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清張(10)二人のボース物語 [読書・言葉備忘録]

lodge_1.jpg 三原山・裏砂漠の「もく星号遭難の地」から夕陽堪能の露天風呂「浜の湯」へ。そして食事後はストーブを囲む。眠れぬ方や飲み足らぬ方には、小生「もく星号のダイヤ」の続きで「インド独立運動家・ボースのダイヤ・貴金属の行方不明事件」を話すことにしている。

 話し出せば「あぁ、それは新宿・中村屋のボースでしょ。中村屋と云えば〝浜の湯〟の公園に中村彝(つね)さんの頭像があった」とF夫人。全員が新宿在住ゆえ「中村屋のカレー」、ボースの名、加えて中村彝が中村屋(相馬夫妻)の娘・俊子のヌードを描くも、結婚に反対されて傷心の〝大島暮し〟をしたことも知っている。

 そこまで知っているワケは、新宿下落合の朽ちかけたアトリエが直されて、平成25年に「区立中村彜アトリエ記念館」が開館。全員で見学したことがあるからだ。俊子は中村彝が去った後にインド独立運動家・ボースと結婚。彼のインドカレーが日本に広まった。

 そこで小生、「いや、これはもう一人のインド独立運動家ボースの話しです」。清張『征服者とダイヤモンド』の最後に「ついでに言えば」と記されていたのが〝スバス・チャンドラ・ボース〟。ちなみに中村屋は〝ラース・ビハーリー・ボース〟。

bose1_1.jpg 二人は共に日本政府の援助を得てシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立。その後、チャンドラ・ボースは終戦詔勅(しょうちょく)放送の二日後、台北に飛び、そこから九州の雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場、今は公園)に向けて出発。テイクオフ直後に謎の墜落。同乗の関東軍参謀中将などは即死も、ボースは火だるまになって病院で亡くなった。

 この時、彼はインド国民から献納された宝石・黄金・貴金属を入れたトランク二個(総額、数十億とか)を持っていて、これがそっくり行方不明だと清張は記している。「酒井中佐と林田少尉の裁量で、遺骨と大型トランク二個を飛行機で東京に運び、元大本営参謀・木下少佐に引き渡し、同少佐は元大本営第二部第八課高倉中佐に渡した。これが7月7日。翌8日、在日インド独立連盟東京支部長ムルティほか2名のインド人に遺骨と遺品を手渡した」そうだが、どうもこの辺がハッキリせずで、遺品は行方不明~。

 遺骨は杉並区高円寺の蓮光寺に埋葬で、中村屋の菓子が手向けられたとか。昭和50年に胸像が建立。歴代インド首相などが同墓を詣でた碑あり。胸像写真をオバさんらに見せれば「あらぁ、あんたのネックレスのダイヤは某大使館関係者から~。確かそんなことを言っていたわよねぇ」とK夫人。すでに酔い出したオバさんらの喧々諤々が始まった。(清張シリーズ、これにてお休み)。


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