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酒なくて何が花見の飛鳥山 [くずし字入門]

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 重長版「絵本江戸土産」下巻は「神田明神」から「飛鳥山花見」へ飛ぶ。釈文に私流メモを交え記す。書き出しは<春のいとゆふ長閑なりし折しも上野ゝ花もふるめかし。> 「いとゆふ」は「糸遊」で陽炎(かげろう)、はかないもの。春の季語。芭蕉句に「入かゝる日も糸ゆふの名残かな」。

 

asukahanamie_1.jpg著者・佐藤要人は、同心監視下の上野の花見は飲酒も出来ぬ。比して飛鳥山の花見は酒も扮装もOKで江戸庶民に人気があったと解説している。ゆえに<いざや飛鳥の花見にまからんとて。毛氈弁当さゝゑなど取もたせて。>と続く。「さゝゑ」は栄螺(さざえ)ではなく、小竹筒で水や酒を入れて携帯するもの。

 

ここから飛鳥山の位置がわかる文になる。<駒込よりあすか山にいたり。四方(よも)を詠(ながめ)やれバ。北の方荒川の流白布を敷たるがごとく。足立の広地。目をかぎりにして。尾久村の農業。民の竈も賑ハしく> 今も山から望む地は変わらねど、風景は激変した。遠くに望む川面が白く輝くのを「白布を敷く」なる表現に感心した。

 

次は飛鳥山の桜の説明。<ことさら此花は尊き仰を下し給ひて。芳野の花をうつし植させ給ひしよし。寔(まこと)に花形尋常に灵(こと)なり。色か香(かん)バしくして。吉野ゝ山の。春の景色も。これには過じと。> 

 

asukahanami1_1.jpgこの桜は八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進。荒地を整備し梅や松、楓、桜などを植えて桜の名所として有名になった。昔は東の崖からカワラ投げが行われとか。西側は今よりなだらかな斜面だったが、道路拡張で削られた…と歴史碑にあり。

 次の文の「尋常に灵なり」は普通じゃない。「寔」「灵」は旧字で異体字。最期は<春の永き日をおしミて。ゆふくれに宿にいそぎぬ>で締められている。写真は現・飛鳥山と眼下の景色。


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将門や神田祭りは江戸の意気 [くずし字入門]

kandamyojin1_1.jpg 「絵本江戸土産」(重長版)下巻は「目黒瀑布」から「神田明神」へ。目黒・大鳥神社、目黒不動で日本武尊(やまとたける)が出てきたが、「神田明神」と云えば平将門。「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」。その神田明神に祀られるのが平将門。弱気を助け、強きをくじく。朝廷からの重い負担に耐えてきた関東、坂東武士のヒーロー。将門は東国独立で「朝敵」となって殺された。坂東武士の英雄ゆえ、太田道灌から徳川家らに崇敬され続けて神田明神は江戸総鎮守になった。神田祭りは江戸の意気。その魂は平将門。

 

 だが明治維新の絶対天皇制で、再び「朝敵」。将門は神田明神の神から除かれた。怒ったのは江戸っ子だ。そんな薩長の野郎はクソ食らってんで、平将門がいない神田明神を無視。一銭の賽銭も集まらなくなったとか。終戦で絶対天皇が「人間」に戻って、再び平将門が盛り返した。ってことで神田祭りには、平将門の意気を受け継いだ江戸っ子の魂が込められている。

 

kandamyujin_1.jpg 「おまいさん、神田明神に行くのかえ。先日は目黒の黒飴を忘れたんだから、こんどは神田の甘酒を忘れないで買ってきておくれよ」。

 

 釈文は…。粤(ここ)に天慶の将門亡びて(940年没)。其霊たゝりをなせしを。遊行上人。柴崎村(現・大手町。将門の首塚の辺り)に祭て。その灵(れい)をしづめ。神田明神というとかや。殊に九月十五日祭礼なれば。参詣おびたゝし。その上神田辺の産土ゆへに。貴賤群集して。社中寸地もなく、見世もの土弓。酒家茶店。菜飯ちゃ屋。祇園豆腐の見世。軒をならべ繁昌いはむかたなし

「祇園豆腐」は豆腐を平たく切って串焼きし、味噌ダレをつけたもの。「菜飯」は葉野菜を入れ飯。「土弓」は弓の遊び。「産土」は産まれた地の守護神。鎮守神はその地の守護神。


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目黒にて飴とサンマと不動かな [くずし字入門]

megurohonden_1.jpg 重長版『絵本江戸土産』はいよいよ下巻。最初は目黒不動の「目黒瀑布」。若い時分にライターの立場で、ポプコンや世界歌謡祭からデビューしたアーティスト群の宣伝仕事をしていたことがある。その(財)ヤマハ社屋は目黒・大鳥神社から数軒先。日参するも、ついぞ近くの「目黒不動」には行かずじまい。で先日に自転車を駆った。まぁ、なんと立派はご不動様だこと。

 

愛宕山と同じくここにも260年前に描かれたと変わらぬ風景が広がっていた。重長描く…あぁ、ここが不動堂への石段下「どっこの滝」か、このmegurofidou1_1.jpg境内に目黒の黒飴、花餅の出店があって賑わっていたんだなぁと往時を偲んだ。

 

 目黒の「大鳥神社」は日本武尊を祀る神社。比して「目黒不動」は大日如来の化身とかの不動明王が祀られている。別当は天台宗泰叡山瀧泉寺。お寺さんだな。大本堂の裏には立派な大日如来像があり、薩摩芋で有名な青木昆陽のお墓もあり。

 

重長の文に日本武尊や荒人神の名が出てくる。その上に立派な朱色の仁王門。うっかりすると、ここはお宮、神社にも思えてきて「二礼二拍」参拝をしそうになった。「お宮・神宮・大社=神社」「寺・尊・院・堂=寺院」。ついでに記せば関東の有名megurobakufu_1.jpgな不動尊は高幡不動、川崎大師、高尾山、深川不動、西新井大師、成田山など。不動尊は仏教ながら神のように祀られている寺院だが、さて、明治維新の絶対天皇=神道確立による神仏判然令、廃仏毀釈の時はいかがだったか、ちょっと気になった。

 

「鬼平犯科帳」で出てくるように、かかぁに「目黒の黒飴」を土産にしようと思っていたが、ほぼ隣接の野鳥が多そうな広大な緑の公園「林試の森公園」も散策し、黒飴をとんと忘れてしまった。


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愛宕山往時のままの風ふたつ [くずし字入門]

atagoyama1_1.jpgm_atagoyama1_1[1].jpg 重長版『絵本江戸土産』中巻は「浅草晩景」「上野春景」「不忍池蓮」からいきなり「愛宕秋月」に飛んで終わる。絵は男坂と女坂が描かれている。この景色は今も変わらぬ。宝暦3年から260年後の今も同じ景色が保たれている処など滅多にない。現在の写真と260年前の絵を見比べつつ、なんだかうれしくなってしまった。

 

 釈文は…。新樹森ゝとして。和光のひかりかくやく(赫奕)たり。毎月廿四日ハ縁日なれば。早天より参詣おびたゝしく。山上の風景いはむかたなし。東は房総二洲。眼下に歴然たり。品川浦の入津。帰帆の廻船は。磯によせくる砂子よりも多し。江城下の町々の。軒のいらかハ。魚のうろこのつらなるがごとし。西ハ富士箱根・目前に。時ならぬ白雪をながめ。実に絶景の山上なり。

 

atagobansyu_1.jpg 現在の男坂・女坂の景色は同じだが「新樹森々として」の雰囲気はなくなった。「和光のひかり赫奕たり」とは? 「和光」は穏やかな威光で「赫奕」は光り輝くさま。樹林に光条差すような景や。「早天」は早朝。夜明けの空。あたしは朝型だから、今朝は東京スカイツリーの横から朝日が昇るのを見た。「言はむ方無し」は重長の常套句。房総二洲は上総と下総か。山上から東京湾方向を見れば、今は高層ビル群が聳えるばかり。横を向けば富士・箱根も見えぬが東京タワーが聳えている。甍がうろこ状に見えたのも明治までか。

 重長は上巻序にも「秋は愛宕の月に嘯き~」と記した。よほどの眺望だったと思われる。この19日夜は満月の「仲秋の名月」だった。愛宕山から高層ビル群の上に輝く満月もまた良きかな。


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出合茶や慾と浄土の荷葉揺れ [くずし字入門]

sinobazunoikebunn_1.jpgm_nokorihasu_1_1[1].jpg 重長版『絵本江戸土産』中巻は「上野春景」から「不忍池蓮」へ。「池中の荷葉。水上に満て。水色見へず」と書かれている。絵は弁財天と蓮の池、そして出合茶屋が描かれている。時代小説を読むと、この出合茶屋(蓮見茶屋)での密通・不倫場面がよく出てくる。愛欲の場。今ならラブホテルか。

 

その愛欲の窓に「上品蓮臺(じょうぼんれんだい)=極楽上級所」の蓮池が広がっている。愛欲に溺れた者は、極楽浄土どころか苦悶・地獄が待っている。かくして一句「出合茶や慾と浄土の荷葉揺れ」。「荷葉」は蓮の葉。永井荷風は十代の頃の入院生活で看護婦・お蓮さんに恋して、「荷風」を雅号にした。駄句をもう一句。「不忍の荷風の恋や荷葉揺れ」

 

釈文は…。洛陽の比叡のふ(婦人の「ふ」がのたうったような字)もと。湖水に表(「ひょう」と読みたいが古語読みは「へう」)して中に嶋を築き。弁財天を安置す。池中の荷葉(かよう)。水上に満て。水色見へず。紅白の蓮華ハ。こま(満のま)やかに地上に秀て。まことに上品連臺も。かくやとあや(屋台の「や」)しまる。もと(登山の「と」)ハ舟にてかよひしよし。今は陸地つづけ(遣唐使の「け」)り。此ごろハうらに。あらたに橋をわたして(亭の「て」)。根津湯島の通路よし。参詣男女。むかしに十倍せり


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宮の筒お山を灼くる明治かな [くずし字入門]

m_saigouzou2_1[1].jpg 中巻は浅草から上野へ移る。『絵本江戸土産』を描いた西村重長、鈴木春信、そして広重も、まさか江戸末期にお山が官軍のアームストロング砲を浴びることになるとは夢にも思わなかっただろう。この時の指揮官が長州・大村益次郎。彼のドでかい像が靖国神社に建っている。そして彰義隊の墓の傍に、何故か薩摩・西郷隆盛像が建っている。

 

 西郷没に際しては勝海舟が「南洲西郷先生留魂祠」を建ててい(後に洗足池の勝海舟のお墓の隣に移されている)、それで充分だと思うのだが、何故に上野のお山に建てたのだろう。まぁ、今も東京には薩長や宮家武官の像が多い。

 

 ここでは変体仮名(明治33年からの学校教育で漏れた仮名文字)を色筆で書いてみた。例えば「あ」は「安」のくずしからの仮名で、他に「阿・愛・亜・悪」のくずし字は「変体仮名」と括られて葬られた。古文書の勉強の第一歩は、これら変体仮名や異体文字のくずし字を覚えることになる。「黄表紙」は概ね仮名表記ゆえ、変体仮名を覚えただけで読めるようになる。浮世絵春画に添えられたくずし字も、概ね仮名ゆえに読めよう。だが覚えるも忘れるのが人の常。十覚えて八つ忘れの繰り返しに候。いわんやボケ老人のにわか勉強。

 

uenosyunkei_1.jpg 釈文は次の通り。東叡の花ほこぶる頃。いざや花見に参らんとて。幕などもたせ。山王の山より清水中堂の脇にいたりて。所せきまで。思ひ思ひに幕うたせて。あるいは琴三味おどり小うた。実の繁花歌舞地といつゝべし。老若男女貴賤都鄙袖をかざし。もすそをつらね。色めく有さまハ。花のミやこにまさりけり。げに入逢の鐘に。花の散らん事をおしミ。中堂の軒に時ならぬ雪をふらすかとあやしまる。風流絶景の精舎なり

 

入逢の鐘」は日暮れ時の鐘。「東叡」は上野・寛永寺。「所せきまで」は所狭きまで。「歌舞地」は地歌舞か。「精舎」は寺院・僧院。<以上、西村重長「絵本江戸土産」中巻「上野春景」私流メモ2> 


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浅草や平賀京伝荷風死す [くずし字入門]

asakusa1_1_1.jpg 西村重長版『絵本江戸土産』中巻最初は「浅草晩景」。この文章に「志道軒」が出てきて、ちょっと驚いた。風来山人こと平賀源内の『風流志道軒傳』巻之一は、こう始まる。…爰(ここ)に江戸浅草の地内に、志道軒といへるえせものあり。軍談を以て人を集(あつめ)、木にて作たる松茸の形したる、をかしきものを以て、節を撃て緒人の臍を宿がへさせる~

 

平賀源内が志道軒をモデルに小人国、大人国、女人国、長脚国などを遍歴する滑稽本を出版したのは宝暦13年(1763)。アイルランドのスィフト『ガリヴァー旅行記』発表が1726年とか。源内の才、恐るべしです。また西村重長『絵本江戸土産』は宝暦3年刊ゆえ、すでに浅草の講釈師・志道軒は絶大人気を誇っていたこともわかる。

 

そして浅草で忘れてならぬのが、浅草寺奥の駐車場に忘れ去られたような山東京伝の机塚。没の翌年に弟・京山が建立。京伝が九歳から亡くなるまで使っていた机の碑。足も壊れた机のように我も老いた…の意の狂歌が刻まれ、裏には大田南畝による京伝略歴が刻まれている。そして浅草は晩年の永井荷風が通い続けた街。彼らは妙につながっているから面白い。大田南畝の処女作序文を書いたのが平賀源内で、南畝は京伝を引き立て続け、永井荷風は大好きな南畝年譜を作成。ゆえに「浅草は平賀京伝荷風死す」。「風死す」で夏の季語。

 

asakusabankei1_1.jpgm_kyodentukue1_1[1].jpg釈文は…。坂東巡礼の札所なれば。むかしより参詣多かりしに。御江戸御繁栄にしたがひ。参詣の老若雷門より。どろどろとおしやい。名物の海苔屋見世をのりこし。あさくさ餅のかどに至り。仁王門を過て。観音へ詣て。境内のかうしや。志道軒にわらひを催し。隋身門より馬道とほりを。遊里に過るもあり。門前の奈良茶。菜飯。ぎおんとうふの見世。酒屋茶店軒をならべ、繁昌いはむかたなき霊地なり ※釈文は上巻に続き、有光書房刊『絵本江戸土産 重長・春信画』解説・佐藤要人を参考にさせていただきます。

 あたしの浅草…。二十歳の頃か、古流と江戸千家のお師匠さんだった母は主に出稽古中心だったが、週一度は自宅稽古日。その当日、あたしは小遣いをもらって家を出た。その時に通ったのが浅草。寸劇混じりのストリップを観た。今は浅草へ行けば、荷風なじみの蕎麦「尾張屋」、洋食「アリゾナ」、たまにどぜう「飯田屋」へ行く。以上<重長版『絵本江戸土産』中巻「浅草晩景」私流メモ1>


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黄昏て古文書学ぶ熱気かな [くずし字入門]

kougi1_1.jpg 古文書講座・中級編の講座三回目が終わった。講座内容を地域にこだわったせいだろう、虫喰い古文献かつ裏写りコピーで、何が書かれているかがさっぱりわからぬ教材で講座がスタートした。講師も生徒も大人ゆえ、判読不能の教材を読めるものとして講義が進む。講師が熱心に黒板書きで説明し、受講生もそれを真剣にノートする。

 三回目講座でやっと判読できる教材にかわった。今度は講師説明を教材の古文書文字を追いつつ受講できる。「皆さん、ちゃんと復習していますかぁ。そうしないと身につきませんよ」と先生が再三おっしゃる。そこで講座一回目・二回目の黒板書きのメモを毛筆でまとめてみた。

 古文書は、江戸の書物を好む国文派と、書付などの古文書を好む歴史派がありそうで、あたしは前者好み。とりわけ化政期の戯作、黄表紙、物語などを原文で読めたらいいなぁというタイプ。目下は西村重長~鈴木春信の『絵本江戸土産』を楽しんでいる途中。それが落着いてから、このノートを頼りに改めて書付文献の解読勉強を・・・と思っている。 というワケで、ここはブログ機能活用の自習ノートに相成候。

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恥ブログ百万頁閲覧へ [ブログ&アクセス関連]

 peijieturan1_1.jpg先日、ブログのページビューが100万を越えました。最近は「くずし字、古文書」の自習メモ帳と化して見向きもされませんが、記事総数が千を優に超えてい、過去の記事閲覧が多いようでございます。一日に三百名ほどの訪問をいただき、頁閲覧がその数倍です。そんな数字を積み重ねての100万です。

 これを機に止めようかしら、と思うこともありますが、なんだかブログアップが生活の一部になっています。若い時分からの朝型です。朝イチのコーヒー飲みつつ、パソコン起動と同時にブログです。もう隠居していますからブログアップ後は、自転車で遊びに出かけるか、図書館へ行きます。そして寝転がって読書。昼寝も大好きです。そんなあたしのブログですが、今後もお付き合いの程よろしくお願い申し上げます。

 追記)2015 年(平成27年)9月末で約160万突破。つまり2年で60万、1年で30万、月平均25000が増えも減りもせずに数字を重ねている。


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凶暴な猛暑のけふも日暮かな [暮らしの手帖]

aretanki2_1.jpg 連日の猛暑。ゲリラ豪雨あり、竜巻あり。もう日本の夏に風情情緒なく、その苛酷さに耐えるだけになってしまった。熱中症警戒・危険報でお年寄りは外出を控えるように、とテレビが言う。冷房装置の部屋でジッと籠るばかり。それでもどうにか秋風らしきが忍び来てホッっ。

 今夏、かかぁもあたしも体力がなくなったか、幾つかの病気をした。それらも完治し、秋風に誘われて久し振りに3時間ほど自転車を駆った。写真は某日の、いかにも荒々しい猛暑日の夕暮れ。


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とうがらし収穫笊の色溢れ [花と昆虫]

naitousyukaku1_1.jpg 昨年収穫の実を種まきして、今年も内藤唐辛子(内藤新宿の江戸野菜)が収穫できた。目下はたわわな実が真っ赤に染まりつつあって、一部を初収穫。ガクの緑と赤。反対色なのに分量比が良いのか、お見事と言いたいほどの鮮やかさ。この調子で次々収穫で150個も採れましょうか。
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重長版「吉原の佳春」(私流メモ7) [くずし字入門]

yosiwaraharu1_1.jpg 先日のこと。地下鉄に乗っていて、眼に入る広告文字の「くずし」を知らぬうちに指書きしている自分に気付いた。ここまで筆写してきたならばで、ここに至れば覚えも早かろうぞ。さて、今回は「吉原の佳春」。

 

 書き出しは「昔ハ今の(と云っても宝暦三年)さかい町辺にあり」で、それは西村重長の生まれ育ちの日本橋油通り町の近く。今の人形町通り東側。今も「大門(おおもん)通り」と名を残している。吉原は明暦の大火で浅草裏に移転した。そして吉原生まれの蔦屋重三郎が大門前に書店を開いてガイドブック『吉原細見』をヒットさせ、それを足ががりに江戸出版界に踊り出た。写真は吉原大門前の「見返り柳」。

 

以下、釈文… 昔ハのさかい町辺に有しを。明暦のころ此所にうつる故。その時より。新吉原と名付たり。行かふ遊客衣紋坂にて。姿をよそほひ。五十間道の編笠青く。昔の風情を残し。大門口の桃灯行燈。さながら白昼のごとくいかめしく。中の町の青簾に。思ひ思ひの気待顔の風情。或ハ三味小唄酒宴を催し春ハ桜花に酔をすゝめ。秋ハ灯籠に眠を醒す。誠に若紫の色香を。江戸町に残し。花の都の京町に。かへらん惜口舌の客も床の内。つい角町に其跡ハ。馴染深夫のよい中の町。客をのぼせる揚屋町。五町まちのにぎハひは。四季おりおりの壮観ハ。又と外にハ有まじくめてたくかしく

 

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m_kasiku_1[1].jpg  吉原のことを記せば長くなろうから止めて、ここではくずし字に集中。文章最後「かしく」は合字だろう。合字の幾つかをメモしてみた。ここで気付いた。荷風さんが若い時分に「こう命」「壮吉命」と刺青を彫り合った富松さんが、後に亡くなったことを知って、谷中三崎町・王蓮寺に香花と句を手向けた。その時の句が「晝顔の蔦もかしくとよまれけり」。この「かしく」がいかにも蔦に絡むような字だったことを思い出した。「かしく」は「かしこ」の転。女性が手紙末尾に書く言葉とか。これにて西村重長『絵本江戸土産』上巻おわりで、次回から中巻に移る。


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重長版「二本堤の春草」(私流メモ6) [くずし字入門]

nihontutumi_1.jpg「二本堤」は吉原への道「日本堤」。なぜに「二本堤」かが書かれている。あたしは5年前に荷風さんを気取って今戸橋から暗渠・緑地になった山谷堀沿いを歩いて吉原、そして箕輪・浄閑寺を訪ねたことがある。ここは遊女投げ込み寺で「新吉原総霊塔」と、荷風文学碑がある。「日本堤」は明治30年頃に取り崩されて、今は「日本堤通り」などの名が残るのみ。

 

 広重の『絵本江戸土産』に比し、その約百年前の重長版の文章は当然ながら少々難しい。江戸の熊さん八っつんは読めただろうか。当時の日本人は、現代人より幾倍の文字(漢字)知識があったに違いない。漢字の多さに加えて、さまざまに変化するくずし字。昭和初期からの常用漢字(現在は2136字?)で簡素化されたが、文章の深みは失せた。さらに今はキーボードで変換もデジタルソフト任せ。ここは時代に逆らって、筆でくずし字に親しむが断然面白い。

 

 さて釈文…。浅草の馬道より。金龍山聖天を拝し。今戸橋。土手の道哲の庵。二本堤(日本堤)に至る。此二本堤と云ハ。荒川除のためにとて。三谷(山谷)より箕輪につゞき。先はわかれて。日本横たハる橋のごとし。仍て其名あり。此所別して。新吉原の道なれば。土手の青柳もたほやかに。品よく遊里の駕籠のかけ声。茶屋舟宿の。をくり迎ひの。てうちん(提灯)ハ引もきらず。かち(徒)より通ふ遊客ハ。ふくめん頭巾宗十郎頭巾。びろうど緒の裏付草履。ぬり下駄はきて当世のはやりうた。豊後義太夫半大夫。おもひおもひに口すさミての往来ハ。実に昼夜のわかちなし

yosiwara1_1.jpg 新吉原の面影を求めて“なか”を歩いてみた。日本堤通り(土手通り)から「吉原大門」。ここに「見返り柳」があって「くの字」に曲がった「五十間通り」から中之町、江戸町、角町、揚屋町、京町…。だが今は百数十軒のソープランドが軒を並べていた。呼び込みに恐れをなして、あたしは早々に箕輪寄り龍泉の樋口一葉が雑貨・駄菓子屋をやっていた辺りに建つ「一葉会館」に向かった。ここは五千円札に一葉の顔が入ったのを機に出来た記念館で、以前はしもた屋風の二階屋だった。写真は浄閑寺の新吉原総霊塔。


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重長版「隅田川青柳」(私流メモ5) [くずし字入門]

aoyagibun2_1.jpg 次は隅田川をさらに遡って「梅若塚」。桜は地元新宿で楽しんできたが、或る年「よし、今年は墨堤の桜だ」。行けば宴に三味の音、枕橋では向島芸者衆のサービスの江戸情緒。「隅田川の七福神めぐり」チラシがまだ彼方此方に残ってい、コースを見れば池波正太郎『剣客商売』なじみの地ばかり。三囲神社(言問団子)から長命寺(桜もち)、白鬚神社、百花園、隅田川神社、木母寺、梅若塚、橋場、鐘ヶ淵。

 

 かかぁが池波正太郎を読み漁っていた時期で「まぁ、木母寺(梅若塚あり、対岸には秋山大治郎の道場)から鐘ヶ淵(小兵衛の隠宅)まで歩いてみましょ」に相成候。今でも「あの時はよく歩いたねぇ」と思い出す。

 

重長が描いた宝暦3年(1753)頃は、まだ桜名所(桜が長命寺から枕橋まで続いたのは1880年頃らしい)ではなく、「柳さくらこきまぜて」の程度。桜より牛の御前(三囲神社)、梅若丸の忌日参詣中心だったか。それでも「蟻のあゆむがごとし」の賑わい、と記されている。

 

m_miyakodori12[1].jpg 在五中将は在原業平で「名にしおはばいざ言問はん都鳥~」の都鳥はユリカモメで、本当のミヤコドリは写真の通り。三番瀬で群れている。「所せきまで」は「所狭きなし=隙間なし」。

 

 釈文は… 毎年三月十五日。梅若丸の忌日とて。今にたへせぬ大念仏。参詣の男女袖をつとひ。梅若塚の青柳も。いと蒼々として。さながら春のしるし。柳さくらこきまぜて。都鳥も水上に浮む風情ハ。往昔在五中大将の。いざことゝハんといはれしハ。問ふ人もなきさひしき様子。今ハ引換かえ繁花にして。河の面には屋かた。屋根舟。猪牙なんど。所せきまでこぎならべ。堤の茶屋酒屋など。あるひは牛の御前より。堤つたへの参詣は。さながら蟻のあゆむがごとしかや

 

 筆写左横に、気になったくずし字をメモした。主に明治33年の学校教育で使われなくなった平仮名を「変体仮名」「異体仮名」と云い、それらに馴染みないゆえに、何故にその字が「字源・字母」なのかさっぱり分らぬ。「た=太、多」が主だが「堂」もある。「堂=ドウ(ダウ)、トウ(タウ)=たかどの=人名(たか)」で「た」か。「と=止」が多いが「登」も多い。「て=天」が多いが「帝・亭」も多い。「は=波・八」が多いが「盤」も多い。慣れぬとすっと読めぬ。またくずし字の形が似ている「さ」「せ」「す」「を」「その・其」「とも・共」も要注意


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重長版「三囲の春色」(私流メモ4) [くずし字入門]

mimeguriharu1_1.jpg  両国橋の納涼から、春の三囲神社へ移った。広重『絵本江戸土産』は、確か江戸城から放射状に時計回りに進んだと習った(?)が、重長版いかなる展開や。

 

桜の墨堤散歩を幾度かして、その都度に三囲神社まで足を伸ばした。境内に其角「夕立や田をみめぐりの神ならば」の句碑あり。詠んだ翌日に念願の雨が降ったとか。詠んだ1年後は芭蕉没の元禄7年(1694)。重長の絵はその約60年後の宝暦3年(1753)だが、同句碑の神社建立は安永6年(1859)とか。当時はまだ有名句とは言えなかったようで、重長は触れていない。

 

さて、文は少々難しかった。「衣更着」はきさらぎ。如月、更衣、旧暦二月。春の訪れに堤の草も蒼々として長閑な陽気に人々も野に繰り出す。初午は(はつうま・はつむま)。三囲神社は田中稲荷でもあり、初牛は稲荷神社の豊作祈願祭礼。景色(けしき・けいしょく)。「華表=かひょう」は中国の建物標柱で、日本の鳥居の起源とかで「とりゐ」。「笠木」はその仕上材か。春に浮かれて人々は舟で乗着、また両国から堤沿いにスミレ、タンポポ、ヨネメを摘みながら稲荷に集う。嫁菜に姑交じりと記すはシャレ。飛花とくれば「飛花落葉」。無常ゆえの春の歓び。華、乗、群衆、夥、輩、嫁、興、尋、暮、翻、飛…難しいくずし字ばかり。分らぬのは「角田河のわたし守ハはや」の「や」。「や=夜」のくずし字の旁だけで、人偏も省略と思ったが、いかがだろう。

 

mimegurie_1.jpg以下は釈文(しゃくもん)。衣更着の初午にもなれば。四方の景色もいと長閑にして。堤の艸も蒼々として。人の心をともないて。船にて稲荷参詣の男女は。土手の上より見ゆる。華表の笠木目当にして。堤の岸に乗着て。参詣群集夥し。陸より歩をはこぶ輩は。両国の岸より。堤つたひにつみ草のすミれ。たんほゝ。嫁菜しうとめうち交り。もて興じてゆくありさま。或は竹町のわたしを打わたり。しミ田川のほとりまで尋行もあり。角田河のわたし守ハはや。舟に乗れど。夕暮までのにぎハひ。稲荷ののぼり風に翻りて。飛花天に至るかとあやしまれ侍る

 題名は「春色」だが、稲荷の祭りが豊作祈願ゆえ田植え風景もあり。梅から五月頃までの季節が混ざっている。


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