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『江戸名所図会』のツツジ [大久保・戸山ヶ原伝説]

okubohanaenomi_1.jpg くずし字の勉強がてら『江戸名所図会』シリーズを続けてきたが、ここはマイカテゴリー「大久保・戸山ヶ原伝説」の範疇・・・。同書(江戸後期)に「大久保のツツジ」の見開きの絵あり。本文はなく、絵に添えられた文を読む。

 大久保の映山紅(きりしま)ハ、弥生の末を盛(さかり)とす。長丈餘のもの数(あまた)株ありて、其紅艶(こうえん)を愛するの輩(ともがら)こゝに群遊(くんいふ)す。花形(くわきやう)微少(ちいさし)といへとも叢(むらか)り開(ひらき)で枝茎(しけい)を蔽(かく)す。さらに漫庭紅(まんていくれない)を灌(そゝく)か如く、夕陽に映(えい)して錦繍(きんしよう)の林をなす。此辺の壮観なるべし

 この頁も楷書とくずし字の混合文ゆえ、自分流にすべてをくずし字に直して書いてみた。くずし字、書道の初心者(自己流)には、何度書いてもうまく書けぬ。見かねたかかぁが「書道教室に通いなさいよ」と云う。 「映山紅(えんさんこう)=ツツジ、躑躅」で、ここでは「きりしま」のルビ。キリシマツツジのことだろう。泉鏡花の句に「紫の映山紅(つつじ)となりぬ夕月夜」がある。

ohkubotutujibun_1.jpg 鉄砲百人組がここに住み(百人町)、細長い宅地で内職のツツジ栽培を始めた。明治維新で廃れたが、明治16年頃からツツジ園が復活し、明治20年代後半に中央線の前身・甲武鉄道開通。「大久保」駅まで「ツツジ列車」が運行されるほど賑わったとか。

 新宿区の花がツツジに決まったのが昭和47年。それもあろう、歩道や公園はもとよりマンション・ベランダなどにもツツジが植え込まれた。かくして大久保の弥生五月は、鮮やかな映山紅に染まる。漫街紅に灌が如し。

 ・・・とは云え大久保は今や情けないことにギャルやオバさん群遊すコリアンタウンになってしまった。従って韓国、中国系の方々も多くが在住す。商店街アナウンスやすれ違う人々の言葉も、日本語はもはや数ヶ国語のひとつに過ぎぬ。あたしの住むマンションのゴミ出しルールもハングル、中国語、英語、そして日本語。加えてあちらの方々の話し声の甲高く大きなこと。怒鳴り合いの喧嘩でもしているかと振り向けば、携帯のおしゃべりだったりする。信号赤もわがもの顔多し。まぁ、それら人々は一部なのだろうが、目立つこと。他の街に行って、耳に入るのが日本語だけだと心(しん)からホッとする。

 これは新大久保ではなく、昨日の新宿でのこと。赤信号を五、六人の東南アジア系オジさんらが渡っていたが、ヤンチャそうな日本の若者たちは誰もが車来ぬも青信号になるまでジッと待ってい、これはちょっと素敵な光景だった。


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