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清張(9)『征服者とダイヤモンド』 [読書・言葉備忘録]

m_tujimakoto1[1].jpg 大島へ「かかぁのお友達ら」を連れて行く時は、元気な方を裏砂漠へお連れする。森林帯を抜けると、眼前に荒涼たる黒砂(スコリア)の裏砂漠が広がる。少し歩けば「もく星号遭難の地」。案内板と碑がある。

 小生は、そこで「もく星号」の乗客・小原院陽子が持っていたダイヤ(宝石類)が散乱したことも話す。すると誰もが決まって光る石を拾い始める。その夜、ストーブを囲みながら松本清張の例の3部作を話し、甘粕事件と辻潤の息子・まことが宝石類を拾った話もする。

 「ねぇ、どうして陽子さんは沢山のダイヤを持っていたの」。今まではその質問にうまく応えられなかったが、清張『征服者とダイヤモンド』を読み、短文まとめで〝お話〟できるようにした。

 昭和19年、国民からダイヤ他を買い上げる通達。用意されたのは18億円。買上げ代行は7大都市の指定百貨店。換金から60万カラットが日本銀行地下金庫に収められたと推測される。貴金属類を除いてダイヤは約半分の30万カラットのはずだった。

 昭和20年9月、GHQのESS(経済科学局)クレーマー大佐が装甲車に兵士を乗せ、日本銀行に監察に入った。その少し前に、接収貴金属管理のマレー大佐が、日本から10万カラットのダイヤ持ち帰った容疑で米国軍裁判で10年の判決。同管理者だったヤング大佐事件(800万ドル相当ダイヤ)も起きての監察だった。

 15年後、昭和35年接収貴金属処理審査会が設置。日本銀行地下金庫に30万カラットがあるはずも、実際は16万カラットだった。米軍将校の他にもダイヤ、貴金属流出が相当数あったらしい。

m_zouheisyo1_1[1].jpg 各地百貨店で買い取られたダイヤ・貴金属は各総監部~政府機関へ。その間に消えたらしい。例えば東京第一陸軍造兵廠(現・十条駅近く。当時の本部建物は写真の通り今も使われ、赤煉瓦倉庫一部は図書館になっていたりする)での3万カラットも、発見時はその1割、2200カラットに過ぎなかった。

 昭和31年、隠退蔵物処理委員長代理・世耕氏のダイヤ摘発同僚・青木氏が謎の病死。昭和34年、日本人スチュワーデスの小粒ダイヤ4千粒密輸事件。「もく星号」の小原院陽子もそうしたダイヤがらみの名門婦人のひとりだったのではないか、と清張は記す。

 またそれらダイヤは換金しないと役に立たない。そこで国際的ヤミ金融が暗躍することになる。戦後の黒い噂、M資金・C資金・k資金などは、それらを運用する組織だったのではないかと清張は推測していた。

 かくしてオバさん達はダイヤの夢を見るべくお休みになる。まだ飲み足らない・眠れないオバさんらには「新宿・中村屋」がらみのダイヤ・貴金属行方不明事件の話をしてあげることにする(続く)。


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