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荷風の越前堀(2) [永井荷風関連]

oiwainari1_1.jpg 今度は永井荷風「訪問者」の白井・常子の愛欲の隠れ家、お岩稲荷の横丁の煙草屋の二階らしき場所を探してみた。簾がさがって、植木鉢が並んで、三味線の音が聴こえそうなところ。

 同地は艶っぽい要素も有していたか。篠田鉱造「明治百話」より「明治の新橋芸妓」を読んでいたら、こんな記述があった。・・・芸者になりたくて「も」組の頭が「霊岸島」で、つまり「蒟蒻島」で芸妓屋をしていた。私は17歳一杯は「蒟蒻芸者」で、18歳から「新橋芸者」になったんです。「蒟蒻芸者」とはちょっとエロっぽい。

 「霊岸島(越前堀)」は「蒟蒻島」か。ネット調べをすれば「埋め立てが容易に固まらず、歩くと揺れたことから蒟蒻島。蒟蒻島には女郎屋だけではなく、引手茶屋もあって、わりあい高級な岡場所だった」とあった。

 しかし現在の新川一帯はビル街で自転車でぐるっと走るも、なかなか「お岩稲荷」が見つからぬ。尋ねても首を傾げる方が多く、地元の人も少ないのだろう。諦めずに走っているってぇと、まぁ、時代に取り残され感の「お岩稲荷」(写真)があった。正しくは「於岩稲荷田宮神社」。

 百数十坪ほどの苔むした緑の境内に小さな社。ここだけが荷風さんの時代と変わらぬ雰囲気で、なんだかうれしくなってきた。案内板に「社地は初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参拝で賑わいました」。また「お百度参り」の石塔側面に「大正三年 大阪浪花座興行記念 四代目市川右團次」と刻まれていた。初代左団次は市川小團次の養子で、実子は初代右團次。歌舞伎の家系は複雑でよくわからない。

oiwainari3_1.jpg 荷風は二代目左団次と昵懇の間柄。左団次から「お岩稲荷」について聞かなかったか。そしてお岩稲荷の隣の二階屋(写真下)を見れば「訪問者」に書かれた・・・簾がさがって、植木鉢が並んで、三味線の音が聴こえたりして、まんざらではない」の文章ぴったり。「訪問者」の位置記述とは若干異なるが、まぁ、こんな雰囲気の二階屋と思っていいだろう。顔をあげると空を遮るマンションとオフィスビル、佃の高層マンション群も意匠を凝らした中央大橋も見える。ここだけが昭和初期の雰囲気を遺していた。

 なお、荷風さんと二代目左団次については近藤富枝「荷風と左団次~交情蜜のごとし」に詳しい。二人の交情30年。昭和15年に左団次没で、荷風の追悼句は「つきぢ川涙に水もぬるむ夜や」 「行雁や月はしづみて夜半の鐘」。そして日乗の余白に「散りぎはゝ錦なりけり蔦紅葉」があったとか。同書は荷風没後50年の平成21年刊。今なお新たな荷風本が次々にでてうれしいですね。あたしも、もう少し荷風さんの足跡を追ってみましょう。


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