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加藤郁乎「俳人荷風」(5)俳味の深さ [永井荷風関連]

housuiro3_1.jpg 『冬の蠅』次は「十六七のころ」。加藤翁は荷風の俳句初学をうかがわせて興味深い文章と記す。「荷風全集」第二十九巻の「俳句拾遺」掲載の二十四句はその頃の一級資料とし、そこから「流し呼ぶ揚屋の町の明け易し」をあげる。残念ながら小生の「荷風全集」は全二十八巻。その句は知らぬ。

 さらに昭和13年刊「おもかげ」は写真二十七葉掲載で、表題短篇「おもかげ」には吉原の夜景写真があり「よし原は人まだ寐ぬにけさの秋」が添えられていると紹介。これまた抱一の俳味をそのまま拝借したような句と記す。ふん、あたしの蔵書にはその写真もない。

 加藤翁は「十九の秋」「岡鬼太郎の花柳小説を讀む」を飛ばして、「鐘の音」「放水路」「寺じまの記」も俳句の話題がないと飛ばしている。そんなワケはなかろう。あたし流に続けてみる。

 「十九の春」は父の転勤に従って上海で暮した頃の思い出。支那人の生活にある強烈な色彩美について書き、父の漢詩で締める。異邦人感覚もまた俳味とみた。 「岡鬼太郎の花柳小説を讀む」は、芸妓の恋愛局面を描いたものは多いが、芸妓を主人公に描いたのは彼の花柳小説だけと評価。老いた芸妓の心に俳味あり。荷風句の芸妓がらみ句を拾う。「焼きもちの老妓に狎れて今朝の冬」(大正4年)、「つま弾や竹の出窓のほたる籠」(昭和17年)、「初かすみ引くや春着の裾模様」(昭和17年)は季重なりか。

 「鐘の聲」は今や騒音で聴こえぬ鐘の音だが、激しい木枯しがぱたっとやんだ一瞬にふと聴こえることがあると記し、今は昔に聴いた鐘の音とは違って、それは<忍辱と諦悟の道を説く静かな音>として聴こえてくると記す。深いねぇ~。ゆえに鐘の音の句も多い。「しみしみと一人はさむし鐘の音」(昭和13年)。東京大空襲の3年前、63歳の句は「粥を煮てしのぐ寒さや夜半の鐘」。 吉田精一「永井荷風」は、「おもかげ」の中の逸品は小説より随筆「鐘の音」(『冬の蠅』では「鐘の聲」)の重厚典雅な文章にとどめをさすであろうと書いていた。

m_kyouryukyou_1[1].jpg 次が「放水路」。大正3年から幾度も歩いた荒川放水路散策を振り返っている。昭和5年には深川から扇橋、釜屋堀を経て歩いた際に朽廃した小祠で「秋に添(そう)て行(ゆか)ばや末は小松川」の芭蕉翁の句碑を見つけた歓び。さらに今の自分の放水路散策は、河川の美観や寺社墳墓を訪ねるのではなく、<自分から造出す儚い空想に身を打沈めたいがため。これは寂莫を追及して止まぬ一種の欲情を禁じ得なくて>歩くのだと書く。これまた深い。「初潮や蘆の絶間を鉦の聲」(大正15年)。どこかで秋祭りでもあったのだろう。 「夏の雲わたし場遠き蘆間かな」(昭和7年)。50歳を越えた荷風さんが一生懸命に歩いている。

 写真上は、昭和7年2月に荷風さんがスケッチした放水路堤防端ノ図。そして今の荒川河口はこんな景色(写真下)になってしまった。手前が荒川、対岸が若洲海浜公園で、その向こうに恐竜橋こと東京ゲートブリッジ。


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