SSブログ

自動ペインティング実験 [スケッチ・美術系]

handouenpitu_1.jpg COREL「Painter essentials5」の「自動ペインティング」で、もう少し遊んでみた。クローンソースは最近ブログ使用の写真と絵。

 まず花の写真を「オイルペイント」加工。〝引き気味〟の風景写真よりもアップ気味画像の方が加工タッチが明確で面白い。ボケ過ぎや強調部分は「ソフトクローン」で当初ディティールを復元し、絵にアクセントをつけてみた。(レイアウトがうまく出来ずにアップ省略)

 次は自分で描いた「半藤一利さんの似顔絵に荷風の丸眼鏡、漱石のヒゲを加えた絵」を「色鉛筆画」処理をしてみた。実際は中太筆で15分ほどの色彩だが、まぁ無数の線でたっぷりと時間を要しての精緻な色鉛筆風に仕上がった。色鉛筆の太さ調節もできれば、もっと面白い絵になりそう。いろいろと試してみたい。きっと、いきなりコノ絵を見せられたら、本当に色鉛筆画と思ってしまうだろう。(絵をクリック拡大で、色鉛筆線がはっきりします)

 次に透明水彩の特性を生かした〝つゆだく〟で描いた芥川龍之介の似顔絵を「印象派風」にして、その上から「カラーホイール」と「ブラシ」で〝白+細ブラシ〟を選んで白目、瞳、鼻筋、爪を描き足した。絵を描いた時にうっかり忘れた指のハイライト部分も、薄黄色+ペンで描き足してみた。さらに大胆に追加タッチを加えれば、不思議な絵が生まれるかもしれない。

akutagawa_1.jpg 以上から、不慣れな「ペンタブレット」を使わずとも、スケッチブックに自由に描いた素描~彩色をした後で、デジタル処理をするだけで充分に面白いと思った。当分はこの方法に慣れて、気が向いたら「ペンタブレット」でも描いてみましょう。以上、デジタルお絵描き遊びのメモでした。

 


コメント(0) 

島ロッジへ舗装路完成 [週末大島暮し]

keikai7.jpg 友人のブログ「つくって、つかって、つないで」に吉報あり。海沿い「サンセットパームライン」から我がロッジへ入る道が舗装されていたゾ!と写真掲載。腰を抜かすほど驚いた。

 大島ロッジは平成3年に建った。海から防風林を抜けるこの道は、26年間ずっと凸凹の未舗装路だった。タクシーは底を擦るから入りたくないと言った。道の凹部でコジュケイが砂浴びをし、キジが蛇を襲い、キョンが横切った。道脇に自然薯堀の深い穴が幾つもあって、道脇で「タラの芽」を採り、高い木に絡まってアケビが実っていた。

 そんな道が突然に舗装路になったという。写真ではわからぬが、この舗装はどこまで続いているのか。気になるなぁ。(追記:友人が同日ブログに舗装路写真を2点追加してくれた。舗装路はロッジ前で終わっていた。飛行場脇まで舗装がつながるのは先のことらしい)

 ロッジ周りの環境変化も26年間で様々なり。小生もロッジもガタが来た。防風林入口に塩工場ができ、木々がなくなってロッジからは海一望へ。ロッジ前防風林も伐採で大別荘が建ち、競売され、今は新所有者が定住されている。オーナー不明?のビニール製ロッジには、様々な方が住み替わった。呑み屋ができた。ハト小屋ができた。道奥にテニス民宿があったが今はなく、人家が増えた。今回の舗装化はこの道も生活道路になった、てぇことだろうか。

keikaihata_1.jpg 友人の写真をコピーしたいが、ここは〝ひとひねり〟。昨日覚えたデジタル「自動ペインティング」で〝印象派風〟にしてみた。このソフトは写真や絵を「細密水彩画、印象派、油彩、イラスト、水彩スケッチ、色鉛筆、鉛筆線画、パステル画」などへ瞬時加工してくれる。

 下の絵は、自分が撮った同道路前「ケイカイ風景」写真を、印象派風にしたもの。こんなことがパソコンで瞬時に出来るとは、昔の印象派画家らは腰を抜かして驚くだろう。

 以上、友人ブログによる吉報で腰を抜かすほどうれしかった御礼と、同道辺り26年間の変化と、腰を抜かすデジタルお絵描き技術でした。

 元写真はリンク「つくって、つかって、つないで」の23日の記事をどうぞ。島へはGW後に滞在予定。腰痛に耐えつつの草刈り重労働が待っている。

コメント(0) 

フィニッシュは花弁を撮って名を尋ね [花と昆虫]

natuzaki1_1.jpg ゼラニウム系に関心なしも、昨年某日、マンション上の階のご夫人が「いつも上から花びらを落としてすみません」と、この花を持参した。花がきれいだったので、ベランダの植え込みに三本を突き刺しておいた。それが根付き、春にグンと伸びて開花。間もなく満開を迎える。

 花と葉の形状からペラルゴニウム(フウロソウ科)、別名ファンシーゼラニウム、和名はナツザキテンジンアオイ(夏咲天竺葵)とわかった。四季咲のゼラニウムに比し、花期は春から夏。花はゼラニウムより大きく豪華。計5弁の2弁に斑あり。葉は縁に細かい切れ込みがあってプラスチックのように硬い。

 ゼラニウム系には無数の品種あり。「雄性先熟」で品種改良が容易なのだろう。「夏咲天竺葵」にも多彩な花弁ありで、それぞれに名が付いているらしい。品種改良種多数とは交配の繰り返し。

 花と人を比すべきではなかろうが、小生の祖父母は埼玉と新潟出身で、養女の母は新潟出身で神奈川県出身の父を婿に迎え、小生は板橋で生まれた。小生の妻の父母は青森と富山出身で、妻は新宿生まれ。小生らの息子は新宿育ちで、徳島のお嬢さんを嫁にもらった。人もそれぞれが太古から果てしない出会いの繰り返しを経て現在に至る。

 これにて「夏咲天竺葵」のマクロ撮影シリーズ終わり。次回は島通いの友人がブログ「つくって、つかって、つないで」で、それは素晴らしいニュースを教えてくれたので、それを記す。


コメント(0) 

花芯の秘ひとに叶わぬ自家受粉 [花と昆虫]

jyufun3_1.jpg この花は「雄性先熟」らしい。まず先にオシベが花粉を出す。その後でメシベが伸びてきて受粉。妙なるタイミングでの「自家受粉」。ネットには「自家受粉」を避けるべくの時間差と記した説明もあった。どちらが正しいのか門外漢ゆえわからない。とにかく虫媒花(ちゅうばいか)でも風媒花(ふうばいか)でもないらしい。

 「雄性先熟」には魚ではクマノミ、植物ではヤツデ、キキョウ、リンドウなど。植物は多彩な繁殖法を有すが、人間の繁殖法は一つゆえに良くも悪くもなる。日本の現出生率は1.46。50年後の人口は8千万人に減少するらしい。

 昔は子沢山家族が多かった。ちなみに現読書中「岸田劉生」の父は、青山外人墓地シリーズのジョセフ・ヒコで登場済。ヒコが横浜で発行「海外新聞」の編集を手伝ったのが劉生の父・岸田吟香で、彼がヘボン博士の和英辞書印刷のために上海へ旅立って、ヒコの「海外新聞」は27号で休刊した。

 岸田吟香はその後「東京日日新聞」記者や諸事業展開。40歳の晩婚で、それから男女各7名14名もの子を設けた。その9番目の子が岸田劉生。劉生の子は「麗子像」で有名。

コメント(0) 

咲けば散るせめて後ろをせめて撮り [花と昆虫]

gera3_1.jpg 花は散り、実を宿す。この花の受粉は、虫でも風でもなく「雄性先熱」。その説明は後にして、まずは後ろから撮った。

 そのワケは、光を正面から浴びた花弁が〝白く〟なって、花本来の色が出なかったからだ。光を避けての後ろからのショット。

 今、岸田劉生の関連書を読書中。富山秀男『岸田劉生』(岩波新書)に、劉生の水彩画(白・光は塗らずに紙の地を残す)について、概ねこんな文章があった。

「油彩と水彩は、技法的に対極にある。油彩は筆触を重ねて執拗に対象の美を追求して行くが、水彩は描く前に対象の美を呑み込んだ上で、筆触少なく内なる美への突入を目指す。それによって透明水彩の味・美が得られる」

 これを言い換えれば、油彩は〝見るまえに跳べ〟。まずは描き出し、筆触一つ一つに責任をもちつつ悪戦苦闘を重ねて美を描き出す。あれっ、実存主義風ではないか。

 比して透明水彩は〝描く前に考えろ〟。塗らないハイライト部分、筆触少なくどう彩色するかなどを見極めてから描き出す。岸田劉生はそう考えて油彩から水彩、日本画へ関心を深めて行ったと記してあった。

コメント(0) 

紅い露わが皺の手をしばし見ゆ [花と昆虫]

hanatuyu1_1.jpg 白露=秋の季。花の露=桜。うむ、季語は難しいゆえ〝赤い露〟。 大久保はツツジの名所だった。鉄砲百人組の地が狭い間口に長い奥行き。彼らはそこで内職のツツジ栽培で、ツツジ名所になった。明治に「躑躅園」もでき、臨時ツツジ列車も走った。


 我がマンション前は「さつき通り」。各階ベランダの植え込みにサツキが植えられた。ツツジより花も葉も小さい。本来は岩場育ちゆえ盆栽向き。あたしは、この古いサツキを取り除き、好きな草木を植えている。さて、この花は?


コメント(0) 

花弁チラッ固く毛深き芯を撮り [花と昆虫]

geranium2_1.jpg ベランダで、マクロレンズ遊び。

 今年のツバメ初認は四月四日。当初は二羽も、今は後続組も合流したようです。七階ベランダに立つと、頬を掠め飛ぶ〝ツバメ返し〟。その見事な飛翔に見惚れてしまう。


コメント(0) 

ブログ挿絵、丸2年 [スケッチ・美術系]

nitouhei1_1.jpg つい先日のこと、絵を描くことに〝ぼんやりと飽いた・倦んだ・力が抜けた〟。振り返れば初スケッチ(新宿御苑)が2年前の今日で、丸2年だと気が付いた。同年7月には「ブログの写真をやめた弁」で今後は挿絵で行きますと表明。まぁ概ねそれを貫いて、自分でも「よく続いたもんだ」です。

 描けずに悶々とした時も、思いのほか上手く描けてご機嫌の時もあり。それで今回の〝ぼんやりと飽いた・倦んだ・力が抜けた〟原因はなんだろうかを考えてみた。ややして所詮は〝隠居の閑潰し遊び〟で、自分には「絵を真剣に描くこと、描き続けることのモチベーションが希薄なんだ」と気が付いた次第。ブログだって、いつでもやめたければやめていいのだし、挿絵を写真に戻してもいいんのだし~です。

 絵は端から誰かに教わったワケでもなく、ネット上に満ちる様々な絵や、絵の描き方指導の無数の動画を見たりして始めたゆえに、やる気がなくなったり迷いが生じたら、また改めてネットサーフィンでもして、ネット上に満ちる様々な絵を見て廻るのがいいのかも知れない。

 そうして気が付いたのは、自分の絵がなんだか不透明水彩(ガッシュ系)寄りの描き方(上の絵)になってきて、白絵具も多用し始めている。透明水彩から離れだしているなぁと思ったんです。そこで透明水彩で「いいなぁ~」と思った絵をよくよく見れば、文字通り「ウォーターカラーペインティング」で、絵具が濡れて滴るように描かれているのが多いんですね。あぁ、透明水彩の本来の描き方は〝つゆだく技法〟で、かつ白は描かずに残す技法なんだと再認識。そこを意識して描いてみたのが下の絵なんです。

ryunosuke3_3_1.jpg 二つの絵を見較べて、こう判断した。ガッシュ系は気に入るまで重ね塗り。一方の透明水彩は彩色前にしっかり考え・計画を立てておくのが肝心。この絵なんか指のハイライト(塗り残す)をすっかり忘れている。そそっかしい小生は要注意です。

 さて、ガッシュ系で描くのが好きならば、きっとアクリルや油絵へ行くのがいいだろうし、透明水彩本来の〝つゆだく〟に改めて立ち戻るのもいいだろうし。お爺さんなんだから天衣無縫・もっと好き勝手でもいいし。いやデジタル絵を試みるべく既に「Intuos(インティオス)」(ソフトはCOREL Painter)をPCセット済だし~と迷い出しているんですねぇ。

 絵を描き始めて丸2年。さて、どちらの方向へ行くのがいいのでしょうか。


コメント(0) 

清張(10)二人のボース物語 [読書・言葉備忘録]

lodge_1.jpg 三原山・裏砂漠の「もく星号遭難の地」から夕陽堪能の露天風呂「浜の湯」へ。そして食事後はストーブを囲む。眠れぬ方や飲み足らぬ方には、小生「もく星号のダイヤ」の続きで「インド独立運動家・ボースのダイヤ・貴金属の行方不明事件」を話すことにしている。

 話し出せば「あぁ、それは新宿・中村屋のボースでしょ。中村屋と云えば〝浜の湯〟の公園に中村彝(つね)さんの頭像があった」とF夫人。全員が新宿在住ゆえ「中村屋のカレー」、ボースの名、加えて中村彝が中村屋(相馬夫妻)の娘・俊子のヌードを描くも、結婚に反対されて傷心の〝大島暮し〟をしたことも知っている。

 そこまで知っているワケは、新宿下落合の朽ちかけたアトリエが直されて、平成25年に「区立中村彜アトリエ記念館」が開館。全員で見学したことがあるからだ。俊子は中村彝が去った後にインド独立運動家・ボースと結婚。彼のインドカレーが日本に広まった。

 そこで小生、「いや、これはもう一人のインド独立運動家ボースの話しです」。清張『征服者とダイヤモンド』の最後に「ついでに言えば」と記されていたのが〝スバス・チャンドラ・ボース〟。ちなみに中村屋は〝ラース・ビハーリー・ボース〟。

bose1_1.jpg 二人は共に日本政府の援助を得てシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立。その後、チャンドラ・ボースは終戦詔勅(しょうちょく)放送の二日後、台北に飛び、そこから九州の雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場、今は公園)に向けて出発。テイクオフ直後に謎の墜落。同乗の関東軍参謀中将などは即死も、ボースは火だるまになって病院で亡くなった。

 この時、彼はインド国民から献納された宝石・黄金・貴金属を入れたトランク二個(総額、数十億とか)を持っていて、これがそっくり行方不明だと清張は記している。「酒井中佐と林田少尉の裁量で、遺骨と大型トランク二個を飛行機で東京に運び、元大本営参謀・木下少佐に引き渡し、同少佐は元大本営第二部第八課高倉中佐に渡した。これが7月7日。翌8日、在日インド独立連盟東京支部長ムルティほか2名のインド人に遺骨と遺品を手渡した」そうだが、どうもこの辺がハッキリせずで、遺品は行方不明~。

 遺骨は杉並区高円寺の蓮光寺に埋葬で、中村屋の菓子が手向けられたとか。昭和50年に胸像が建立。歴代インド首相などが同墓を詣でた碑あり。胸像写真をオバさんらに見せれば「あらぁ、あんたのネックレスのダイヤは某大使館関係者から~。確かそんなことを言っていたわよねぇ」とK夫人。すでに酔い出したオバさんらの喧々諤々が始まった。(清張シリーズ、これにてお休み)。


コメント(0) 

清張(9)『征服者とダイヤモンド』 [読書・言葉備忘録]

m_tujimakoto1[1].jpg 大島へ「かかぁのお友達ら」を連れて行く時は、元気な方を裏砂漠へお連れする。森林帯を抜けると、眼前に荒涼たる黒砂(スコリア)の裏砂漠が広がる。少し歩けば「もく星号遭難の地」。案内板と碑がある。

 小生は、そこで「もく星号」の乗客・小原院陽子が持っていたダイヤ(宝石類)が散乱したことも話す。すると誰もが決まって光る石を拾い始める。その夜、ストーブを囲みながら松本清張の例の3部作を話し、甘粕事件と辻潤の息子・まことが宝石類を拾った話もする。

 「ねぇ、どうして陽子さんは沢山のダイヤを持っていたの」。今まではその質問にうまく応えられなかったが、清張『征服者とダイヤモンド』を読み、短文まとめで〝お話〟できるようにした。

 昭和19年、国民からダイヤ他を買い上げる通達。用意されたのは18億円。買上げ代行は7大都市の指定百貨店。換金から60万カラットが日本銀行地下金庫に収められたと推測される。貴金属類を除いてダイヤは約半分の30万カラットのはずだった。

 昭和20年9月、GHQのESS(経済科学局)クレーマー大佐が装甲車に兵士を乗せ、日本銀行に監察に入った。その少し前に、接収貴金属管理のマレー大佐が、日本から10万カラットのダイヤ持ち帰った容疑で米国軍裁判で10年の判決。同管理者だったヤング大佐事件(800万ドル相当ダイヤ)も起きての監察だった。

 15年後、昭和35年接収貴金属処理審査会が設置。日本銀行地下金庫に30万カラットがあるはずも、実際は16万カラットだった。米軍将校の他にもダイヤ、貴金属流出が相当数あったらしい。

m_zouheisyo1_1[1].jpg 各地百貨店で買い取られたダイヤ・貴金属は各総監部~政府機関へ。その間に消えたらしい。例えば東京第一陸軍造兵廠(現・十条駅近く。当時の本部建物は写真の通り今も使われ、赤煉瓦倉庫一部は図書館になっていたりする)での3万カラットも、発見時はその1割、2200カラットに過ぎなかった。

 昭和31年、隠退蔵物処理委員長代理・世耕氏のダイヤ摘発同僚・青木氏が謎の病死。昭和34年、日本人スチュワーデスの小粒ダイヤ4千粒密輸事件。「もく星号」の小原院陽子もそうしたダイヤがらみの名門婦人のひとりだったのではないか、と清張は記す。

 またそれらダイヤは換金しないと役に立たない。そこで国際的ヤミ金融が暗躍することになる。戦後の黒い噂、M資金・C資金・k資金などは、それらを運用する組織だったのではないかと清張は推測していた。

 かくしてオバさん達はダイヤの夢を見るべくお休みになる。まだ飲み足らない・眠れないオバさんらには「新宿・中村屋」がらみのダイヤ・貴金属行方不明事件の話をしてあげることにする(続く)。


コメント(0) 

清張(8)『芥川龍之介の死』 [読書・言葉備忘録]

ryunosuke3_3_1.jpg 清張「昭和史発掘」より『芥川龍之介の死』を読む。ネットには彼の似顔絵が幾つもアップされ、同作感想文も多い。小生、マイナー好みゆえ、教科書に載るような小説家は斜めにみる癖あり。ここは思い切り下世話に記してみる。

 同作は途中で何度も眠くなり、欠伸に堪えて読み進めば、なんと、荷風さんが出てきて眼が覚めた。清張さん、谷崎潤一郎と芥川龍之介の違いを、デビューの形から比較していた。谷崎(26歳)は憧れて近寄ることも出来ぬ荷風さんから「三田文学」で『刺青』を激賞され、同誌を持つ手が感激でブルブル震えた。

 比して芥川(24歳)は漱石山脈のボス・夏目漱石から『鼻』が賞賛されてのデビュー。漱石は優等門下生を誉めたに過ぎぬ。このデビューの形からも両者の〝逞しさ〟が違うと記していた。

 小生、何年も前に谷崎潤一郎を読み、こう記したことがある。~変態・潤ちゃんは帝大入学も〝悪所〟通いにのめり込む。繰り返し性病に罹って、友人に注意されると「稼ぐに追いつく淋病なし」とうそぶいた。荷風激賞の『刺青』はフェチ趣味で、初大手雑誌「中央公論」発表の『秘密』は〝女装趣味〟。『悪魔』で荷風さんは思わず「谷崎はきわめつけの変態だ」。潤ちゃん、大家になっても女の足にひれ臥し舐める癖を隠したりせず。

 清張も「谷崎は自殺など金輪際すタマじゃない」と記していた。一方、龍之介ちゃんは『今昔物語』などを素材に、精巧で小細工の効いた凝った文体の短編が多く、良く云えば芸術至上主義。輝いていても〝作り物〟。何かがあれば微塵に砕ける脆弱さ。実態なしの書物人生。自殺原因の〝ぼんやりした不安〟もお似合い。

 清張さん、さらにこう記すから少々驚いた。龍之介ちゃんは「悪所好きでお盛んだった」と。結婚3年目で好きもの「H女」に嵌った。彼女は他の作家仲間とも交わっている。しかも夫持ちゆえ、訴えられれば姦通罪。だが龍之介ちゃんは淫欲から離れられないこと7年。芸術至上主義的小説を書きながら、秘め事や己の闇は決して外に漏らさない。結果、ひとり煩悶する他はない。

 宇野浩二は芥川に連れられて各所〝隠れ家〟へ行った。先方の挨拶から龍之介ちゃんが馴染なのがわかって〝その道の通〟と感じたそうな。そんな乱れ様は当時の文士(放蕩文士)らの生態だろう。荷風さんだって同じだが。それが作品にも人生にもなっている。龍之介ちゃんは表向きは礼儀正しい知性派で若き文士らの尊敬の的。下世話な姿は決して晒せない。

 清張はこうも記していた。彼は大正10年に120日もの中国旅行に出かけたが、これを機に「H女」との関係を絶つことができた。同時に「中国では相当女を買って遊んだと思われる」。文庫で118頁。真面目に龍之介ちゃんの死と取り組みたい方は、こんな下世話は読後感を忘れ、ぜひ同書をお読み下さいませ。

  カット絵は改めて追加アップ。ここ最近の絵は不透明(ガッシュ)系だったので、画風を変えて透明水彩(ウォーターカラーペインティング=〝つゆだく〟技法)らしく描いてみた。


コメント(0) 

清張(7)「もく星号」と「伊藤律」 [読書・言葉備忘録]

seicyomokusei1_1.jpg 『日本の黒い霧』文庫下巻に半藤一利の解説あり。そこに「たとえば〝「もく星」号遭難事件〟などはどうであろうか。ナゾの深さは理解できるけれども、具体的推理や疑惑の構図については少し疑問を感じてしまう点がないわけでもない」の一文。

 小生はブログ以前のHP「週末大島暮らし」の〝島日記〟(削除済)に松本清張「もく星号」関連3作を読みつつ、その感想を書き連ねていたことがあった。弊ブログになってからは甘粕事件(大杉栄、伊藤野枝らを殺害)~辻潤(野枝の夫でダダイスト)を読み、その息子の辻まことが撃墜機で散乱した宝石類を拾ったことを知って、5年前に弊ブログで「辻まこと」(1~5)をアップ済。これらを併せて短くまとめてみる。

 松本清張は昭和35年に〝運命の「もく星号」〟(現文庫本は〝「もく星」号遭難事件〟と改題)を書いた。その8年後、昭和49年に長編『風の息』(文庫では上・中・下巻)で、もく星号は米軍機に仮想敵機として「撃沈」されたと書き直した。

 清張はそれでも不満で、平成4年8月の死去直前の4月30日初版『一九五二年日航機「撃墜」事件』を書いた。前作『風の息』に全面的に手を加え、前作を破棄するとも記した。だが巨匠の執拗な探求心をもっても、謎を残したまま逝ったようだ。

 同機にはダイヤ売買の美女・小原院陽子が乗っていた。彼女が持っていた宝石類は、軍接収ダイヤがGHQへ渡り、そこから闇ルートで流れたものと推測。結果、墜落現場に宝石類が散乱した。三作目には実在の彼女の写真、自宅内スケッチも掲載だが、清張は三作目で何を書こうとしたかは定かではなく迷宮に入った。

 小生は、当時の大島に「米軍沿岸警備隊」が駐留していたことを、清張さんが見逃したために迷宮に嵌ったのではないかと推測した。GHQは昭和20年から23年まで「大島観光ホテル」接収だが、石川好著『ストロベリーロード』には米軍沿岸警備隊は何故か20年以上も島にいた」と記されている。駐留軍に詳しい清張さんらしからぬミス。そうHPに記せば、当時の大島支庁長より「検視医が未だ元気ですから取材なさったら」のメールを下さった。小生の元スタッフが、三宅島NLP基地反対闘争をレポートした『いま、三宅島』を上梓しているが、小生はノンフィクション作家でもなく、その取材はご辞退した。

 また『日本の黒い霧』上巻最後に収録の『革命を売る男・伊藤律』は、昭和55年(1980)に本人が帰国して「スパイ説」を否定。関係者が同書出版差し止めを要求する事件も起きた。現在の文春文庫には、文藝春秋出版局による「作品について」が付加されて、スパイ説否定の関連書が紹介され、併せてお読みくださいと記されている。多分その形が両者話し合いの結果なのだろう。松本清張のノンフィクションは、鵜呑みせずに関連書も併せ読みましょうという忠告がここにありそうです。


コメント(0) 

清張(6)『潤一郎と春夫』は?です。 [読書・言葉備忘録]

tumajyoudo2_1.jpg 松本清張『昭和史発掘』の『潤一郎と春夫』を読んで「おゃまあ」と思った。これは例の谷崎潤一郎から佐藤春夫への〝細君譲渡事件〟(昭和5年)。清張作の初出は昭和40年(1965)8月~10月の「週刊文春」。

 こんなことは荷風さんのように「あまりに可笑しければ」と『断腸亭日乗』にその〝声明文〟を書き写して笑っていた。まぁ、その程度のことだと思うが、清張さんは舐めるような執拗さで文庫106ページに及んで記していた。

 この〝細君譲渡事件〟は弊ブログで〝定説〟覆す瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』(平成9年・1997年初版)を紹介済。重複するが簡単に記す。~(主役の)三人死去後、平成5年に未発表手紙群が発見。昭和4年に谷崎から佐藤春夫へ「千代さんが別の男と結婚する云々~」の手紙あり。それについて谷崎の末弟・終平が昭和63年に「文学界」に書き、それを加筆して平成元年『懐かしき人々~兄潤一郎とその周辺』を刊。別の男=第三の男がいたと記されていた。

 瀬戸内寂聴が、その第三の男・和田六郎(戦後に「大坪砂男」で推理小説家でデビュー)を調べている。六郎は谷崎が神戸で生活中に内弟子風に滞在し、8歳上の千代夫人と情交(妊娠もしたらしい)。これを谷崎は黙認。瀬戸内寂聴は和田六郎の子息、和田周氏に逢って当時のことを取材。

 「仰せのように、父とC夫人の恋愛関係は昭和3年が白熱状態」昭和4年、谷崎は「千代はいよいよ先方に行くことに決まった」と佐藤に手紙。驚いた佐藤は谷崎家に飛んで行き、千代夫人と一晩寝ずに語りあった。これを見た終平が、気の合う和田六郎にご注進。六郎はカッとなって千代夫人に決別の手紙を送りつけた。

 これが真相で、関係各氏は「和田六郎」のことを口にチャックで〝細君譲渡〟の挨拶状に至ったらしい。なお和田六郎(大坪砂男の著作は澁澤龍彦が気に入って二冊全集を刊)。また瀬戸内は、千代夫人は控えめえでメソメソと泣くような女性ではなく、けっこう逞しい女性だったと記していた。

 清張さん、嘗め回すように執拗に記していたことが、瀬戸内寂聴の書でまったく価値なしになってしまった。また弊ブログでは、昭和14年に鮎子さんと佐藤春夫の甥・竹田龍児(姉の子、東洋史家)が、泉鏡花夫妻の晩酌で結婚したこと。さらに佐藤・谷崎良家のその後についても記している。

 清張作は<「もく星」号遭難事件>も不完全で、後に2作を書くに至り、また「革命を売る男・伊藤律」では『日本の黒い霧』出版差し止め問題まで発展。清張作を読んだだけで〝わかった気〟になってはいけませんよ、ということだろう。


コメント(0) 

清張(5)『謀略朝鮮戦争』を読んで~ [読書・言葉備忘録]

macarther3_1.jpg 『日本の黒い霧』文庫下巻の最終章『謀略朝鮮戦争』を読んだ。まず小生の幼き頃を記す。昭和20年(1945)8月15日の終戦時は乳飲み子。昭和22年5月3日、日本国(平和)憲法施行。しゃべり始めの頃。ここは大事ゆえ九条を記す。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

(二)「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 平和憲法施行から幾年か経った今頃の季節の記憶。近所の道端で、姉らと糸を通した針で、散った桜の花びらを連ねていると、ジープから降りた米兵らが覗き込みにきた。

 昭和25年(1950)6月、朝鮮戦争勃発。日本の平和憲法施行から3年目にして理想は崩れた。共産圏脅威から国家警察予備隊(昭和29年に自衛隊)創設。昭和29年、サンフランシスコ講和条約調印で米国の日本占領が終わって安全保障条約調印。

 朝鮮戦争は38度線を越えた北朝鮮に、韓国軍は兵器・軍事物資を置いたまま敗走。3日後にソウルを占領し、南の釜山まで迫った。(追記:4月10日の池上彰のテレビ番組で、島民には内緒も、対馬が最終防衛線になると米軍が準備していたと説明していた)。ここで米軍が戦闘機1000機の援護で艦船300隻、兵力5万で仁川上陸でソウル奪還。これで終わりと思えば、今度は中国20万と米兵20万の正面衝突。またも「米陸軍史上最大の敗北」。再びソウルが占拠された。米軍は膨大な資材を注ぎ込んでソウル奪還。昭和28年(1953)7月、休戦成立。

 朝日新聞調べでは、朝鮮戦争に投入した兵力は国連軍80万(米軍35万、韓国軍40万、各国他5万)。共産軍は中国・北朝鮮で100万とか。前線が北~南移動で両軍兵士と市民の犠牲者は、正確な数字把握はないも膨大と思われる。「北朝鮮の実力は中国そのもの。対中国戦へ」と主張したマッカーサーは解任された。

 朝鮮戦争当時、小生は6~9歳か。何も知らずに中学へ。日本史の授業で「焦土と化した日本は〝朝鮮戦争特需〟で力強く立ち直った」と教師の説明。その時に憲法や自衛隊の話はなかったように記憶する。

 同書には第二次大戦後の米ソ対立、38度線の半島分断、韓国の政治状況、米軍内の権力構造、悲惨な戦禍、また旧日本軍人の関与などが記されていたが、そもそもは日本の植民地化があった。

 清張は38度線が共産圏との防波堤。その防御円の中心に日本がある。米国は日本国民へ絶え間なく共産勢力の恐怖を与え続けることで防御を強固にする必要が肝心になったと記した。だが、これで終わったワケではない。

 今も韓国は不安定だし、北朝鮮や中国も不気味な動きがあり、日本も安倍政権の集団自衛権はじめの安保法案可決、そして軍事費増強、憲法改正、厭な右翼化傾向、南西諸島の防波堤強化策も進んでいる。

 政治に疎い小生だが、これだけはハッキリ言える。今の国会議員らは余りにお粗末で、彼らに任せていたら、またとんでもないことになりかねないと。世界は今〝自国ファースト〟流行りで、日本は〝米国ファースト〟のようでもある。世界も日本も思慮を欠いた政治家らによって〝成熟〟とは真逆の方向に動き出しているような気がしてならない。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。