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大久保と大島を結んだ建築家 [週末大島暮し]

yosizakahyaku1_1.jpg かつての〝大久保文化村〟には社会主義者、画家、文学者、学者、音楽家、軍人、アナキスト~とあらゆるジャンルの方々が暮らしていた。そして忘れてはいけない建築家がいた。

 江藤淳の生家近くにル・コルビュジエに師事した3人の日本人の一人、吉阪隆正が「百人町3丁目317番地」(大久保駅の北側)に住んでいた。彼はなんと!伊豆大島の昭和40年元町大火の復興計画に携わっていたらしいのだ。〝あぁ、なんで今まで気付かなかったか〟。

 同氏を知ったのは夏目漱石がらみで読んだ『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』掲載の徳永康元(言語学者、ハンガリー文学)の『大久保の七十年』だった。「大久保の町は、大正十二年の関東大震災では全く被害を受けなかったので、江戸以来の百人組の子孫こそ数すくなったにせよ、第二次世界大戦中の疎開や空襲で散り散りになるまでは、私の家の横丁でも、いわば大久保の二世に当るわれわれの世代は、お互いに幼い頃からの顔なじみばかりだった」

 と記し、ご近所を紹介。「仲通りから北へ入るこの横丁の角には、東大理学部の教授をしていた私の母方の伯父(柴田雄次)が住み、その北隣にはクリスチャンで社会運動家の益富政助氏、更にその隣には国際労働機関の政府委員だった吉阪俊蔵氏の家があった。この家ははじめ大内兵衛の住宅で、吉阪の家になった。氏のジュネーブ駐在中は、たしか前田多門氏の仮住まいになっていたこともある」。なんだか凄い方ばかりだ。

 そして中学時代の遊び相手は「私より三つ四つ下の従弟の柴田南雄君や、同じ横丁の吉阪隆正君たちだった。後年、南雄君は作曲家として、隆正君は建築家として名をなした。その後、柴田家は戦災後にこの土地を去り、吉阪君は六十代の前半に亡くなって、彼が戦後に建てた師匠コルビュジエ流の異色ある住宅もこわされてしまった。吉阪君の遺書『乾燥なめくじ』(昭和五十七年)には、大久保の思い出が詳しく記されている」

 小生は未読だが『新宿・大久保文士村界隈』の著者・茅原健氏は同書から吉阪隆正の家の位置を紹介していた。さて、百人町に建っていたというル・コルビュジエ風の家とは。気になって吉阪隆正を新宿図書館の蔵書検索をすると「戸山図書館」に『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』なる書が一冊だけヒット。同書は師弟らによるアフォリズム風内容で、部外者にはわかり難い内容だが、氏が昭和23年、焼け跡の百人町に建てたバラックを「今和次郎」がスケッチした絵や、例のコルビュジエ風の実験住宅の写真が載っていた。(挿絵は小生がクロッキー帖に簡易メモしたもの)

 実験住宅には、早大の建築学科教室の吉阪研究室が「U研究室」になってプレハブで隣接された。日々、そこに集った青年建築家らが熱い議論を交わしながらヴェネチア・ビエンナーレ日本館、海星学園、日仏会館など次々に有名建築を生み出していったらしい。

 そして昭和40年(1965)、伊豆大島の元町大火。吉阪とそこに集う青年建築家全員が即座に反応して「大島復興計画」書を作成して島に渡ったとあった。さて、吉阪隆正とは、その「大島計画」とは?(大久保と大島を結んだ建築家1。6まで続きます。)


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