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島ロッジと運転免許証の相関 [暮らしの手帖]

kouresyakousyuu1_1.jpg 新宿・大久保と伊豆大島について記してきたので小生の「島のロッジと運転免許証の相関関係」を記す。年末に「運転免許証更新のお知らせ」がきて「高齢者講習修了証明書を持参せよ」。慌てて〝高齢者講習〟を受けるべく教習所へ電話をすれば「予約でいっぱいです」。日本中、高齢者ばかりなのだ。焦ってあちこちに電話をしまくる羽目になった。

 「上北沢自動車学校」がキャンセル有りで受け付けてくれた。いつだったか宮崎駿のテレビドキュメンタリー番組を観ていたら、氏が「高齢者講習会へ行ってきたよ」と共に受講の年配者らをスケッチした絵をスタッフに見せて「みんな、爺さん婆さんで驚いたよ」みたいなことを言っていた。氏も傍から見れば白髪翁だ。宮崎駿は1941年生まれゆえ、75歳以上の後期高齢者講習を受けたのだろう。

 小生も同年配の爺さん婆さんと一緒に受講。バイクや車は幾年も前に手放し済ゆえ〝免許返上〟をしてもいいのだが、島へ行けば車なしでは暮らせない。島では軽トラ・軽ボックスゆえ、教習所で乗る普通乗用車に不安があったも、まぁ無事に講習修了。

 免許更新は今は誕生日の前後一ヶ月。だがゴールド免許で誕生日前ならば、近くの都庁内の更新センターでOKで誕生日前日に行った。約30分で新免許証入手。今までは5年更新も、高齢者は3年更新。次は後期高齢者講習を受講してからの免許更新になる。

 どうやら今後は島のロッジ維持と免許証更新がセットで迫ってくる。一気に両方と手を切りましょうか。思案のしどころです。いやボケたら思案もままならぬ。さてさて~。今や日本の高齢者比率は4人に1人。島は平成20年で30%ゆえ、今は40%に近いのか。すれ違う車の運転手の2人に1人が高齢者となれば〝限界集落ならぬ限界離島〟になろう。

 それにしても市町村、いや国会議員もそうで、なぜに爺さんばっかりなのだろう。議員も若者(男女)中心で構成されなければ〝若者に魅力ある行政〟にはならず、明日を築く子らも産まれぬだろう。離島、いや日本の若者、爺さん連中に負けずに頑張れ・頑張れ!


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吉阪隆正『乾燥~』で百人町再考 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yosizakatizu2_1.jpg 都立中央図書館で『吉阪隆正集』より第12巻『地域のデザイン』を読んだ後、5Fカフェテラスでランチ。窓の正面が東京タワー。右を見れば竹芝桟橋辺り。そこで「あっ」と思い出した。

 昨年5月の練馬区立美術館「横井弘三の世界展」を観て、彼が若き日(昭和3年)に大島スケッチ旅行をした際の〝画と紀行文〟の書『東京近海 島の写生紀行』が、この図書館にあるのを思い出した。同書の長閑な時代の大島を楽しませてもらって、さてと仕切り直し~

 吉阪隆正全集の、今度は第4巻『住居の形態』と『乾燥なめくじ~生ひ立ちの記』を借りた。第4巻に〝百人町の吉阪邸の成り立ちと変遷〟が収録。だが、その部分は『乾燥~』の再編集だった。同書によって吉阪隆正の新たな諸々を知った。その中から幾つかをメモする。

★百人町の吉阪邸/大正12年(1923)、ジュネーブでシャトー暮しをしていた吉阪一家が帰国。百人町仲通り北側の柴田雄次氏の地に建てられていた大内兵衛(父の五高時代の友人で、当時は東大教授)邸を譲り受けた。ドウダンツツジの垣根内敷地真ん中にイギリス風ボーウィンドー(弓型に張り出した出窓)のある応接室。縁の下が三尺以上も高い大谷石ピロティの上に建てられた二階建て。床下に石炭ボイラー、応接室にユンケル(貯炭式)ストーブ。スケッチを見れば豪邸なり。それで夏は軽井沢の別荘へ。彼は昭和17年の召集までをここで過ごした。

★兵役/住居についての卒論調べで北支満豪へ。召集を受けて北京から姫路(実家は代々の造り酒家)の連隊へ。幹部候補生隊から満州飛行機の監督官、そして習志野で中隊長教育。南鮮の光州で終戦。百人町の自宅はB29空襲で焼失していた。 

★バラックを建てる/昭和22年(1947)、跡地にバラックを建てる。住宅に困っていた友人らにも敷地を解放。(同書掲載のスケッチを幾つか簡易模写しておく)

★ル・コルビュジエ時代/戦後最初のフランス政府給費留学生となってコルビュジエのアトリエ勤務。住居は〝薩摩会館〟こと日本館学生寮。映画「パリの空の下セーヌは流れる」に折り畳み小径自転車(プジョーかルノー製だろう)で走り抜ける吉阪の姿が一瞬映っているとか。あたしは隠居してから折り畳み小径自転車にのっている。

★帰国後に自邸設計/~をするも各国へ飛び回ること多々。昭和36年(1961)4月から翌年10月までアルゼンチンのツクマン大学招聘教師。帰国すると吉阪邸には大学の研究生らが入り、南米の留学生夫妻が土足で生活。邸宅を大改造する。

★吉阪邸の位置/吉阪邸の南側に「三葉マンション」が建って、母らが入居とあった。同マンションは今もあるから、行けば吉阪邸があった場所がわかる。この一画は冒頭紹介『大久保の七十年』を記したのが徳永康元で、今も徳永家の表札の家が残っている。昭和初期の百人町の面影が残る貴重な路地になっている。昭和40年から数年、この地から若き建築家らが大島に幾度も渡っていたんだと思った。

★江藤淳の連れ込み宿/「三葉マンション」の前に今はないが「KBマンション」があって、吉阪家の子らが入居していたとか。同マンションは元・温泉マークの建物で、流行らなくてマンションに改造と記されていたと記されていた。そこで「アッ」と思った。実は江藤淳が昭和40年(大島元町大火の年)5月に〝母の思い出が唯一のこる跡地〟を訪ね、温泉マークの旅館が建設中で痴態を写す大鏡設置を見て「顔から血がひくのを感じて眼をそむけた」から「私に戻る〝故郷〟などなかった」と記していたが、それを最初に読んだ時は、この辺には連れ込みホテルなどなかったはずだが、と思っていたんだ。それが吉阪隆正の記述でこの辺りにもそんな宿があったと認識した。

★崇拝者のその後/江藤淳は「崇拝者が死に絶えると、その神話化は霧散霧消する」と書き出して「夏目漱石論」をものにした。吉阪隆正もまた多くの建築家が崇拝するカリスマ的存在。今後にも注目したい。

(〝大久保と大島を結んだ建築家・吉阪隆正〟1~5はカテゴリー「週末大島暮らし」に収録。この項6のみ「大久保・戸山ヶ原伝説」とした。完)


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「大島元町復興計画書」を見る [週末大島暮し]

namekuji1_1.jpg 大島へ行かずとも吉阪隆正チームによる「大島元町復興計画書」を見ることが可能かしら。東京都立中央図書館に『吉阪隆正集全17巻』があった。第12巻『地域のデザイン』に「大島元町に対する提案」と「大島元町復興計画」が収録。

 広尾駅下車、有栖川公園の都立中央図書館へ。同書を見たが、それは全てではなく僅か8頁のみ。そのリード文は次の通り。「大火の翌日、吉阪隆正を中心とするDISCONT(不連続統一体)グループは、元町再建案を作成し、ただちに現地にとび、地元住民組織および町、都関係者に提出した。これが吉阪研究室と伊豆大島の出会いとなり、以降1970年まで続く諸調査計画のスタートとなった」

 最初の提案は、港へ向かう緑の道路、公共機関を配置したシビック・センター、店舗をアーケード中央に納めて上部に民家を設けた山型建築(雛壇風)の提案。これが未だ残り火がくすぶるなかの提案で、住民を驚かせ、かつ夢と勇気を与えたらしい。

 ここから区画整理事業が住民積極参加で始まった。上からの復興施策への批判も活発で、吉阪研究室を中心とした調査計画案が元町復興協議会など地元住民に支持され、同年9月に正式に町より復興計画依頼を受けることになって、以降1967年に至るまで、様々な調査と計画、提案がなされた~と記されていた。

 同書には、その第1次報告書段階の「区画整理への提案と将来ヴィジョン/全体再建計画書、水取り山計画、参道・遊歩道計画等」が掲載。続いて第2次、第3次報告書が提出されたそうだが、それがどんな内容だったかも気になる。

 また同交流が深まって、島南部の設計なども頼まれたらしい。ネット検索では「旧波浮小学校、第3中学校、体育館兼講堂、大島町役場、野増出張所、野増灯台、庁舎、図書館、吉谷公園、公衆便所~」など〝大島一連の仕事〟列挙されたりしているが、それら計画書・設計資料には出会えず、それらが果たして吉阪チームによるものだったかは定かでない。

 東京都立中央図書館にも「昭和40年・元町大火」関連の資料はまったくない。この辺は島民の方でないとわからないのかもしれない。またそれらは吉阪隆正の代表的建築とも言えず、明示に至らずと解釈されているのだろうか。願わくは吉阪チームが手掛けた建築一覧、または写真一覧など見てみたい。まぁ、それが叶わゆえに、ここは吉阪チームによって「町つくり」、「発見的方法」、住民参加の「ワークショップ」などが生まれたと認識するだけでいいのかも知れない。またここで生まれた考え方は、平成25年(2013)の台風26号による土石流災害からの復興にあたっても参考になったらしい。

 以上で当シリーズ・完としたいが、そもそもが「大久保と大島」がテーマゆえ、最後に吉阪隆正著『乾燥なめくじ』で新たに知った百人町の吉阪邸などについて記しておきたい。(大久保と大島を結んだ建築5。6へ続く)★挿絵は『乾燥なめくじ』表紙模写とメモなど。


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語られる「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]

 「You Tube」にアップされていた吉阪隆正に関する膨大インタビュー集より、各氏(教授ら)が「大島計画」で語っていた要点を、発言者名を省略し、小生補足付きで以下に箇条書きでメモってみた。

それは元町大火翌日に始まった:1965年1月11日、伊豆大島元町の大火映像を見た吉阪隆正は、その晩に(復興案)スケッチを描き、翌日に早大産業技術専修学校(現・早大芸術学校)の生徒に託して大島の役場へ届けさせた。まだ火がくすぶり、消防車が走りまわっている最中の〝復興計画案〟に役所は腰を抜かした。そこから都・役場・住民と一緒の区画整理が始まった。

吉阪隆正と大島の出会い:昭和13年(1938)9月18日、日独伊三国同盟でヒットラーユーゲント(ナチスの少年組織)23名が来日し、日本の青少年と合流来島。吉阪正隆は官僚の息子で語学堪能ということで参加したらしい。その時の大島の印象が鮮烈で島に親しみを持っていたらしい。(ヒットラーユーゲント来島は「大島小史」や「懐かしの写真集」にも記録あり。当日の様子が詳細レポートされた『島の新聞』は小生の手元にもある)

復興の夢と勇気を語った吉阪:吉阪チームが島に着くと、波止場に町長らの黒塗りの車が待っているも、吉阪はお構いなしのいつものマイペースでスケッチを始めた。しようがないからスタッフが車に乗って役場(焼失しているから仮役場だろう)へ。吉阪はミカン箱かなにかの上に立って「さぁ、素晴らしい町を作って行こう」と演説して島民に夢と勇気を与え励ました。

水取り山計画:島は水が大事。三原山砂漠に石を古墳状に積んで穴を開け、そこに昼の空気が入って夜に冷えて水が出来る。砂漠に三葉虫のようなそんな石積みを幾つも作って池に水を貯める。そんな夢のようなアイデアにスタッフは呆れつつも、次第に図面引きに夢中になっていった。

世界初のボンネルフ完成:ボンネルフ(またはボンエルフ。オランダ語で「生活の庭」の意。車道を蛇行させてスピードを落とさせ、歩行者との共存を図った道路)は1972年にオランダの都市デルフトで始まった、とされるが、この復興計画(1966)でいち早く伊豆大島で誕生していた。世界初のボンネルフだったが、町長が変わって〝これからは車社会だから〟と真っ直ぐに直されてしまった。

日本初のワークショップ:復興へ向けて住民が多数参加の懇談会が大いに盛り上がった。上への批判を含めた闊達な議論で、今和次郎のような案が次々に出てきた。今でいう「ワークショップ」が伊豆大島で誕生した瞬間だった。

★「発見的方法」の確立:それは上から目線ではなく、島に蓄積されていた知恵、眠っていたもの、潜んでいたもの、見捨てられていたものを再発掘し、それらを現代的にどう再生して財産にしてゆくかという都市復興計画の考え方で、それはこの「元町復興計画」で確立されていった。それは今も早大の都市計画の伝統になっている。

市街地と沿岸地の計画:斜面が多い元町の地形を生かした町つくり。椿を取り入れた町つくりや、火山岩を利用したペイメント採用。そしてドラマ性を大事にした海岸計画が練られた。

吉谷神社への参道:海から吉谷神社への参道に、都電廃止で不要になった御影石を轢く案を提案。それは今も遺っていて、後年に当時の吉阪スタッフが島へ行った際に、老人会の方々が掃除をしていた光景をみて感動したそうな。(同時期に銀座辺りを走っていた都電が廃止されているから、それら石は銀座辺りの石かも)

 以上が「You Tube」で各氏が語っていた主な内容。ここで語られた昭和40年の元町復興計画の考え方は、少なくとも1億9千万円の建造費、かつ維持費も多額な巨大「シン・ゴジラ像」建造案よりも大切な〝町(島)おこし〟の考え方があるような気がする。(大久保と大島を結んだ建築4。5へ続く)


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謎の「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]

motomatitaika3_1_1.jpg 前述の通り元町の「図書館」が吉阪らの設計ならば、それは元町のT字路際ゆえ必ず眼にしてきた。だが残念ながら中に入ったことはなく、そのうちに朽ちて行った。また彼らの設計だという学校の多くが今や廃校になっているのでは~。

 もう少し吉阪チームの手掛かりはないだろうか。ネットには国会の災害対策特別委員会の速記「東京都大島町元町復興計画案」の文言があるも、これは建設省地方局による?区画整理中心の案らしい。次に分厚い『大島町史』をひもとくも〝吉阪隆正〟の名は出て来なかった。

 大島町サイトの「町小史」を見る。昭和41年1月(元町大火翌年)、早稲田大学吉阪教室による「新しい町づくり」展示会。5月大島支庁・新庁舎完成、7月野増出張所完成の記述。それらが吉阪チームの設計との明記なし。大島庁舎とは現「大島町開発総合センター」のことならば昭和59年竣工で、大島支庁のことだろうか。支庁長宅(官舎)へ伺ったことがあるが、昔のことで記憶定かではないが、妙にモダンだったような気もするが~。

 吉阪隆正「大島元町復興計画」はかくも謎に満ち、次第に謎解きへ惹き込まれて行く。さらにネット検索するとサイト「木村五郎資料館の日記」に次の記述あり。引用させていただく。「昭和40年の大島元町大火の際にいち早く焼失した街を再生するための復興計画を町に示した建築家が早稲田大学の吉阪隆正氏だった。どういう訳だが私の書棚にこの復興計画書が3冊ある」、「吉阪先生が設計した建物が残る旧波浮小学校で毎年夏に〝アートアイランドTOKYO国際現代美術展〟が開かれている」。

 続いて伊豆大島ナビ「伊豆大島漁業協同組合・加工部」の方へのインタビューに「旧波浮小学校は建築家吉阪隆正氏が関わった大島復興プロジェクトの時代に生まれた小学校。全体的に船舶をイメージした設計デザインが施されており、ユニークな構造」とあった。

 元町ではなく島南部の設計が多いのは何故なのだろう。その全貌がますますつかめなくなってきた。これで探求を終われるわけもない。今度はな・なんということでしょうか、「You Tube」に32名の建築家・都市計画家・歴史家による「吉阪隆正」についての膨大なインタビュー集がアップされているじゃないか。

 そのテーマをアトランダムに列挙すれば~教育者/吉阪から学ぶこと/多言語/呉羽中学校/自邸(例の大久保百人町の)/逸話/U研究所/コルビュジエ/住居論/ヴィラ・クゥクゥ/八王子大学セミナーハウス/言われたこと/油土/高田馬場の都市計画/いなかった/箱根国際観光センターコンペ~等々。

 その中の1テーマに「大島計画」と題された2編がアップされていた。語っているのはきっと建築界で名を成す方々なのだろう重村力、樋口裕康、富田玲子、地井昭夫、濱田甚三郎、古谷誠章、田中茂夫、石山修武、後藤春彦氏他。すでに故人の方もいそうです。

 夏目漱石に〝漱石山脈〟があったが、早大建築系に〝吉阪山脈〟のようなものがあって、門下生総出演のインタビュー集っぽい。興味ある方は直接アクセスして観て下さい。ここでは「大島計画」で語られていた要点を発言者省略でメモしてみる。(大久保と大島を結んだ建築家3.4へ続く)

 ★挿絵は昭和40年の元町大火の跡。元町の約7割が焼失。罹災408世帯1273人。「伊豆大島懐かしの写真集」を見て描いてみた。煙突は当時あった銭湯のものらしい。


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吉阪隆正と大島 [週末大島暮し]

yosizaka2_1.jpg 先日(2月8日)の新聞に吉阪隆正と同じくル・コルビュジエに師事した3人のうちの一人「前川國男」の建築が脚光を浴び、全国8自治体が協力イベント・観光ツアー開始の報があった。

 ならば吉阪隆正の「大島復興計画」が改めて脚光を浴びても良さそうなものだが、そんな動きもなく、彼らが大島のどの建物を設計、遺したかも定かではない。前述の著作『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』より彼がどんな建築家だったを知るべく経歴を簡単にまとめてみた。

 大正6年(1917)生まれ。父・俊蔵は内務官僚、母・花子は日本最初の動物学者・箕作佳吉の次女。4歳で父の赴任地スイス・ジュネーブに移住。2年後に新宿大久保百人町に移住。小学6年を終え、昭和4年(1929)に再びジュネーブへ。5年間、同地の学校を卒業。翌1年間を英国エジンバラで学んで16歳で帰国。17歳より再び百人町に在住。早稲田高等学校から早大建築学科入学。たぶん高校生時代だろう、昭和13年(1938)のヒットラーユーゲント23名の青少年一行が来日して伊豆大島を訪ねた際に、吉阪は語学堪能ということで選ばれたのだろう、日本側の少年代表として一緒に来島した(この件は後述する)。

 昭和20年(1945)百人町の家が空襲で焼失。翌年、早大講師。百人町にバラックを建てる。彼の師・今和次郎が彼のバラックをスケッチ。昭和24年(1949)、早大工学部助教授。翌年、フランス政府給費留学でル・コルビュジエのアトリエに勤める。昭和28年(1953)に自邸設計。日本山岳会理事。昭和34年(1959)、早大理学部教授。翌年、早大アラスカ・マッキンレー隊隊長。以後ヨーロッパ、アフリカ諸国へ。山荘(涸沢ヒュッテ等)やアテネ・フランセ、八王子の大学セミナーハウスなどを設計。

 コルビュジエ師事の建築家にしては代表建築が少ない。彼はどうやら前川國男や板倉準三とは少し違った存在らしいのだ。暮沢剛巳『ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男』によると、吉阪は他の二人より一回り年少。かつ〝コルビュジエに憧れての師事〟でもなかったらしいのだ。

 早大理工学部助教授になって、マサチューセッツ工科大学への留学が叶わず。得意の仏語からフランス政府の給費留学生試験に合格。(文部省に勧められて?)コルビュジエのアトリエ勤務。ゆえに帰国後にコルビュジエ風建築を次々に建てるというよりも、彼の哲学に触れ、彼の著作翻訳などで活躍。(夏目漱石に〝漱石山脈〟があるように、吉阪隆正にも〝吉阪山脈〟とも言える多数建築家が育って、それぞれが違った〝吉阪とコルビュジエ〟について語っている)

 さて、小生は建築の部外者ゆえ、その辺は飛ばして彼の年譜の先を読み進んでみる。昭和40年(1965)大島元町大火の復興計画書を提出。2年後に大島:庁舎、図書館、野増出張所、吉谷公園等。翌年に差木地小学校、第1,5中学校、クダッチ更衣室、商工観光会館とあった。

 小生は平成3年から大島通いをしている。狭い島、人口も現8千名。狭い世界だが「あの建物が吉阪の」、また「吉阪隆正」の名も「大島復興計画書」の話も耳にしたことがない。何故だろうか。謎が謎を誘って調べずにはいられない。次に何がわかるだろうか。(大久保と大島を結んだ建築家2。3へ続く)


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大久保と大島を結んだ建築家 [週末大島暮し]

yosizakahyaku1_1.jpg かつての〝大久保文化村〟には社会主義者、画家、文学者、学者、音楽家、軍人、アナキスト~とあらゆるジャンルの方々が暮らしていた。そして忘れてはいけない建築家がいた。

 江藤淳の生家近くにル・コルビュジエに師事した3人の日本人の一人、吉阪隆正が「百人町3丁目317番地」(大久保駅の北側)に住んでいた。彼はなんと!伊豆大島の昭和40年元町大火の復興計画に携わっていたらしいのだ。〝あぁ、なんで今まで気付かなかったか〟。

 同氏を知ったのは夏目漱石がらみで読んだ『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』掲載の徳永康元(言語学者、ハンガリー文学)の『大久保の七十年』だった。「大久保の町は、大正十二年の関東大震災では全く被害を受けなかったので、江戸以来の百人組の子孫こそ数すくなったにせよ、第二次世界大戦中の疎開や空襲で散り散りになるまでは、私の家の横丁でも、いわば大久保の二世に当るわれわれの世代は、お互いに幼い頃からの顔なじみばかりだった」

 と記し、ご近所を紹介。「仲通りから北へ入るこの横丁の角には、東大理学部の教授をしていた私の母方の伯父(柴田雄次)が住み、その北隣にはクリスチャンで社会運動家の益富政助氏、更にその隣には国際労働機関の政府委員だった吉阪俊蔵氏の家があった。この家ははじめ大内兵衛の住宅で、吉阪の家になった。氏のジュネーブ駐在中は、たしか前田多門氏の仮住まいになっていたこともある」。なんだか凄い方ばかりだ。

 そして中学時代の遊び相手は「私より三つ四つ下の従弟の柴田南雄君や、同じ横丁の吉阪隆正君たちだった。後年、南雄君は作曲家として、隆正君は建築家として名をなした。その後、柴田家は戦災後にこの土地を去り、吉阪君は六十代の前半に亡くなって、彼が戦後に建てた師匠コルビュジエ流の異色ある住宅もこわされてしまった。吉阪君の遺書『乾燥なめくじ』(昭和五十七年)には、大久保の思い出が詳しく記されている」

 小生は未読だが『新宿・大久保文士村界隈』の著者・茅原健氏は同書から吉阪隆正の家の位置を紹介していた。さて、百人町に建っていたというル・コルビュジエ風の家とは。気になって吉阪隆正を新宿図書館の蔵書検索をすると「戸山図書館」に『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』なる書が一冊だけヒット。同書は師弟らによるアフォリズム風内容で、部外者にはわかり難い内容だが、氏が昭和23年、焼け跡の百人町に建てたバラックを「今和次郎」がスケッチした絵や、例のコルビュジエ風の実験住宅の写真が載っていた。(挿絵は小生がクロッキー帖に簡易メモしたもの)

 実験住宅には、早大の建築学科教室の吉阪研究室が「U研究室」になってプレハブで隣接された。日々、そこに集った青年建築家らが熱い議論を交わしながらヴェネチア・ビエンナーレ日本館、海星学園、日仏会館など次々に有名建築を生み出していったらしい。

 そして昭和40年(1965)、伊豆大島の元町大火。吉阪とそこに集う青年建築家全員が即座に反応して「大島復興計画」書を作成して島に渡ったとあった。さて、吉阪隆正とは、その「大島計画」とは?(大久保と大島を結んだ建築家1。6まで続きます。)


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江藤淳の〝故郷〟探し(漱石付録4) [大久保・戸山ヶ原伝説]

etohisofu3_1.jpg 次に気になったのが江藤淳の生家。『作家の自伝75「江藤淳」』の年譜に「昭和8年12月25日、東京府豊多摩郡大久保町字百人町3丁目309番地に江頭隆・廣子の長男として生まれる」とあった。当時の地図を見ると、それは新大久保駅と大久保駅のほぼ真ん中から北への横丁を入って、陸軍用地までの中ほどか。

 江藤淳は『戦後と私』にこう記している。「昭和四十年五月のある日、家の跡を探しに行った私は茫然とした。もともと大久保百人町は山手線の新大久保と中央線の大久保駅を中心とする地域である。新宿寄りの一、二丁目は商店が多く、大久保通りから戸山ヶ原寄りの三丁目は二流どころの住宅地であった」

 江戸のツツジ名所の趣をとどめ、近所は学者の家や退役軍人の家が多く、ドイツ村(初期日本楽壇に貢献した外国音楽家たちが住む一画)もあったと記して~

 「私が茫然としたのはその一切が影もかたちもなくなっていたからである。そのかわりに眼の前に現れたのは温泉マークの連れ込み宿と、色つき下着を窓に干した女給アパートがぎっしり立ち並んだ猥雑な風景であった」

 そして「探しあてた家の跡にたどりつくと、私は新しい衝撃をうけた。敷地内に建ったという都営住宅は一軒をのこしてとり払われていた。更地にしたところに三階建の家が新築中であり、板囲いのあいだから見るとそれは疑いもなく温泉マークの旅館になると思われた。母が死んだのはつつじの季節であった。しかしつつじはなくて植込みのあったあたりも建築現場になり、職人がふたり痴態をうつすべき鏡を壁にはめこんでいる姿が見えた。私は顔から血がひくのを感じて眼をそむけた」

 江藤淳は「これが私にとっての戦後で、私に戻る〝故郷〟などはなかった」となる。子供時分の記述では、4歳で母が病死。父が再婚。戸山小学校入学も病弱で通学せず(どの本だったか、小便を漏らして登校拒否になったらしい)で、小3で義祖父の隠居所の鎌倉へ。昭和20年5月25日、B25の大空襲で生家焼失。数日後に父と共に庭に埋めた陶器を掘り出しに戻ったとも記していた。

 江藤淳『一族再会』でも自身のプロフィールを詳細に記している。空襲で母の思い出が唯一残る百人町の〝故郷〟を失くした。親族らが作って来た明治の結果が、この有様を招いたが「そうは言っても失ったものへの深い癒しがたい悲しみという私情ほど強烈な感情はない」と、彼は亡き母の姿を求め、さらに大日本帝国海軍を作った祖父、祖母の母や父らの姿を求めて明治へ遡って行く。

 その親族を簡単に記せば祖母の父・古賀喜三郎は、官軍・佐賀藩の砲兵隊として奥羽追討に参加し、帝国海軍へ。(半藤一利夫妻はそれぞれ長岡に疎開して薩長嫌いになったのとは逆だな) 退役後に「海軍予備校」を創立(後の現・百人町の海城中・高等学校。江藤淳が登校拒否した戸山小学校の前)。祖母は喜三郎と同郷出身の海軍兵学校主席の江頭安太郎と結婚。母の父は潜水艦作戦の専門家・宮治民三郎。

 江藤淳は〝故郷〟探しを親族に求めて、次第に明治政府を理想とする保守派志向を深めて行ったと思われる。その原点が百人町の母、生家を失った〝故郷喪失〟にあったと言ってもいいだろう。★挿絵は江藤淳の曾祖父で海軍少佐だった古賀喜三郎。


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我が地も漱石・荷風がらみ(漱石付録3) [大久保・戸山ヶ原伝説]

sousekisanbo1_1.jpg 漱石を荷風さんがらみで調べていたら、我が在住地一画に漱石死後の夏目家、荷風さんの弟らが住んでいたとわかった。茅原健著『新宿・大久保文化村界隈』を読むと、その資料引用に概ねこんな内容が記されていた。

 「明治45年生れの森村浅香(小説家豊田三郎の妻で、森村桂の母)が、大正13年から西大久保3丁目に在住。大久保通りを越えた戸山ヶ原の隣接地で、現・大久保2丁目。その辺りはお屋敷という程でもないが静かな住宅地。家の隣が早大の宮島新三郎、片上伸の両先生が前後して住んでいて、数軒先は帝大の和田健三先生。隣の横丁に永井荷風のお兄さん(実弟・威三郎の間違い)がいて、松岡譲(夫人は夏目漱石・長女)の家もあって、人力車に乗った漱石夫人を見かけたことがある」

 また『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』には、森村桂の随筆『わが青春の街 新宿の田辺茂一のおっちゃんと』掲載。3歳まで西大久保に在住。疎開して小3(昭和23年)で同地に戻って家を建てた。19歳の時に父死去で、アパートに建て替えた。24歳の時に原稿書きの隣の部屋にヤクザが入居。追い出すまでの顛末を書いていた。また同書には徳永康元『大久保の七十年』も掲載。

 さて、話を進める。荷風さんの実弟は放蕩の兄を嫌って絶縁して母と住んでいた。住所は淀橋区西大久保3丁目9番地(現・大久保2-2-9)。ここで「エエッ」である。同番地は我がマンションの斜め後ろ辺り。(今は一帯がマンションばかりだが)

 これは2011年3月の弊ブログでも書いたことがある。東日本大震災で休んでいたブログ再開にあたって、地震で本棚の上の荷風全集が落下したと書き出して、荷風さんは関東大震災の3日後に、母の安否を確認すべく威三郎の家の門を叩くも、世情不穏に警戒した家人が門を開けない。見かねた隣人の〝紳士風だから〟の忠告でやっと門を開けてもらって母の無事を確認。母は実家・鷲津家が上野に避難と聞き、消息を尋ねてくれと頼む。

 麻布・偏奇館から大久保まで歩いて疲労気味の荷風さんに、威三郎の妻が同行。結局母の実家の消息は確認できず。クタクタの荷風さんは自警団に尋問されて弟の妻に助けられ、かつ彼女に背負われるていたらくで大久保に帰ってきた。荷風さん、こんな格好悪いことは「日乗」に書けないから、その日の日記は「初めて弟の妻を見る」とだけ記した。

 以上は松本哉『荷風極楽』からの引用で、それを読んだ時に、ひょっとして我がマンション辺りと思っていたが、それが間違いなしと確信した。そして同じ一画に夏目家も住んでいたという記述に遭遇。これは半藤末利子著『漱石の長襦袢』で確認した。同書に一言だけ「やがて夏目家は西大久保(番地は不明)へ、そして上池上へと移った」なる文があった。これで森村浅香述の裏がとれた。

 それは漱石が亡くなった7年後。鏡子夫人が長女・筆子と結婚した松岡譲に同居を頼む。松岡は漱石山房が後に文化遺産になると保存に動き出す。借家を大家より2万円で購入。山房を保存し、9人家族が住める豪邸を敷地内に建てた。大震災に住まいはビクともせぬが、山房が大きく揺れた。保存を心配して〝漱石山脈〟の門下生らに図るも、一番若い弟子・松岡の意見に誰も耳を貸さない。

 そのうちに漱石全集が売れ出して、鏡子夫人の浪費が始まった。昭和19年、松岡一家は長岡市に疎開。(筆子の娘・未利子は同じく長岡に疎開中の半藤一利と出会ったのだろう)。戦後、夏目家の地を東京都に払い下げ。かくして西大久保へ移転したのだろう。

 ★新宿区はいま漱石記念館建築中で今年9月に開館らしい。挿絵は漱石山房のベランダで寛ぐ漱石さん。なにベランダの手摺りが上手く描けていると。これは我が大島ロッジのベランダと同じ。ベランダの手摺りの作り方ってぇのは明治の頃から変わっていないんだなぁ、と妙な所で感心した。


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漱石「野々宮」の家は?(漱石付録2) [大久保・戸山ヶ原伝説]

natumezaka_1.jpg 武田勝彦『漱石の東京』が図書館にあった。漱石の小説に登場の東京各地の蘊蓄。川本三郎の散歩本と同ジャンルかな。同書を手にしたのは10年程前に氏の『荷風の青春』(1975年刊)を読んだから。同書は荷風さん24歳からの滞米・滞仏4年間の足跡を、実際に現地を訪ねて実像に迫った労作。氏もまた漱石・荷風の両書読み手なのだろう。

 『漱石の東京』は、自転車散歩好き小生にはお馴染の地がほとんどだが、今回は小生在住の「大久保」に注目した。まず〝三四郎〟が野々宮の移転先、大久保の家を訪ねて留守番をする場面。淋しい秋の宵の口に、大久保駅近くの轢死事件に遭遇する。

 さて、野々宮の家はどこだろう。氏は三四郎が歩いた道筋と轢死現場から推測して「現・百人町2丁目26番地の一画」と推測。その参考文献に東大名誉教授・大内力『百人町界隈』、東京外語大名誉教授・徳永康元『大久保の七十年』、千葉大名誉教授・清水馨八郎の昔語りを挙げていた。

 ここから伺えるが、当時の大久保は学者、画家、文学者、社会主義者、外国の音楽家など多数が居て〝大久保文化村〟が形成されていた。(今はコリアンタウンぞな、もし) その「百人町2-26」は現住所ゆえ、地図を見ればすぐわかる。大久保駅から東中野方向へ線路沿いに歩いた右側辺り。

 だが野々宮は寺田寅彦モデルで、寺田は百人町に住んでいないから漱石のフィクション設定。漱石はこの辺をよく歩き回っていて、他作家らが戸山ヶ原で漱石と会ったことなどを書き残している。そして当時の大久保在住者らが記した地名は、当然ながら当時表示ゆえ、現在地を確認するのに苦労する。

 そこで大久保の住所表示変更と発展過程を知るために明治、大正、昭和初期・中期の地図が必要で、手元に年代別の幾枚かの地図コピーあり。例えば国木田独歩が「明治40年に西大久保133に転居」とあれば、明治44年の地図を見て、それが現・大久保通りの金龍寺の反対側の道路際とわかったりする。

 また大正1年の地図は国会図書館デジタルコレクション「東京市及び接続部地籍地図」の下巻「豊多摩郡」の「大久保村百人町」がパソコンで閲覧できる。そんな遊びで小生は渡欧前の藤田嗣治の新婚所帯の表示を発見したことがあった。今回も前述の野々宮の住所確認に当時の地図、資料を見ているってぇと、小生在住地辺りに夏目家や荷風さんの実弟が住んでいたことを発見?して、ちょっと驚いた。(続く)

 ★写真は夏目坂「夏目漱石誕生地の碑」。かかぁが「今夜は餃子」ってんで、早稲田の「餃子の王将」でテイクアウトと決めた。我家から箱根山の戸山公園を縦断して早稲田へ。途中の白梅に二羽の「メジロ」。小さな池に望遠レンズの方。なんと眼の前にカワセミがいた。かかぁが餃子購入中に道路向こう側を見れば、この生誕百年記念の碑あり。スマホフレームに「やよい軒・海鮮チゲ」が入るのもご時世かなです。帰路、鳥の囀りに見上げると今度は「エナガの群れ」がいた。今日は好い日だった。


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江戸っ子は椿嫌い?(漱石付録1) [永井荷風関連]

tubaki1_1.jpg 漱石シリーズで何冊かの本を読み、別テーマで気になる幾つかの記述に遭遇した。半藤一利『永井荷風の昭和』に、江戸っ子の氏が漱石や荷風さんの〝薩長嫌い〟を語る項で、こう書き出していた。

 「兵庫県加西市にある県フラワーセンターの職員滝口洋佑氏が、椿の花がなぜ嫌われるか、という研究成果をまとめたという新聞記事(神戸新聞一九九三年一月八日夕刊)を読んで大いに自得することがあった」

 伊豆大島にロッジを持つ小生には、読み捨てならぬ記述なり。島の観光目玉は椿。目下〝椿まつり〟開催中で、先日の朝刊にも一面広告出稿(たぶん都の補助金がらみで~)。半藤氏の同文は概ねこんな内容で続く。

 「〝武士の首がぽとりと落ちるようで縁起が悪い〟との俗説は、明治時代につくられ広まった。幕末から明治初めに薩長の侍に〝やられっぱなし〟の江戸っ子が、椿好きの薩長らが大手を振って歩くのに対する鬱憤晴らしで言い出し、それが広まって江戸っ子に椿が嫌われた」

 そして氏は夏目漱石『草枕』を引用。「余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い」、「落ちてもかたまっている処、何となく毒々しい」等々。

 これを「椿=薩長人」に置き換えて読めば、精一杯の拍手を送りたくなってくる。漱石が『草枕』で椿をそう記したのも〝そうか・それでか〟と合点がいったと書いていた。

 漱石テーマで「椿嫌い論」に遭遇するとは思わなかった。引用のみではいかんゆえ、滝口某の記述を探したが見つからず。「薩長は椿好き」をネット調べすれば、萩市の市花は椿。椿なる地もあった。加えて東海汽船は藤田系企業で、創業の藤田伝三郎は長州藩・萩出身で奇兵隊に参加。のちに政商として活躍というおまけ付き。一方、椿は江戸時代に中国か台湾経由で薩摩に伝来。島津家には大輪「薩摩」なる品種あり。15代目島津貴久は特に椿好き~なる記述もあった。

 次に『草枕』を拾い読みした。内容は30歳の洋画家が、熊本山中の温泉宿へ旅し、美を模索をするもの。東洋美探求、俳句的小説とも評される。出戻りの美しく強気な女将「那美」、その従兄で満州戦線に召集された久一、那美の別れた男、大徹和尚らが登場。

 洋画家は「鏡が池」で対岸の椿を見て〝椿観〟を約千字ほど展開する。半藤氏の引用他に「あの赤は只の赤ではない。屠(ほふ)られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするが如く一種異様な赤である」、「又一つ大きいのが血を塗った人魂の様に落ちる。又落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる」等々。まぁ、この千字を読めば、誰だって椿が不気味に思えてくる。

 物語は省略するが、画家は池に浮かぶ那美、その上に椿が幾輪も落ち、そこに〝憐み〟を浮かべた那美の表情をもって絵が完成すると合点したところで終わっている。かくも椿を嫌った漱石だが、こんな句も詠んでいる。「活けて見る光琳の画の椿哉」。ついでに芭蕉句「葉にそむく椿や花のよそ心」。同じく江戸時代の横井也有「墓地にはさくらも見えず椿かな」(そんなこたぁねぇ、染井墓地の桜のきれいなことよ)。明治になるとホトトギス派の水原秋桜子「咲くよりも落つる椿となりにけり」。小生が好きな荷風句には椿を詠った唯一の句「雀鳴くやまづしき門の藪椿」。

 さて、今年の大島の〝椿まつり〟観光集客はどうだろうか。江戸っ子の〝椿嫌い〟に加え、最近ではここらの公園では「チャドクガ発生がありますから椿には近づかないで下さい」なんて放送もある。椿だけでは集客が弱いと思ったか、大島町では1億9千万円を投じて高さ12㍍の「シン・ゴジラ像」建造を企てたが、この案が島民に洩れて〝無駄遣い〟と反対署名が集まって頓挫。マスコミを賑わせたばかりだ。

 小生の場合は「椿でもゴジラでもなく」静かでのんびりと時が止まったような大島が好き。そうだ、未だ描いたことのない椿を描いてみようか。最初は水彩で写実っぽく描いたが、つまらん絵になりそうだったので、久々にWindows「ペイント」で描いてみた。「只一眼見たが最期!見た人は彼女の魔力から金輪際、免るる事は出来ない」~そんな椿の花が描けただろうか、ふふっ。


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漱石の最期(漱石10) [永井荷風関連]

sousekihaka1_1.jpg 前述した夏目鏡子述、松岡譲筆『漱石の思ひ出』より、その最期を読んで、ちょっとショックを受けた。鏡子夫人は漱石臨終を看取った後で主治医に「この死体をおあづけ致しますから、大学で解剖してくださいませんか」

 翌日、遺体は大学で解剖。同書にはなんと、大正5年12月6日の解剖執刀博士の講演~「夏目先生の脳はこうで、腹部の膨張はあゝで、あそことここに癒着が~」などの解剖報告が12頁に亘って全掲載。

 「糖尿病と胃潰瘍という大きな病を持っていた。(略)糖尿病による精神病の〝追跡狂〟なる症状もあった。誰か自分のことを悪く言って居たりはしないかといふ様なことが大分あった」。

 荷風さんが例を挙げた個所だな。荷風さんならずとも、ここまで赤裸々に公開する必要がありましょうか。小生も〝言語道断の至り〟と嘆き、かつ腰が抜けるほど驚いてしまった。

 話を戻して最期に至る経緯を辿ってみる。知人の結婚式に出席した翌日、通じがなくて夫人が浣腸(始終のことらしい)。書斎に戻って『明暗』執筆かと思っているも、女中が机に俯せになっているのを発見。ここから大騒ぎ。

 幾人もの医者が集まって意見がまとまらず、主治医を真鍋医師に決定。漱石「頭がどうかしている。水をかけてくれ」。直後に眼が白くなった。口移しで水を与える。翌日、漱石の腹が膨らんだ。内出血か。主治医が他博士らを呼ぶ。朝日新聞に発表。門下生らが交代で夜番。子供らがどこから聞いてきたか「写真を撮ると死期を脱する」で朝日新聞カメラマンに撮らせた。

 和辻哲郎が気合術を勧める。多数の看護婦らが反目し合う。四女が枕元で泣く。夫人が「泣くんじゃない」と叱れば、漱石はそれが聞こえたか「いいよいいよ、泣いてもいいよ」。意識がなくなり、別れを惜しむ方へ水筆が次々にまわされる。12月9日永眠。葬儀費用を心配する門下生に、夫人は株券を売ったお金が3万円で朝日新聞からのお金を併せて計4万円也と財産調べ。

 戒名は「文藝院古道漱石居士」。茗荷谷の寺で仏事。青山斎場で葬儀。夫人の弟が「大小様々な葬儀に係ったが、夏目兄さんの葬儀ほどやかましかった葬式は外にない」。埋骨式後にデスマスクも完成。墓は妹婿の建築士(松坂屋や三井銀行を設計した鈴木偵次)が設計。西洋でも日本でもなく安楽椅子にでもかけているような、で写真の形になったとか。

 上記を読み「あぁ、やはり荷風さんのようにひっそりと死んで行く方がいいなぁ」、「お墓も荷風さんのように控え目、シンプルがいいなぁ」と改めて思った。今年は夏目漱石生誕150年。今年こそは、幾編かを最後まで読み通してみましょ、と思った。まずは『草枕』からかな。(完)


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