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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録3) [読書・言葉備忘録]

 heiminsya2_1.jpg明治40年1月、日本社会党の機関紙「日刊・平民新聞」創刊。社屋は京橋新富町。新富座からお囃子が聞こえてくる。社員24名。編集部15名に寒村も入って大はりきり。しかし創刊号編集を終えると、堺は刷り上がりを待たず、紀州のドクトル大石誠之助の許へ金策。寒村青年は、そんな内情を知る由もない。

 2月、足尾銅山で数千の鉱夫がダイナマイトで建物破壊、軍隊出動。寒村は雪の足尾銅山を取材。帰京すると新宿柏木の自宅で、管野スガの妹・秀子が病状悪化で逝去。スガもまた肺結核を病んでい、寒村はこう記す。「それから4年後の絞首刑に至るまで、この病苦が彼女を捨て鉢にした影響がないとは言えぬだろう」。

 5月、懲役検査。社会主義者だと威張って海軍水兵4年。懲役3年に1年の懲罰付き。横須賀海兵隊入営の厳格検査に、隠し持つカプセルを呑んで心臓鼓動激しく兵役免除。6月、幸徳がその後の社会主義運動分裂を誘う問題演説。以下、演説概要・・・。

 「ドイツ社会党は議員選挙に傾倒の結果、80名の議員を確保も、ひとたび議員になると、たちまちブルジョア政治の雰囲気に感染して地位、名誉、利益を欲っして腐敗堕落。ドイツ武断専制国家を変えるに至らず。議会重視に失望せり。今や社会主義労働者は直接行動を~」。かくして社会主義に硬派(無政府主義)を生む。幸徳演説で「平民新聞」発禁、そして「社会党」解散。あたしは「~」文中の(ドイツ社会主義議員)を、現在の数頼みの(民主党議員)に読み替えて、そのていたらくを嗤った。「維新の会」躍進が取り沙汰されるも、それも数頼みじゃ同じ轍なり。

 寒村、この時期に「谷中村滅亡史」を書き上げるも発禁。同年9月、山口孤剣の出獄祝に大杉栄と共に赤旗に「無政府共産」の白文字を縫い付けて参加。この旗が騒動の元で「赤旗事件」。男9名・女4名が留置場へ。大杉と寒村は裸にされて引きまわされ、殴られ蹴られて悶絶。大杉2年半、寒村1年半の千葉監獄暮し。大杉の自叙伝と同じく、寒村の獄中もそれなりの工夫があって暗くないのが救い。彼らが獄中にいる間にシャバでは大事件が起こっていた。(続く)

 写真は筑摩叢書「寒村自伝」トップ頁口絵で、新富町の「平民新聞」。図書館で借りた本。鉛筆メモがあったので、消しゴムで消したら活字も消えた。昭和40年初版の第5版で昭和45年刊。昔々の本。あたしは組合運動も学生運動も無縁で、同書刊の頃はカンディンスキー「点と線から面」などバウハウス系を読んでいたから、寒村よりも同書装丁の原弘(日本デザインセンターの創立メンバー)の方に関心があった。


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