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穴八幡の謎(1)広重の絵 [江戸名所図会]

anahatiman_1.jpg 『絵本江戸土産』四編に広重絵「穴八幡」あり。我が家に至近ゆえアップする。おや、これは本殿に背を向けて楼門(髄神門)を描いてい、文もまた味気ない。

 穴八幡ハ尾州侯戸山の御館(おんやかた)の傍(かたはら)にあり此(この)あたり植木屋多く四季の花物(はなもの)絶ゆることなし

 思わず「広重、どうした」とつぶやいた。そこで再び『江戸名所図会』をみる。「高田八幡宮」として「別当」を含め、お山全景が詳細に描かれていた。下の道から階段を登ると、まず立派な楼門(髄神門)。本殿に向かって右側に手水舎と井戸。広重の絵は何故に本殿を背にしているのだろう。これが最初の謎。(上は広重の絵、下は同方向から撮った写真)

 小生、長年に亘って穴八幡「一陽来復」をいただき、節分の24時に恵方に向けて貼る習慣を続けている。フリーからミニ会社経営で浮沈の世渡り。近所の商店主らと同じく、いつからか「一陽来復」をいただき、ついでに免許証入れに交通安全、財布に御融通様の御札が習慣に相成候。時に儲かれば「一陽来復のお蔭かしら」、苦しさをしのげば「御融通様のお蔭かしら」。穴八幡の術中にはまって、もう止められぬ。

hirosigeana_1.jpg 穴八幡の隣に「別当・放生寺」あり。こちらのお札は「一陽来福」。「復と福」違い。例年、冬至から節分まで長蛇の列をなすのは穴八幡で、「放生寺」がなんだか寂しげでとても気になる。

 いい機会ゆえ、穴八幡のお勉強をする。まずは冒頭の謎。「広重の絵は何故に本殿に背を向けた構図なのか」。現・穴八幡の階段脇に「穴八幡由緒」の看板あり。『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵が大きく添えられている。その由緒文に、こんな一節があった。

 ・・・安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府から造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。

 ふむふむ、『絵本江戸土産』は嘉永三年(1850)から安政四年(1857)にかけての刊。この絵は四編に収録で、広重が描こうとした時、すでに焼失していたのではないか。すでに『江戸名所図会』四編は天保七年(1836)刊で、長谷川雪旦の詳細図は世に出ていた。広重はこの絵を参考に描いたのではないか。楼門に浅草寺・雷門と同様の大提灯らしきも描かれていて余計に嘘っぽい。こんな推測で最初の謎が解けたことにして、次に参りましょう。


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原寸復刻版を手にして・・・ [江戸名所図会]

edo3tukue_1.jpg 古文書初級「くずし字に親しもう」講座の教材が『絵本江戸土産』だった。そこから、当然の流れで、ずっと気になっていた『江戸名所図会』を手にした。幸い家から東と西、共に徒歩5分の両図書館に『原寸復刻 江戸名所圖會』あり。株式会社評論社の1996年刊。上・中・下の三巻を借りたら、まぁ、あたしの14㌅折り畳み自転車と、ほぼ同じ重さだった。

 監修は田中優子、石川英輔。上巻冒頭で両者連名で「なぜ原寸復刻か」を記していた。・・・何種類かの縮小した復刻版を繰り返し見ておなじみの絵だが、実物をはじめて手に取って息を飲む思いだったと書き始めていた。縮小版では見えなかった部分が(ネット画像もまた粗い画像で同じこと)、原画でははっきりと見える。細密な描写に新たな発見が多い。また数多い名所図会のどれと比べても細密さは際立っている。それで原寸の復刻版を作ることを思い立ったと記す。優子先生(あたしファンなんです)素晴らしい!

 文章は原画(底本)、パノラマ図版などについての説明後に、田中優子著名で<『江戸名所図会』解題>へ。ここではまず、天保五年(1834)に三巻十冊、天保七年(1836)に残りの四巻十冊が、日本橋の須原屋茂平衛・亥八の両店から刊の経緯が紹介され、作者の説明へ。以下、その概要・・・

 神田雉子町の齋藤家は「草創名主」。家康入府時の江戸名主24人のなかの一人。七代目の齋藤幸雄(長秋)は京都の『都名所図会』などに刺激されて『江戸名所図会』制作に取りかかった。しかし寛政十一年(1799)没。この時の絵師は六十歳に近い大家・北尾重政で、彼もまた絵を描かずに亡くなった。八代目・齋藤幸孝(莞齋)が父の事業を受け継いだ。莞齋も版元も人を雇って近郊取材。この時に絵師・長谷川雪旦を迎えた。

 八代目自身も忙しい名主仕事を縫って雪旦と共によく歩きまわったが、文政元年(1818)に48歳で没。15歳で九代目を継いだのが幸成(月岑)だった。彼もまた名声や金銭のためではなく「江戸を記録する」という信念と情熱で無報酬ながら『江戸名所図会』制作に取り組んだ。雪旦も信念は同じだが職業絵師ゆえ、町名主や町年寄らも金銭バックアップをしたらしい。最初の十冊刊行は月岑が数え三十歳のころ。雪旦もまた息子・雪堤と共に親子で絵を描き続けた。また広重も『名所江戸百景』の資料考証に齋藤家を訪ねていたとも書かれていた。

 月岑は後に『東都歳時記』『音曲類参纂』『武江扁額』等々の膨大な著作を残し、明治十一年(1878)没。晩年にはカメラで東京を撮りまくっていたとか。

 次に石川英輔が『江戸名所図会』の構成を説明。江戸城を北極星として、江戸全体を北斗七星に見立てた順で七巻が構成されていると解説。一巻が江戸城周辺。二巻が南下して品川・大森方面。そこから時計まわり放射状に三巻が四谷・新宿・渋谷・目黒・世田谷方面。四巻が大久保・高田馬場・中野・池袋方面。五巻がお茶の水・駒込・王子方面。六巻が上野・浅草・足立方面。七巻が深川・葛飾・葛西方面の順。

 さて、あたしは順不同、気になった場所の頁をひもとき(くずし字の勉強を兼ねて)、また実際に現地を訪ねたりして遊んでみようかなと思い立った。このブログ、また新たな<マイカテゴリー>が加わってしまった。


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再び広重vs雪旦(鬼子母神) [くずし字入門]

zousigaya7_1.jpg 前回記した理由で『絵本江戸土産』五編は断念。「東洋文庫ライブラリー」の四編に戻って、なじみの地の絵をお勉強と、まずは「雑司ヶ谷鬼子母神法明寺」(写真上)を読んでみた。

 この神出現の地ハ護国寺より坤(ひつじさる=南西)にあたり精土(文京区目白台)といへる所の叢(くさむら)尓(に)小(ちひ)さ起(き)祠ありて始めその処に祀(まつ)れりとぞ この神霊厳新(あらた)なる中に〇童を守かなふ 故尓(ゆえに)乳(ち)な起(き)婦人こゝ尓祈里(いのり)てことごとく霊應あり 毎年十月会式のとき殊(とく)尓褥ふ別当大行院 これを護持須(す)

 「〇児」と「褥ふ」の漢字と読みがわからなかった。くしゃみでもした際にハタと思い付くかもしれない。試みにネットで『江戸名所図会』の「雑司ヶ谷鬼子母神堂」を見た。ムムッ、其角句と説明文あり。苦労して読んだが苛立った。これは東洋文庫と同じく共にネット画像の粗さが、文字判読には粗すぎるってことなんです。

zousigaya1_1.jpg で、ついに図書館に走ちゃったんです。『原寸復刻 江戸名所圖會』(上・中・下)。まぁ、8㎏もありましょうか。あたしの14㌅折り畳み自転車とほぼ同じ重さです。重さに耐えつつ家まで運びました。えぇ、原寸なら、まぁ苦労せず読めるんですね。

 其角句は「山里ハ人をあられの花見かな」 文章は「門前両側に酒肉店(りやうりや)多し 飴をもて此地の産とし川口屋と称(しやう)するも能(の)本元と須(す) 其屋号を称(とな)ふるもの今多し」

 また『原寸復刻 江戸名所圖會』の絵を見たことで、『絵本江戸土産』の絵が、どの位置から何をどう描いたかもわかった。雪旦の絵の右上は「法明寺」で、その山門が「仁王門(二王門)」。広重の絵は、この山門から両脇に広がる田圃の中の参道をへて鬼子母神堂を描いているんですね。かくして改めて長谷川雪旦の丁寧で正確な描写に感心。斉藤月岑の文章を併せて、此の地の記述と絵(会式の賑わい、麦藁細工の店)は実に12頁にも及んでいた。まさに地誌。その真摯な制作姿勢に思わず襟を正してしまった。写真下は現在の鬼子母神堂と川口屋。

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昌平橋から筋違橋、対岸は聖堂 [くずし字入門]

syoheizaka1_1.jpg 「神田上水懸樋」を記せば、その下流へ続けたい。『絵本江戸土産』五編にも「昌平橋聖堂」あり。こう書かれている。

 右に出(いだ)せる筋違橋(すぢかひばし)と双(なら)び架るを昌平橋といひ西の方(かた)へ昇りを昌平坂といふここに聖堂あり大成殿(たいせいてん)にハ孔子及び十哲(じつてつ)の像を祀らるゝよし春秋釈奠の礼あり学問修行(しゆきやう)のものこゝに寄宿する本朝(ほんちやう)第一の学校(かくかう)なり

 相変わらず誇張描写の広重絵だが、眺めた位置は現「聖橋」辺りからだろう。ここから下流を望めば、今は地下鉄・丸の内線(お茶ノ水~淡路町)が横切り、その下流をJR総武線(秋葉原~お茶ノ水)が横切り、その向こうに赤煉瓦風「昌平橋」が見える。同橋辺りから下町(低地)になる。

hisirikarasyohei_1.jpg 「昌平橋~万世橋」右岸は今も明治の赤煉瓦が続いている。「筋違橋」とは? 「赤煉瓦」はいつ出来たのだろう?。 「江戸切絵図」には「筋違御門」(神田見附)前に「筋違橋」あり。家康が上野寛永寺へ詣でる際の橋(御成門)として寛文16年(1676)架橋。明治6年(1873)に神田見附を壊した石で、アーチ二蓮(眼鏡橋)石造り「万世橋」が出来た。明治45年に東京駅と同じく辰野金吾設計の立派な「万世橋」駅舎が完成して中央線始発駅へ。しかし大正12年の関東大震災で消失。赤煉瓦はその後「交通博物館」になっていたが、目下は昌平橋~万世橋の右岸一帯の赤煉瓦が商業施設で残されている。

 一方、上流側・御茶ノ水沿いの淡路坂は、ニコライ堂を背に今春、ガラス面の超高層ビル(sola city)が完成して様変わりした。今月7日に記した通り「蜀山人終焉地」の史跡看板も新たになった。最晩年の蜀山人こと大田南畝は「鍿林楼」から日々眺めただろう対岸の湯島聖堂。ここも関東大震災で消失も「入徳門」(宝永元年・1704)は無事。他は鉄筋コンクリート造りで復元だが、黒い建物で江戸当時の俤を伝えている。

syoheizakafude1_1.jpg 交通量の多い外堀通りだが、ここ「聖橋」に立ってグルッと周囲を眺めれば江戸、明治、昭和、そして平成が凝縮されているようで、時を忘れる。

 くずし字を写し書くも、筆字がうまく書けぬ。こう記せば、にわかに子供時分に「習字塾」に通ったことを思い出した。60年余振りの筆で、うまく書ける筈もない。あの頃は多くの子供らが習字塾に通ったものだが、今の子供らは端からキーボードなんだろう。


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15)姿見橋と俤のはしと安政大地震 [くずし字入門]

okokagebasi_1.jpg yamabukinosato_1.jpg・・・昨日の続き。まずは現「面影橋」と北詰「山吹の里」碑の写真。90年代末、亡き愛犬の日々の散歩道だった。そんなこたぁどうでもいい。「姿見橋VS俤のはし(面影橋)」です。郷土史好き方々のサイトを拝見すると、広重『名所江戸百景』の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(写真下)を元に論じられているような。整理すると・・・

 ★広重は「俤のはし」を間違えて「姿見橋」とした。★いや、それが正しい。★『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵は手前が「俤のはし」で、北奥の小川に架かるのを「姿見橋」と記した。その奥の「南蔵院」の位置も正確ゆえ、これが正しい。★この橋には二つの名が曖昧にあった。

edosugatamihasi_1.jpg 改めて発行順を追ってみる。まず天保5、7年(1834~1836)刊の齋藤月岑刊・長谷川雪旦の『江戸名所図会』あり。次に嘉永3年(1850)頃の広重絵『絵本江戸土産』。そして最後が広重62歳没前年、安政4年(1857)の『江戸百』。

 発行順を振り返れば、何かが見えてくる。 『江戸百』は亡くなる前年ゆえ、果たして実景を見て描いたか? しかも安政2年(1855)は江戸大地震。橋が絵にある風情で健在だったとはとても思えぬ。永代橋は地震で弱っていたか翌年夏に崩落。

 広重は『江戸百』で「永代橋佃しま」を描いているが、これは橋修復前の作。何故に描けたか。ほぼ同構図で『絵本江戸土産』で描いていたからで、ここから『江戸百』を仕上げたのだろう。

 彼は『絵本江戸土産』四編「叙」を自ら記している。・・・専ら寫眞を旨として。拙き筆にありながら。幼童の画を翫ぶ。手本にも奈かれしと。思ふが故に山水艸木。都て艸画の筆意にして・・・。子供の手本にでもなればと簡略して描いたと記している。そんなスケッチ風から『江戸百』の「永代橋」は描けたが、『絵本江戸土産』のスケッチ風からは『江戸百』の地形俯瞰「高田姿見のはし俤の橋砂利場」は描けない。

 では何を参考にしたか? 長谷川雪旦の『江戸名所図会』の「俤のはし」でしょう。だが同書には、こんな記述がある。間違いもあろうが、概ねこんな文である。・・・上水川に架(わた)す長十二間余あり 昔ハ板橋まり近頃ハ土橋となれり 此橋を姿見の橋と思ふハ誤(あやま)り也 次に志する 此辺(このあたり)の蛍ハ形大にして光り他にませれり

 次に「姿見の橋」の項。・・・同じく北の方に架(わた)せる小橋を号(なつ=なづ)く 昔ハ此橋の左右に池ありて其水泛(よとん)で流れす 故に行人(かうしん)覗きみれハ 鏡に面(おもて)に相対(あいたい)するか如く水面湛然(こんせん)たる故に名とするとも 或ハ寛永の頃大樹(たいしゅ=将軍)此地(このところ)へ御放鷹(こはうよう)の時 御鷹(おんたか)翦(それ)けるか此橋の辺にて見出(みいて)給ひしかは 台命によりて此名を唱(よは)せられし由里諺に云伝ふ・・・

 怪しげな釈文になったのでこの辺で止めるが、まぁ、しっかりと「俤のはし」と「姿見橋」の違いを記している。広重がこの『江戸名所図会』を読まなかったはずはないのに、何故に『江戸百』で、手前の橋を「姿見橋」としたか。『江戸名所図会』と『江戸百』の間に何があったのだろうか・・・。

sugatamiezu2_1.jpg 実は安政大地震前、嘉永4年(1851)の『江戸切絵図』などに、「高田馬場」下にちゃんと「姿見橋」(題字・大久保の「大」の字の左)がある。屋敷主名まで記入の「切絵図」に間違いはなかろうから、1850年頃には、やはり何らかの事情で「姿見橋」となっていたとも言えなくもない。

 くずし字をちょっと勉強しただけなのだが、こんな推測遊びが広がるってこと。左図の赤丸が尾張藩下屋敷(現・戸山公園)で、左端あたりが現・あたしんチ辺り。赤丸右下が「穴八幡」です。


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14)姿見か俤かしら雪の橋 [くずし字入門]

hirosugata_1.jpg 『絵本江戸土産』四編教材の三枚目の絵は「山吹の里 姿見橋」(写真上)。絵の文章は・・・山吹の里ハ太田道灌の故事(ふること)によって、号(なづ)くとぞ 姿見はむかし この橋の左右に池あり 其水淀みて流れ須(ず) 故(ゆゑ)に行人(こうじん)この橋にて姿を模(うつ)し見たるよりの名他といふ

 さて、現「姿見橋」へ行ってみれば、そこは「面影橋」で、南詰に史跡案内板あり。ここには広重の、この絵ではなく、また彼が安政四年一月に描いた『名所江戸百景』の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」でもなくて、『江戸名所図会』(長谷川雪旦の絵)の「俤のはし」(写真下)が紹介されていた。

 それを見れば、手前の橋に「俤のはし」とはっきり書かれ、その北奥の小川に「姿見橋」がある。さらに奥に「南蔵院」や「氷川神社」も描かれていた。さて、どちらが正しいのだろうか・・・。前回の「四ツ谷・大木戸」に続いて、思いがけず広重VS雪旦、『絵本江戸土産』及び『名所江戸百景』VS『名所江戸図会』の比較になってしまった。

sugatamibasi1_1.jpg また橋の北詰のオリジン電機玄関脇に「山吹の里」の碑がある。その史跡案内文には、この石碑の文字周辺に細かい文字があり、よく読めば貞享三年(1686)に建立の供養塔と判明。それを転用して「山吹の里」の碑ができたとあった。また文面には「山吹の里」には諸説あり・・・の説明。

 ウム、太田道灌由来なら、後の上記二つの絵の橋詰に「山吹の里」の碑が描かれていてもよさそうだが、その姿はない。そう言えば、新宿・西向神社にも「山吹の里」の碑があった。あれもこれもなんだかハッキリしないんであります。

 1990年代末頃に、眼下斜め下流に「面影橋」を見るマンション9Fに住んでいたこともあり、せめて「姿見橋」と「面影橋(俤のはし)」の違いについては、自分なりの判断をしておこうと思ったが・・・。長くなりそうなので次回へ。


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13)五十にて四谷をみたり花の春 [くずし字入門]

yotuyaohkido5_1.jpg ransetuyotuyaku_1.jpg『絵本江戸土産』四編教材の最初の絵は「四ツ谷大木戸内藤新宿」。絵に添えられた文は「四谷通りの末にして甲州街道の出口なり この宿美麗なる旅店多く軒をならべ その賑ひ品川南北の駅路に劣らず」。

 内藤新宿は馬糞舞う宿場で、人糞積んだ馬車が行き交い、妖しい宿も多かった。かつ玉川上水工事で絶えず掘じくり返されて~と思っていただけに、「この宿美麗なる旅店多く軒を並べ」は意外だった。

 広重の『江戸百』には馬のケツと馬糞をローアングルで描いた「四ツ谷内藤新宿」もある。そしてこの『江戸土産』の絵(上左)は、齋藤家三代(齋藤月岑)刊で長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』の「四谷大木戸」(上右)と同じ場所。妙なことに、雪旦の方が広重っぽく、番屋の屋根上空から俯瞰で描いている。広重と長谷川雪旦は同じ場所を多く描いていて、両者の比較論があったら面白いと思うのだが、いかがだろうか。それはさておき、ここで注目は雪旦の絵の上部余白に「嵐雪」の句が書かれていること。

ransetuku_1.jpgedoohkidoato_1.jpg 今までならやり過ごしていたものの、古文書講座の受講効果が早くも出て、解読を試みた。「五十にて四谷をみたり花の春」。「五」と「春」のくずし字解読に辞典をひもといたが、解読できれば、同句がネットでいろいろと話題になっていたのも知った。

 俳人なのに本当に五十まで四谷を知らなかったのか。これは歌舞伎の四谷怪談を観たの意ではないか。 いや、子規は『墨汁一滴』でこう書いている。・・・東京に生まれた女で四十にも成て浅草の観音様を知らんと云ふのがある。嵐雪の句に 五十にて四谷をみたり花の春 と云ふのもあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。

 芥川龍之介は、漱石が「稲」を知らなかったと記している。江戸の女で筍と竹が同種と知らぬ女もいた・・・云々。まぁ、本当のところは当時の新宿は品川、板橋、千住ほどは賑わっていなかったってことだろう。かかぁが言うには「おまいさん、当たり前じゃないか、あたしだって東京で行ったことのない場所はいくらでもあるよぅ」。(句の横の写真は「四谷大木戸跡」の石柱)

 さて、あたしんチの7Fベランダでは目下、内藤新宿の江戸野菜「内藤唐辛子」がスクスクと育っている。昨年に三苗いただいて赤い実を大量収穫(育て方がうまかったのだろう、たわわに実った)し、残しておいた実(種)を蒔いての発芽。江戸の内藤新宿では夏も終わり頃になると「内藤唐辛子」の紅い実で辺りが真っ赤に染まったとか。ベランダの唐辛子、机上のくずし字資料で、江戸が僅かに甦っています。


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11)くずし字や解読残し梅雨の鬱 [くずし字入門]

mitunaru_1.jpg 「古文書講座初級編」全五回。はや四回目で『絵本江戸土産』四編へ。当初は皆目わからなかった「くずし字」も、予習する余裕が生まれた。たどたどしくも、おやまぁ、なんといふことでしょう、最初の頁が二ヶ所を残して読み切れたじゃありませんか。読めぬ個所は写真左と「途王多流」。

 その日の講義冒頭に、先生はこんな話をされた。「学生時代、先生に“この字は”と質問すれば“わかりません”。 あぁ、先生でも解読できぬ字があるんだとホッとした。先生は我が国の一人者ですから、先生が解読できぬということは、日本の誰もが読めぬといふこと。読めぬ個所は前後の文脈、文字からさまざまに推測して答えを探って行きましょう。今回は私にもわからぬ個所があって、講義間際まで考え込んだ所があります」

 フムフム・・・。あたしが読めなかった箇所を、講師は「其密なること至らねば」としたが、なんと受講生の一人が「これは耳(に)のくずしではないか」と発言した。講師も「こと」を「に」と訂正された。あたしは「禰」のくずし字も読めなかった。また次に出てくる「途王多流」も考え込んだ。「途=と=みち」で「道わたる」の意とやっと納得した。

 講師は「くずし字は三ヶ月睨んでいれば、八割は読めるようになりますが、その先が難しい」ともおっしゃった。異を発言した受講翁の机を見れば、相当に使いこんだ「くずし字用例字典」あり。初級編講座とは云え、まっさらな初心者(小生)から、郷土史などで古文書と取り組んでいるだろう上級者までが受講しているらしい。

 八割読めたその後は、漢字の「くずし字辞典」はもちろん「漢和辞典」「古語辞典」総動員の領域らしい。限りなく奥が深そうです。


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大田南畝終焉の地の様変わり [大田南畝(蜀山人)関連]

 nanpohi_1.jpgブログを続けていると、先日の「東海汽船・月島桟橋」と同じく、過去記事のフォローをしたくなること間々あり。一昨年六月「大田南畝の終焉地」を訪ねるも、大工事現場になっていて落胆したと記した。

 過日、神田川沿いポタリングをしていたら「御茶ノ水」聖橋から昌平橋へ下る「淡路坂」際が様変わりしていた。高層ビル「solacity」なるが建ち、「蜀山人終焉の地」の史跡案内板(写真中央下)も復元されていた。

 案内板には大田南畝プロフィール紹介後にたった一行・・・「文化九年(1812)に当地に移り住み、文政六年(1823)に没するまで過ごしています」。物足りないので補足する。大田南畝は長年住み慣れた下級武士、御徒組屋敷(現・牛込中町)の家を出て、念願の持家を荷風生誕の小石川・金剛坂近くを下った崖上に「遷喬楼」を建てた。鶯の鳴き声が聴こえ、富士が見える風雅な家だったとか。

 そこから終の棲家として淡路坂の「緇林楼」へ移転。二階建ての二階十畳が彼の書斎・客間で当時の文人の溜まり場。斜め前に太田姫稲荷(今は移転)、前が御茶の水の渓谷、向こうに湯島聖堂の甍と森が見えた。「緇林楼」は湯島聖堂の「緇林杏壇」に由来。読書と狂歌、酒と好色にうつつを抜かす最中の「寛政の改革」で、一年発起で「学問吟味」に挑戦。その試験場が湯島聖堂だった。

yusimaseido_1.jpg 文政六年四月三日、妾(?)のお香を連れて中村座へ。三代目尾上菊五郎が挨拶に来て、翌四日に酒とヒラメの茶漬けを食い、六日に75歳で逝った。荷風『大田南畝年譜』には「生きすぎて七十五年喰ひつぶしかぎりしらぬ天地の恩」が紹介されていた。墓は小石川・白山の本念寺。様変わりした淡路坂だが、今も深い谷の神田川、その向こうに湯島聖堂が望めた。


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霊岸島~芝浦~月島桟橋~竹芝 [週末大島暮し]

toukaitukisima_1.jpg 運動のための自転車も、目的地が定まらぬと走る気にならず。昨年(2012)11月は、かつての東京湾汽船の発着場探しに「霊岸島」へ走った。同社発着場が「霊岸島から芝浦」へ移転したのは昭和11年。昔の「島の新聞」同年11月号は、芝浦埠頭の特集号になっていた。移転披露に芝浦芸者が総動員とあった。かくして今度は自転車で芝浦へ。検番跡も訪ねた。あたしはそのブログで「芝浦桟橋は昭和28年の現・竹芝桟橋完成まで使用」と記した。

 実は頭のどこかに「月島桟橋もあったよなぁ」との思っていた。そして今春の大島暮し中に読んだのが野口富士男『わが荷風』。そこから彼の作品群を読み始めれば、『耳のなかの風の音』に~昭和28年の大島より月島桟橋へ帰航途中のK丸から実父らが身投げした事件の顛末が書かれていて驚いた。

 書き出しは、こうだ。「昭和二十八年二月二十八日付夕刊各紙は、私の父の死をいっせいに報道した」。父は数え66歳、妻は47歳、末弟は小4生。T汽船(東海汽船)で大島に渡り、帰航の途次にK丸(菊丸だろう)の船上から投身。月島桟橋へ投錨したK丸の一等船室に三人の遺留品が遺されてい、父の遺体は三崎近くの海で発見。父との複雑な関係を述懐しつつ、事件の顛末が克明に描かれていた。

tukisimasanbasi_1.jpg 東京湾汽船(東海汽船)の発着場が「霊岸島~芝浦~月島~竹芝」と移ったのならば、やはり「月島桟橋」にも行かねばなるまいと、またも自転車を駆った。新宿~四谷~皇居~銀座と走って、新装・歌舞伎座前から勝鬨橋を越えた。「もんじゃ通り」とは反対の南端へ。幾つかのサイトに「昔の東海汽船の桟橋跡」として、幾本もの朽ちた杭が残る写真掲載あり。果たして、そこが探せましょうか。

 南端一帯は「月島埠頭」で、倉庫とトラックばかり。現南端はその後の埋立地で、昔はもっと内側だったのでは・・・、そう思って辺りを走りまわれば「勝どき5丁目緑地」なる小公園前に、東海汽船の桟橋残骸だという朽ちた幾本もの杭に辿り着いた。場所は「新月島運河」の「浜前水門」南、東京海洋大学海洋工学部の練習船「汐路丸」停泊の南側。斜め前には「浜離宮」。

 帰宅後に「勝どき5丁目緑地」を検索すれば、「東海汽船の跡地にできた公園」なる記述も見つけた。昭和11年に「霊岸島」から「芝浦」へ。昭和23年3月に「月島桟橋」へ、そして昭和28年に現「竹芝」へという変遷。これにて、自転車で辿る東海汽船の発着場巡り完了です。霊岸島、芝浦、月島それぞれ何度も訪ねたい素敵な風景が広がっている。


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(5)くずし字や黄色や春の本遥か [くずし字入門]

edosyo2_1.jpg 初編「叙」後半も、講義最後に先生が配布下さる「釈文」とは別に、自分流の講義メモをアップする。うむ、なかなか手ごわい。大田南畝、山東京伝らの黄表紙、絵草紙、洒落本、春本を読むには道はるかなり。

 中古の風俗を(写真頁、ここから)見(みる)尓(に)足(己=こ)れ里(り)。然(志可)る尓(に)名所古跡といへども。多(お・ほ=本)く星霜を経(ふる)尓(に)及びて沿革(ゑん可く)春(す)ること那(な)き尓(に)あら春”(ず)。

 這回(こたび)頻(志きり)尓(に)思(おもひ)起(おこし)て。廣重子(ひろ志げし)に需(もと)免(め)現存の。在(あり)さ満(ま)を画(えがゝ)せハ。再刻(さいこく)の時(とき)至(いた)るも。書肆(志よし)金幸堂(きんかうどう)が丹誠(たんせい)にて。遠国(をんごく)他郷(たきやう)の褁(つと)尓(に)宜(よろ)しく。

 新古(志んこ)を並視時(ならべみるとき)ハ。時勢を知(し)流(る)の一助尓(に)庶(ちか)し。再刻(さいこく)成(なる)の日余(よ)に序(志”よ=じよ))を請(こふ)。余(よ)速(すみや可)に筆越(を)採(とり)。その来歴(らいれき)を述(のべ)てもて。端書(はしがき)尓(に)換(可=か・ゆ)るといふ。

 難しい。が、恐らくあたしと同年配だろう隠居爺さん・バアさん方の約七十名が、講師の一語も聞き逃すまいぞと真剣に取り組んでいらっしゃる。休憩時間には、講師の元に走り寄って質問攻めの方々もいる。鳴呼、老いて、かくも真摯な勉学の姿を眼にするとは。皆さん、お勉強好きです。


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(4)くずし字や江戸に分け入る艸の路 [くずし字入門]

edojyo1_1.jpg 新宿歴史博物館の「古文書講座初級編」講座の教材は『江戸土産』初編・二編・三編・四編・五編からの抜粋21頁。講義は初編「叙」から始まった。同書は嘉永三年(1850)刊。ってことは葛飾北斎が90歳で亡くなった翌年で、ペルー黒船の3年前。初編「叙」の書き出しは・・・

 「絵(ゑ)本江戸土産の原版(者=は・ん)ハ。今越(を)去類(る)こと一百年。宝暦能(の)そのむ可し。當時(多うじ)名高(な多可)幾(き)画工尓(に)て。西村重長(尓しむら志げな可)奈(な)るも能(の)。」

 『江戸土産』の原本は百年前、宝暦の時代の名高き画工・西村重長によって描かれたとある。百年前の宝暦一年は1751年。芭蕉も其角も逝き、大田南畝が牛込仲御徒町(現・新宿区中町)で生まれたばかり。

 「手耳(に)成(なり)し跡を逐(おひ)て。次編ハ鈴木春信てふ(と云ふ)。画工の是(これ)を嗣(つげ)里(り)となむ(過去形)。その頃大(おほい)尓(に)流行(りう可う)して。絵本の鼻祖(びそ)と仰(あふが)れしも。一年(ひとゝせ)祝融(しゆくゆう)の災(王=わ・ざハひ)尓(に)罹(可か)り。彫版(えりいた)盡(つく)して烏有(うう、うゆう=全くないこと)となれり。鳴鳴(ああ)惜哉(をし以可奈)。」

 西村重長の跡を継いで、次編を鈴木春信が描いて大流行し、絵本の祖と仰がれたが、祝融(火の神、火災)に遇って版木を焼失してしまった、あゝ、惜しいことよ。と書かれている。春信の版は明和五年(1768)刊らしい。早や大田南畝は華々しく江戸文壇にデビューしていて、翌年には唐衣邸での最初の狂歌会に参加。一方、山東京伝は8歳になっていた。当時の年表を見れば、その一年(ひととせ)後の明和六年に江戸大火の記録あり。当時の江戸は毎年のように大火に見舞われていた。

 まぁ、そんなことが「叙」前半に書かれていた。それにしても江戸百年を通じてベストセラーだった『江戸土産』が教材とは、うれしく愉快なり。講師が読み解くにしたがって、はるか江戸が身近に浮かんでくるようでした。


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