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加藤郁乎「俳人荷風」(3)『冬の蠅』の俳味 [永井荷風関連]

akigakafu_1.jpg 本題の加藤郁乎「俳人荷風」(岩波現代文庫、平成24年7月刊)に入る。第一章は<『冬の蠅』の俳味>。 『冬の蠅』は秋庭太郎著(写真)に「私家版は昭和十年四月に京屋印刷所で千部刷り、八月下旬に完売。百八十円の利益也」と書かれていた。加藤郁乎は「荷風全集」の『冬の蠅』には、私家版にない俳誌「不易」発表の「枯葉の記」「雪の日」が収められたと解説。(★余談:昨日、高田馬場・ビッグボックス古本市で秋庭太郎著の荷風本全4冊セットが6500円で売っていた。欲しかったが貧乏と本棚いっぱいなんで諦めた)

 以下、「荷風全書」の『冬の蠅』(随筆21篇収録)と加藤郁乎「俳人荷風」を併読しつつ記して行く。 加藤先生、まずこう絶賛する。・・・荷風随筆集のなかでも最も俳味に富む一本であろう。折ふし自他の句を引きながら友人、女、文学、四季の風物を述べて流麗淡々渋滞なき筆致。荷風の筆はこびは冴えわたる。回顧趣味のことごとくは巧まざる俳文に思えてくるから妙である。

 確か半藤一利「其角俳句と江戸の春」の最終章も「永井荷風と冬の蠅」だった。『冬の蠅』が其角句「憎まれてながらへる人冬の蠅」からとったこと、また其角句を下敷きにしただろう荷風句をピックアップして、「日和下駄」も其角が詠んだ江戸風情句を辿って歩いているようだとも指摘していた。加藤郁乎はその其角句は、正しくは「ながらふる人」と訂正。小生は早くも呆け始めているが、両翁は80代にして冴えている。

 『冬の蠅』第一章「断腸花」は、冒頭に籾山庭後が大正6年に詠んだ「心ありて庭に植ゑけり断腸花」が引かれている。加藤翁は、同句が詠まれた頃の荷風は慶応義塾大教授と「三田文学」編集を辞して籾山庭後、井上唖々と雑誌「文明」を発行、余丁町・断腸亭に戻った時期と解説するが、同句は籾山のち梓月(しげつ)の句集に、「文明」に見出せぬ不思議を記し、文末の荷風句「長雨や庭あれはてゝ草紅葉」には言及せず。

kasiku_1.jpg 『冬の蠅』第二章「枇杷の花」を飛ばして、次の「きのふの淵」をとりあげている。荷風さん、ここでは芸者・富松の思い出を書いている。明治42年に富松と逢って深間になり、荷風さんは左の二の腕内側に「こう命」と彫り、富松はどこに彫ったか「壮吉命」と彫り合った。だが富松は1年余で落籍されて二人の仲はジ・エンド。荷風さん「富松の奴、近眼だから文字が大きくて・・・」とこぼすことしきり。大正6年に富松が亡くなったと知り、谷中三崎町・玉蓮寺に香花と共に「晝顔の蔓もかしくとよまれけり」の句を手向けたと書いている。

 加藤翁、この句は江戸俳諧と見紛(みまご)うばかり。抱一(酒井抱一で、狂歌名は「尻焼猿人」)の吟と見做(みな)しても通じる佳句であると評し、「かしく」は確かに昼顔の蔓に似通っていると筆文字?(写真)を紹介。その説明と、「かしく」は「かしこ」の転で、女性(加藤翁は遊女がと記す)が手紙末尾に書いて敬意を表する語と知って、初めて句の意がわかった次第。「わかる」ってうれしいねぇ。


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