愚痴れば、「なにぃ、島で魚が食いてぇ。だったら釣り上手、突きんぼ上手になるこった」。アオリイカが食いたく、エギングのセットを揃えたが、未だに釣れぬ。

naitotougatasi1_1.jpg 島を出る時に、ロッジ裏庭に明日葉の種を蒔いてきた。果たして発芽・成長しているだろうか。


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日本橋川(27)「茅場橋」谷崎潤一郎の幼少時代 [日本橋川]

yoroibasi2_1.jpg 「鎧橋」橋詰の案内板に谷崎潤一郎『幼少時代』より「鎧橋」の思い出が紹介されていた。いい機会ゆえ同作を読む。70歳になった著者が、幼少期を鮮やかに思い出している。

 彼の祖父・久右衛門が米相場の変動を朝夕刷る「谷崎活版所」を設立して谷崎家の繁栄を築いた。彼は日本橋蛎殻町の祖父の家に同居の父・倉五郎、母・関の長男として明治19年に生まれた。幼少期に最も長く住んだのが南茅場町の家。

 その家は南茅場町45番地。「茅場橋」架設が昭和5年ゆえ、「goo」の明治地図を見ながら、記述を追ってみる。・・・小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町と云い(中略)、その通りを南へ一二丁行くと~。また別の文で・・・「霊岸橋」から百メートルほど西~。地図を指で辿れば45番地あり。現・永代通りと新大橋通りが交差する「茅場町」辺り。

 ・・・南茅場町の地内は、徂徠や其角が住んでゐた宝永享保頃は、一面に蘆萩の生ひ茂る閑雅な土地であつたと云ふが、明治廿年代でも、今から思へばほんとうにのんびりとした長閑なものであった。

 45番の隣に薬師堂と日枝神社。電車通り反対側に「其角住居跡」碑。そこから亀島川に架かる「霊岸橋」を渡って小岸幼稚園へ。6歳まで母の乳房を放さず、教室の机脇にばあやがいないと泣き出す子。日本橋川と亀島川の角に、祖父が百両で買って持参金代わりに次女・半(母の姉)に与えた「真鶴館」あり。

 阪本尋常高等小学校入学。埋立られた「楓川」(同作には、もみぢ川のルビ)沿いで消防署の隣。入学式は講堂ゆえ、ばあやの姿が見えず泣き逃げる子だった。入学2年後に霊岸橋寄りの南茅場町56番地に移転。友達と遊べるようになると、鎧橋下の荷揚げ場に繋がれた船が住まいの鐵公、蒲鉾屋の新公、髢屋(かもじや)の幸吉、仕出屋の徳太郎などの友達、また先生の思い出。

 こんな文章もあり。・・・小網町河岸には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいた。(略)。前の流れを往き来する荷足船や傅馬船や達磨船などが、ゴンドラと同じやうに調和してゐたのは妙であった。この景色は野口富士男著『かくてありけり』で、母と離婚して流れ者のように暮す父を小網町へ訪ねる大正9年のシーン。・・・対岸に白壁の倉庫がずらりと建ちならんで箱根川には伝馬船や荷足船がぎっしり入っていて、天井の低いその土蔵造りの店の鉄格子がはまった二階の窓からは、軽子がひょいひょいと板子をしなわせながら荷揚げをしている姿が眺められた。でも描かれている。

 これら情景は、井上安治描く「鎧橋之景」(写真上)ではないかと思うと、さらに当時が忍ばれる。


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東京湾汽船と谷崎潤一郎と野口富士男 [週末大島暮し]

tanizaki1_1_1.jpg ブログは目下「日本橋川」シリーズと雑記の交互進行中。「鎧橋」橋詰の案内板に、谷崎潤一郎『幼少時代』より「鎧橋」の思い出が記されていた。同著は彼が数え70歳の執筆。明治19年の日本橋蛎殻町での誕生から阪本小学校卒業までの思い出が書かれている。同作と野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を併せ読んでいたら、「東京湾汽船(現・東海汽船)」がらみが二つも出てきたのでビックリした。

 彼の祖父「久右衛門」が一代で谷崎家の繁栄を築いた。「谷崎活版所」を設立して米相場の変動を朝夕刷って大成功。祖父の長女・お花の養子に「谷崎久衛門」を名乗らせて米穀仲買店を持たせた。次女・半には百両で買い上げた霊岸島の「真鶴館」を持参金代わりに持たせた。三女・関には長女婿「久衛門」の実弟・倉五郎を迎えさせ、関と倉五郎の間に生まれた長男が潤一郎。

 祖父の長男が「二代目久右衛門」を継ぐも道楽息子だった。「東京湾汽船」社長・桜井亀二の娘・菊と結婚するも、柳橋芸者・お寿美を落籍。妻妾同居から菊が離婚。事業も信用を失って活版所も「久衛門」に買い取ってもらって放浪生活へ。

 結局、谷崎潤一郎の父の兄「久兵衛」が谷崎家の面倒をみることになった。だが潤一郎が千代夫人と結婚して鮎子を産んだ年、大正4年の29歳の時に、谷崎家を支えてきた「久兵衛」も、息子の無茶な相場による借財を負い、大島通いの船から身を投げた。

 谷崎潤一郎の人生に、思いもかけぬ東京湾汽船とのからみが二件もあった。そして今回の大島暮しの読書用に持参した野口富士男著『わが荷風』の巻末に、永井荷風年譜と著者年譜が載ってい、昭和28年(1953)に著者の父も事業失敗で、東京湾汽船から身を投げたとあった。野口富士男はこの事件を『耳のなかの風の音』で書き、『かくてありけり』にも書いている。 (写真は谷崎潤一郎『幼少時代』収録の全集第十七巻と野村尚吾著『評伝谷崎潤一郎』。野口富士男についてはまた改めて記す)


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日本橋川(26)「茅場橋」傷心の其角がいた [日本橋川]

kayababasi41_1.jpg 「江戸橋」の下流、新大橋通りに架かるのが「茅場橋」。江戸城が出来た当初は茅原で、屋根葺の材料となるカヤ商人が住んでいたとか。「鎧橋」から「霊岸橋」までの茅場河岸は、次第に下り酒の酒蔵、酒問屋がならぶ商業地へ。それでも橋はなく、昭和4年(1929)の震災復興事業で架橋。平成4年に老朽化で架け替え。新しいだけに江戸や明治の逸話なし。当時は「鎧之渡」から「鎧橋」を渡って対岸に行ったのだろう。

 「茅場橋」を南に渡ると永代通り。この辺は茅場町一丁目。通りに面して「其角住居跡」の碑あり。同碑は昨年十月の夢枕獏『大江戸釣客伝』(1)で紹介済。この小説は其角と多賀朝湖(英一蝶)が佃島沖で春キス釣りを愉しむ場面から始まる。

m_kikakukayabacyu_1[1]_1.jpg 其角は魚河岸の項で記したが、日本橋堀江町生まれ。14歳で蕉門に入って<十五から酒をのみ出てけふの月>。田舎育ち・芭蕉に叶わぬ江戸っ子の粋が溢れた句で、蕉門十哲の筆頭俳人へ。芭蕉を看取った4年後、元禄11年(1698ん)に南港(芝)に新居を構えるが、間もなく類焼で一切を失った。火災八日前には将軍を揶揄した咎で親友・多賀朝湖が三宅島に流刑。傷心を胸に元禄13年、40歳春の転居だった。

 「其角住居跡」裏に「智泉院」「山王日枝神社摂社」あり。其角句に<梅が香や隣は荻生惚右衛門>あり。ここへの移転は悲しみを抱えてか、<憎まれてながらへり人冬の蠅>。酒量が増したか、若き日々の放蕩がゆえか、5年後に47歳で病没。

 多賀朝湖は其角死去の4年後、綱吉死去による将軍代替わり大赦で12年振りに江戸に戻った。島を去る時に、菊の花房に蝶が舞った。母の旧姓「花房」から「英」に、一蝶で「英一蝶」を名乗って再び大活躍。百両で買い占めた初茄子を肴に酒を呑む大画家になって73歳没。これまた自転車を駆って、高輪の「承教寺」の英一蝶の墓を掃苔済み。

 東京をポタリングしているってぇと、すでに別件で触れた好きな文人らのゆかりの地に幾度となく出逢うのも歓びなり。其角が住んでいた頃は長閑な地だったそうだが、明治廿年代になると谷崎潤一郎がこの地で幼少期を過ごす。


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ウグイスの谺のなかぞ島暮し [週末大島暮し]

anaohsima_1.jpg 大島ロッジの台所の窓外は藪だ。そこで「ホーホケキョッ」と鳴いた。反対側のベランダに出れば南に三峰山の緑、西に防風林と海。彼方此方で「ケキョケキョケキョ」と谷渡り。姿は見えねど、島のロッジはウグイスの鳴き声に包まれた。至福なり。

 実は防風林が次々に失われ、家の中から海が見えるようになった。ってことは、冬は強い西風をまともに受けて、ボロロッジが吹き飛ばされる怖さとなった。併せてウグイスの鳴き声も絶えた。それがなんということでしょうか、再びウグイスの鳴き声に包まれたじゃありませんか。

 藪、防風林、山の緑があってウグイスは鳴く。ヘビやタイワンリスに卵も食われよう。それら危機を越えて、健気にまたウグイスの鳴き声がこだましていた。

 島での読書用に、野口富士男『わが荷風』と『私のなかの東京』を持参した。こんな記述があった。・・・地下鉄早稲田駅をでると、すぐ左手に穴八幡の石段が見える。(中略)。早大の文学部から坂をのぼって行くと左側に女子学習院。私の家はいまなお樹木の多い女子学習院の反対側の路地裏にあるため四、五年前までウグイスが来て笹鳴きをした。

 げげっ、近所じゃないか。ウグイスが鳴いていたとっ。 書かれたのは昭和53年1月。その4、5年前とは今から40年ほど前のこと。あたしらは彼の家の周囲を転住で、早稲田通りに面したビルにも住んだ。裏路地に入れば女子学習院に抜ける。著者がご近所とは知らなかった。

 ロッジベランダでウグイスの鳴き声を聴きつつ「おめぇ、若い時分にウグイスの鳴き声を聴いたことがあるかぇ」と、かかぁと若き日の記憶を辿っていたら、突然に轟音に中断された。ベランダ東側の藪の向こう、大島空港へ着陸体制に入ったプロペラ機「ボルバルディアDHC8-Q300」。これまたひと頃のジェット機に比し、ずいぶんと音が柔らかくなった。ウグイスが戻ってきたのも、それが要因のひとつだろうか。

 プロペラ機の音が消え、再びウグイスの鳴き声に包まれた。そういえば、新宿のマンションからも見える女子学習院下の戸山公園で、今年はヒレンジャクの群れ、キクイタダキを撮った方がいた。あたしもこの正月にウソの群れを撮った。ひょっとすると、新宿でも再びウグイスの鳴き声を聴くことができるようになるかもしれない。そうなれば世知辛い世が、ちっとは長閑になるろうと思った。口笛で甲高く「ケキョケキョ」と吹けば、「ホーホケキョ」と返ってきた。


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日本橋川(25)「鎧橋」の谷崎潤一郎と池波正太郎 [日本橋川]

yoroibasi3_1.jpg 「江戸橋」下流に架かるのは「鎧橋」。橋右岸に「東証」こと東京証券取引所ビルが見える。貧乏なあたしには無縁だが、ここで120年余も株売買が行なわれてきた。昔の立会場は1999年閉鎖で、今は「東証アローズ」。株の話はさっぱりわからぬが、今は「アベノミクス」とやらで儲けている人がいるらしい。そんなもんは泡銭に等しい。橋詰に史跡案内板あり。

 ・・・明治五年、当時の豪商が自費で橋を架けた。前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し大いに賑わった。明治二十一年に鋼製のプラットトラス橋に架け替えられた。その頃の様子を文豪、谷崎潤一郎は『幼少時代』でこう綴っている。

 ・・・鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・ 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・ 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。

yoroinowatasi41_1.jpg 現在の橋は昭和32年に完成で、ゲルバー桁橋とか。そして明治24年の鎧橋の絵と、江戸の「鎧之渡」の絵が紹介されていた。

 井上安治は、ここの景色に画趣を覚えたとみえて「鎧橋夜」「鎧橋之景」「鎧橋遠景」「鎧橋」の四作を遺している。橋詰めの案内板の絵は、井上安治「鎧橋」と酷似。車夫の姿までまったく同じで謎を残す。共に小網町から見た景色で、橋向こうの建物は第一国立銀行。清水喜助設計で五階建て。壁は漆喰塗り、屋根は青銅、天守閣状の塔が聳えている。明治五年竣功で三井組為替座だったが、間もなく第一国立銀行に譲り渡された。(井上安治画の木下龍也の解説文より)

 右側の川沿いの洋館は明治21年落成の渋沢栄一邸。辰野金吾設計でベネチアのゴート式建築。国立銀行の初代頭取が渋沢栄一。この人はよほど金儲けと世渡りがうまかったのだろう。

kabutojinnjya_1.jpg 明治・大正を経て昭和10年になると、池波正太郎が小学校を卒業して株式仲買店で働き出す。子供ながら内緒の相場で月給を上回る稼ぎで、大人の遊びを覚えたとか。勤めていたのは兜神社(江戸橋と鎧橋の間)と道をへだてた松島商店で、毎日、鎧橋を渡っていた。

 かつて井上安治に画趣を沸かせた地だが、今は味気ないビル街で人々の欲望が蠢いているような気がした。


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頬掠めツバメ返しや浜の風呂 [週末大島暮し]

tubame5_1.jpg 4月8日に大島・岡田港着。まず「ツバメ」に見惚れた。昨年の新宿でのツバメ初認は4月4日だが、今年は未だ見ぬままに島に渡った。岡田港でツバメに逢えるかしらと・・・。

 「いた、いたっ」。岡田港周辺を幾羽ものツバメが飛び交っていた。ここのツバメは、港片隅の雨水溜まりの土で、軒下に巣作りをする。だが今年は島も渡りが遅かったか、蜂の巣を突っついたように落着かぬ。

 島では元町近くの露天風呂「浜の湯」で夕陽を楽しむ。管理棟の天辺でイソヒヨドリが囀っている。湯と囀りにうっとり。眼を開けると、頬を掠めてツバメが飛んだ。カラスとトンビのモビング(擬似攻撃)も見て、やがて伊豆半島に夕陽が沈む。

 東京に戻ってマンション7Fのベランダに出たあたしの頬を、ツバメが掠め飛んだ。営巣は二軒隣マンションの地下駐車場。「キチキチッキチッ」と鳴き声を残し、鮮やかなツべメ返し。カメラがフォーカス出来ぬ速さゆえ、標準レンズで被写体深度を深くし、ファインダーを覗かずに連写する。

 ツバメはこれから抱卵、育雛、巣立ち、親子の飛翔を楽しませてくれよう。昨年のツバメ句「頬掠め鳴き声残し遠ツバメ」に比し、今年のツバメ句は冴えぬ。


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日本橋川(24)「江戸橋」の三菱倉庫とコレラ [日本橋川]

edobasi2_1.jpg 日本橋の下流、昭和通りに架かる「江戸橋」。橋上が「江戸橋ジャンクション」で都心環状線、1号上野線、6号向島線の合流で空を覆っている。橋、川好きには悲惨な光景なり。

 目下、橋南詰「江戸橋倉庫ビル」建替中。工事現場を囲む塀に、倉庫ビルの説明あり。・・・煉瓦造倉庫は三菱の創始者・岩崎彌太郎が、明治9年(1876)に蔵所を開設。明治13年(1880)仏人レスカス設計監理による煉瓦造2階建7棟が完成。関東大震災による飛び火で焼失。昭和5年(1930)、跡地に鉄筋コンクリート地下1階地上6階の「江戸橋倉庫ビル」に建替え。日本橋川をロンドンのテムズ川に見立て、外国航路の本船が船首を丸の内方向に向け停泊するモチーフとか。以来80年余が経過で三度の建替中。そして昔の煉瓦造倉庫の絵と、昭和5年建築の倉庫ビルの写真が添えられていた。

edobasimitubisisouko1_1_1.jpgedobasimitubisi2_1.jpg 昭和6年の航空写真を見ると「倉庫ビル」右岸際に、今は埋立てられた「楓川」が写っていた。「楓川」は江戸湾を埋立てた時の海岸線を残した水路で、昭和35年(1960)に埋立て。ここには「海賊橋」改め「海運橋」が架かっていた。そして絵は明治16年に三代広重が描いた『古今東京名所』の「江戸橋三菱の荷蔵」。

 また昔は左岸に「西掘割川」(昭和3年消滅)と、「思案橋」「親爺橋」が架かる「東堀留川」(昭和24年消滅)も合流していたが、これも埋立てられた。「思案橋」は吉原遊郭で遊ぶか、芝居小屋で遊ぶか思案したゆえの橋名とか。また江戸時代の木橋だった頃の「江戸橋」は、長谷川時雨『旧聞日本橋』の天保14年生まれの著者の故父・渓石深造が描いた「実見画録」よりの挿絵で見ることができる。

edobasikorera_1.jpg 挿絵題名は「虎列刺(コレラ)除のをはぎに橋上の行者と疱瘡神の送り」。コレラ流行時に牡丹餅(ぼたもち)を食せば罹らずで大繁盛の様子が描かれていた。また疱瘡に罹って全快したら桟俵(さんだわら)の上に赤飯を盛り幣束(へいそく)を添えて川岸または橋際へ置く風習、橋上の行者は掌に油を点して銭を貰うなり・・なども描かれていた。この絵を見ると当時の江戸橋大繁栄もまた長閑なり、と思った。


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薪作り巡る季節に想い馳せ [週末大島暮し]

makinoyama1_1.jpg ロッジの暖房は、炬燵と薪ストーブ。当然ながら薪ストーブの方が断然愉しく暖かい。そのために欠かせぬ「薪」の調達。最近は都心のホームセンターでも薪を売っている。バーベキュー用だろう(深川の「コーナン」で4束3120円)。薪のストックがないと、コレを買って島に送ろうかしらとさえ思う。

 島での買い物に車を走らせれば、庭に丸太を山積みのお宅があった。丸太5、6個を譲っていただくには、どう声をかけ、どう譲っていただけるかを考えたりした。今回はラッキーにもS夫妻が薪を分けて下さった。さっそく、その一部をチェーンソーでカットした。秋には乾燥したいい薪になる。次の島暮らしでは、ちょっと手強い超太の丸太と格闘して冬用の薪を作ろう。

 積み上げた薪を見ると、巡りくる秋・冬に想いが馳せる。明日が愉しくなる。心に余裕が生まれ、豊かな気分になる。その意では薪は「心のご馳走」。加えてS夫妻は「フキの煮物」も下さった。

 「おまいさん、ご馳走をいただいたら、お返しをしなきゃいけませんよ」とかかぁが言った。さて、何を・・・と考えるのも、また愉しい。


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日本橋川(23)伝馬町の松陰と時雨 [日本橋川]

denmacyourougoku2_1.jpg 日本橋は魚河岸散策から「傅馬町牢屋敷跡」に足を伸ばした。伊藤博文らによる天皇を軸にした「大帝国日本憲法」制定が、「松下村塾」吉田松陰の尊王思想からで、松陰終焉の地を見ようと思った次第。

 江戸っ子は薩長、明治維新嫌いだ。前述『日本橋魚河岸物語』にもこんな記述あり。・・・江戸三百年の伝統と歴史を薩長の田舎侍に踏みにじられてなるもんかと、魚河岸の精鋭千人余が竹槍、鳶口、包丁を武器に日本橋、江戸橋を一歩も渡さぬと覚悟した。

 江戸は、太田道灌から徳川の地で、天皇にはなじみが薄い。比して吉田松陰の家系は一条天皇に朝勤の藤原行成から出たそうで、子供時分から天皇詔勅や神官・玉田永教の『神国由来』を暗唱とか。根っからの「尊王」だ。加えて萩藩隣の島根は熊野大社、出雲大社など神話の里。京都も伊勢神社も近い。

syouinnhi_1.jpg 「傅馬町牢屋敷」は当時2618坪の広さだったが、今は小さな「十思公園」に江戸時代最初の「石町・時の鐘」、吉田松陰先生終焉之碑、江戸傅馬町牢屋敷跡の史跡があった。「時の鐘」は江戸九ヶ所のうち最古のもの。この鐘は傅馬町獄の処刑合図にもなってい、その日は遅れて鳴らしたために「情けの鐘」とも言われたとか。

 傅馬町牢屋敷は、明治8年に市ヶ谷囚獄ができるまで約270年も存続。入牢者は数十万人余。屋敷は広いが牢は90坪の狭さに4、500人も押し込める酷烈な環境。松陰はペリー艦船へ密航しようとして入牢。「安政の大獄」で再び入牢で処刑。終焉之碑は、公園の公衆便所脇なり。公園脇の大安楽寺に「江戸傅馬町処刑場跡」の碑あり。

 あたしは市ヶ谷・左内坂にオフィスを構えていたことがあって、同じく左内坂で『女人藝術』発行の長谷川時雨の著作を何冊か読んできた。彼女は日本橋油通町生まれで、幼き頃の日本橋を『旧聞日本橋』に綴っている。

 「牢屋の原」の章に、「父は転がり込んで来た金玉を、これは正当な所得ではないと返して貧乏した」と記す。父は首切り場の一画を「長谷川の名にしておけ」と言われたが、斬罪になる者の号泣を聞いているから、あんな場所は欲しくねぇ」と断った。その後「牢屋の原」は小屋がけの見世物で賑わったそうだが、日本橋は「土一升金一升」の地。母がいつも父に「もったいないことをした」とぐちっていたと書いていた。


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