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吉阪隆正と大島 [週末大島暮し]

yosizaka2_1.jpg 先日(2月8日)の新聞に吉阪隆正と同じくル・コルビュジエに師事した3人のうちの一人「前川國男」の建築が脚光を浴び、全国8自治体が協力イベント・観光ツアー開始の報があった。

 ならば吉阪隆正の「大島復興計画」が改めて脚光を浴びても良さそうなものだが、そんな動きもなく、彼らが大島のどの建物を設計、遺したかも定かではない。前述の著作『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』より彼がどんな建築家だったを知るべく経歴を簡単にまとめてみた。

 大正6年(1917)生まれ。父・俊蔵は内務官僚、母・花子は日本最初の動物学者・箕作佳吉の次女。4歳で父の赴任地スイス・ジュネーブに移住。2年後に新宿大久保百人町に移住。小学6年を終え、昭和4年(1929)に再びジュネーブへ。5年間、同地の学校を卒業。翌1年間を英国エジンバラで学んで16歳で帰国。17歳より再び百人町に在住。早稲田高等学校から早大建築学科入学。たぶん高校生時代だろう、昭和13年(1938)のヒットラーユーゲント23名の青少年一行が来日して伊豆大島を訪ねた際に、吉阪は語学堪能ということで選ばれたのだろう、日本側の少年代表として一緒に来島した(この件は後述する)。

 昭和20年(1945)百人町の家が空襲で焼失。翌年、早大講師。百人町にバラックを建てる。彼の師・今和次郎が彼のバラックをスケッチ。昭和24年(1949)、早大工学部助教授。翌年、フランス政府給費留学でル・コルビュジエのアトリエに勤める。昭和28年(1953)に自邸設計。日本山岳会理事。昭和34年(1959)、早大理学部教授。翌年、早大アラスカ・マッキンレー隊隊長。以後ヨーロッパ、アフリカ諸国へ。山荘(涸沢ヒュッテ等)やアテネ・フランセ、八王子の大学セミナーハウスなどを設計。

 コルビュジエ師事の建築家にしては代表建築が少ない。彼はどうやら前川國男や板倉準三とは少し違った存在らしいのだ。暮沢剛巳『ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男』によると、吉阪は他の二人より一回り年少。かつ〝コルビュジエに憧れての師事〟でもなかったらしいのだ。

 早大理工学部助教授になって、マサチューセッツ工科大学への留学が叶わず。得意の仏語からフランス政府の給費留学生試験に合格。(文部省に勧められて?)コルビュジエのアトリエ勤務。ゆえに帰国後にコルビュジエ風建築を次々に建てるというよりも、彼の哲学に触れ、彼の著作翻訳などで活躍。(夏目漱石に〝漱石山脈〟があるように、吉阪隆正にも〝吉阪山脈〟とも言える多数建築家が育って、それぞれが違った〝吉阪とコルビュジエ〟について語っている)

 さて、小生は建築の部外者ゆえ、その辺は飛ばして彼の年譜の先を読み進んでみる。昭和40年(1965)大島元町大火の復興計画書を提出。2年後に大島:庁舎、図書館、野増出張所、吉谷公園等。翌年に差木地小学校、第1,5中学校、クダッチ更衣室、商工観光会館とあった。

 小生は平成3年から大島通いをしている。狭い島、人口も現8千名。狭い世界だが「あの建物が吉阪の」、また「吉阪隆正」の名も「大島復興計画書」の話も耳にしたことがない。何故だろうか。謎が謎を誘って調べずにはいられない。次に何がわかるだろうか。(大久保と大島を結んだ建築家2。3へ続く)


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