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清張(4)純文学、推理小説から~ [読書・言葉備忘録]

seicyo46sai2_1.jpg 森史郎『松本清張への召集令状』(文集新書)を読む。清張さんじゃないが〝立ってくるもの〟がなく途中で放棄した。放棄とキーボードを叩けば「伯耆」も出る。

 「私の父は伯耆の山村で生まれた。中国山脈の脊梁に近い山奥である」。こう書き出されるのが私小説風『父系の指』。同作は清張死去(82歳)の3年後、平成7年(1995)にテレビドラマでギャラクシー賞、芸術祭作品賞受賞とか。

 期待したが、凡そ半分は『半生の記』と同じで、そこにフィクションが加えられた内容。執筆年を見れば『父系の指』は昭和30年で、『半生の記』は昭和38年。最初が私小説で、後にフィクション部分を集大成しての『半生の記』だろうか。

 これは同じく私小説風『河西電気出張所』(給仕時代の勤務先は川北電気小倉出張所)もそうで、半分が『半生の記』と同じ。また三人称科『泥炭地』を読めば、今度は〝河東電気小倉出張所〟。先に『半生の記』を読んだ者にとっては「いいかげんにしてくれ」と思ってしまう。

 小説仕立てゆえ、例えば社屋が元料理屋で畳に事務机とかはわかるも、やはり面白さ、新鮮さに欠ける。同テーマを「フィクションで書く・ノンフィクションで書く」の問題含み。清張さん、試行錯誤で悩み抜いている姿が見える。

 芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』も実在人物より一回り若く設定の虚構で構成。翌年発表の『菊枕』も、すでに田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる わが愛の杉田久女』(文庫上・下巻の長編)を読んでいた小生には次頁をめくる気も失せた。

 画家評伝『岸田劉生晩景』を読みたく、その前に書かれた岸田劉生モデルの短編も読んだが〝モデルとの距離の置き方〟にえらく苦労しているなぁと思った。(昭和38年、中央公論社『日本の文学』大全集に三島由紀夫の〝文体もない〟等の反対で収載洩れ。文体だけではなく、かなり未成熟だったと記せば生意気だろうか)

 清張さん、この辺から「推理小説」へ方向転換して人気作家に躍り出るが、この辺の問題は抱えたまま。半藤一利はこんな内容を記していた。

 「小説にフィクション部分を入れると、調査結果で判明した幾多の事実もフィクションと見られる恐れがでてくる。事実の重みを直視していると、絵空事をまぜながら真実を描くという小説なるものが、ばかばかしくも生ぬるく思えてくる。かくして松本清張はノンフィクションというジャンルを意識するようになった」

 以上から、小生は清張の「純文学」を放棄、加えて娯楽も欲していないゆえ「推理小説」群も放棄することにした。残るはノンフィクション系作品。『日本の黒い霧』シリーズ(確か「もく星」号遭難事件も収められていた)、『昭和史発掘』(全9巻)になろうか。それら読書はきっと歴史のお勉強ゆえ、ゆっくりと読んで行きましょう。

 挿絵は朝日新聞東京本社勤務になった昭和30、46歳頃の清張さん。漫画風タッチで描いてみた。純文学を捨て「推理小説」へと悩んでいるような。氏の特徴的な下唇は高齢になってからで、自身も「父も高齢になってからそうなった」と書いていた。


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松本清張(3)召集 [読書・言葉備忘録]

nitouhei1_1.jpg NHK「ファミリーヒストリー」ではないが、小生らの両親、祖父母らは戦争を、大災害を乗り越えてきた。艱難辛苦の人生。小生の父は通信兵だったらしいが、戦争中のことは語らなかった。

 松本清張『半生の記』には召集と兵隊時代も記されていた。次第に戦況厳しくなって在郷軍人会などによる教練が活発になる。昭和18年、34歳の清張さんに「教育召集」の赤紙。清張は満20歳に徴兵検査を受けて第二乙種補充兵。この時は兵営入り免除だが、今回の「教育召集」に出頭すれば年下ばかり。どうやら教練出席率の悪さで眼をつけられた。この時は3ヶ月で解放も、翌年に本格召集。衛生兵としてニューギニア補充と知って、死を覚悟する。

 小生、恥ずかしながらここで改めて「徴兵制」をお勉強。明治初期の竹橋事件兵士らの徴兵・待遇は知っていたが、ここでのポイントは明治22年(1889)の大改革。〝国民皆兵制〟になって、満17歳以上~満40歳までの男児は一部例外を除いて徴兵。甲種、乙種以上は合格。戦況悪化で丙(へい)種も徴兵。さらに昭和18年(1943)には学徒出陣(学生猶予がなくなり、主に20歳以上の文科系学生が徴兵)、熟練工や植民地人も徴兵された。

 徴兵制で年齢調べをしていたら「あらっ、清張と小生の父は同年齢じゃないか」と気付いた。ちなみに司馬遼太郎は清張より14歳下の大正12年(1923)生まれで、元気漲る徴兵ど真ん中世代。彼は戦車第一連隊第五中隊所属の第三小隊長だった。

 清張が配属されたニューギニア補充部隊は若者中心のなか、中年になりかけた33、34歳が3人。共に在郷軍人会の教練出席率が悪かった。さらに清張は、思わぬことに気付く。朝日新聞では小卒で出世も見込めぬ差別的待遇にあったが、「軍隊に入ると社会的な地位、学歴、貧富の格差なし世界」と気付く。新兵は皆な平等で〝奇妙な生き甲斐〟と、職場にはない「人間存在」を見出したと記している。

 清張らの先行隊の乗った船が途中で撃沈。輸送船がなくなってニューギニア行きが中止。彼らが駐屯する朝鮮の片田舎では、敗戦色濃くも長閑な日々。清張は直物図鑑を見て食用野草をスケッチして、食料難の前線兵士のための小冊子作りをしたとか。

 半藤一利『清張さんと司馬さん』に、清張さんが半藤さんにこう語ったと記されていた。「衛生兵は特殊な存在。怪我や病気になれば大事にしてもらいたいゆえ、余り殴られたりすることがなかった」(省略引用ゆえ、正確に読みたければ原書をどうぞ)

 また短編『任務』には「衛生兵のアダ名は〝ヨーチン〟だが、面と向かっては弱い声で〝衛生兵殿〟と呼んでくれた」。1年半ほどで敗戦を迎えて本土送還。いよいよ作家デビューへ向かう。(4へ続く)


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松本清張(2)『半生の記』 [読書・言葉備忘録]

seicyosyonen1_1.jpg 松本清張はスル―しようか。まずはお馴染み半藤一利の書『清張さんと司馬さん』を手にする。こんな逸話が紹介されていた。清張さんが朝日・森本哲郎へ「作家の条件って何だと思う?」「才能でしょう」「違う。原稿用紙を置いた机の前に、どれくらい長く座っていられるかというその忍耐力さ」。

 また「理解力・直観力・集中力」の項で、「(清張の)本の読み方の速いこと。こっちがコーヒーを一杯飲む間に、三百ページくらいの本を三冊読み終わった、なんて経験をした担当編集者は山ほどいる。(中略)大事な個所の活字が、さぁ読んで下さいと立ってくるそうな」

 ふむ、小生にそんな忍耐力はないが、本を読み飛ばすことは出来る。まずは彼がどんな人物かを知るべく『半生の記』を読む。以下、同一冊をブログ一回分に私流抄録。

 明治42年(1909)生まれ。小学高等科卒。最近の弊ブログ登場人物は、概ね官僚子息で高学歴かつ欧米留学の方が多かった。42歳先輩の夏目漱石は官費留学。30歳先輩の永井荷風、21歳先輩の九鬼周造は官僚子息で親がかり遊学。8歳後輩の建築家・吉阪隆正は官僚の親と子供時分から海外暮し。そんな彼らとは真逆の人生だ。

 清張の父は、鳥取・伯耆の寒村・日南邑(日南町、旧・谷戸村)生まれ。祖母は妊娠中に離縁され、父は貧乏所帯の他家へ養子。彼は長じて養子先から出奔。広島の底辺で暮した。広島の農家の娘で紡績女工をしていた岡田タニと結婚。タニは先生に怒られて通学拒否。「眼に一丁字のない母」(文字が読めなかった母)。

 両親は広島から小倉で暮し、清張誕生。姉二人が嬰児死亡で、一人息子として育てられた。小倉から下関へ。街道沿いの家で餅家を開業。夫婦喧嘩絶えず。父は新聞の政治記事に関心を寄せ、歴史(講談)を清張に語る。米穀取引で金が出来ると遊郭の女に入れあげた挙句はジリ貧。家に戻れず木賃宿暮し。(この辺は『父系の指』に詳しい)

 父が戻って小倉へ移転。両親は露天商、今川焼やラムネ売りの店を営む。小倉の尋常小学校高等科卒で川北電気・小倉出張所の給仕へ。15歳、11円の給与も家計の足しになった。(この辺は『河西電気出張所』に詳しい)

 19歳、同社倒産で失業。手に職をと石版印刷の見習い職人へ。連夜帰宅は11痔。九州で一番大きい博多のオフセット印刷所へ転職。昭和4年、非合法出版の「戦旗」を読み〝アカ〟と疑われ、拷問は竹刀程度で20日間ほど留置。(これも小説になっているかも)。

 両親は飲み屋失敗で魚の行商。27歳、昭和11年に内田ナヲと結婚。祖母・両親・妻子の大黒柱。昭和12年、朝日新聞が小倉に西部支社設立で、同社嘱託版下描きになる。画用紙に墨で描く版下制作。33歳、昭和17年、正社員になるも小卒で昇進見込みなし。いつしか4人もの子持ち。一家7人の生活を支えるも35歳で召集。カット絵は16歳の給仕・清張少年。写真を見たら意外なる〝美少年〟で、驚き描いてみた。(3に続く)


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松本清張(1)『岡倉天心』 [読書・言葉備忘録]

seicyo1_1.jpg 『「いき」の構造』の九鬼周造をお勉強したら、九鬼の母・波津子と深間だった岡倉天心について、もう少し知りたくなった。松本清張『岡倉天心~その内なる敵』を読んだ。読み進めば文部官僚の岡倉天心や九鬼隆一より、著者・松本清張への関心が優っていった。

 よって同書の読後感を簡単に記す。冒頭で九鬼隆一が波津子さんを精神病院へ入れるべく長文・大仰・多数証人の異常な申請書(明治39年)が全文掲載されていた。これは内容よりも「こと=ヿ(合字)」や旧字が面白かった。そして松本清張の得意分野だろう明治14年の政変や、東京美術学校(芸大)騒動などの詳細紹介・分析が展開。それらは読んでいて面白いワケもない。

 九鬼隆一は福沢諭吉〈慶應義塾)から文部省へ。明治14年の政変で福沢(を裏切って)から薩閥へ摺り寄って保身と出世を選ぶが、文部大臣に至らず。その原因のひとつが「不徳(女遊び)」だった。

 松本清張は、岡倉天心を官僚ながら天才的「アジテーター」、希有の「オルガナイザー」で「プロデューサー」だったと誉めたが、「斑気(むらき)」の多い意思薄弱な人、また九鬼と同じく「不徳」が多かったと記していた。

 そして巻末の解説文を読む。松本清張は九州小倉の小学校高等科卒。中小企業の給仕から石版印刷の見習い職人。小倉の朝日新聞社・広告部意匠係(描き文字やカットなどの版下)嘱託から大変な努力を重ねて正社員へ。だが低学歴で出世できるワケもなく、そのうちに兵役~と紹介されていた。

 小生が清張作を読んだのは、三原山に墜落(撃墜)の「もく星号」3部作だけ。今回初めて松本清張の半生を知った。かかぁに「松本清張を読んだことがあるかぁ」と訊けば、「若い時分に、彼の主だった小説はほとんど読んだよ。お前さんは〝流行作家嫌い〟のへそ曲がりだから司馬遼太郎も読んでいないんでしょ」と言われた。

 うへぇ~。松本清張は『小説東京帝国大学』で大逆事件や皇国史観をどう記しているのだろうか。『象徴の設計』で竹橋事件や軍人勅諭、教育勅語をどう捉えているのだろうか。興味が湧いてきた。松本清張のコンクール入選歴もあるポスターを見れば、まぁ、なんとモダンなデザインじゃないか、スケッチもいい。

 狭い家にひしめく大家族。そんな環境のなかで、彼は机に噛り付いて描き文字を、デザインを、絵の腕を磨いたらしい。よって彼が美術系テーマ本を書くには特別の思い入れがあったとか。また小卒の作家が、高級官僚で美術界のドン二人を、どんな気持ちで書いたのだろうか、と気にしつつの読書になった。

 さて敬遠していた松本清張を読むべく図書館蔵書を検索すれば700点余もヒット。なんだか〝面倒臭い巨人〟に遭遇したなぁと頭を抱え込んでしまった。やはりスル―しましょうか。悶々としていたら、似顔絵も悶々としてきた。(2へ続く)


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古釘(盧箸)の正体は? [暮らしの手帖]

durutetuhako_1.jpgfurukugi_1.jpg 〝クズ鉄集め〟をしていると知った姉が「法隆寺の古釘(盧箸)をあげよう。ちょっともったいないが、大島のストーブの灰箸にでもしたら」。箱書き付きである。

 箱書きが読めずに悶々としたが、どこにも「法隆寺」とは書かれていなかった。解読できぬ小生(未熟者)に、親切に教えて下さる方もいらっしゃるので「箱書き」もアップです。

 小生でも読める個所を読んでみる。箱横に「古鉄 盧箸」とある。茶道の炉(盧)でつかう〝盧箸〟。亡き母は江戸千家のお師匠さんで、姉もその道を継いでいる。

 本文は「蒼鋪(では意が通じない)ではなく舊鋪(ならば旧舗)古光(昔、古代か)可掬其可貴重固(?)無論其函材亦釘同時古而(ここは字の通り読め、意もわかる)〇理亦可珍因〇(?)/外箱併記其由伝当家宝云〇/明治三六年八月病症執筆 松涛庵主人彰誌」

 読めぬ字、意のわからぬ部分多多。情けなや。無理に解読すれば「昔の旧舗を掬って得た貴重な物。其の箱材も釘も同時期の古さで珍しい。外箱に併記した通り其の由伝で当家宝云々~」のような内容だろうか。

 ネットオークションで箱に「唐招提寺」の焼き印付き「古釘の炉箸」が定価6万円、販売価格3万円~で出品されていた。古釘の頭はそれと同じような丸型で、薬師寺の古釘頭は四角。さて数万円か、只の〝クズ鉄〟か。

 しかし、これは「文鎮」としては使えず、やはり島の薪ストーブ用にしましょうか。これで芋なんかを突っ通して「ストーブん中で焼く」なぁ~んてことも面白そう。姉夫妻が島に来れば、それでお・も・て・な・し。


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文鎮ならぬ〝グズ鉄〟集め [暮らしの手帖]

buntingun2_1.jpg 〝がらくた文鎮〟集め続行中なり。骨董市は〝愉しい散歩〟でもあり。過日、再び東京フォーラム「大江戸骨董市」へ行った。目指すは数千円ほどの文鎮。これは骨董領域ではなく、間違いなく〝クズ鉄集め〟。

 意匠よりも、手に取った時の〝重さ〟が肝心。今回は重さが気に入って、使いもしないだろう滑車付き分銅(1300円)と「鯉の文鎮」(2500円)を買った。「鯉」には〝20周年小山台小学校〟なる文字が読めた。記念品だな。

 三歳の孫が遊びに来て、机の文鎮群を見て「あっ、お魚さんが増えた」と言った。PC好き孫と「なんの魚かしら」とネット検索すれば、同じのが載っていた。「高岡鉄器〝鯉〟2000円」。ありゃ~、500円高く買ってしまった。

 当初、これら文鎮群は「誰が何処で造っているのだろう」と思っていたが、これらは今も全国の鉄器、銅器、鋳物産地の工場で造られているらしいとわかった。有名彫刻家による高価な物もあるが、これら数千円ほどの文鎮は工場の片手間仕事か、ノベルティー(記念品)受注で造られているのだろう。

 今度は骨董市のお兄さんに「こりゃ高岡(富山県高岡市)が南部(岩手県・南部鉄器)か、いやぁ川口か山形鋳物かなぁ」などと呟きつつ買ってみようかしら。

 写真は稼働頻繁な3文鎮。右の「牛」の稼働率がすこぶるいい。鉄の塊ゆえズシリッと重い。キーボードを立て掛けてソコに置けばビクとも動かなくなる。「鶏の親子」は文庫・新書の見開き止め、筆写や水彩の文鎮に丁度いい。「鯉」は単行本の見開き止め、絵を描く時の文鎮に塩梅がいい。

 「鯉」は赤錆びていた。サンドペーパーで磨けば凸部が光り出した。「牛」はメッキを磨き落とせば、グラインダーで削った部分に鉄の照りが出た。そんな独り遊びでニヤニヤしていることもある。

 〝クズ鉄集め〟をしていると耳にした姉が「法隆寺の古釘をあげようか」と言った。函書き付きで、これが満足に読めない。次回はソレをアップして得意な方に解読していただこうと思っている。


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九鬼と荷風の〝風流〟 [永井荷風関連]

kukitokikue1_1.jpg ここで「荷風と九鬼」を終わりたいが、もう少し〝哲学〟に付き合ってみる。岩波文庫『「いき」の構造』にも収録の『風流に関する一考察』。

 どう考察しているかの概略。~風流は「風の流れ」。風流の第一は離俗の心意気。それには積極性が必要。離俗して日常性を解消したら、何らかの新しい内容充実が営まれなければならず、それは主として美的生活。つまり風流の第二の契機は「耽美」ということになる。

 その上に第三の要素「自然」がある。世俗性を清算して自然美へ復帰する。風流が創造する芸術は自然に密接する。風流は自然美と芸術美とを包摂(ほうせつ、一定の範囲の中に包み込むこと)する唯美主義的生活を意図する趣が肝心。その意から庭道と花道は重要な地位を占めている。

 また風流は「高く心を悟りて俗に帰るべし」でもある。この俗はもう、風流が出発点にあるから、離俗前の単なる俗ではない。俗のなかにある風流である。色道と茶道とは人生美を追う風流の前衛の役目を務める。

 ここで「色道」「人生美」が出てきて、ちょっとわからなくなる。迷っていないで、先を続ける。自然美と人生美の間に技術美がある。ここで「砲身に射角あり寒江を遡る」「秋の浪艦艇長き艫を牽く」の例が挙げられてまた少しわからぬ。こう続く~。

 風流が一方に自然美を、他方に人生美を体験内容にすれば、旅と恋が風流人の生活に本質的意義をもってくる。「山川草木のすべて旅にあらざるものなし」そして「恋は僧あり俗あり年わかく老たるもあるべし」。こうまとめる。~風流は自然と人生と芸術とが実存の中核で混然と溶け合っている。また風流は享楽をも味わうものだが、その磁味を味わう心は白露の味と知る心である。

 以上が(一)の要約で、こんな調子で最後の〈五)まで続く。その最後の項で、風来山人こと平賀源内が登場してきて、ちょっと驚く。飯を食えば糞となって五穀の肥になる。水分は小便・汗になる、口から息を吐き、尻から屁を放つ。身体中に風が流れている、の山人の記述を引用。最後に仙人にならずとも現代では社会的勤労組織の中で自然的自在人を実現できると結んでいた。

 なお九鬼周造は、昭和15年(1940)、山科に自ら設計した数寄屋造りの屋敷で元芸妓・きくえさんと住み始めるが、翌16年5月に53歳で病没。冒頭の〝シンプルな墓〟で眠ることになる。

 同時期の荷風さんは63歳で、昭和15年12月に「日乗」で怒りまくっていた。~日本俳家協会なる組合が出来て、反社会的または退廃的傾向を有する発句を禁止する規約を作ったとかの噂を聞いたと前置きして「俳諧には特有なる隠遁の風致あり。隠遁といひ閑適(かんてき、心静かに愉しむこと))と称するものは、発句独特のさびし味なり、即さびなり。もしこれを除かば発句の妙味の大半は失われ終るべし。(略)現代の日本人ほど馬鹿々々しき人間は世界になし」。

 周造が亡くなった昭和16年5月には色がらみで怒っていた。~先夜新橋より乗った円タク運転手の弁として「ガソリンも米も煙草も酒も節約せよとの命令なれど、夜中の淫行は別に節制のお触れもなし。松の実かにんにくでも食って女房と乳くり合ふより外に楽しみなき世の中になりましたと語れり」。

 そして五月の発句。「五月雨と共になが引くやまひ哉」(荷風さん、風邪をひいたらしい)「苗売の見かへり行くや金魚売」(季重なりか)。九鬼周造は『情緒の系図』で俳句より短歌をあげているが、あたしは短歌は情緒が入り過ぎて〝野暮〟だと思っていて、俳句の方が好きだ。荷風さんも俳句中心です。

 まぁ、ここでの結論は「九鬼周造も荷風さんにはとても敵わねぇ」。九鬼死後の約40年後に『九鬼周造全集』が刊で、その第一と第五巻を読んでみようと思っていますが、まずはここで一区切りです。(荷風と九鬼5・完)


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九鬼周造の人生 [永井荷風関連]

syuzou2_1.jpg 男爵・九鬼、その妻・波津、岡倉天心の関係より、九鬼周造が育った特異な環境が少しわかってきた。今度は前回記した書より九鬼周造の人生を辿ってみる。

 九鬼周造、明治21年(1888)生まれ。九鬼家の四男。東京・芝生まれ。子供時分は前述の通り夫と別居した母・波津と暮したり、九鬼家に戻されたりの生活。明治42年(1909)第一高等学校卒、東京帝国大学文科哲学科入学。その2年後に神田の教会で洗礼。大学院へ進む。

 大正6年(1917)に次兄・一造死去。翌年、30歳で一造の未亡人・九鬼縫子と結婚。大正10年(1921)に大学院をやめ、縫子を伴って欧州留学。前述済だがドイツでフッサールから「現象学」、ハイデッカーから「実存主義」を学び、パリで個人的にサルトルからフランス哲学を学び、逆にフッサール「現象学」を教えたらしい。※小生がフッサール『現象学』、サルトルの実存主義関連を読んだのは東京オリンピックの翌年、21歳の昔々の思い出。

 さて、九鬼周造は大正14年から昭和2年(1925~1927)の37~39歳の頃に、ペンネームで短歌・詩編を「明星」に発表。それらを読むと「ああっ」と思ってしまった。そこで詠われた恋歌は、あきらかに妻ではないフランス女性らしきが幾人も登場。

 北康利『九鬼と天心』もそこに注目していた。イヴォンヌ、ドニイズ、イヴェット、アンリエット、ルイイズ、リナ、ルネ~。このパリジャンらの多くは、どうやら娼婦らしく、まぁ、荷風さんに負けぬ様子が垣間見える。

 「イヴェットが身の上ばなし大嘘と 知れど素知らぬ顔をして聞く」「ルイイズが我を迎へてよろこばせ 日本に刺繍(ぬい)の衣着けて出づ」「ふるさとの〝粋〟に似る香の夜の ルネが姿に嗅ぐ心かな」。まさに荷風の『ふらんす物語』のようじゃありませんか。

 これらを記したのは妻・縫子が一時帰国中だったか。この時期に『「いき」の構造』の基になった『「いき」の本質』が書かれたというから、とても納得してしまう。哲学の遍歴と同時に女性遍歴も活発で、このへんは父や岡倉天心譲りなのかも知れない。

 この辺で夫婦仲が壊れ始めたか、昭和4年の帰国後の随筆『岩下壮一君の思出』に、こんな趣旨の記述がある。~帰国して京大哲学科講師となって京都暮し。妻は東京。家庭のことがうまくいかないので愚妻の霊的指導を十年振りに会った岩下君に頼んだ」と。

 結果は〝望まぬ形で妻から離婚を突きつけられた〟で、父と同じ血が騒いだか、祇園通いで一夜を過ごした足で教壇に立つこともあったとか。ついに祇園の芸妓・中西きくえさんを伴侶にした。荷風とおなじく一般女性ではなく、花柳界領域へ~。

『「いき」の構造』には、この辺も重要だと思われるのだが、九鬼関連書執筆の哲学系教授たちは、そんな下世話な話は眼もくれず耳も塞いで、年譜にも〝中西きくえ〟さんの名も出てこない。(荷風と九鬼4)※次回の挿絵は、この似顔絵にきくえさんの似顔絵も描き足す予定。


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岡倉天心と九鬼周造 [永井荷風関連]

tensin2_1.jpg 九鬼周造『「いき」の構造』は、化政期に成熟した〝生き方〟の概念・分析と言えようか。夏目漱石の小説は、友人の妻への横恋慕に悩む〝野暮の骨頂〟。一方の荷風さんは江戸の「意気」「諦め」「渋さ」が残る花柳界や花街での遊び。

 その辺を哲学した九鬼周造も、それなりの〝遍歴〟ありやと邪推し、そこを探れば下世話過ぎる。そこで彼に影響大だったかの父・九鬼隆一を調べてみた。すると、なんと彼の妻・波津(はつ、初子、波津子)と岡倉天心が、とんでもなく深間で、かつ隆一と天心の両人は、明治の日本美術界のボス的存在だったと知った。

 まず九鬼隆一の横顔から。丹波綾部藩の主席家老・九鬼家の養子。18歳で同藩家老の娘・農(たみ)を娶る。子が産まれた翌年の明治3年(1870)に福沢諭吉の慶応義塾へ。明治5年に文部省へ。配属先が南校(後の東大)。教頭がフルベッキさん(青山・外人墓地で取り上げた)だった。

 明治6年、欧米留学生らの膨大費用の実態調査で欧米視察へ。休暇帰国のフルベッキさんが同行した。結果は「現状を鑑みると学費一斉打ち切りが妥当」。以後の留学生選考が厳しくなった。隆一は高級官僚になり、養父が亡くなった頃から遊びが激しくなった。京都祇園通いで、半玉(15歳)〝波津〟を落籍して二番目の妻にした(松本清張:波津は14,5歳で九鬼家に上がった小間使いだった)。翌年、駐米特命全権大使を拝命。波津を伴って渡米。彼女は「ワシントンの美しい大使夫人」として米紙を飾ったりした。

 明治18年(1885)、波津は公使館で次男・三郎を産み、産後の体調芳しくなく帰国を望んだ。明治20年、公使館に欧米美術視察中の岡倉天心、フェノロサが立ち寄った。隆一は彼らの帰国に波津を同行させた。ワシントンから大陸横断して太平洋の船旅。波津は早くも次の子を懐妊中(周造)も、この長旅で天心とどっぷり深間になった。(松本清張は二人の深間関係を、天心が清国旅行から帰国した明治23年から明治30年としている)。

 フェノロサの日本美術礼賛に賛同して動いていた隆一と天心(天心は東大生の時にフェノロサの通訳で美術品蒐集を手伝った。東大卒後は文部省へ。上司が九鬼隆一)。明治22年(1889)に帝国博物館総長に隆一が就任。翌年の東京美術学校(芸大)の初代校長に天心が就任。二人は文字通り日本美術界のドンとなった。明治21年、九鬼家四男として周造が芝で誕生。

 隆一は41歳で男爵に。妻妾同居ゆえか「万朝報」に〝漁色男爵〟と揶揄される。波津の気持ちは完全に天心へ移った。天心宅から徒歩5分の中根津に別居宅を設けて三郎、周造と暮した。そこへ岡倉天心が通い詰める。

 周造は、己を岡倉天心の子と思っていた時期があるらしい。彼の随筆「根津」には、同宅へ天心が訪ね来る生活が綴られている。やがて政治がらみで美術界騒動が勃発。九鬼隆一が帝国博物館総長の座を、天心はこのスキャンダルもあって東京美術学校の校長の座を失い、横山大観らと日本美術院を設立。

 岡倉天心は17歳で実家(蛎殻町の旅館)を手伝っていた12歳の基子に手をつけて妻にし、32歳の時に出戻りで行儀見習いで家に来ていた異母姪・貞さん(25歳)との間に子を成し(松本清張:天心は後に貞と書生の早坂を結婚させた)、そして波津とも切れない。不義と美術界騒動に疲れてインドへ。同地で仕上げた『東洋の理想』を英国で出版。大観らを伴ってボストンへ。ボストン美術館の膨大な日本美術品の整理・修復・蒐集を担う。前述書に加え『日本の覚醒』『茶の本』も米国で出版。大正2年(1869)に51歳で没。

 岡倉天心は、波津と熾烈な闘いを展開した妻・基子と共に染井墓地で眠っていて、九鬼周造が建てた母・波津の墓もその近くで眠っているそうな。ソメイヨシノが満開となる染井墓地の美しいことよ。以上、九鬼周造に影響大だっただろう九鬼隆一、妻の波津、岡倉天心の関係を大野芳『白狐~岡倉天心・愛の彷徨』、北康利『九鬼と天心~明治のドン・ジュアンたち』、こぶし文庫『九鬼周造エッセンス』からまとめてみた。(荷風と九鬼3)


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『「いき」の構造』の荷風 [永井荷風関連]

ikinozu2_1.jpg まずは九鬼周造『「いき」の構造』で引用された荷風さんの記述部分をピックアップしてみる。<二「いき」の内包的構造>より~

 九鬼は「いき」の第一の微表(特徴を表すもの)は異性に対する「媚態」であると記し、その説明に荷風さんを引用している。~永井荷風が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎(もたら)された「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること(交わらぬ関係の維持)、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本質であり、したがって「歓楽」の要諦(ようたい、ようてい=最も大切なところ)である。しかしながら、媚態の強度は異性間の距離の接近するに従って減少するものではない。距離の接近はかえって媚態の強度を増す~

 これを下世話に言えば、息がかかるほど接近すればするほどに媚態は増し続くが、交わってしまえば倦怠が待っているってことだろう。哲学ってぇのは、なぜにこうも難しく言うのだろう。

 第二の微表は「意気(意気地)」(現・法政大総長の田中優子先生は、好んで〝意気〟を使っている)。第三の微表は「諦め(垢抜け・脱執着)」。<九鬼は「日本文化のまなざし」で自然(神道)・意気(儒教)・諦念(仏教)の融合が日本文化の特色だとも記している>

 次に<三「いき」の外延的構造> その主要な意味は〝人性的(人本来の性?)一般存在〟の「上品」と「派手」。〝異性的特殊存在〟の「いき」および「渋味」としている。それはそれぞれ反対意味をもっていて「上品⇔下品」「派手⇔地味」「いき⇔野暮」「渋味⇔甘味」だろうと述べている。その「渋味と甘味」の説明で、再び荷風『歓楽』を引用する。

 ~「其の土地で一口に姐さんで通るかと思ふ年頃の渋いつくりの女」に出逢って、その女が十年前に自分と死のうと約束した小菊という芸者であったことを述べている。この場合、その女のもっていた昔の甘味は否定されて渋味になっているのである。

 以下省略して記す。「渋味」の反対意味に「派手」も挙げられるが、異性的特殊性としてより「甘味」の否定で生じた「渋味」がいい。「甘味」から「いき」へ。「いき」を経て「渋味」に至る。荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て「渋味」に行ったに相違ないと記している。ここで九鬼周造の例の有名な哲学的図案を表示している。(カット絵はその自己流模写)

 荷風引用は<五 「いき」の芸術的表現>にもある。模様では横縞より縦縞の方がいき」。文化文政の「いき」な趣味として、横縞より平行線つまり二元性がより明確な縦縞が専ら用いられていた。そして「いき」な色彩は灰色、褐色、青色の三系統と記す。

 今度は「いき」な建築についても、荷風『江戸芸術論』からの引用。~「家は腰高障子を境にして居間と台所との二間のみなれど竹の濡縁の外には聊(ささや)かなる小庭ありと覚えし、手水鉢のほとりより竹の板目(はめ)には蔦をからませ、高く吊りたる棚の上には植木鉢を置きたるに、猶表側の見付を見れば入口の庇、戸袋、板目なぞも狭き処を皆それぞれ意匠して網代、舟板、酒竹などを用ゐ云々」と、延々と引用を続けている。

 九鬼周造にとって、永井荷風なくしては成り立たぬ『「いき」の構造』のような気がしないでもない。『「いき」の構造』の内容・解釈についてはそれぞれ同書をどうぞ。(荷風と九鬼2)


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ボケと「いき」 [永井荷風関連]

boke1_2_1.jpg 荷風がらみ夏目漱石シリーズの最初に「荷風さんは現象学や実存主義がわかっていて、漱石はわかっていなかった」と書こうとしたが、ボケた頭で〝哲学〟もなかろうと、そんなことは書けなかった。

 漱石より21歳下、荷風より9歳下の九鬼周造が渡欧したのは大正10年(1921)だった。フッサールから「現象学」を学び、ハイデッカーから「実存主義」を学び、パリで個人的にサルトルからフランス哲学を学んだ(逆にフッサール「現象学」をサルトルに伝えたとか)。

 帰国したのが昭和2年(1929)で41歳(この年、荷風さんは「お歌」を囲っていた)。『「いき」の本質』を改め『「いき」の構造』を出版したのが昭和5年。そこには幾度も荷風作が引用されていた。

 荷風がらみ夏目漱石シリーズを記している時に、改めて『「いき」の構造』を読もうと紀伊国屋書店で購った。家に戻って本棚をよくよく見れば同じ岩波文庫の本があり、さらに函入りの1977年刊の27刷版まであった。貧乏隠居なのに無駄遣いをしてしまった。

 蔵書しながら、同じ江藤淳『夏目漱石論』(新潮文庫)も買ってしまった。ミスを繰り返して「あぁ、ボケ始めたかしら」。ボケれば死を迎えるのは先のことではない。同ブログのシリーズで、雑司ヶ谷墓地の夏目漱石の墓を掃苔した。その立派さに比して荷風さんの墓の衒いのなさよ。

 朝日選書の「安田武・多田道太郎対談『「いき」の構造を読む』の唯一の写真掲載が京都・法然院の九鬼周造の墓で、両人が「微塵の衒いのないスッキリした墓」(西田幾太郎の字で〝九鬼周造之墓〟と彫られている)と誉め合っていた。この墓のシンプルな良さは、九鬼関連書の多くがハイデッカー『ことばについての対話』の会話が引用されている。

 次に建築家・吉阪隆正と大島の関係シリーズを記したが、氏の墓も建築家らしく立派だった。建築家というのは斬新さ・奇抜さなど〝衒いのデザイン〟勝負のようなところがある。建築家は「いき」と対極にある生き方を選んだ方々なのかもしれない。

 過日、テレビで裏千家家元・千玄室氏と建築家・安藤忠雄氏が対談の映像をチラッと観た。茶道は「わび・さび」があるも、安藤さんには例のダハ・ハディド設計の新国立競技場デザインを選んだことからも伺える〝衒い好み〟がある。その両者が互いに讃え合っていたのだろうか。

 そんな〝たわけ〟をボケ始めた頭でつらつらと考えていたら、九鬼周造について少しお勉強をしたらいいかなぁと思った。氏の全集を読んでもなく(近くの図書館にあるから読み出すかもしれないが)、いい加減な勉強になりそうだが、まぁ、ゆっくりと遊んでみようと思った。挿絵はボケた頭で描いた下手なボケ。(荷風と九鬼1)


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