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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その1) [読書・言葉備忘録]

ohsugihikage.jpg 瀬戸内寂聴は、甘粕憲兵大尉の供述・公判に疑問を感じて「美は乱調にあり」を、神近市子の大杉栄刺傷「日陰の茶屋事件」で筆を止めた。そして16年を経て、昭和56年に再度挑戦で「諧調は偽りなり」に取り組んだ。

 冒頭は自作「京まんだら」の大阪舞台公演の記者会見場から。物語の舞台となった祇園・お茶屋「みの家」で行われ、モデルになった女将も登場。彼女が女中をしていた17歳の時、甘粕が満州から帰国した際の酒席のお気に入りで、恋文まがいの手紙をもらったと告白。女将役の小暮実千代も、満州最後の「満映」関係夫人のパーティで、宝石箱より取り出した青酸カリの袋を一人ずつ彼からもらったことを、また「あの方が自決なさったのは、その次の日でした」と述懐させている。

 ここから改めて16年前に書いた「美は乱調にあり」を要約し、「日陰の茶屋事件」当日から物語を再開する。同事件の人々の驚きとうろたえから、神近市子の八王子女監収監、その後の大杉・野枝の極貧生活を一気に描いて行く。★読むばかりではなく、自分でも調べてみようと事件当時の「朝日新聞」(縮刷版)をひもといた。大正5年11月10日(事件翌日)の紙面に事件詳細が報じられていた。瀬戸内とはまた別の記述で、事件が立体的に浮かび上がってきた。(クリック~拡大で読めましょうか。写真下は11日の報)

 大正8年、神近市子が2年の刑を終え、出迎えた三人のなかに、中村屋から盲目のエロシェンコ氏が来ていたのには驚いた。中村彝(つね)「エロシェンコ氏の像」でお馴染みだが、神近市子や秋田雨雀らも中村屋(相馬夫妻の)サロンの常連で、彼は神近市子に好意を寄せていたとか。★目白の中村彝アトリエは、新宿区で保存が決定。目下は工事壁で囲まれている(続く)。


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