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重長版「両国橋納涼」(私流メモ3) [くずし字入門]

ryougokubun4_1.jpg タイトル「納涼」は(どうれう)。旧かなは(なふりやう)。古語で(どうれう)か。「友どち」の「どち」は仲間、連れ。男どち、思うどち。似た言葉で「友垣」「輩(ともがら)」。「名にしあふ」は「名にし負ふ」。~という言葉を持っているのだからの意。「茶店(さてん)」は江戸時代からの言葉。「映(えい)じて」の「て」は帝のくずし字。「洛陽の四条河原の涼もこれには過じと覚べし」の「じ」は打消し推量。~これほどではないと覚えるべきだろう。いやはや、大江戸は京都に対抗意識丸出し。

 かつてキャンペーン仕事で、鴨川沿いの夏は納涼床を出す幕末の頃の料亭建物で食事をしたことがある。そんな歴史ある店が並んで、外は鴨川の河原。比して隅田川は垂直堤防内に僅かな遊歩道。残念ながら京都には敵わない。

 以下、釈文。九夏三伏の暑さ凌がたき日。夕暮より友どち誘引して。名にしあふ隅田川の下流浅草川に渡したる。両国橋のもとに至れば。東西の岸。茶店のともし火。水に映じて。白昼のごとく。打わたす橋の上にわ。老若男女うち交りて。袖をつらねて行かふ風情。洛陽の四条河原の涼もこれには過じと覚べし。橋の下には屋形船の歌舞遊宴をなし。踊物真似役者声音。浄瑠璃世界とハ是なるべし。或は花火を上ケ。流星の空に飛はさながら。蛍火のごとく涼しく。やんややんやの誉声は。河波に響きておびたゝし。此橋は往時万治年中初めて。懸させたまひ。武蔵下総の境なるよし。俗にしたがひ給ひて。両国橋と号たまふとかや

ryougokunisi1_1.jpg 夏前に神田川沿いに下って両国橋まで自転車で走ったが、その時は橋の改修中だった。今は補強+きれいに仕上がっただろうか。なお江戸時代は今よりちょっと上流に架かっていたらしい。そう、両国橋を渡った回向院に「山東京伝」の墓あり。京伝の「黄表紙」はひらがな中心だから、いろはのくずし字を覚えただけで読める。

 筆写は漢字の書き順、くずし方を辞書で調べてから一気書き。これ、書き直しなしの一発仕上げ。くずし字を覚える+書く楽しさ+知らぬ日本語を知る歓び。かかぁが言った。「おまいさんの隠居道楽は一銭もかからないねぇ」。金がねぇから、こんなことで遊ぶ他ねぇんだ。


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西村重長『絵本江戸土産』の序(2) [くずし字入門]

sigenagajyo2_1_1.jpg まずは釈文。…秋は愛宕の月に嘯(うそむ)き冬は遊里の温酒(あたゝめざけ)にうかれつゝ喜見城(きけんじやう)の楽しミをなし四季折々の栄花(えいぐハ)つくる事なし是を絵にうつし桜にきざミ他国人に見せむ(筆写は「尓」を書き忘れた)にはよき家づとならんと題して絵本江戸土産としかいふ めでたき初春 画工 重長

 

 「愛宕」の「宕」は「愛宕」以外に滅多に使われぬ。ネットに<「愛宕」の「宕」の読みがわからぬ>があって、思わず、おぉ同輩よ。 「宕」調べもなかなか面白い。次は「嘯き」。うそぶ、うそぶき、うそぶく、うそむ、うそむく。「月に向かって詩歌を吟じる」ってことだろう。温酒(あたゝめざけ)は燗酒より風情ある語感なり。喜見城は帝釈天の居城。まぁ、楽園のたとえ。隠語で遊郭だが、遊郭なんか楽園じゃない、苦界です。「家づと=家苞=家へのみやげ」。

 

 ここで西村重長のお勉強。佐藤要人著をはじめ様々調べて、概ねこんな人物らしい。元禄10年頃の生まれ。日本橋は通油町(現・大伝馬町)の地主。確か明治の長谷川時雨も通油町生まれ。重長の号は影花堂、仙花堂。役者絵から花鳥・風景画も描く多彩絵師。神田で本屋も営んだとか。宝暦六年没で、享年六十。『絵本江戸土産』は亡くなる三、四年前の作。『絵本~』がその後、鈴木春信から広重へと約百年余も受け継がれる大企画になったが、そもそもの発案はどうだったのか…。

 

 出版された宝暦3年(1753)とは。大田南畝は未だ4歳だが、江戸はすでに世界一の百万人都市になっていた。「文運東漸」(文化・文学の中心が東に移動)しつつあり、そろそろ「大江戸」なる言葉も生まれようという時期。そんな江戸ブームの始まりに、他国人への土産として『絵本江戸土産』が生まれたのだろう。以後、ますます江戸が栄えて、江戸紹介絵本がロングセラーになったと理解した。

ryougokunouryou2_2_1.jpg なお重長版は絵と文は別仕立て。まずは両国橋の西詰(左頁)、橋(見開き)、東詰(見開き)の納涼風景が5頁に亘って収められていた。江戸庶民が存分に納涼を愉しんで、まぁ賑やかなことよ


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鼕々と読めて聴こえる滝の音 [くずし字入門]

otonasitaki_1.jpg 広重『絵本江戸土産』を見ていたら、涼しげな「音無川の堰世俗大滝と唱」に眼が止まった。絵の説明文を読んだ。…金輪寺の下の堰より落(おつ)るを大滝といふ 是より水上所々に巌(いハほ)ありて 水これが為に〇々たり 然(しか)るに井堰の上ハ水平(たひ)らにて更に声なし 因(よつ)て音無の名を負へりとぞ

 

この〇〇がわからず、悶々とした。ネット検索すると「琴々たり」と記しているサイトがヒットしたが、「琴々」なる言葉はない。ふりがなは、どう読んでも「ことこと」ではなく「たうたう」。では「蕩々」「滔々」かと思ったが、くずし字は当たらぬ。

 

「おまいさん、なんで唸ってんだい」とかかぁが言う。前にも記したがクロスワードと同じで、分らぬ字があれば、わかるまで悶々とする。こんな時は数日放っとけば、後に膝打つ感でわかったりする。

 

で、わかったんです。このくずし字の冠は「鼓」ではないかと。「鼓」をくずし字解読辞典をひけば、該当する。今度は漢字辞典で「鼓」をひくと、「鼕(トウ)」があった。「鼕鼕(トウトウ)」があって、思わず「やったぁ~」。次にネット辞書。

鼕鼕=とうとう、トウトウ、タフタフ。鼓や太鼓の鳴り響くさま。水や波の音の響くさま。鏜鏜、鞳鞳。電子辞書にも「とうとう」で六つの漢字熟語の四番目にあり。これで文の意もようやくにして納得。ここで反省した。解読できぬくずし字は偏(へん)旁(つくり)冠(かんむり)脚(あし)構(かまえ)垂(たれ)繞(にょう)から推測すること。冠が「鼓」で、脚は「冬』で「鼕」なり


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唐辛子白き小花と蜂の秘儀 [花と昆虫]

naiyojyufun_1.jpg 昨日のこと。かかぁの叫び声に「どうした」と。内藤唐辛子に青虫がいたと言う。見ると虫は見つからぬが、せっかく3、4㎝ほどに育った緑の実の幾つもが喰われていた。喰われて枯れた実もあり、実の先端だけ喰われているのがずいぶんあった。

 

 放ってはおけぬ。執拗に青虫探し。いた、いた。8㎝ほどの奴。いずれは綺麗な蝶になろうが、内藤唐辛子は昨年の実を種にして育てた我が家育ち。守ってやらねば。

 

 パソコン画像を見たら、730日に撮った蜂の吸密(受粉)シーンあり。内藤唐辛子の可憐な白い花、メシベに黒灰色のオシベが美しい。見ていな所で蜂以外の昆虫も受粉に働いたか。

 

 猛暑続き。プランターの唐辛子やバジルをはじめ水をやらぬと途端に萎んでしまう。そして虫の除去。ベランダ菜園でも日々の手入れは欠かせぬ。さて、今年もどれほどの紅い内藤唐辛子が収穫できましょうや。


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永井荷風と『絵本江戸土産』 [くずし字入門]

ehon9henjyo2_1.jpgehon9henjyo1_1.jpg 永井荷風の『日乗』や『日和下駄』を読むと『絵本江戸土産』や『江戸名所図会』を愛読していたことがわかる。両著が手許にあったのだろう。あたしは近所の図書館で復刻版『江戸名所図会』を読むも、『絵本江戸土産』はお目にかかれぬ。ネットに何巻かのセットで120万円で売りに出ていたが買える値ではない。(写真は東洋文庫ライブラリーより)「黄表紙」の有名作は古典文学全集などに解説・釈文付きがあるも、なぜに『絵本江戸土産』の復刻版がないか。出版社、国文学者の怠慢なり。

 

 荷風さんは明治12年生まれ。父が漢詩人でもあり、父の学んだ儒者・鷲津毅堂の二女が母ゆえに、彼も漢詩をしたためた。比して下町的無教養庶民の子で戦後教育のあたしは、江戸時代の書を読む学力なし。古稀を迎える歳になって「くずし字」初級講座(5回)を受けて、ひらがな中心の「黄表紙」なら、なんとか読めるようになったが…。

 

 猛暑続き。荷風さんのように夕涼み散歩(自転車)に出たいが、冷房装置の室内から出られぬ。テレビは観る気になれぬ低俗さ。かくして、読むもままならぬ『絵本江戸土産』の九編「叙」の解読に取り組んだ。解読できぬ文字が出てくるから、クロスワードを解くような面白さ。まぁ、五十点の出来。どなたか、正しい釈文を下さい。

 

 総(さう)じて遊山観水(ゆさんくわんすい)にて雅となく俗となく。愛(めで)歓(よろこ)ばざる者は稀なり。別(わけ)て江府(こうふ)ハ大都会。名だたる勝地光景(しやうちくわうけい)なれど。他邦(たほう)乃人はなかなかに實地(じつち)を踏(ふミ)も見んこと疑(うた)かり。たまたまニ絵を見つるもの。同好の友に語らんとすれど。詞(ことば)に述(のべ)も尽(つく)されず。書(ふみ)も綴(つづ)りとる事得がたし。其(そ)を目前(まのあたり)見する者(もの)は。画(ゑ)にまさる物(もの)在(ある)まじき。嚮(さき)に一立斎(いちりふさい)主人に需(もとめ)て。此(この)江戸土産十巻(とまき)を描(えがか)し。今其(その)九輯(くしふ)を叢兌(そうだ)しす。十輯(としふ)も稍(やや)刻(こく)成(なり)なん。真(まこと)に画者(ぐわしや)が一世(いつせ)の妙筆(めうひつ)。其地(そのち)を踏(ふま)ずして其地に遊ぶの心地は為(なす)めり。

 明治42年生まれの父は、大正6年生まれの母はスラスラと読めただろうか。今月末日より開始の「古文書中級」2時間5回講義を受講する。


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夕蝉や啼き甲斐ほそし苗木かな [花と昆虫]

aburazemi2_1_1.jpg 朝、アブラゼミに比し、次第にミンミンゼミの啼き声に勢いが出てきたと思った。そんな夕方、七階ベランダの紅葉の苗木にアブラゼミが止まって啼いた。

 ベランダには今春から四つの紅葉の植木鉢がある。十センチほどの苗木から育て、三本は親爺がやっていたように盆栽風に育てている。

 残りの一本は、かかぁの紅葉。そんなに刈り込んではなくて、幹がエンピツ程の太さになった。そこに蝉が止まって啼いた。「まぁ、こんな小さな木に・・・」。苗から育て、蝉に木と認められたと、ちょっとうれしそうに言った。アブラゼミに続いて、今度ベランダに迷い込んでくるのはミンミンゼミ、そしてツクツクボウシだろうか。


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関口芭蕉庵(明治) [幕末維新・三舟他]

basyouan1_1.jpg『絵本江戸土産』の次に山本松谷画の「目白台下駒塚橋の景」を見る。東陽堂刊『風俗画報』掲載の明治30年代の作だろう。神田川対岸の目白台左側が「蕉雨園」で、その奥が「椿山荘」。神田川の巾を広くし、7㍍も深く掘り下げて垂直護岸にすれば、ほぼ現在の景色になる。

 

 昭和初期の写真を見ると、駒塚橋下流の大洗堰はすでに撤去され、護岸工事が始まっていた。その後も徐々に改修工事が行われ、昭和33年の狩野川台風の洪水から本格整備開始とか。次第に現在の姿になったらしい。

 

 さてこの地は俳句好き、広重「江戸百」好き、神田川好きサイトでさまざまに紹介されているが、あたしは江戸から明治になっての大変化を、景色ではなく、この地の持ち主らに注目した。一体どうやって私腹を肥やしたのか、山県有朋が「椿山荘」(一万八千坪)を、田中光顕が「蕉雨園」(六千坪)のオーナーになっている。共に長州、土佐の尊王一途。

 

貧しき山村の働き手が徴兵され、仕送りもできぬ僅かな給金(数円)で西南戦争を生き抜いた近衛兵ら300余名が我慢できずに立ち上がったのが明治11年。明治政府は躊躇なく53名を銃殺刑し、何事もなかったように天皇行幸を続けた。これが「竹橋事件」。(詳しくは澤地久枝『火はわが胸中にあり』)。比して陸軍の大御所・山県有朋の給与は1700円だったとか。

 

basyou_1.jpg半藤一利『山県有朋』に給与詳細が書かれている。…目白台の一万八千坪の土地を二千円で購い、みずから指揮して造園し、椿山荘と名づける宏大な邸宅を建てていた。(中略)。参議として五百円、陸軍卿の五百円、陸軍中尉の四百円、議定官の三百円、計一千七百円が山県の月給なのである。

 

長州・萩の足軽以下だった山県有朋は、奇兵隊から明治維新で成り上がった。その金銭欲・権力欲は異常だったとか。天皇を「現人神」にすべく、かつ自身の権力拡大に邁進した。「軍人勅諭」「教育勅諭」「大日本帝国憲法」「治安維持法」等々。その実現に障害と思えば躊躇なく近衛兵も銃殺刑、自由民権派追放、大逆事件の裏にも彼がいたという。いや、彼がそのために築いたシステムによって日清・日露戦争、やがては軍部暴走へ至っている。その裏で彼は狷介爺さながら独りこつこつと「椿山荘」を、京都の別荘・無隣庵、大磯・小淘庵、小田原の別荘・古稀庵などの造園趣味を愉しんでいた。

 まぁ、あたしが明治生まれなら、この絵の神田川ででぇこん(大根)でも洗っているオバさんの亭主ってところだろう。その大根洗うかかぁの背が蕉雨園。これまた土佐勤王党出身の幕末暗殺史に欠かせぬ田中光顕の持ち物になった。彼もまた賄賂疑惑で政界引退とか。

 そんな彼らがいたからこそ自然が守られたという意見もあるが、彼らが生んだ「現人神」、皇国陸軍が後に大暴走した。昨日15日は終戦記念日。写真下は「芭蕉庵」のバショウ。


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関口芭蕉庵(江戸) [くずし字入門]

basyoan5_1.jpg 絵は『絵本江戸土産』(広重)の「関口上水端・芭蕉庵・椿山」。くずし字初心者ゆえ、よろこんで解読してみた。

 

 関口といふハこの書前の編に図(づ)したる。井の頭の池より東都へひく上水の別れ口にて、一ハ上水に入り、餘水ハ江戸川へ落る。本叓(ほんじ)堰口に作るべし。させる風景の地ならずといへども、水に望を曠野に望みて只管(ひたすら)閑雅の地なりにより、俳諧者流この菴を作り、会合して風流に遊ぶ。

 

 「餘(予)水」「本叓(事)」が旧字のくずし字、「遊」はしんにゅう省略のくずし字で手こずった。ここから少し辞書の話。「俳諧者流」の「者流(しゃりゅう)」は手元の数千円の国語辞典、漢和辞典になしも、ネット辞書で「名詞に付いて、接尾語的に用い、その種類の者であること表す。その仲間、その連中の意」。ゆえに「俳諧者流」は、俳諧の仲間、連中。試みに本棚奥から分厚い「広辞苑」を出せば…[接尾]たぐい、仲間に属する者たち」。同じくシャープの電子辞書は「大辞林」搭載でほぼ同じような説明が載っていた。ネット辞書は概ね「大辞泉」。「広辞苑」「大辞林」とほぼ同レベル辞書で26万語。

 

 辞書をひいたのは他に二つ。「させる風景の」の「させる=然(さ)せる」なり。後に打ち消しの語を伴って「とりたてていうほどの。さほどの。さしたる」。「させる風景の地ならずといへども=それ程の景色じゃないけれども」だろう。もう一つが「本叓」の「叓=事の古字」。それがさらに崩れ「古+又」。そこからのくずし字らしい。

 

 ここまで読んだが、初心者ゆえ間違いがあるやもしれぬ。この歳になっても日本語なのにわからないことばっかり。死ぬまでに満足に読めるようになれましょうか。

 

jyousuiisibasira_1.jpg さて絵を見ると神田川、駒塚橋、目白台からの斜面に芭蕉庵が描かれている。また広重は安政四年の「名所江戸百景」に「せき口上水端はせを庵椿やま」も描いている。「江戸切絵図」では芭蕉庵斜面向こうにちゃんと?胸突坂、水神社が記されていて、今も江戸後期の姿が残されているのがうれしい。絵図には橋の下流が池(ダム)状になり、関口の関より上水へ、江戸川へと別れているのがよくわかる。これは「江戸名所図会」に「目白下大洗堰」で描かれている。写真下は昭和8年に大洗堰廃止で撤去された上水取入口の石柱を再現保存した現史跡。次に明治30年頃に山本松谷が遺した「目白台下駒塚橋の景」を見てみる。


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関口芭蕉庵(現在) [読書・言葉備忘録]

sekibasyo2_1.jpg 新宿中央図書館が下落合から徒歩56分圏内の旧戸山中(早大理工学部前)に移転してきた。建物の老朽化で、ここはあくまでも仮施設。いずれは新築らしいが予定は未定。他地区には申しわけないが、徒歩10分圏内の東に「戸山図書館」、西に「大久保図書館」、西南に「中央図書館」と相成った。

 

 ここまで図書館環境が充実すると、隠居暮しのライフスタイルも変わってくる。今まではネットで蔵書検索し、読みたい本を借りるべく区内図書館を自転車で一回りだったが、今度は閲覧コーナーで読み遊びする機会も増えた。

 

先日、郷土資料コーナーで横浜文孝著『芭蕉と江戸の町』を読んだ。芭蕉が関口芭蕉庵や深川芭蕉庵へ移ったのは、日本橋の火事のためじゃないか・・と江戸諸資料から検証した芭蕉考察の新展開なり。

 

関口芭蕉庵については、延宝四年(1676)十二月二十七日の日本橋界隈の大火が関係しているとしている。関口芭蕉庵は通説「芭蕉が延宝五年から同八年にかけて神田上水の改修工事に携わった際、龍隠庵に居住したという伝承により、馬光らが五月雨塚を築いたのに始まる」とされているが、実は日本橋の火災で、ここ龍隠庵を避難場所にしつつ、水道工事の職に従事したのではなかろうか、また俳諧師住所録にある「小田原町 小沢太郎兵衛店 松尾桃青」は小田原町が復興して戻ってからだろうと推測。

 

sekibasyo1_1.jpg深川芭蕉庵もしかり、延宝八年に小田原町からの突然移転も、これまた日本橋火災によってだろうと検証。今迄は(1)談林俳諧の否定(2)宗師生活の否定(3)経済的破綻(4)純粋に文芸的なもの(5)芭蕉の妾・寿貞と甥の桃印と密通(下世話好みの嵐山光三郎はこの説がお気に入り)が挙げられていたが、これも延宝八年十月二十一日の日本橋大火で杉風提供の生簀(いけす)番小屋に緊急避難し、住み暮すうちに気に入ったのだろう、と記していた。

 

まぁ、そんなワケで再び「絵本江戸土産」や「江戸名図会」に戻ることに相成候。まずは現在の関口芭蕉庵の写真から。神田川の駒塚橋(昔の駒留橋)を渡ると正面が目白台へ登る胸突坂で、右が関口芭蕉庵、左が大銀杏の関口水門の守護神「水稲荷」。次回は広重絵『絵本江戸土産』の「関口上水端・芭蕉庵・椿山」の絵を見ることにする。


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巣立ちしたツバメにカメラ罵声浴び [私の探鳥記]

sidati1_1.jpg 喫茶店で読書の帰り、近所の「明治通り」で巣立ちの子ツバメらを見た。最初は道路上の電線の一羽に「あれっ、スズメじゃなし」と注視。近くの電線にも三羽・四羽。眼を凝らせばツバメの子だった。上空で親ツバメが飛んでい、時に子ツバメらは黄色い嘴を開いて餌を求めていた。

 今までにツバメの巣立ちを幾度か見てきた。明治神宮の池前のロープに並んだ子ツバメらに、親鳥がホバリングしつつ喉奥まで頭を突っ込んで給餌するシーンに見惚れた。近所のマンション駐車場で繁殖のツバメを巣立ちまで観察し、空になった巣を淋しく見ていた数日後のこと、ビル路地の小さな木に親子ツバメが羽を休めているのを見た。熟帰りの子を迎え待つ車の真上で、見惚れていたら運転席から婦人が出てきて「あのぅ、私の車に何か・・・」と出てきた。

 さて、明治通りの子ツバメら。通行人は多いが誰も気付かぬ、関心もなし。渋滞気味の車の疾走が続く。自宅に戻って望遠レンズを持ってきた。八月ゆえ二番子(今シーズン二度目の子)だろう。子ツバメらは飛び立つも、餌が捕れぬか、疲れるかでまた電線に戻ってしまう。親ツバメに黄色の口を開くも無視され、また飛んでみる。そんな可愛い姿をカメラに収めていたら・・・。

 「なんでビルを盗み撮っているのよ」。いきなりオバさんに怒鳴られた。カメラを取り上げ、交番にでも連れて行こうかの剣幕に、「ツバメの巣立ちだよ」。オバさん、狐につままれたように固まってしまった。彼女には想像もしなかっただろう言葉が返ってきて、頭が混乱しているようす・・・。

 喫茶店で『絵本江戸土産』や『江戸名所図会』関連書に読み耽り、ツバメの巣立ちに想いを馳せたあたしは、物騒で世知辛い世に生きる人々とは、ちょっとかけ離れ過ぎちゃったような気がした。


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岩倉邸流転、西宮神社「六英堂」へ(ト) [幕末維新・三舟他]

iwakuranon2_1.jpg岩倉邸は高田馬場・玄国寺の他に、明治天皇が岩倉具視の最期を見舞ったという和室が、あの110日に福男を賭けて男らが脱兎のごとく走り競うことで有名な「えびす宮総本山・西宮神社」(兵庫県西宮市)境内にも「六英堂」の名で保存されている。それまた数奇な運命を辿ったようで、西宮神社のサイトでこう紹介されている。

 

 

 具視公薨去後、私邸は宮内省が宮城前広場整備のため買い上げ取り壊されるが、天皇行幸跡と云うことで、有志によりこの建物だけは新宿の国鉄敷地内に保存される。(ここまでは新宿郷土史誌と似ている。別サイトでは新宿からさらに渋谷に移築されたとの記述もあり。そして多田好問の没後)、大正11年に新たな保存先として、川崎造船所の創業者・川崎家の神戸市布引の屋敷に引き取られる。ここで「六英堂」と名付けられた。初代・川崎正蔵は薩摩出身で大久保公の薫風を受けていて、大久保公の縁で引き受けられたようだ。戦後、川崎家の手を離れて布引の敷地に残されていたのを、昭和52年に西宮神社に移築保存された。

 

写真を拝見すると、あの明治天皇が岩倉公を見舞う絵と同じ和室が保存されているらしい。まぁ、岩倉邸一部がそんな数奇な運命を辿って兵庫県「西宮神社」で保存。新宿「玄国寺」の庫裏もまた数奇なドラマを秘めているやも知れぬ。

 

ちなみに岩倉家の菩提寺は京都市北区西賀茂「霊源寺」らしいが、具視公のお墓は品川「海晏寺」にある。何故なのだろう。岩倉公は我が国最初の国葬で、斎場は武蔵国荏原浅間台。隣(後ろ)が「海晏寺」なんですね。式次第、墓誌ノ事…などが「岩倉公實記」に詳細に記されていた。

 

掃苔のサイトを拝見すると「海晏寺」のその墓地には入れず、遠くから覗けば、侵入者を威嚇するかのように、台座に錆びた機関銃が設置されていると写真紹介されていた。“孝明天皇暗殺”の噂に対処した策なのかしら…。

 

『岩倉具視関係文書・八』の巻末「解題」に森谷秀亮・文あり。こう書かれていた。…政情が緊迫を告げ、権力の座にあるものの病死に際しては、流言蜚語が乱れ飛んだことが多い。実証主義的立場にある私としては、孝明天皇死因に関する風説を肯定することにもちろん躊躇し、岩倉一派を毒殺下手人とみる論の如きは、岩倉の行動に疑惑を抱くものが作為した誣言であると極限するに憚らない。

 

この辺の関係資料も辞書を引きつつ読んだが、歴史学者でも病理学者でもないただの隠居爺ゆえに「岩倉邸」の探索だけに止め、それ以上は立ち入らぬことにする。まぁ、ここで一応エンド。

 岩倉邸の参考資料:「岩倉公實記」、「岩倉具視関係文書」、佐々木克著「岩倉具視」、永井路子「岩倉具視~言葉の皮を剥きながら」、小説で堀和久「維新-岩倉具視外伝」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」「新宿の今昔」、笠原英彦「明治天皇」、「日本の歴史・明治維新」「新宿文化絵図」「江戸切絵図集」他。


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岩倉邸、玄国寺の和洋折衷の庫裏(ヘ) [幕末維新・三舟他]

genkokusyoin_1.jpg高田馬場「玄国寺」の書院(岩倉具視邸)の立派なことよ。鬼瓦は源氏の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」。岩倉具視は源氏・村上天皇の末裔ゆえの家紋。書院を表から拝見するとお寺の庫裏仕様だが、現本堂が二階になってい、階段上から庫裏裏を覗き撮れば、かくもお洒落な和洋折衷、洋館風(写真下)になっていた。

 

新宿区地域文化部刊の『新宿文化絵図』で鬼瓦のことを知ったが、同書はその後がいけない。こんな記述になっている。…その屋敷は、明治政府の最高指導者の地位にあった岩倉具視が晩年を過ごしたところです。庫裏(くり=僧侶居住の場所)の内部は、洋間とそれに続く和室の書院をもつ和洋折衷の珍しいつくりでなっています。成徳記念絵画館(明治神宮外苑)に展示されている明治天皇が岩倉具視の病気を見舞う図は、この書院が舞台になっているとされています。

 

「岩倉が晩年を過ごした」とは、どういう意か。この書き方では岩倉具視が馬場先門の本邸を出て、晩年をこの寺で過ごした…と云う意になる。馬場先門本邸の全容やいかに、また多田好問による角筈移転の詳細も知りたいが、新宿西口の明治資料を漁れど探せず。移築した「松平摂津守」の地は江戸切絵図で確認できたが、その先(明治)に至らぬ。多くが江戸時代から諸学校、淀橋浄水場の記述になってしまう。探索行き止まりに候。玄国寺の庫裏は馬場先門の本邸から移築されたものか、はたまた新宿西口(角筈)移築後、新宿駅拡張の明治30年頃に移築されたのか。この辺もどうもハッキリせぬ。

 

iwakurasyoin1_1.jpgこう考え込むと、思い出すことがある。2年前に石神井公園に鳥撮りに行った際に、三宝寺に足をのばして、同寺に移築された赤坂・勝安房(海舟)邸の屋敷門(長屋門)を拝見した。門をくぐり、しげしげと見上げていると、ご住職らしき方が「おぉ、お主も勝海舟になられましたか」と冗談を云いつつ、移築経緯をお話し下さった。「赤坂から三、四度も彼方此方へ移築されて、もう壊すしかあるまいという段階で、それはもったいないとここへ移築したんです」。

 

ちなみに諏訪神社は、前回に記した通り明治天皇が明治1511月に同神社から戸山ヶ原の近衛隊射的場開場式、及び射的砲術を天覧されて以来、社殿に菊のご紋を戴くようになった。当時の諏訪神社は大盛り上り。元別当・隣の玄国寺も“ウチも頑張らねば”ってことで、特別の縁もないが、壊される運命にあった岩倉邸一部を移築しただけなのか…。


 勝邸の例もあり、隠居爺の戯け推測が当たらないとも云いきれぬ。同寺の由来等の案内表示はあるも、岩倉邸に関しては何も記されていないんです。まぁ、ご近所ゆえに機会があれば玄国寺ご住職に移築の経緯を伺って、改めてご報告でしょうか。

 追記:同寺案内碑に文化財として「岩倉具視邸(現書院)」と明記されていた。

 


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岩倉邸、新宿西口へ(ホ) [幕末維新・三舟他]

suwatennou_1.jpg 喰違で襲われた岩倉具視はその後… 政務復帰と同時に「佐賀の乱」。大久保利通の指揮で鎮圧し、江藤新平らを処刑。中途半端な台湾出兵。明治10年、西南戦争。翌115月に紀尾井坂で大久保が暗殺される。「具視實記」にはこう書かれている。…大久保利通、将(まさに)朝参セントス途清水谷ヲ過ク暴徒島田一郎等六人突然刀ヲ抜キ其馬車ヲ攢刺(サンシ)ス利通重創ヲ被ムリ遂に薨(こう)ス。

 

 明治13年、民権運動活発化。天皇制の揺らぎに岩倉らは憲法設立を急ぐ。『岩倉公實記』は憲法一色。明治14年「開拓使官有物払下げ事件」告発の民権派・福沢諭吉らと騒動を起こしたと大隈を追放。この政変で再び薩長が盛り返す(ここで間違えちゃったんだなぁ)。明治15年「軍人勅諭」。ドイツ憲法調査に伊藤博文が渡欧。明治16年、岩倉は京都復興計画に奮闘するも病状悪化。勅命でドイツ人医師ベルツが診るも食道ガン。天皇が岩倉邸に出向いて見舞うも同年520日に逝く。

 

 この辺は書いたらキリないゆえ、本テーマ「岩倉具視“邸”」に入る。同邸は岩倉死後に宮内省が買い取り壊すことになるが、『岩倉公實記』編纂の多田好問(宮内省御用掛)が頼み込んで譲り受け、新宿・角筈に移転したそうな。芳賀善次郎著『新宿の今昔』にこう書かれている。

 

 genkokuji1_1.jpg今の(新宿)西口広場は、松平摂津守などの下屋敷だったが、維新後に新宿駅寄りが岩倉公の所有となり「華竜園」という閑雅な庭園となった。庭には、西郷隆盛の征韓論で激論した時の建物を移して「隣雲軒」と名づけていた。ここには大正天皇がまだ東宮のころ、しばしばご遊覧なされたということである。明治三十年ごろ、同地は新宿駅構内拡張のため「華竜園」はとり払われた。

 

多田好問は、馬場先門内の屋敷の幾棟を新宿に移したのや。隣雲軒のみ、それとも他の建物も移したのだろうか。この辺の詳細、裏付けとれず。そして高田馬場の「玄国寺」の岩倉具視邸の登場になる。

 写真は、諏訪神社の明治天皇の明治1511月「近衛兵射的砲術天覧」碑。同年1月「軍人勅語」で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」で名実ともに「天皇の軍隊」へ。諏訪神社も菊の御紋となる。翌年7月に岩倉具視、59歳で没。そして諏訪神社の隣、元・別当「玄国寺」には岩倉具視邸が移築されている。その経緯の詳細記述探せず。どなたか御存知や…。


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喰違遭難の和歌(ニ) [幕末維新・三舟他]

tomowaka2_1.jpg 前記『岩倉公實記』に喰違遭難の歌四首が掲載されている。「尓=に、王=わ、能=の、可=か」混じりゆえ、ここは全文を自己流にくずし字、注釈を添えて書いてみた。

 

 優雅な枕詞に霜、葛カズラを詠い込んで心の余裕、落ち着きをみせてはいるが…。兇徒九名は征韓論拒否に苛立つ不平士族で、三日後に逮捕、全員斬首。

 

 和歌を自分流に書き起こしてみれば、現場が見たくなる。冷房の部屋に籠る運動不足解消に自転車を駆った。新宿通りは四谷駅手前右折。右は迎賓館(当時は皇居火災で仮御所。岩倉はここを出て…)、坂を下り始めた所で、左のニューオータニへの道に入る。ここは江戸城外濠で最も高い地形で、両側は深い濠。今は右が弁慶濠、左が上智大グラウンド。喰違見附を入れば紀伊、井伊、尾張屋敷で「紀尾井坂」に出る。

 

 喰違見附を入って、正面のニューオータニを見上げれば360度回転の展望ラウンジあり。40余年も前のこと、あたしはPR会社勤務で、ここで月1「例の朝飯会」を開催。マスコミ人と企業トップに、時の人を招いてスピーチ聞きつつの出社前朝飯会。その100年前に、岩倉具視がここで襲われた。明治はそんなに遠い昔でもない。

 

kuitigai2_1.jpg さらに時代を遡って江戸末期の『絵本江戸土産』第八編に「喰違外」の絵(前回アップ)あり。描くは二代目広重か。こう書かれていた。…赤坂尓(に)あり、その容(さま)およそ〇〇〇〇尓て、封疆(どて)の古松幾千株を知れ須。千仭(せんじん)の御湟(おほり)坐下(みおろ)せバ、眩暈(めくるめき)がたく、他(た)にまた比すへき所なきの地なり。<〇〇は勉強不足で解読できず。どなたかご教授よろしく>

 

 もう一点の絵は「喰違外・赤坂遠景」。この崖から山の手になると、平坦な下町(赤坂方面)を描いている。さて、具視公は漆黒の闇ん中で襲われ、上智大側の崖へ落ちて命拾いしたらしい。この喰違見附は江戸初期に出来た外郭門で、石造りの升形門とは違って、絵図の通り土塁を筋違いにして直進を阻んだ造り。 

 

 現在はやや真っ直ぐだが、かつてL字型喰違構造だったことの名残りが残されている(写真下)。ちなみに岩倉具視が襲われた4年後、今度は紀尾井坂で大久保利通が暗殺された。江戸から明治へのギヤチェンジに犠牲は避けられなかったろうが、明治から昭和へ道を大きく誤る。時代の“喰違”なり。

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岩倉具視、喰違で襲われる(ハ) [幕末維新・三舟他]

edokuitigai5.jpg 多田好問編『岩倉公實記』より「具視喰違遭難ノ事」一部を読む。間違い多かろうが自己流に句読点、ルビ、注釈をつける。

 

 明治七年甲戌一月十四日夜、具視赤坂假皇居(前年に皇居は物置から出火で焼失。赤坂御所が仮皇居)ヨリ退出ス途、喰違ヲ過(す)ク、兇徒アリ七八人路傍(ろぼう)ニ彷徨シ、具視カ馬車ノ至ルヲ見テ、一二人前(すす)ンテ將(ま)サニ執(と)ラントス。馬丁之ヲ誰何(すいか)ス。兇徒急ニ白刃ヲ露(あら)ハシ、馬車ノ右轅(うえん、轅=ながえ=車の舵棒)ヲ攀(よ)チテ斫(き)ルモノ有リ。又馬車ノ背ヨリ母衣(ほろ)ヲ斫(き)ルモノ有リ。具視已(スデ)ニ馭者ト偕(とも)二裾(きょ=うずくまる)シテ馭者臺二在リ。乃(の)チ左轅ヨリ下リ、之ヲ躱避(たひ)ス。眉間二微疵(びし)ヲ被ムリ、且左腰ヲ傷ツク。腰ニ短刀ヲ横フルヲ以テ、其刀室(とうしつ=鞘)ノ支フル所ト為リ創口深カラス。

 

 馬車の右、後の幌から襲う兇徒に、具視と馭者は左から逃げた。額に軽い傷。左腰を斬られるも短刀の鞘で深手にならず。街灯もなく人通りもない喰違見附。漆黒の闇だったろう。

 

 兇徒ハ具視カ馬車ノ内ニ座セサルヲ見テ四旁(しほう)ニ走リ、之ヲ索(もと)ム。一ニ人具視ノ後ヲ追テ之ヲ撃ツ中(あ)タラス。<うむ、ピストルでも撃たれたか?> 

 具視湟中(こうちゅう、湟=濠)ニ轉墜(てんつい、轉=ころがる)ス。身ヲ荊棘(けいきょく、いばら・とげ)榛莾(しんもう、繁っている所)ノ中ニ匿(か)クス。一人アリ、左手ニ桃燈(とうか)ヲ提ケ、右手ニ白刃ヲ揮(ふる)ヒ、之ヲ索(もと)ム。

 

kuitigaiakasaka_1.jpg 霜枯れの茨が繁る崖に転がって身を隠せば、一人が左手に提灯、右手に白刃で探しに来る。手に汗握るシーン。さて、岩倉公はどうしたか。

 

具視縞襟ヲ重ヌルヲ以テ、兇徒ノ之ヲ認メンコトヲ懼(オソ)レ乃チ、黒色羽織ノ襟ヲ翻シテ之ヲ覆ヒ、帽薝?ヲ垂レテ其面ヲ蔵(か)クス。適(たまた)マ宮門ノ前ニ人語ノ喧囂(けんごう)スル有リ、兇徒皆惧(おそ)レ倉皇(ソウコウ)奔逃ス。具視崖ヲ攀(ヨ)チテ上リ湟(ほり)ヲ出(いで)ツ。

 

 岩倉公は宮内省で傷の手当てを受けて、二十一日に馬場先門の本邸に戻るが、これは病室で詠ったか、和歌四首が掲載されていた。彼の人となりも分かろうから、いつもの自己流くずし字で筆書きしてみよう。『絵本江戸土産』では広重がここの風景が気に入ったか二点描いている「喰違外」(上)と「喰違外・赤坂遠景」。絵についても次回で…。(続く) 


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岩倉具視、馬場先門の本邸(ロ) [幕末維新・三舟他]

 隠居爺のお遊びの域で「岩倉具視邸」調べ。まずはネットから。これまたなんと云うことでしょう…。今年2月に新たな資料発見が報じられているではないか。

 「読売オンライン」の見出し。「豪華な岩倉具視邸、ネット競売で古写真発見」。本文は…倉持基・東大特任研究員が、ネットオークション上で写真裏側に「岩倉公邸ノ内」と記された写真を見つけた。写っている門や建物が、岩倉家旧蔵の絵図面や記録などと一致することから、1870年秋から84年頃まで岩倉邸だった建物の表門付近の写真とみられる。…とあって同写真が掲載されていた。

babasakigou_1.jpg 邸宅はもと忍(おし)藩(埼玉県)の藩邸で、具視の死後、一家は移転し、建物は壊されたとされる。岩倉家に関する画像資料を調査してきた研谷紀夫・関西大准教授は「旧岩倉邸は複数の絵図などに描かれているが、写真は極めて珍しい。旧大名屋敷を転用した厳かな門構えから、権勢の大きさを改めて認識できる」と話している。

絵図面があるなら誰も読めるように公開して欲しいもの。『岩倉具視関係文書・八』巻末には岩倉村の幽居旧跡図が三つ折りで挿入されているが、馬場先門内の屋敷図はどこにあるや。忍藩は松平下総守。「江戸切絵図」を見れば馬場先門を入ってやや右側に「松平下総守」(写真正面やや右側)にあり。現・皇居前は芝生と松の大広場になっているが、江戸時代はここに大名屋敷が連なっていた。

osihanteiato_1.jpg余談だが、あたしは冬になると飛来するミコアイサ(パンダ模様のカモ)を撮りに馬場先濠へ行く。写真下は馬場先門内から岩倉邸のあった辺りを写しています。また中央公論社『日本の歴史・第20巻』の「明治維新」編に、「明治5年ごろの外務省」なる写真あり。『東京都の歴史』なる書に慶応4年「東京府庁舎」イラストあり。どれもがネット競売の古写真「岩倉具視邸」と非常に似ている。門内には江戸時代の藩邸を改修した新政府官舎や維新中心人物の屋敷が建ち並んでいたのだろう。

岩倉具視がここに住んだのは、明治3年秋から明治17年。面倒だが明治維新を駆け足で振り返る。明治元年、江戸城は無血開城。10月に明治天皇が東京入り。江戸城が東京城、皇居へ。明治3年「神仏分離令」。各地で寺院破壊。明治4年「廃藩置県」。岩倉はその前年秋から「松平下総守」邸に入ったのなら、門内の大名邸はすでに蛻の殻…。

明治4年「岩倉使節団」欧米出発。全員洋装も岩倉のみ和服にチョンマゲ姿。110ヵ月の欧米の旅。価値観一変の日々だったに違いない。岩倉具視は帰国後に屋敷一部を洋風に改築したような気がするのだが…。

明治6年、西郷の征韓論に岩倉が猛反対。西郷に続き薩摩兵帰郷。政府は徴兵令発令など天皇制確立へ。明治7年正月、岩倉は天皇の晩餐に陪席後、馬車が赤坂喰違に来た所で襲われた。

岩倉具視「邸」が主テーマだが、次はこの襲撃事件を『岩倉公實記』から拾ってみる。

★スズキ様へ。コメント返信が不具合で、ここで返信させていただきます。小生が調べたのは図書館で借りて読んだ「岩倉公実記」(関連文書を含む)と、2013年2月の「読売オンライン」の記事です。ネットでヒットしなければ読売新聞の縮刷版で2013年2月分に目を通されるのがいいかと存じます。そこにコメントされた研究者らの名前も載っているように記憶しています。


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岩倉具視と猪瀬知事と玄国寺(イ) [幕末維新・三舟他]

suwajinnjyae_1.jpg あの猪瀬知事は就任記者会見で、記者らに<『ミカドの肖像』を読んだか>と偉そうに言った。ならばと今春、同書の検証読書(25日に亘って)をさせてもらった。佐野眞一の取材力・筆力には圧倒されるも、『ミカドの肖像』は隠居爺でも書けるかなって感じで、威張るほどの書ではないと判断した。

 彼は最終章も終わり(文庫本827~829頁)で、孝明天皇の崩御について、こんな事を書いていた。・・・死因は天然痘と発表されたが、岩倉具視ら討幕派により毒殺されたという噂がひそかに流布された。日本に駐在し政争の真只中にいた英国外交官アーネスト・サトウも、ディープスロートの証言から毒殺説を確信していた(筆者<猪瀬>注:明治政府が刊行した公式記録に毒殺説は見られない。そのことをもって毒殺説を否定する向きもあるが、それよりナマの証言のほうを採るべきだ)。

 そして、こんな文章に続く。「明治天皇は、父親の死因に不審感を抱いていたと思う」(中略)「開国に反対した孝明天皇が毒殺されて年少の明治天皇が担ぎ出されたとき、近代天皇制の行く末は地球儀とともにグロテスクに暗示されていたのである」

 ここから天皇機関説、“象徴天皇”を説明し、日本は東京の真ん中に実態のない空虚=ブラックホールができて、周縁が次々に吸い込んで行く構図ができた・・・と同書をしめくくっていた。

 笠原英彦著『明治天皇』では、「現在の史料からでは、悪性の天然痘に死因を求めるのが妥当」と記していて、あたしも同書記述の方がクールな判断だろうと、読書備忘に記したばかり。目下は佐々木克著、永井路子著『岩倉具視』を読んでいるが、共に“噂”を否定している。

suwajinjyaa_1_1.jpg あたしは東京生まれゆえか、どうも「薩長」は好まぬゆえに、明治維新も関心が薄い。それじゃいかんと勝海舟、山岡鉄舟ら東京側の維新関連書を少し読んだ。大日本帝国憲法ができる経緯を少し勉強した。それで終わりと思っていたのに、なんと!自宅地の鎮守様「諏訪神社」は明治15年の明治天皇「近衛兵射的砲術天覧」から菊の御紋になり、隣の元「別当・玄国寺」は書院が「岩倉具視邸」と知った。今度は岩倉具視にひっかかっちゃった。

 机には五冊の岩倉関連本。読むと、すぐ眠くなる。「おまいさんも歳とったねぇ。読みながら、また眠っていたよぅ」とかかぁが笑う日々に相成候。『江戸名所図会』には諏訪神社と別当・玄国寺の絵(上)があるも、本文はなし。写真下は「諏訪神社」。


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