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半藤一利の漱石〝則天去私〟(荷風9) [永井荷風関連]

handohige2_1.jpg 半藤一利『漱石先生ぞな、もし』の「ある日の漱石山房」に興味深い記述あり。漱石の最晩年に芥川龍之介、久米正雄、大学生の会話を松岡譲が記録。それを以下に要約。

 「頭の中で死を克服できても、いざとなれば嫌だ。それは人間の本能の力だろう。そこを自在にコントロールするには修業がいて、(習得すれば)人生における一番高い態度になろう。自分ではそういう境地を〝則天去私〟と呼んでいる。自分の小我を去って、大きな普遍的な大我の命ずるままに自分をまかせる。偉そうな主張、理想、主義は結局ちっぽけなもの。比して普通に思われるものでも、それなりの存在がある。今度の『明暗』はそういう態度で書いている。近いうちに、そういう態度でもって新たな文学論を大学で講じてみたい」

 漱石はその直後に病状悪化。49歳で亡くなった。何を今さら〝普通〟に注目か。漱石先生は〝偉い〟から、普通の人が普通に気付くものにやっと気が付いたと云ったら、余りだろうか。

 同書の最期は、漱石と荷風の〝万歳論〟。荷風の〝戯作者宣言〟が記された『花火』執筆の大正8年、欧州戦争講和締結祝賀で街は提灯行列と万歳の声。荷風さんは「新しい形式の祭りには、しばしば政治的策略が潜んでいる」と喝破。天皇制国家の宣伝を祝祭行事に結びつける政治を、日本にいながら〝日本の亡命者・荷風〟は、そこを果敢に突いていたと記す。

 明治22年の憲法発布時も国民が国家に対して〝万歳〟を叫んでいた。半藤氏はここで〝万歳の歴史〟を探る。漱石もまた天皇陛下万歳、日本海軍万歳、日本陸軍万歳、大日本帝国万歳を叫ばなかった。提灯行列にも加わらなかった、と結んでいた。

 同書でもう一つ注目は、荷風さんの最期。部屋には森鴎外全集、幸田露伴全集、そして何冊かの日本の本以外はフランス装丁の洋書(サルトルの『壁』もあったらしい)がびっしりと並んでい、亡くなった日の机の上には眼鏡と並んで開かれていたのは洋書だったと記憶すると。荷風さん、亡くなる直前まで自身の姿勢・世界を貫いていたと結んでいた。

 さて、本題の漱石先生の死はどうだったのだろうか。おそらく多くの身内、門下生、医師らでごった返していたような気もするが~。そう、漱石のお墓は雑司ヶ谷墓地とか。同墓地の荷風さんのお墓は幾度も掃苔しているも、漱石のお墓もあるとは知らなかった。さっそく自転車を駆ってみよう。(続く) ★挿絵は半藤氏の顔に、荷風さんの丸眼鏡と漱石のヒゲを加えて描いてみた。


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半藤氏〝漱石山脈〟を語る(漱石8) [永井荷風関連]

bannenkafu2_1.jpg 前回の続き。半藤氏は『永井荷風の昭和』で、荷風さんが漱石を尊敬していたのは間違いなしと、荷風さんの記述を紹介。「硯友社文学の後を受けて興った凡ての流派の文学はもっぱら森、夏目両先生の感化を蒙って現れたもの。わたくしは坪内逍遥、森鴎外、尾崎行雄、幸田露伴、二葉亭四迷、夏目漱石の六家を挙げて現代の文学の代表するものとなしている」

 大正8年3月の「日乗」に「築地に蟄居してより筆意の如くならず。無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及び故人漱石翁の書簡を貼りて娯しむ」。まぁ、荷風さんはこの枕屏風の蔭で誰と戯れたか。

 そして荷風好きにはうれしい半藤氏の指摘は、晩年の「日乗」が例えば「金。夜来雨。〝在家第三日〟」のような短文が延々と続くが、これは森鴎外の最晩年の日記と同じ。耄碌しての短文ではなく、そこにも荷風さんの姿勢があったと指摘。

 また『荷風さんの戦後』の「あとがき」では「石川淳は敬意を込めて荷風さんと魂の交流をしていたはずなのに、死後はその生き方も文業も全否定。余りに憤慨したので荷風さんは戦後も戦前と負けないくらい見事に「孤独」を屁とも思わず、反逆的な生き方をしたぞ、と荷風さんへのわが横恋慕で書きつのった」と記していた。

 ここは主テーマが漱石ゆえ、漱石話題に戻る。「漱石は亡くなってから著作が大売れに売れ出した不幸?な作家」として、大正3年版(死去2年前)の「紳士録」から、漱石の税金67円で、そこから推測する大正2年の年収は2396円。当時の朝日の月給200円ゆえ、プラス月給分しか稼いでいなかった。漱石が絶えず懐具合を気にし、夫人が楽でない家計をやりくりしていたのも事実だろうと推測。

 しかも漱石山房には門下生が集って〝漱石山脈〟が形成されていた。松根東洋城、寺田寅彦、野村伝四、野村真綱、中村芳太郎、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、野上弥生子、阿部能成、林原耕三、阿部次郎、内田百、中勘助、和辻哲郎、江口渙、岩波茂雄、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲など。

 半藤氏は、漱石は「女たらし」ならぬ「人たらし」で万人の心を素直に惹き込む人間的魅力をいっぱい備えた人物ゆえと記し、和辻哲郎の「漱石はその遺した全著作より大きい人物であった」を、唐木順三の「酔興(ママ)ではできかねる。漱石は真底からの教育者」を紹介。

 〝漱石山脈〟が集ったのは「木曜会」。実は荷風さんが二十歳の頃に通った巌谷小波の門下生の会が「木曜会」。半藤氏は知っていながら、それは記していない。そんなことはどうでもよく、漱石には小説だけでは伺い知れぬ世界、魅力があったような気がしてきた。絵は最晩年の荷風さん。(続く)


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半藤一利の漱石と荷風(漱石7) [永井荷風関連]

kafubannen2_1.jpg 江藤淳の他に「漱石と荷風」両人に取り組んだもう一人の代表が半藤一利だろう。氏は荷風死去の報にいち早く同宅へ駆けつけ、創刊間もない「週刊文春」の特集記事を書いている。「中央公論」のサイトで、氏は嵐山光三郎にその経緯を語っていた。凡そこんな内容。

 ~「荷風死去」の報に編集長が〝荷風宅を知っているヤツは〟に手をあげた。なぜ知っていたか。最晩年の荷風さんを浅草で見かけ、足どりが覚束なかったのでタクシーで後をつけた。押上の駅まで行って電車に乗り換えた。そこから家に入るまでを見届たことがあった。嵐山は〝まるでストーカーですね〟。それほど好きだったと語っていた。

 半藤さんは向島生まれ。東京大空襲に遭って長岡市で終戦。江戸っ子に加え、長岡藩の薩長への恨みも加わった筋金入り薩長嫌い。荷風、漱石も薩長嫌い。さらに夏目漱石の孫・夏目末利子と結婚。「荷風と漱石」を書くことが宿命とも言える昭和史探偵家。

 ついでに記せば半藤・嵐山の二人はテレビ番組「荷風と谷崎 終戦前夜の晩餐」に出演。偏奇館の空襲炎上で東京脱出した荷風さんが、谷崎潤一郎の疎開先、岡山県勝山の元酒楼の離れで〝すき焼き〟を食したのを、二人で再現映像を撮ったとか。半藤さん、荷風さんと同じく長身で馬面。同じ丸眼鏡で出演したらしい。

 さて、手許に氏の『永井荷風の昭和』と『荷風さんの戦後』、そして『漱石先生ぞな、もし』と『漱石先生 お久しぶりです』がある。江藤淳と違って、幾皮も剥けた洒脱な文章。まず『永井荷風の昭和』の小見出し「夏目漱石」を読む。

 荷風さんが漱石を二度訪ねていると、『荷風書簡集』の明治43年3月の手紙を紹介。「拝呈 先日は御多忙中長座致し失礼仕り候。其の節お話し有之候小宮豊隆氏の事、昨日慶応義塾の方より是非とも近代独逸文学の講師として招聘致し度き旨来り候に付き~」。

 さらに荷風の慶応教授について。森鴎外が最初に白羽の矢を立てたのが漱石で、漱石は朝日新聞が辞め難く、また京都帝大や早大からも教授依頼の先口があったので断った。そのお鉢が荷風さんにまわったことを、荷風さんも知っていたのではなかろうかと書いていた。

 漱石は、荷風『冷笑』で展開された文明開化のうさん臭さへの鋭い批判精神に同感。荷風『新帰朝者の日記』と漱石『それから』の両者記述例を挙げて、二人が同じ〝明治観〟を持っていたと記す。また二人は江戸っ子。権勢富貴に対する敵視と嫌悪感、徒党を嫌い、自分の好みを貫こうとする姿勢も同じ。

 あえて二人の違いを言えば、漱石は怒りと共に悲しみがあり、常に自分のうちに向けられたぎりぎりの懐疑から脱することが出来なかったのに比し、荷風さんはそれらへの侮辱があって、漱石のように笑いでまぎらわすやさしさはなく、世から孤立しようとも微塵もたじろがぬ強さがあったと記していた。

 そして半藤氏は、漱石に「荷風論」のなかったことが不思議で、荷風さんに「漱石論」がなかったのが不思議だと記していた。長くなったのでここで区切る。

 挿絵は荷風さんのベレー帽姿。荷風さんがこのベレー帽をいつ買ったか、なぁ~んてことも半藤氏はしっかり調べている。それを引用すればいいが、小生も荷風好きゆえ、自分で調べなくては気が済まない。文庫の『摘録 断腸亭日乗』は省略なので、全集の二十四巻を引っ張り出す。「昭和二十二年十一月十五日 晴。午後海神。帰路市川の町にてベレーを買ふ。弐百五拾円也。細雪批評執筆」。荷風さん69歳。京成線「海神」駅にある知人別宅を借りて執筆していた時期だ。


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江藤淳「漱石論」まとめ(漱石6) [永井荷風関連]

sousekisatu3_1.jpg 前回挿絵に漱石の立派な口髭を描いたが、生誕150年がらみで書店平積みの十川信介著『夏目漱石』(岩波新書)の腰巻には「僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである」なるコピーが躍っていた。立派な髭とは似合わぬ弱い男だったのか。

 同書でも彼の小説を「登場人物が多く、それぞれが極めて複雑な事情(漱石のような)を抱えてい、そうした人々(学友、同僚、家族ら)との交流を通して描かれる内容が多く」、「(彼らとの会話から)善悪、正邪を個々の人間の心に認め、その変化を分析してゆく」。ゆえに〝倫理の漱石〟と言われると書かれていた。

 江藤淳『漱石論』の続きに入る前に、明治43年「大逆事件」で、荷風さんは前述通り「文学者ながら何も出来ないことを恥じて、江戸戯作者に身を下げる」と決意したが、漱石の反応も気になる。

 江藤著に、それは『それから』(明治42年秋)に記されているとあったので、同作を拾い読み。代助が旧友で新聞記者・平岡の妻・三千代に愛を告白し、それを平岡にも直接話すべきと職場へ訪ねる場面。

 本題を切り出せない代助に、平岡が昨今の社会情勢を語り出す。「社会主義者・幸徳秋水に新宿警察署の巡査が連日張り付いていて~」。だが代助は〝世間話をする気もなく〟心は三千代のことばかりも肝心の話を出来ずに終わっている。

 漱石は、なぜここに平岡の弁で「幸徳秋水の話」を挿入したのだろう。翌年「大逆事件」は(冤罪を含めて)多数が処刑された。朝日新聞でも連日の報道があったろうに、同社職業作家・漱石の反応はどうだったのか。

 江藤淳は、漱石最後の小説『道草』と病死中断の『明暗』が、「数少ない真の近代小説の一つとして輝いている」と評価するも、その説得力なし。24歳の江藤淳は理屈っぽいゆえ、ここは11年後に少しはわかり易く説明できるようになっただろう35歳時の「漱石生誕百年記念講演」を読んでみた。以下要約です。

 明治の近代化は、東西文化を融合して日本文化を核心とする新文明が出来るはずだったが、そうは問屋が卸さなかった。自我を抑制する倫理が崩壊し、自我が渦巻いた。その貧しさに漱石は気が付いた。そういう人間存在の認識は後の実存主義に至るが~

 「僕は神だ」と自我の主張の究極は狂気に至る。そういう近代の中で生きつつ、漱石は『道草』と『明暗』を書いた。漱石はここで「悲惨な近代だが、それでも人間を生かしているのは、人としての救いがあるからではないか」と認識。主人公は生まれたばかりの赤ん坊に震え、細君が赤ん坊におっぱいを呑ませる姿にうっとりする。〝生命の力〟という人間の最奥にあるやさしさを認識する。※半藤一利著には「お産婆さんが間に合わず、漱石が自らの手で三女を取り上げた」の記述あり。

 『明暗』には、評論家を目指すも芽の出ぬ「小林」が登場する。江藤淳は彼に社会主義思想と、社会的劣敗者であるインテリ像と、ドストエフスキーに代表されるロシア文学の三つの要素を盛り込んだと指摘。漱石は小林の〝ドストエフスキー的涙〟に、自らの知的な創作態度に対する一つの自己反省のようなものを許容し、完全な人間的な連帯意識を導入し、新しい人間を創り出そうとしていた。「人はマイナスを引き受けた上で生きて行かなければならない」と身をもって示してくれた作家ではないか。

 以上が江藤淳の漱石論の結論らしい。江藤淳の漱石関連書は膨大ゆえ、機会があれば追加・訂正するとして、まずはここで止める。挿絵は千円札の漱石。(続く)


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江藤淳の「漱石論」(漱石5) [永井荷風関連]

higesouseki2_1.jpg 江藤淳『夏目漱石』は端から鋭い。「個性的な作家が多くの崇拝者を持つ場合、その弟子友人らによって神話化され、彼らが死に絶えると雲散霧消する。神話が溶け出せば漱石の中心的な主題は、一人の女を争う二人の男。作家の姿は著しく平俗化する」

 ホラッ、あたしの言った通りだ。この先どう展開するや。江藤は生田長江(「ニーチェ全集」翻訳など)の『夏目漱石氏を論ず』より「(漱石は)如何なる事をする人ではなく、如何なる事をしない人。面目を施すより体面が傷つかぬ事に重きをおく人。馬鹿にされると云う事が恐ろしく嫌ひな人」を紹介。まぁ、どうしようもない人物だ。

 次に正宗白鳥による評を挙げる。「その長編小説には感動せず。読みながら退屈した。ただ文章のうまい通俗作家」。続いて「漱石に敬意を払ったりするのは知識階級の通俗読者」。これらが当時の漱石観だったと記す。漱石がつまらなくて読み通せないのは、小生だけのことではなかったと知ってホッとした。
 
 江藤淳はここから少し救い上げる。「明治の官費留学生らは〝国家への貢献〟が前提ゆえ、自己抑制の倫理が課せられていた」。富国強兵、殖産興業、そして文学者には「英語研究」か?

 それに比して大正・昭和の作家らは、自己を無制限に肯定、拡大。性的欲望も肯定した挙句に〝だらしなさ〟全開。漱石とその後の作家らとは、立場がまったく違うと弁護。「(国家貢献の身ゆえ)漱石は自身の強烈・巨大な自我の叫びを、誰よりも痛切に感じ、それを抑制すべく格闘した」(※引用は原文ママではなく、小生流にわかり易く要約・変更です)。
 
 「文明開化」と「戦勝(日清・日露戦)」によって、日本人は地に足付かぬ浮かれよう。江戸時代から培われた精神面を忘れて一気に貧しく、歪んだ。国内のみならず海外でも醜態を晒す日本人。江藤淳はここで荷風さんを登場させた。

 「荷風は『あめりか物語』『ふらんす物語』に出てくる戯画化された西洋かぶれの人々を見て、痛手を受けた。同じような痛手を感じたのは二葉亭、鴎外、漱石。そのなかで最も不器用、疑似西洋人を装うなど空々しくて出来なかったのが漱石で、彼は致命的な痛手を受けていた」。結果的に彼らは作家になる前に、まず文明批評家にならざるをえなかった、と記す。

 「漱石の文学は、稀にみる鋭さで日本を捉えたことによって、日本近代文学のなかで輝いた」。江藤淳はここで初めて漱石評価の弁。荷風さんより12歳年長の漱石は、子供時分より漢籍に親しんだ上で、英文学の真髄を学び、世界に匹敵せんとする使命を抱けば、精神衰弱になるのも当然、と説明する。
 
 だが帰国後の長編小説は、中村真一郎が指摘するように「登場人物に性格がなく、構成がなく、主題の発展もない」にもかかわらず、彼は国民作家になった。国民作家=底の浅いものを喜んで読む底の浅い日本人受けの作家。中学生から老年までの読者を得てベストセラーの職業作家として成功した。
 
 「大学年俸八百円。子供が多く、家賃も高くて暮らせない」が一気に解決。なぁ~んだ、それだけのことかとガッカリした。前述の「日本近代文学のなかで輝いている」の内容・価値とは? 小難しく書かれた『漱石論』の先をもう少し先まで読み進まなければいけないらしい。(続く)
 
 挿絵は『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を書いた千駄木時代(明治36~39年)の漱石。まぁ、森鴎外なみの偉そうな髭です。
 
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江藤淳の漱石・荷風(漱石4) [永井荷風関連]

etojyun2_1.jpg 漱石と荷風さんの両者スタンスが大きく異なるゆえに、両者に取り組む方は僅少。そのなかの代表格が江藤淳だろう。

 漱石が「牛込馬場下横丁(現・喜久井町)」から「早稲田南町」へ。荷風さんは「大久保余丁町」。江藤淳は大久保百人町生まれ。百人町の実家は、昔の多くの家がそうだったようにツツジが咲き誇っていたそうな。

 江藤淳は「明治国家を理想とする保守評論家」らしい。比して荷風さんも半藤一利氏も薩長嫌い。小生も敬遠したい江藤氏だが、我家と同じ犬種「アメリカンコッカースパニエル」に耽溺の記『妻と私と三匹の犬たち』(自殺3ヵ月後に刊)を読んだ。我家のコッカーの名は「バーキィ」で、江藤家コッカーは「ダ―キィ」だった。

 同書を読み、少しだけ彼に親しみを感じたが、同書にこんな記述あり。プリンストン大学東洋学科で日本文学史を2年間教えて帰国の際「靖国神社の傍に住みたいという私の気持ちを英霊が嘉(よみ)したまわぬ(=よしとほめぬ)はずはないと思って」靖国神社近くに住むことを望んだ。(帰国時は昭和39年。A戦犯合祀が世間に知れたのは昭和54年)

 氏の保守志向はいつからだろう。夫妻は夢を叶えて靖国神社徒歩圏内の〝左内坂〟上のマンション購入で、愛犬と靖国神社へ参拝することに相成った。ここでまたエッと驚いた。小生が会社を立ち上げたのが〝左内坂〟上のマンション。同じ建物だったのかしら。

 話を戻す。江藤淳は23歳で『夏目漱石』を発表し、一躍新鋭批評家として脚光を浴びた。そして荷風さんが亡くなった時に「中央公論」に『永井荷風論』(昭和34年、著者27歳)を発表。さらに昭和60年の「三田文学」に10年間・31回連載で書いたのを改題『荷風散策~紅茶のあとさき』として平成8年刊。

 彼は若い時分から珍しい「夏目漱石・永井荷風」読み。『荷風散策』冒頭にこう記していた。「漱石を除けば、私が何度も繰り返して読んできたのは、谷崎でも志賀直哉でも川端でもなく、荷風散人の、それの小説である」。

 「あとがき」では、「荷風散策を書きはじめたとき五十二歳だった私は、完結したときには六十二歳。(略)私は荷風論や荷風伝を試みようというような大それた野心があったわけでは毛頭ない。ただ私は、愛惜してやまない荷風散人の小説と随筆と日記の世界を日和下駄をはいて東京市中を散策した散人の顰(ひそ)みに倣い、心の赴くままに散歩してみたいと願ったに過ぎない」

 江藤淳は荷風さん主宰「三田文学」の後輩。同著刊3年後に自らを「形骸」として自殺した。失礼ながら同著は引用8割程で内容も〝形骸〟っぽい。

 荷風さんが亡くなった時のことは多くの方が書いているが、江藤淳が亡くなった様子は『妻と私と三匹の犬たち』巻末に、府川紀子(江藤夫人の姉の子)が詳しく書いている。氏は、手首と首筋にためらい傷を残して風呂場で亡くなっていた。末期癌の妻を献身的に介護し、妻の告別式を終えた後に倒れた。急性前立腺炎にともなう敗血症。退院後に『妻と私』を書き上げた数ヶ月後に脳梗塞。リハビリしつつ『幼年時代』執筆中に遺書「江藤淳は〝形骸〟に過ぎず」と記して亡くなった。

 江藤淳は一卵性とさえ言われた似た者夫婦で超愛妻家。漱石は妻・鏡子が自身を理解せぬと罵倒していて、荷風さんは二人の女性と各数ヶ月の結婚生活後に離婚し、後は独身を貫いた。女性関係だけでもかくも異なる三人が、夏目漱石という糸でつながっていた。江藤淳の「漱石・荷風」とは~。(続く)


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荷風、漱石夫人を叱る(漱石3) [永井荷風関連]

kyoukosan3_1.jpg 明治43年末、荷風さんは「大逆事件」(幸徳秋水、大石誠之助、菅野スガら12名処刑、獄死5名他)で捕えられて裁判所へ向かう囚人馬車を見た。文学者ながら何もできないことを恥じて、彼は江戸戯作者に身を下げると決意。江戸文化への傾倒を深めてゆく。

 慶応義塾教授4年目の大正2年(1913)、父死去(父は明治4年に米国留学。帰国後は文部省出仕の有能官吏)。自由になった荷風さんは、隠棲趣味が高じて大正5年(1916)に慶応教授、「三田文学」編集を辞した。同年12月9日、漱石49歳病没。

 それから11年後の昭和2年(1927)9月22日「断腸亭日乗」に、初めての漱石関連言及あり。他人の目に触れぬ日記ゆえ、遠慮ない怒りを吐いていた。

 それは漱石死の十余年後の「改造」に、夏目未亡人の談話を女婿松岡某・筆記文が掲載。「漱石翁を追従狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。また翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり。余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり」。

 そして続ける。「その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らずこれを訐(あば)きて差閊(さしつか)へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり。女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至ってはこれまた言語道断の至りなり」。

 荷風さん、花柳界の女性らとの付き合いが深いだけに、女性らの矜持・意気を心得ている。お付き合いある方の諸々を、軽々と他人に語るは愚の骨頂、御法度、最低なり。ここまで一気に記して、漱石とのお付き合いを述懐する。

 「(連載小説のことで)早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談笑したることありき。これ余の先生を見たりし始めにして、同時に最後にてありしなり」。そして「先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞとやかくと噂せらるることを甚しく厭はれたるが如し。然るに死後に及んでその夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。ああ何らの大罪、何らの不貞ぞや」。そして「余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり」と余計な事まで記して〆ていた。

 この文から、荷風さんは漱石と仲違いしたわけではなく、先生と尊敬しつつも文学、社会的スタンス違いゆえに没交渉を貫いたと思われる。一方、漱石には金魚の糞のように多くの若き文士らが集っていた。

 ついでに記せば、この文を記した昭和2年の翌日に「尽きせぬ戯れのやりつづけも誰憚らぬこのかくれ家(壺中庵)」の、二十歳の「お歌」を訪ひ倶に浅草の観音堂を賽すと記していた。また別の日の「日乗」には「わたしの〝独身〟は畢竟わたくしが書斎に閉籠っている時の間だけで、一度外へ出れば、忽ち一変して多妻主義者なると申しても差閊なない」。

 なお夏目鏡子述『漱石の思い出』松岡譲筆録は文春文庫刊。さらに漱石夫妻の長女・筆子を母に持つ半藤末利子著『漱石の長襦袢』(文春文庫)、その夫・半藤一利による『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫刊、新田次郎文学賞)も出版されている。半藤一利著には、荷風さんは明治43年3月、漱石門下の小宮豊隆を慶応のドイツ文学科講師にという打診で、もう一度漱石山房を訪ねていたと記していた。

 鏡子夫人は〝悪妻〟との評があるも、描いているうちに精神不安定の漱石を「好し好し~」と抱く大きな優しさもあったような気がしてきた。そうでなきゃ、あんた、30歳~43歳の間に七人の子作りが出来るワケもない。これ「倫理に勝る〝日常生活の勝利〟」。漱石さん、時には鏡子さんの授乳風景をうっとり見つめ、さらには自分もその乳房を含んだかもしれない。江藤淳は、漱石晩年の生・性の肯定についても言及しているような。半藤先生の漱石・荷風は後にし、その江藤淳の漱石・荷風を探ってみることにする。(続く)


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漱石と荷風さんの関係(漱石2) [永井荷風関連]

29saikafu1.jpg このシリーズは誤解なきよう、小生の無知・偏り・隠居の暇潰しと断っておかなければいけません。まず小生の若き読書体験の告白から。姉が購読の「世界文学全集」(古典)を読み、次に現代作家による「世界全集」。ここからドストエフスキーやヘンリー・ミラーなど好きな作家の全集を読んだ。翻訳小説ばかりではなく、日本の小説もと手を出せば、あの私小説の〝だらしなさ〟に辟易した。

 日本の小説に好きな作家が探せずに諦めていた処に、唯一荷風さんに惹かれた。エッセー風文体よし、その助平さ加減もよし。私小説の〝だらしない性〟とは違って陋巷、落魄、隠棲など〝やつし〟なる姿勢にピンと筋が通っている。彼が身を投じるのも江戸から続く花柳界、紅燈の女性らというのもいい。そこには失われゆく江戸情緒・文化への想い、プロの女らの矜持あり。文明開化や戦勝に浮かれて地に足がつかぬ輩らへの鋭く厳しい眼差しもあった。「いき(粋、意気。〝すい〟ではない)」なんだよ。

 日本の他の作家らとはずいぶんと違うぞと思った。早稲田の古本街で「荷風全集」を購い、古本市でも荷風関連書があれば概ね入手した。まぁ、かく偏り無学な爺さんの漱石と荷風遊び。まずは東京朝日新聞の荷風『冷笑』連載前後の夏目漱石の小説はどうだったか。朝日新聞のプロ作家になった漱石の最初の連載が『虞美人草』。次に『三四郎』『それから』『門』の三部昨。

 『三四郎』は田舎の高校を出て東京の大学に入った三四郎が、周囲の人々に影響されつつ、同郷の野々宮の相手・美彌子に惹かれる話。『それから』は三四郎ならぬ代助が、優雅な独身生活を送ってい、友人・平岡と三千代を結び付けたのはいいが、後で三千代に愛を告白。『門』の主人公は親友の妻を奪って結婚。罪の意識に禅寺へ~とか(ちゃんと読んでいない)。

 なぁ~んだ、全部〝三角関係〟じゃないか。それで漱石の同作執筆時は41~43歳。精神衰弱や胃潰瘍に痔を患いつつ、なんと二年に一人のペースで子を設けて五女二男の子沢山。そんなビッグダディが三角関係に悶々としている。限りなく〝野暮〟なぁんだぁ。こりゃ。やはり読む気にしねぇ。

 一方『冷笑』を書いた荷風は30歳。またも発禁本の類かと思いきや、自身の分身らしき幾人をも登場させて、明治の文明批評や江戸文化、深川礼讃などを存分に語らせていた。〝冷笑〟とは、当時の日本人の浅薄さに向けられたタイトル。同連載で初めて荷風を知った方々は〝文明批評家〟と思ったとか。

 だが荷風ファンには同小説の主人公・吉野紅雨(よしのこうう)の名が、荷風さんの二の腕内側の刺青「こう命」の、新橋芸妓の富松(吉野こう)の洒落で、そんな深間にあるも同じく新橋芸者の八重次とも〝交情蜜の如し〟と嘯いていることも知っている。漱石だって『坊ちゃん』では〝おれ〟に「人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない」と啖呵をきらせていたが、いつから小難しくなったのだろう。

 荷風さん『冷笑』の真面目な文明批評が功を奏したか、連載後に上田敏・森鴎外の推薦で慶応義塾教授に就任。「三田文学」を主宰・編集。放蕩息子が教授になって、両親が喜んだこといかばかりか。

 挿絵は明治41年、帰国直後の29歳の荷風さん。珍しい口髭写真。荷風と云えば浅草の裸の踊り子らに囲まれた助平爺さん風の写真が有名も、若き日の荷風はこんなに好い男。この時代にこの風貌〝女が放っちゃおかない〟。


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荷風好きに漱石は響かず(漱石1) [永井荷風関連]

souseki1.jpg 小生、永井荷風好き。荷風さんが好きだった江戸狂歌の代表、大田南畝も好きになったほど。荷風は小石川・金剛坂生まれだが、23歳より父が構えた新宿・余丁町〝来青閣〟で暮した。我家より歩いて行ける地。大田南畝の生誕地は牛込中徒歩町(現・中町)。

 そして我が家の窓から見える戸山公園の向こうが「夏目坂」。夏目漱石の生誕地。さらに東へ歩けば早稲田南町「漱石山房(終焉地)」。今年は「漱石生誕150年」とか。新宿区が講演やシンポジウム、記念館整備などで盛り上げている。

 小生恥ずかしながら告白すれば、教科書にも載る国民作家で千円札の顔にもなった夏目漱石の小説を一編も読み切ったことがない。どうやら荷風好きには〝漱石は響かない〟らしいのだ。

 漱石は江戸の最後、慶応3年(1867)生まれで、荷風さんより12歳上。帝国大学文科英文科から大学院へ。そして松山中学、熊本の高校で教鞭。鏡子と結婚。文部省より英国留学を命じられロンドンへ。神経衰弱で帰国。

 一方、荷風さんは明治12年(1879)生まれ。第一高等学校入試失敗。落語家の弟子、歌舞伎座作者見習いなどしつつ娼妓主人公などの小説群を発表。「親の顔に泥を塗る」と危惧した父が、24歳の荷風をアメリカへ旅立せた。ニューヨークで娼婦イディスとの耽溺生活を経て念願のパリへ。明治41年の帰国と同時に『あめりか物語』『深川の唄』『ふらんす物語』などを次々に発表。

 夏目漱石が教員を辞めて東京朝日新聞の職業作家になったのが明治40年。『虞美人草』(127回連載)発表後、翌41年に『三四郎』連載、明治42年にその二部作目『それから』連載、次が泉鏡花『白鷺』連載。その次に志賀直哉の予定も、彼の筆が止まって、急きょ永井荷風へ依頼。

 漱石の求めを森田草平(塩原で平塚らいていと心中未遂事件)が余丁町の荷風宅を訪ね、荷風さん快諾。漱石から挨拶状が届いた。「拝啓。御名前は度々の御著作及西村などより承り居り候處未だ拝顔の機を得ず遺憾の至に御座候。次今回は森田草平を通して御無理御願申上候處早速御引受被下深謝の至に不堪候。只今逗子地方にて御執筆のよし承知致候。御完結の日を待ち拝顔の栄を楽み居候。右不取敢御挨拶迄早々。斯如御座候以上。永井荷風様 金之助」。

 それは荷風さん帰国の翌年末。42年(1909)12月13日より『冷笑』連載(43年2月28日まで78回)。掲載終了後に上田敏・森鴎外の推薦で慶応義塾大学文科の教授に就任。「三田文学」を主宰・編集。

 漱石と荷風さん、ご近所ながら会ったのは掲載決定の挨拶のみで、以後一切交流なし。互いに文学スタンスの違いを認識していたのだろう。両者の溝は深く、荷風愛読の小生が漱石小説を読めぬのも、その溝の深さゆえだろうか。

 「漱石生誕150年」の今年はのんびりと、荷風さんがらみで漱石をお勉強してみようかしらと思った。荷風文献は全集、関連書多数を蔵書するも、漱石関連書は新潮日本文学「夏目漱石集」のみ。参考資料は出来るだけその都度記す。この挿絵はWindows「ペイント」で描いた。(続く)


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盗賊油断之躰ヲ見済し [くずし字入門]

komon3-4_1.jpg 古文書講座復習8 前回復習の続き。隠居とは云え、お勉強は淡々と続けましょ。

見勢(みせ)之銭箱(ぜにばこ)二有之候売溜銭(うりだめぜに)二而も可差遣旨(さしつかわすべくむね)申偽置(もうしいつわりおき)、盗賊油断之躰ヲ見済(みすま)し、表口ゟ(より)街道江欠出(かけだし)、押込ミ這入(はいいる)候旨、高声二罵り候へハ、跡ゟ右盗賊抜身ヲ持、追欠(おいかけ)参り候間、逃ケ出(いで)候へ者(ば)、右追欠参り候儘二而、両人共逃退(にげさ)り立戻り不申(もうさず)~

 ここで区切る。自分で筆写するも、出だしが読めず。箱の「竹冠」を書き忘れ「相」になっていた。お粗末でした。「欠出=かけだし」「追欠=おいかけ」には、ちょっと笑った。それにしても盗賊対応のしっかりしたことよ。この時代はそれくらいの気構えがないと生きてゆけなかったのかもしれない。

 こんな勉強だが、例えば漱石の候文手紙なんか、ルビなしでも音読できるようになるんですね。スマホを持って良かったことの一つは、出先の待ち時間などで、このブログを開いて「音読・くずし字」を覚えたりすることができること。

「ゟ」は「より」で変換できる。今回は「而(て)」は「しかして」で変換できることに気付いた。わざわざワード「IMEパット」を開いて旧字を得なくとも、かくなる要領で他の字も出せるかもしれない。

tozokulast_1.jpg今朝之義者(は)何二而(て)も紛失物無之(これなく)、且盗賊義紙合羽壱ツ捨置候、則(すなわち)持参仕候、逃退り候跡相尋候へ共、行形(ゆくかた)相知不申(あいしりもうさず)、依而(よって)此段御訴奉申上候、此後(こののち)手掛り等も有之候ハゞ、猶亦早速御訴可申上(もうしあげるべく)候、已上(以上)

 以上、文化八年の角筈村源介店へ入った盗賊の被害届。いつの時代も悪い奴がいて、それは今も変わりません。


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こぎ初めや大腿筋の張りうれし [新宿発ポタリング]

daitaisitoukin_1.jpg だらしなく年末を過ごして、久し振りに自転車に乗ったら(3日の新宿~上野往復)、少し太腿の筋肉が張った。爺さんにして若い時分のような〝心地よい筋肉の張り〟に思わずフフッ。昨年、北斎「悪玉おどり」シリーズで大腿四頭筋を描くも、理解不十分だったので改めて復習です。

 自転車のペダルを踏み込む筋肉は「大腿四頭筋」に違いなかろう。膝上内側の「内側広筋」、中央の「大腿直筋」、外側の「外側広筋」。これで三頭筋。もう一つは「大腿直筋」の深部(インナーマッスル)の「中間広筋」。

 「大腿直筋」と「中間広筋」の違いは、「大腿直筋」が股関節・膝関節につながっているも、「中間広筋」は股関節には無関係。膝関節だけにつながっている。そのさらに奥に「膝関節筋」がある。

 さて、こうして自転車遊びが出来るのも、あと何年あろうか。鍛錬するのもいいけれど、アスリートではないので、要は自転車に乗り続けることが肝心だろう。それで鍛えられ、筋肉維持が出来そうな気がする。

 おっと・と、自転車に長時間乗り続けるとインポになるという記事を見つけた。狭いサドルが肛門から陰茎下辺りの血管を圧迫し続けて血流を止める。血を失った陰茎には、骨も筋肉もないから姿形がなくなる。当日、そんなになって「ゲゲッ」と驚いた。

 絵はネットで「女性の物凄い筋肉写真」を見たので、それを参考に大腿四頭筋を描き確認させていただいた。


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〝こぎ初め〟と〝長蛇の列〟雑感 [新宿発ポタリング]

 三日、テレビは箱根駅伝・復路中継。「あたしも運動せねば」と自転車に乗った。目的地は上野の美術館。各美術館が年末年始も開館中。正月に世界の名画鑑賞もオツじゃないか、と思った次第。

 坂道を避け大久保~淡路町左折~上野のルートを選んだ。地下鉄「神楽坂」坂下方面に妙な行列あり。飯田橋「東京大神宮」前に出れば、その行列が同宮参拝の最後尾だと知って驚いた。

 淡路町左折で、神田川を渡れば外神田。ここも長蛇で「神田明神」の初詣の人々。さらに直進すれば片側交通規制。何事かと思えば「湯島天神」へ詣でる長蛇。その列は不忍池辺りから始まっていた。

 この人出に嫌や予感。案の定、上野は大賑わい。美術館の年末年始営業は〝書き入れ時(儲け時)〟なのだ。結局、自転車を降りることなく新宿~上野の往復だけと相なった。

 あたしは「並んでまで〇〇したくない派」。ラッシュの通勤電車が嫌で、初サラリーでドロップハンドルの自転車を買って、池袋~新宿御苑を走った。それにしても皆さん、よく並びます。それには〝同調行動・付加価値〟云々の分析があるそうだが、正月早々から凄い光景に立て続けに遭遇した。

 さらに自転車愛好家らにとっても〝走り初め〟の日と見えて、同じユニフォーム姿のグループ幾つかにも遭遇した。「おぉ、自転車に乗るにも群れるか」。長蛇の列、グループ(群れ)に加わらぬ小生は、新年早々に間違った人生を歩んで来たか、とショックを受けた。


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盗賊弐人立脇差之抜身を~ [くずし字入門]

komon3-2_1.jpg 「デジタルお絵描き」遊びもほどほどに、お勉強もしなければいけません。古文書講座復習7は(6)の続きで〝書き初め〟です。書き初め=吉書、試書、初硯、筆始め。小生の場合は「筆ペン+墨汁+コピー紙」の好い加減なもの。筆写するのも昨年の続きで、新年早々〝盗賊関連の古文書〟。

 前書の品々、家内之もの共一同臥居候所(ふせおり候ところ)、盗賊忍入(しのびいり)、右品盗取逃退(ぬすみとりにげさり)、翌朝二相成見付候間(あひなりみつけ候あいだ)、所々相尋(あひたずね)候へ共(そうらへども)、行形相知レ不申(ゆくかたあひしれもうさず)、其砌り(みぎり)御訴可申上処(おうったえもうしあげるべくところ)、手掛り等の可有之哉(これあうべきや)二存、是迄穏便二致置(いたしおき)、御訴も不申上段(もうしあげぬだん)奉恐入、然る処(しかるところ)、又候(またぞろ)今朝~

 長いのでここで区切る。「砌り=その折」は今は使われなくなった言葉だろう。「行形」は苗字(ゆきかた、いきなり、ゆきなり)があるも、ここでは〝ゆきかた=行方〟の意か。「相成・相尋・相知レ」など、やたら「相」が出てくる。古語辞典に「あい」はなく、あくまでも「あひ」。相には様々の意あるも、たびたび出て来る「相」は語調を整え、重みを加える意。「又候(またぞろ)=またしても、またもや」。そして今朝また盗賊に襲われる~

komon3-3_1.jpg今朝六ツ時頃、盗賊弐人立脇差之抜身(わきざしのぬきみ)を持、〆り有之(しまりこれある)候裏口之戸を押破(おしやぶり)、右様抜身持候儘二而、盗賊共申聞候者(もうしきかせそうらえば)、金子有之義(こんすこれあるぎ)を存知罷越候間、早々可差出(さしだすべく)、若不承知(もしふしょうち)二候ハ、切捨二可致旨(きりすてにいたすべくむね)、理不尽申之(りふじんこれをもうし)、返答当惑仕候故(つかまつり候ゆえ)~(続く)

 「右様(みぎよう)=右の様子、右の文章、右の通り、前述の如く」。この辺は古語辞典より「広辞苑」領域。ちなみに「左様(さよう)=その通り、そのよう」。「さようなら=左様なら=さようならば、しからば、そんなら」で別れの挨拶になる。脇差は武士が持つ「大小」の小。百姓町民も持つのが許されてい、弥次さん喜多さんも東海道中に腰へ差していた。


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若冲の〝酉〟で謹賀新年 [スケッチ・美術系]

tori.jpg 若冲の鶏(酉)をWindows「ペイント」で模写し、新年のご挨拶です。「酒」の「氵」がとれて「酉」。「酉」は〝取り込む〟で商売繁盛。「酉の市」の熊手にもなったとか すべて〝地口洒落〟でございます。

 Windows「ペイント」は、マウスで描く線がぶるぶると震える。若き日に老画伯に出会った。昼間から〝コップ酒〟ゆえ、アル中だったのかしら。手の震えで、絵筆をスポイトに換えた。キャンバスに絵具をぽたり・ぽたり~と垂らし、それは素敵な抽象的風景画を描いていた。

 江戸の絵師らにも、晩年の老人病による手の震えと闘った方々がいたらしい。若冲の晩年はどうだったのだろうか。この鶏の絵を見ると長い線がなく、その短い線も震えているような。背景には、筆の揺れがそのまま杉の葉?になったかの描き方。マウスで描く揺れ線に似ていた。

 小生も老いた。だが煙草・酒を止めたせいか、未だ手の震えはない。錆び付いた身体と頭をギコギコと動かしつつブログを続けます。今年もどうぞよろしく。


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