SSブログ

15)姿見橋と俤のはしと安政大地震 [くずし字入門]

okokagebasi_1.jpg yamabukinosato_1.jpg・・・昨日の続き。まずは現「面影橋」と北詰「山吹の里」碑の写真。90年代末、亡き愛犬の日々の散歩道だった。そんなこたぁどうでもいい。「姿見橋VS俤のはし(面影橋)」です。郷土史好き方々のサイトを拝見すると、広重『名所江戸百景』の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(写真下)を元に論じられているような。整理すると・・・

 ★広重は「俤のはし」を間違えて「姿見橋」とした。★いや、それが正しい。★『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵は手前が「俤のはし」で、北奥の小川に架かるのを「姿見橋」と記した。その奥の「南蔵院」の位置も正確ゆえ、これが正しい。★この橋には二つの名が曖昧にあった。

edosugatamihasi_1.jpg 改めて発行順を追ってみる。まず天保5、7年(1834~1836)刊の齋藤月岑刊・長谷川雪旦の『江戸名所図会』あり。次に嘉永3年(1850)頃の広重絵『絵本江戸土産』。そして最後が広重62歳没前年、安政4年(1857)の『江戸百』。

 発行順を振り返れば、何かが見えてくる。 『江戸百』は亡くなる前年ゆえ、果たして実景を見て描いたか? しかも安政2年(1855)は江戸大地震。橋が絵にある風情で健在だったとはとても思えぬ。永代橋は地震で弱っていたか翌年夏に崩落。

 広重は『江戸百』で「永代橋佃しま」を描いているが、これは橋修復前の作。何故に描けたか。ほぼ同構図で『絵本江戸土産』で描いていたからで、ここから『江戸百』を仕上げたのだろう。

 彼は『絵本江戸土産』四編「叙」を自ら記している。・・・専ら寫眞を旨として。拙き筆にありながら。幼童の画を翫ぶ。手本にも奈かれしと。思ふが故に山水艸木。都て艸画の筆意にして・・・。子供の手本にでもなればと簡略して描いたと記している。そんなスケッチ風から『江戸百』の「永代橋」は描けたが、『絵本江戸土産』のスケッチ風からは『江戸百』の地形俯瞰「高田姿見のはし俤の橋砂利場」は描けない。

 では何を参考にしたか? 長谷川雪旦の『江戸名所図会』の「俤のはし」でしょう。だが同書には、こんな記述がある。間違いもあろうが、概ねこんな文である。・・・上水川に架(わた)す長十二間余あり 昔ハ板橋まり近頃ハ土橋となれり 此橋を姿見の橋と思ふハ誤(あやま)り也 次に志する 此辺(このあたり)の蛍ハ形大にして光り他にませれり

 次に「姿見の橋」の項。・・・同じく北の方に架(わた)せる小橋を号(なつ=なづ)く 昔ハ此橋の左右に池ありて其水泛(よとん)で流れす 故に行人(かうしん)覗きみれハ 鏡に面(おもて)に相対(あいたい)するか如く水面湛然(こんせん)たる故に名とするとも 或ハ寛永の頃大樹(たいしゅ=将軍)此地(このところ)へ御放鷹(こはうよう)の時 御鷹(おんたか)翦(それ)けるか此橋の辺にて見出(みいて)給ひしかは 台命によりて此名を唱(よは)せられし由里諺に云伝ふ・・・

 怪しげな釈文になったのでこの辺で止めるが、まぁ、しっかりと「俤のはし」と「姿見橋」の違いを記している。広重がこの『江戸名所図会』を読まなかったはずはないのに、何故に『江戸百』で、手前の橋を「姿見橋」としたか。『江戸名所図会』と『江戸百』の間に何があったのだろうか・・・。

sugatamiezu2_1.jpg 実は安政大地震前、嘉永4年(1851)の『江戸切絵図』などに、「高田馬場」下にちゃんと「姿見橋」(題字・大久保の「大」の字の左)がある。屋敷主名まで記入の「切絵図」に間違いはなかろうから、1850年頃には、やはり何らかの事情で「姿見橋」となっていたとも言えなくもない。

 くずし字をちょっと勉強しただけなのだが、こんな推測遊びが広がるってこと。左図の赤丸が尾張藩下屋敷(現・戸山公園)で、左端あたりが現・あたしんチ辺り。赤丸右下が「穴八幡」です。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。