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戸山荘と消えた町名「荒井山」 [江戸名所図会]

toyamasuo_1.jpg 『江戸名所図会』は、自宅眼下(東)に広がる地「和田戸山」も読んでみる。

 尾陽君(ひやうくん)御館の地なり。是を戸山御邸(おんやしき)と云。土人相伝ふ、此地ハ往昔(そのかみ、かみ=始め)和田戸何某(なにかし)とかやいひし武士(もののふ)の住し所にして、右大将頼朝卿、隅田川より此地に至り和田戸の弟(てい=邸?)に入(いり)給ひ、軍勢の労を休められしことありしといへり。<今其地に和田戸明神といへる宮社ありと云ふ>。高田馬場の南、尾州御山屋鋪へ行方(ゆくかた)の畑の中(うち)に一條の道あり、里老(りらう)伝へて上古の鎌倉海道なりといへり。

 尾張藩下屋敷は池泉回遊式の広大な大名庭園。都内最高44㍍余の築山・箱根山、36軒の店並ぶ「虚構の小田原宿」など興味尽きぬ幻の庭園ゆえ、かつて関連書を読み記す遊びをしたことがあり、ここでは省略。

 同書は続いて「荒藺山(あらいやま)」へ。・・・同所戸山と大窪諏訪の森との間をいふ。此あたりハ雲雀(ヒバリ)の名所なり。 まぁ、早大辺りがホトトギスの名所で、今度はヒバリの名所だったとは。それにしても「荒藺山」とは?

 『江戸名所図会』で「荒藺山」の他記述を探す。如意山亮朝院の「高田七面堂」の説明にあり。・・・本尊の七面大明神像は、甲州身延山より亮朝院日揮師が授与され、慶安元年に「荒藺山」に於いて社寺を賜り七面堂を造営む。しかし寛文十一年に「荒藺山」の地は尾陽公の御山荘となりし故、今の地に遷さるゝ。

 神田川「面影橋」から早稲田通りへ抜ける「鎌倉海道」途中に「赤門」「黒門」を構える「如意山亮朝院」がある。戦災を免れた七面堂と本堂は、今も『江戸名所図会』に描かれたと同じ感じで残っている。

 話を戻す。「荒藺山はどこ?」 小寺武久著『尾張藩江戸下屋敷の謎』に大正12年の地図が載ってい、現・女子学習院の北側地に「荒井山」とある。かかぁが云う。「アバコ裏のパン屋前が確か荒井山公園じゃなくって」。

jyosigakusyuin_1.jpg おぉ、今も「荒藺山が残っていたか」。図書館で『新宿区町名誌』の立ち読み。「現・西早稲田2丁目は以前は高田町で、江戸時代は“字・荒井山”」。さらに別書に「江戸後期から明治22年までは字・荒井山」。さらに別書に「亮朝院は戸山高校辺りにあったが、尾州侯下屋敷になるのでここに移った」。

 やはり穴八幡から諏訪神社に至る地が「荒藺山」だったらしい。老いた身に猛暑は辛い。冷房の効いた部屋で熱い珈琲飲みつつ、『江戸名所図会』のわずか二行から「消えた地名」とかつての「ヒバリの名所」へ、しばしの歴史遊びでした。

 写真上は「戸山荘」絵図。同下屋敷内北側地(写真では左側地)が現「女子学習院」「西早稲田中学」「戸山高校」などになっている。同下屋敷西の外際(写真では下側外際)辺りにあたしんチがあって、ベランダから東に下屋敷跡が広がっている。写真下は現・女子学習院沿いの道。この先で明治通りと交差し、さらに先の右に諏訪神社あり。


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