SSブログ

江藤淳の〝故郷〟探し(漱石付録4) [大久保・戸山ヶ原伝説]

etohisofu3_1.jpg 次に気になったのが江藤淳の生家。『作家の自伝75「江藤淳」』の年譜に「昭和8年12月25日、東京府豊多摩郡大久保町字百人町3丁目309番地に江頭隆・廣子の長男として生まれる」とあった。当時の地図を見ると、それは新大久保駅と大久保駅のほぼ真ん中から北への横丁を入って、陸軍用地までの中ほどか。

 江藤淳は『戦後と私』にこう記している。「昭和四十年五月のある日、家の跡を探しに行った私は茫然とした。もともと大久保百人町は山手線の新大久保と中央線の大久保駅を中心とする地域である。新宿寄りの一、二丁目は商店が多く、大久保通りから戸山ヶ原寄りの三丁目は二流どころの住宅地であった」

 江戸のツツジ名所の趣をとどめ、近所は学者の家や退役軍人の家が多く、ドイツ村(初期日本楽壇に貢献した外国音楽家たちが住む一画)もあったと記して~

 「私が茫然としたのはその一切が影もかたちもなくなっていたからである。そのかわりに眼の前に現れたのは温泉マークの連れ込み宿と、色つき下着を窓に干した女給アパートがぎっしり立ち並んだ猥雑な風景であった」

 そして「探しあてた家の跡にたどりつくと、私は新しい衝撃をうけた。敷地内に建ったという都営住宅は一軒をのこしてとり払われていた。更地にしたところに三階建の家が新築中であり、板囲いのあいだから見るとそれは疑いもなく温泉マークの旅館になると思われた。母が死んだのはつつじの季節であった。しかしつつじはなくて植込みのあったあたりも建築現場になり、職人がふたり痴態をうつすべき鏡を壁にはめこんでいる姿が見えた。私は顔から血がひくのを感じて眼をそむけた」

 江藤淳は「これが私にとっての戦後で、私に戻る〝故郷〟などはなかった」となる。子供時分の記述では、4歳で母が病死。父が再婚。戸山小学校入学も病弱で通学せず(どの本だったか、小便を漏らして登校拒否になったらしい)で、小3で義祖父の隠居所の鎌倉へ。昭和20年5月25日、B25の大空襲で生家焼失。数日後に父と共に庭に埋めた陶器を掘り出しに戻ったとも記していた。

 江藤淳『一族再会』でも自身のプロフィールを詳細に記している。空襲で母の思い出が唯一残る百人町の〝故郷〟を失くした。親族らが作って来た明治の結果が、この有様を招いたが「そうは言っても失ったものへの深い癒しがたい悲しみという私情ほど強烈な感情はない」と、彼は亡き母の姿を求め、さらに大日本帝国海軍を作った祖父、祖母の母や父らの姿を求めて明治へ遡って行く。

 その親族を簡単に記せば祖母の父・古賀喜三郎は、官軍・佐賀藩の砲兵隊として奥羽追討に参加し、帝国海軍へ。(半藤一利夫妻はそれぞれ長岡に疎開して薩長嫌いになったのとは逆だな) 退役後に「海軍予備校」を創立(後の現・百人町の海城中・高等学校。江藤淳が登校拒否した戸山小学校の前)。祖母は喜三郎と同郷出身の海軍兵学校主席の江頭安太郎と結婚。母の父は潜水艦作戦の専門家・宮治民三郎。

 江藤淳は〝故郷〟探しを親族に求めて、次第に明治政府を理想とする保守派志向を深めて行ったと思われる。その原点が百人町の母、生家を失った〝故郷喪失〟にあったと言ってもいいだろう。★挿絵は江藤淳の曾祖父で海軍少佐だった古賀喜三郎。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。