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北区の軍事遺跡(6)『康子十九歳戦禍の日記』 [新宿発ポタリング]

 『康子十九歳 戦禍の日記』(文藝春秋、2009年刊)は、北区中央図書館の建設現場から書き出されている。~工事現場には、不似合いな古めかしい赤煉瓦建物がポツンと建っている。正確にいえば、その赤煉瓦の建物の外壁だけが、取り壊されることなくそのまま残されて(中略)。その中に近代的な図書館を建てようとしているのである。(中略)。(このかつての造兵廠は)巨大な兵器工場としてフル稼働し、工員だけでは清算が追いつかず、昭和十九年からは勤労動員によって、多くの学生たちがこの仕事に従事した。

 同書は「東京第一陸軍造兵廠」に勤労動員された東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)付属高等女学校専攻科三年在席中の粟屋康子(十九歳、常に首席)の、当時の日記を中心に構成されたノンフィクション。康子の配属先は同造兵廠の第三製造所・第四区隊。康子と同級・増枝がコンビを組むのは、中央大予科の高木(後に三菱地所社長~会長)、長瀬(空手部)、梁(台湾からの留学生)ら。彼らは黄銅を旋盤でまわして砲弾の信管を作り、彼女らはその信管を検査し、油で洗浄する仕事。

 康子の自宅は目黒区下馬。東京急行東横線「第一師範駅」(現・学芸大学駅)から十条駅に通った。父は大阪府警察部長から大分県知事を経て昭和18年に広島市長の粟屋仙吉。すでに長姉は嫁いでい、目黒区の小学校在席の二人の兄は甲府近郊へ、世田谷区の小学校に通う妹は松本に集団疎開。一家はバラバラになった。

 康子は少尉に憧れ、梁は康子に恋した。昭和20年2月、少尉は十条駅で「万歳」の声に送られて戦地へ。特攻志願の梁は康子に髪の毛を求めた。中大予科生にも次々に赤紙が来る。一浪して年長の藤江英輔が召集令状を配る係。彼は島崎藤村『若菜集』より「高楼」の詩・・・「かなしむなかれ わが<あね>よ/たびのころもを ととのへよ」を、「わが<とも>よ」に変えて作曲。戦地へ赴く友を送る歌になった。造兵廠体験を有する女高師生らが、後に全国の先生となって同歌を普及。昭和20年代後半に中央大の合唱団が録音。昭和36年に小林旭『惜別の歌』として大ヒット。

 話は時代を戻る。ここで同書にはない同世代・三島由紀夫の同時期を挿入してみる。三島は昭和19年11月に処女作『花ざかりの森』を出版。敬愛する詩人・伊藤静雄に序文を乞うも「背伸びした無理な文章」「俗人」と一瞥もされず。出版統制厳しいなか、祖父のコネを使っての強引な出版。昭和20年2月、そんな三島にも赤紙、召集令礼状が来た。(続く)


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