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長谷川平蔵様江御引渡二相成候 [くずし字入門]

komon2-1_1.jpg 古文書講座復習4 講師は今の日本人が最も日本語を知らないと言った。受講者全員が首をすくめた。そう江戸・明治の子らは漢籍の素読をしていた。

 ちなみに荷風の場合を調べれば、明治22年に小日向の黒田小学校尋常科4年を卒業後、同じく小石川・竹早町の東京府立師範付属小に入学し、その帰途に儒学者某の許に立ち寄って「大学」「中庸」をあげていた。

 過日の神田古本まつりで購入した北小路健『古文書の面白さ』(新潮選書)を読んだが、著者は大正2年生れで、満5歳の誕生日から小学校卒業まで父より「四書」(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)の素読を受けたと記していた。もうボケ始めた小生だが、昔の日本人に少しでも近づこうと古文書講座復習を続ける。

 乍恐(恐れながら)以書付(かきつけをもって)御訴(おうったえ)奉申上(もうしあげたてまつり)候 一(ひとつ) 豊嶋郡角筈村名主・年寄申上候(まず最初に誰が申しているかを記す)、私共并外六名、今廿九日太田運八郎様御役所江、被召出候処(めしいだされ候ところ)、其村二而(て)當正月中被召捕(めしとられ)候入牢人共、此度、長谷川平蔵様江御引渡二相成候間、右御役所江可相廻旨(あいまわすべくむね)被仰渡(おおせわたらせ)候二付、罷出(まかりいで)候所、右壱件當御役所御懸(おかか)り二相成候旨被仰渡(おおせわたらせ)候、依之(これによって)右之段御届ケ奉申上候、以上。(以下略)

 召し捕られて入牢していたのは、角筈村の留五郎ら。同家で二度も賽博打をしてい、角筈村は留五郎外四名、中野村の者三人が捕まっていた。この文書は寛政5年のもの。〝寛政の改革〟でとりわけ取り締まりが厳しかったのだろう。

 長谷川平蔵が出てきた。この講座会場・新宿歴史博物館から新宿通りを横断して向こう側の谷を下った辺り、須賀町・戒行寺が長谷川家の菩提寺。「長谷川平蔵供養碑」がある。長谷川家三代の墓があったそうだが今は行方不明。杉並・堀之内の妙法寺の北側隣接に戒行寺墓地を移転した際に、親族連絡なしで無縁仏にばって埋もれているという説もある。


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