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清張(6)『潤一郎と春夫』は?です。 [読書・言葉備忘録]

tumajyoudo2_1.jpg 松本清張『昭和史発掘』の『潤一郎と春夫』を読んで「おゃまあ」と思った。これは例の谷崎潤一郎から佐藤春夫への〝細君譲渡事件〟(昭和5年)。清張作の初出は昭和40年(1965)8月~10月の「週刊文春」。

 こんなことは荷風さんのように「あまりに可笑しければ」と『断腸亭日乗』にその〝声明文〟を書き写して笑っていた。まぁ、その程度のことだと思うが、清張さんは舐めるような執拗さで文庫106ページに及んで記していた。

 この〝細君譲渡事件〟は弊ブログで〝定説〟覆す瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』(平成9年・1997年初版)を紹介済。重複するが簡単に記す。~(主役の)三人死去後、平成5年に未発表手紙群が発見。昭和4年に谷崎から佐藤春夫へ「千代さんが別の男と結婚する云々~」の手紙あり。それについて谷崎の末弟・終平が昭和63年に「文学界」に書き、それを加筆して平成元年『懐かしき人々~兄潤一郎とその周辺』を刊。別の男=第三の男がいたと記されていた。

 瀬戸内寂聴が、その第三の男・和田六郎(戦後に「大坪砂男」で推理小説家でデビュー)を調べている。六郎は谷崎が神戸で生活中に内弟子風に滞在し、8歳上の千代夫人と情交(妊娠もしたらしい)。これを谷崎は黙認。瀬戸内寂聴は和田六郎の子息、和田周氏に逢って当時のことを取材。

 「仰せのように、父とC夫人の恋愛関係は昭和3年が白熱状態」昭和4年、谷崎は「千代はいよいよ先方に行くことに決まった」と佐藤に手紙。驚いた佐藤は谷崎家に飛んで行き、千代夫人と一晩寝ずに語りあった。これを見た終平が、気の合う和田六郎にご注進。六郎はカッとなって千代夫人に決別の手紙を送りつけた。

 これが真相で、関係各氏は「和田六郎」のことを口にチャックで〝細君譲渡〟の挨拶状に至ったらしい。なお和田六郎(大坪砂男の著作は澁澤龍彦が気に入って二冊全集を刊)。また瀬戸内は、千代夫人は控えめえでメソメソと泣くような女性ではなく、けっこう逞しい女性だったと記していた。

 清張さん、嘗め回すように執拗に記していたことが、瀬戸内寂聴の書でまったく価値なしになってしまった。また弊ブログでは、昭和14年に鮎子さんと佐藤春夫の甥・竹田龍児(姉の子、東洋史家)が、泉鏡花夫妻の晩酌で結婚したこと。さらに佐藤・谷崎良家のその後についても記している。

 清張作は<「もく星」号遭難事件>も不完全で、後に2作を書くに至り、また「革命を売る男・伊藤律」では『日本の黒い霧』出版差し止め問題まで発展。清張作を読んだだけで〝わかった気〟になってはいけませんよ、ということだろう。


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