SSブログ

我が地も漱石・荷風がらみ(漱石付録3) [大久保・戸山ヶ原伝説]

sousekisanbo1_1.jpg 漱石を荷風さんがらみで調べていたら、我が在住地一画に漱石死後の夏目家、荷風さんの弟らが住んでいたとわかった。茅原健著『新宿・大久保文化村界隈』を読むと、その資料引用に概ねこんな内容が記されていた。

 「明治45年生れの森村浅香(小説家豊田三郎の妻で、森村桂の母)が、大正13年から西大久保3丁目に在住。大久保通りを越えた戸山ヶ原の隣接地で、現・大久保2丁目。その辺りはお屋敷という程でもないが静かな住宅地。家の隣が早大の宮島新三郎、片上伸の両先生が前後して住んでいて、数軒先は帝大の和田健三先生。隣の横丁に永井荷風のお兄さん(実弟・威三郎の間違い)がいて、松岡譲(夫人は夏目漱石・長女)の家もあって、人力車に乗った漱石夫人を見かけたことがある」

 また『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』には、森村桂の随筆『わが青春の街 新宿の田辺茂一のおっちゃんと』掲載。3歳まで西大久保に在住。疎開して小3(昭和23年)で同地に戻って家を建てた。19歳の時に父死去で、アパートに建て替えた。24歳の時に原稿書きの隣の部屋にヤクザが入居。追い出すまでの顛末を書いていた。また同書には徳永康元『大久保の七十年』も掲載。

 さて、話を進める。荷風さんの実弟は放蕩の兄を嫌って絶縁して母と住んでいた。住所は淀橋区西大久保3丁目9番地(現・大久保2-2-9)。ここで「エエッ」である。同番地は我がマンションの斜め後ろ辺り。(今は一帯がマンションばかりだが)

 これは2011年3月の弊ブログでも書いたことがある。東日本大震災で休んでいたブログ再開にあたって、地震で本棚の上の荷風全集が落下したと書き出して、荷風さんは関東大震災の3日後に、母の安否を確認すべく威三郎の家の門を叩くも、世情不穏に警戒した家人が門を開けない。見かねた隣人の〝紳士風だから〟の忠告でやっと門を開けてもらって母の無事を確認。母は実家・鷲津家が上野に避難と聞き、消息を尋ねてくれと頼む。

 麻布・偏奇館から大久保まで歩いて疲労気味の荷風さんに、威三郎の妻が同行。結局母の実家の消息は確認できず。クタクタの荷風さんは自警団に尋問されて弟の妻に助けられ、かつ彼女に背負われるていたらくで大久保に帰ってきた。荷風さん、こんな格好悪いことは「日乗」に書けないから、その日の日記は「初めて弟の妻を見る」とだけ記した。

 以上は松本哉『荷風極楽』からの引用で、それを読んだ時に、ひょっとして我がマンション辺りと思っていたが、それが間違いなしと確信した。そして同じ一画に夏目家も住んでいたという記述に遭遇。これは半藤末利子著『漱石の長襦袢』で確認した。同書に一言だけ「やがて夏目家は西大久保(番地は不明)へ、そして上池上へと移った」なる文があった。これで森村浅香述の裏がとれた。

 それは漱石が亡くなった7年後。鏡子夫人が長女・筆子と結婚した松岡譲に同居を頼む。松岡は漱石山房が後に文化遺産になると保存に動き出す。借家を大家より2万円で購入。山房を保存し、9人家族が住める豪邸を敷地内に建てた。大震災に住まいはビクともせぬが、山房が大きく揺れた。保存を心配して〝漱石山脈〟の門下生らに図るも、一番若い弟子・松岡の意見に誰も耳を貸さない。

 そのうちに漱石全集が売れ出して、鏡子夫人の浪費が始まった。昭和19年、松岡一家は長岡市に疎開。(筆子の娘・未利子は同じく長岡に疎開中の半藤一利と出会ったのだろう)。戦後、夏目家の地を東京都に払い下げ。かくして西大久保へ移転したのだろう。

 ★新宿区はいま漱石記念館建築中で今年9月に開館らしい。挿絵は漱石山房のベランダで寛ぐ漱石さん。なにベランダの手摺りが上手く描けていると。これは我が大島ロッジのベランダと同じ。ベランダの手摺りの作り方ってぇのは明治の頃から変わっていないんだなぁ、と妙な所で感心した。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。