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大杉栄「自叙伝/日本脱出記」(2) [読書・言葉備忘録]

 大杉栄「日本脱出記」は、フランスのアナーキストからベルリン開催の国際無政府主義大会の招待状が届くところから始まっている。渡欧資金を有島武郎から調達し、まずは尾行をまいて神戸へ。ここから上海へ渡って中国名でフランス入り。パリのアジトは5.6階建てが連なる薄汚い街にあった。小屋掛けの芸人、汚いホテル、貧しい人々。時は大正12年(1923)。

 先日のブログで、大杉・野枝が監獄暮しを繰り返しつつ五人の子を次々に生んだことに比し、現日本の少子化・晩婚化データをもって嘆いたが、大杉は同書に当時のフランス家庭の収入・支出詳細を、人口統計から結婚数・出産数の低下、子供の死亡率急増データを記していた。大杉はそんなパリのメエ・デエに飛び入り演説して収監、国外追放へ。「日本脱出記」はそこで終わっているが、彼は帰国してすぐの関東大震災後に野枝、甥っ子と共に憲兵・甘粕に虐殺された。

 さて、これを読んでも未だ大杉像を把握できたとは言えず、そこで当時のパリ調べをしてみることにした。ヘンリー・ミラーのパリ暮しの貧しき日々を思い浮かべて、これを調べてみれば彼のパリ暮らしは、大杉より7年も後のことだった。次にパリの獄中記と云えばジャン・ジュネで、これまた大杉より後。1923年といえば未だサルトルは18歳で、ボーヴォワールと出逢う5年も前なり。

 大杉栄の今も新鮮な文体から、そんなに昔のように思わなかったがヘンリー・ミラーやサルトルよりずっと前の事と再認識した。そういえばアメリカでくすぶっていたヘンリー・ミラーをロシア文学(ドストエフスキー)やパリに誘ったのはアナーキスト、エマ・ゴールドマンの演説ではなかったかと思い出した。ここで「アッ」と声を上げた。大杉・野枝の次女(生まれてすぐ大杉・妹の養女になった)、三女の名は「エマ」じゃなかったかと。そう、エマ・ゴールドマンより「エマ」と命名。野枝はエマ女史の「婦人解放の悲劇」も翻訳(大杉が手伝ったか、いや前夫の辻潤が手伝ったか)していた。またエマはNYで「大逆事件」の抗議集会を開いていたとか。エマ・ゴールドマンから大杉栄、伊藤野枝、そしてヘンリー・ミラーへとアナーキズムが流れていたとはちょっと驚き注目した。

 ここで、あたしは若き日々のヘンリー・ミラー耽読を思い出した。「北回帰線」「南回帰線」「サクセス」「プレクサス」「ネクサス」「暗い春」、そしてあのオレンジ色のヘンリー・ミラー全集。真っ黒装丁のジャン・ジュネ全集。そんな危ない本ばかりを読んでいたから、あたしは企業、組合、団体、上司、同僚、ボーナス知らずのフリー人生を歩き出したとも言えなくもなく・・・。大杉栄から、学生時分に耽読のヘンリー・ミラーに辿り着くとは思ってもいなかった。


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