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北区の軍事遺跡(7)康子と三島由紀夫と [新宿発ポタリング]

kitakurenga_1.jpg 『康子十九歳 戦禍の日記』を横に置き、同世代・三島由紀夫の同時期を探ってみる。彼は昭和20年2月、勤労動員の群馬県太田市の中島飛行機製造所(ひ弱ゆえ事務方)から渋谷の自宅に戻った時に召集令状を受け取った。

 父・梓に付き添われて、本籍地の兵庫県印南郡志方町で徴兵検査を受けた。農村若者らが砂十貫の米俵を軽々と持ち上げる。『仮面の告白』で「胸まで持ち上げられず」と書くも、目撃者はビクとも動かせなかったと証言。加えて風邪気味。「肺浸潤」と誤診されて「第二乙種」不合格をもらって父と三島は逃げるように駅に走った。(猪瀬直樹『ペルソナ』より)。

 父・梓による、ひ弱さ強調で兵役罷免を狙った郷里での徴兵検査と思われているが、野坂昭如の『赫奕(かくやく)たる逆光~私設・三島由紀夫』では、こう書かれていた。・・・(それは)梓の徴兵忌避の配慮とは受けとりがたい。すでに『花ざかりの森』が上梓され、倅の文章志向、貴族趣味はあらわであった。それは「なつ」(祖母)により培われたことは明らか。三島に嫉妬めいた気持をいだき「俺やお前が血をひく祖父の生地はここなのだ」と確認させるため。その王朝風作品は所詮、付焼刃だと悟らせる悪意。下心がうかがえる。さて、真実は・・・。

 昭和20年3月10日、東京大空襲。下町を中心に10万人焼死。永井荷風の麻布・偏奇館も9日の空襲で炎上。三島は9日に、学習院高等科の先輩「草野」(仮名)の前橋・陸軍予備士官学校面会日に、草野の母、妹・園子に同行。翌日の帰りに大宮駅で東京から逃げてくる罹災者の群れと遭遇。三島は腕に怯えしがみつく園子に恋心を抱く。

 4月に帝大法学部の講義が始まるも5月に閉鎖。今度は神奈川県の海軍工廠で図書係と穴掘りに従事。5月24.25日に再び東京空襲。渋谷一帯も焼けるが、大山町(現・松濤)三島家周辺だけ焼け残って家族全員無事。 東京第一陸軍造兵廠に勤労動員されていた中大予科生は精工舎に動員替えで、康子らは動員解除で新潟に集団疎開。

 一方、三島より5歳下の野坂昭如は悲惨だった。14歳で昭和20年6月5日の神戸大空襲で家と養父を失った。「二番目の妹は疎開というより、生命からがら落ちのびた福井県の、戦争のほとんどかげのささぬ、静かな村で餓死した。」

 8月6日の広島原爆投下。広島市長として赴任していた康子の父は即死し、母重体・・・。(続く)

 ※写真は現・十条中学と十条駅手前線路との境界に保存の造兵廠赤煉瓦。煉瓦は葛飾の金町煉瓦製造所製。


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