SSブログ

薪燃やす愉しみ残す五月哉〈1017‐4〉 [週末大島暮し]

stove1_1.jpg ライフライン顛末記の次は〝良かった事〟も記す。まず海沿いの道(サンセットパームライン)から防風林を抜ける凸凹道が26年を経て、ついに舗装された。友人のブログアップ写真で飛行場際まで続く舗装かと思っていたが、我がロッジ際までだった(下写真、まるで藪トンネル。右側が次第に深い谷になっているが、少し先まで行けば飛行場脇からの舗装路が来ている)。いずれ全舗装を期待です。

 今回はライフライン修繕ばかりで、かかぁには「面白くない大島暮し」と思えど、「あらっ、楽しかったよ。東京でこんなトラブルは絶対に体験出来ないもの。家の中からキジを、キョンを、リスも見た。一日中〝ホーホケキョ〟の声に包まれ、ホオジロやコジュケイも盛んに鳴いていた。〝ぶらっとはうす〟で買った自然薯も美味しかったし~」。

 さらに〝良き哉〟は、東京出発まで真夏日だったが、島は天候不順で朝・夜が寒くて存分に「薪ストーブ」が愉しめたこと。〝島の朝は早い〟と記したいが、実際は我がロッジの朝は〝遅く・寒かった〟。

 東京はマンション7階で東向き。4時半頃に昇る朝日は、早くも恐ろしいほど真っ赤で、昇り切ると白熱で、灼熱の陽が部屋に射し込む。遮熱・遮光カーテンが必需品。

hosouroend_1_1.jpg 比して島ロッジは西向きで、東側に他家ロッジと雑木林で、太陽が斜め上まで昇らぬと陽が射し込まぬ。建物の立地環境で、こうも違いがあると痛感。そこでもう一句。「明六に独り暖炉や島の初夏」

 次回島暮しは、秋に備えて久々にチェーンソーで「薪作り」と「煙突に接触の朽ち気味の桜の木を伐採」。

 倒したい方向に三角の切り込み(角度30~45°、受け口)を作り、反対側に受け口の少し上にチェーンソーで(追い口)。チェーンソ―が挟まれないように(くさび)を打ち込む~だよね。倒す方向を間違えると大ごとになる。島暮しは次から次へと、都会では出来ぬ〝仕事〟が迫ってくる。

コメント(0) 

島ロッジ1年放置の無残かな〈2017‐3〉 [週末大島暮し]

lifeline1_1.jpg 大島のボロ小屋を1年間放置すれば、尋常であるワケがない。庭の雑草繁茂は覚悟だが、まずは「あぁ、水が出ねぇ」。役場に電話をする。「検査をしたら漏水疑惑で元栓を閉じてあります」。次にプロパンも出ぬ。これも「長期留守のために定期点検が出来ず止めています」。

 次に「トイレの水の塩梅も良くない」。プロパン調整を終えたS青年が「ちょっと見てあげよう」。仕事外の親切に、かかぁと共に感涙す。この時点で水道漏水はトイレの垂れ流しが原因かと判断した。

 そこに「おぉ、久し振りに来たかぁ」とM氏。「草刈機の2サイクル燃料はこれを使ってくれ」とポリタンク。かくも皆さんの親切に支えられての島暮しです。

 翌日、家裏で水音がする。裏へ回って腰を抜かした。石油給湯器の裏側下部の水道菅とのジョイント部が腐食し、そこから水がジャージャーと勢いよく洩れ流れているじゃないか。慌てて「水道元栓(量水器)」を止めた。

 これは昨日、役場の方が雑草に埋もれていた元栓を操作するのを見ていて出来たこと。そして役場の方が教えてくれた近所の業者さんへ電話。やっとN氏の会社が電話に出てくれた。「どんな具合か夕方に見て、明日直してあげよう」。

 それからは水なし生活。風呂場に溜めた水をバケツに汲んでのトイレ流し。あぁ、被災地のライフライン崩壊の辛い生活一端を知ったり、です。翌日、水道N氏が石油給湯器の水漏れを修理し、トイレも応急処理。これでやっと湯が出た、風呂に入れた。

 そこに再びM氏登場。再びトイレを調整。おぉ、何と云うことでしょう。勢い良くジャーと水が流れでピタッと止まる。こんなに歯切れの良い水洗トイレは久し振り。島で生活するには、こうした技術と経験がなければ生きては行けない。都会暮らしの軟弱さ痛感です。

 そして、いよいよ草刈り。不安と緊張でリコイルロープを引く。「おぉ、な・なんだ!一発始動だ」。これは前回の島暮しでMK商会さんに〝上手な仕舞い方〟を教わった結果だろう。腰痛ベルトを締めて、腰まで伸びた雑草と格闘開始です。その姿を見た水道N氏が笑ったね。「貧乏老人の別荘持ちは地獄だねぇ、ふふっ」

 <メモ>1年間放置でもプロパン・水道・電気料金の請求書は毎月来る。電気はブレーカーを落とせばいいが、それが冷蔵庫の故障原因、また浄化槽ポンプ(ブロウ)は止めない方がいいのアドバイスで今までは電源は入れっぱなし。今回は思い切ってブレーカーを落として帰った。

 水道は26年目にして、役場で「別荘扱い」手続きで、使用時のみの請求になるのを知った。同じくプロパンも電話連絡で停止をしてもらえば、これまた使用時だけの請求になるらしい。今頃知っても、老いた身であと何回ロッジ通いができますでしょうか。

コメント(0) 

東京ベイを経て島へ〈2017‐2〉 [週末大島暮し]

takesibax_1.jpg 前回、汐留を含む浜松町地区の近代高層ビル化を再確認したので、次は東京ベイゾーン(臨海部)も知っておこうと思う。

 まずは竹芝桟橋対岸の(勝どき地区)の特異な外観のビル2棟が気になる。これは平成20年(2008)竣工の58階建て分譲マンション「THE TOKYO TOWERS」。あの外観はヨットの帆をイメージとか。竹芝より海に出てから、この絵のビル右角から両面を見れば、確かに三角形のセールが膨らんだ形になっている。

 その左は「勝どき東地区再開発」中のA1棟だろうか。他にA2棟、B棟も建築中らしい。勝どき地区の北側は「月島~佃島」で巨大高層マンション群林立風景は有名。ついでに記せば、佃島の対岸が東京湾汽船当時の霊岸島発着場。東海汽船はそこから芝浦桟橋、月島桟橋を経て現在の竹芝桟橋に至った。

 勝どきの沖側が晴海埠頭。現在確認出来るのは「晴海客船ターミナル」だけで、目下はオリンピック選手村は基礎作り段階か。その先が混迷深める豊洲市場。小生の記憶が正しければ、平成3年ロッジ建設時の七島海運は、この豊洲埠頭にあったように思う。

 さらに先は「有明コロシアム」が写真で確認できるゆえ有明地区。ここに有明アリーナ(バレーボール等の屋内競技場、竣工費360億)、アクアティックセンター(水泳等、竣工帆470億円)が建設らしい。東京ゲートブリッジ際では揉めに揉めたカヌー競技他。お台場がトライアスロンやビーチバレー。東京ビッグサイトでは各種室内競技、夢の島葉バトミントン、バスケ、アーチェリー、馬術など。

toukyobey2_1.jpg 昭和39年(1964)の東京オリンピックの時は小生二十歳。〝東京がうるさくなってきたから〟と友人と伊豆へ遊びに行った。そんな小生ゆえ「よくもまぁ、巨費(税金2兆円?)を投じて、とんでもないことをしてくれるなぁ」の感が否めない。

 それだけの金があればアレもコレもできように。厳しい格差社会になって最新建造物、高層ビル街にまったく無縁の取り残された人々は膨大で、対策遅れが山積みだろうに。

 さて、レインボーブリッジ(平成5年開通)下から東京ベイゾーンを過ぎ、東京湾を出れば、伊豆大島は目の前。1年間放置したロッジは「ライフライン」全滅で、スケッチをする余裕もなかった。帰京後、竹芝桟橋の写真から、島通いの友人からいただいた「Cotoman Travellers24」(固形水彩24色、筆入れ、スケッチブック収納の旅行スケッチセット)でお絵描きに相成候。

 風景画は苦手だなぁ。美大出の友人は「クロッキー帖(コピー用紙風の紙)に水彩画は無茶だよ。ヘロヘロに波打っちゃうだろ。ちゃんと水張りした水彩用紙に描きなさい」

 下写真は「世界貿易センタービル・最上階展望台」から東京ベイゾーンを撮ったもの。午前中は都心部が順光で、臨海は午後が順光。観覧料大人620円(高齢者500円)。次はロッジ1年間放置が、いかに無残なことになるかのご報告。 

コメント(0) 

島への玄関、竹芝の高層ビル群(2017‐1) [週末大島暮し]

bunkahousou_1.jpg 伊豆大島の1週間暮しから戻った2日後、19日の東京新聞にJR浜松町駅隣接「世界貿易センタービル」最上階展望台が紹介されていた。同ビルは昭和45年(1970)竣工。当時は霞が関ビルに次ぐ都心の超高層ビルだったが、東京オリンピック翌年に建て替えとか。

 小生昨今の大島経路は、大江戸線「大門」下車で竹芝桟橋まで徒歩。「大門」で地上へ出れば同ビル前。この辺りは平成12年(2000)から次々と高層ビルが建ち並び。今や近代高層ビル街に変貌した。

 同ビル前「浜松町スクエア」(写真上中央、下が賃貸オフィス、上が賃貸住宅)が平成16年(2004)竣工。右隣「文化放送ビル」が翌々年竣工、JRを渡った先の「〝芝〟離宮庭園」前の「汐留芝離宮ビルディング」(オフィスビル兼複合商業施設)も平成18年(2006)竣工で、デッキで繋がった隣の「汐留ビルディング」(2Fが25店の飲食街、4~24Fがオフィス)がその翌年竣工(下写真の右下の2棟)。その後ろの「〝浜〟離宮」際に建つのが「アクティ汐留」(下写真中央のビル。58階の賃貸住宅、平成16年・2004)、また最近では竹芝桟橋前に「浜離宮インターシティ」(平成23年・2011)が建った。

 その背後が〝虎の門・汐留地区〟だ。「東京汐留ビルディング」(ホテル・コンラッド東京、ソフトバンクが入る。平成17年・2005竣工)。その裏に「電通本社ビル」(平成14年・2002)、「ロイヤルパーク汐留タワー」(平成15年・2003)、「日本テレビタワー」(平成16年・2004)、「汐留メディアタワー」(共同通信社、平成15年・2003)等々が見える。

tenbou1_1.jpg そして今回は「芝離宮庭園」隣が巨大敷地になって工事中だった。東急不動産・鹿島建設2社共同「竹芝地区開発計画」。全体延べ面積20万㎡の国際ビジネス拠点を創出とか。業務棟は地上39階地下2階。竣工は2020年。ますます高層ビル街になる。

 かつて威容を誇った「世界貿易センタービル」に老舗感が漂うも、その最上階展望台からは360度の抜群の眺望が見える。眼下竹芝の近代高層ビル群も手に取るようにわかる。「竹芝地区開発計画」工事が進めば、竹芝桟橋は視界から消えよう。

 かく記すのも、小生「世界貿易センタービル」に多少の思い出あり。昭和52年(1977)頃か、30代半ばの頃に同ビル入居の音楽会社PCの仕事をし始め、同社は昭和53年秋に市ヶ谷・一口坂に移転。その頃が同社隆盛期で、同社は市ヶ谷から移転後に次第に凋落して行った。まぁ、そこでの仕事収入をもって平成3年(1991)に大島ロッジを建てた次第。つまり平成3年からの島通いの度に、竹芝周辺の変化を眼にしてきたことになる。

tenbou2_1.jpg PCはフジサンケイグループ。フジテレビは東新宿の自宅から徒歩圏内の河田町をあとに、お台場へ移ったのが平成9年(1997)。四谷の文化放送も前述通り浜松町へ移転、系列違いだが市ヶ谷の日本テレビも汐留自社ビルへ移転。

 かくして大島の玄関口ともいうべき浜松町~竹芝桟橋を歩くと、若き頃の仕事、我がフリーランス前半のあれこれが甦る。それにしても同地区の昼間人口は、かつての数倍増だろう。島通いの旅人らが大きな荷物を持ってゾロゾロと歩く程度だった道が、今はこれら高層ビル群の勤め人雑踏で、旅行荷物を持って歩くのが困難になってきた。

 浜松町、汐留地区が、かくも近代高層ビル街化して、そこが過疎化進む大島の玄関口とは何とも皮肉なり。いや、年々そのギャップが大きくなって、同地からジェットフォイル艇90分で〝東京のジオパーク・大島〟へが面白くなっている。このギャップ堪能で大島人気が復活すればいいのだが、と思ってしまう。

コメント(0) 

劉生7:松本清張『岸田劉生晩景』 [スケッチ・美術系]

ryuseiend1_1.jpg 松本清張『岸田隆盛晩景』は、岸田麗子『父岸田劉生』が記す「父の研究は鵠沼時代までの画業が多く、京都鎌倉時代の研究は少ない」の指摘から書き出すノンフィクション。まず同時期の研究が少ないのは、見るべき作品がない点と、劉生日記が途切れていることだろうと日記空白時期の劉生像を探りたいと記す。

 京都移住は大正12年10月。新居が落ち着くと、劉生は古美術蒐集にのめり込む。彼の東洋画観を、彼の随筆集から読んでみる。

 ~東洋の美術を見た目で西洋美術を見ると「作られしもの」の感がする。東洋画の美的要素は意思的ではなく自然的・無意識的な深さがある。渋さ、苦さもある。比して西洋画は人為的で騒々しく甘味もある。東洋画には「間抜けさ=深い稚拙感=現実味の拒否・欠如=写実の欠如」が「仙・気韻・真髄」の感を生み出している。

 かくして劉生は東洋画、肉筆浮世絵のいい作があれば、金がなくても「江賀海鯛(絵が買いたい)」先生で、借金も返せない。絵を売りたいが京都にファンもパトロンも少ない。

 大正14年3月、我儘が嫌われて春陽会脱退。旧友の木村荘八、中川一政らは同会に留まった。淋しい。友人の質も変わって酒席通いが始まった。茶屋遊びのお相手は祇園の花菊。当時の日記「昨夜また茶屋へいってしまった。(中略)別に女と深入りする訳ではなく酒をのんでさわぐだけだが自分にはどうもやはり女を弄んだような感じがして罪の感がのこり~」

 だが元クリスチャンの劉生は隠遁者・荷風のように、アナキスト・大杉栄のように、エロス追及の池田満寿夫のように、ピカソのようには性を奔放に愉しめない。いや、手も握れないのだ。デカダンス、退廃美の理解は頭だけ。

 木村荘八は「内心の謎=追及心」が失せて制作面に情熱を失ったと記し、清張は武者小路が記す「家庭の暗い事情」や、麗子が記す「母は女盛りを美しく飾って、取り巻きの若い連中と京の名所旧跡巡りで楽しんでいた」から夫婦間に〝秘められた疑惑〟があったのではと彼らしい推測もする。

 大正15年、鎌倉に移住も酒毒消えず。今度は新橋料亭「幸楽」に流連(いつづけ)から、三流処の茶屋に落ちるも、どこも迷惑顔だ。

 昭和3年秋、満鉄招待で大連へ。画会や肖像画で金を得てフランスへと思うもままならず。大連からの帰路に山口県徳山へ。ここで体調を崩して入院。昭和4年12月死亡。39歳だった。

 清張は最終3頁でこうまとめていた。~ゴッホらの〝模倣の天才〟から写実神秘派へ。そして肉筆浮世絵、唐画の先人画家らの〝形式の模倣の旅〟を続けた。かれの〝リアリズムの手〟が新たな精神の獲得の邪魔をした。エコール・ド・パリが画壇の主流で、それら時代の波と闘ったことで批評家、コレクターから背を向けられた。彼はその先の自己の芸術が発見できぬ煩悩で耽溺生活に逃げ込んだ未完成の画家だった。

 清張、通り一遍の結論だな。清張もまた性、デカダンスには臆病だった。清張に出来たことは39歳で亡くなった劉生を反面教師に、44歳で手にした文壇の座を維持すべく、ただひたすらに原稿を書き続けただけのような気がしないでもない。

 小生は、劉生・晩年の写実から脱した作品群から推測すれば、さらに絶望を深め(ボス的、家長的挫折)、かつ生き永らえば、抜群の写実力を有すも次々に作風展開のピカソのようになれたのではないかという気もする。ピカソのキュビスム開眼は36歳。劉生の死は、美を追求するには余りに早過ぎた。(未消化だが終わる)

コメント(0) 

劉生6:京都時代の蒐集耽溺 [スケッチ・美術系]

ryuseienikki1_1.jpg 劉生32歳、関東大震災から8日後の9月9日の日記。~ねころんで「女性」誌の荷風『耳無艸(みみなしぐさ)』などみる。この人も古美術を愛するらし。今の境地にてこの文をみて、かわける時水に会うような心地幾分したり。

 荷風へ言及で、これは確認したい。『耳無艸』は後に改題『隠居のこゞと』。大正12年4月2日『断腸亭日乗』に、~夜随筆「耳無艸」を草す、と有り。『荷風全集』15巻「麻布襍記」に『隠居のこゞと』収録。長文ゆえ雑誌「女性」に連載と推測する。

 内容は、昨今(大正当初)の編集者らの行儀の悪さ(無知)の指摘に端を発し、衣食住全般の堕落を嘆き、良き明治の森鴎外や江戸文化(浮世絵など)を懐かしく述懐。最後は大震災に遭ったが、被害の少なかった山の手に暮らしていて助かったと結んでいた。

 雑誌「女性」や「苦楽」はプラトン社発行で、同社調べも面白そう。劉生の絵に挿入される装飾(描き文字、額縁風模様など)は、同誌の山六郎、山名文夫のタイポグラフィー、イラストにどことなく似ている。

 また鵠沼脱出前、9月20日の日記に「大杉栄が甘粕という大尉に殺された由、大杉は好きではないが殺されるのはよくないと思ってへんに淋しい気がした」。誰が言ったかは忘れたが〝劉生の日記は、荷風の日記と同じくらいに面白い〟なる記述があった。

masuoeniki2_1.jpg 話を戻す。劉生が京都生活を始めたのが大正12年10月。月謝25円の長唄師匠も京都に落ち着いた。当時の京都は古美術の宝庫。まず唐画「雁」を購入し、自らを「陶雅堂」。鵠沼時代に芽生えた唐画、日本の初期肉筆画への関心がさらに深まった。

 「又兵衛」を5~800円で購入、古茶道具を70円で購入。日記にはあれ・これ欲しいと金策ばかりの記述が続く。大正13年正月の日記に「今年もよき年であってくれるよう、よきものの手に入るよう」と記す。骨董商の誘いで茶屋遊び、深酒の遊蕩も始まった。

 借金も返せないのに、欲しい作があれば買ってしまう。自ら「江賀海鯛(絵が買いたい)先生」と称し、「美の鑑賞は創造と同価値」を広言。そして大正14年7月9日に、大正9年元旦から続けられていた絵入り日記が突然終わる。その原因が様々に揶揄されるも、松本清張『岸田劉生晩景』が、この耽溺時代の劉生像を描こうとしているので、この先は同書を読むことにする。

 挿絵は、劉生〝絵入り〟日記の小サイズ超ラフ絵のひとつ。日記内容の雰囲気が伝わって愉しい。またまた余談だが池田満寿夫『尻尾のある天使』(文春文庫)を読めば、画家による同じような感じの超ラフ絵掲載。どこか似ていて面白いも、池田満寿夫の方がアートしている。岸田劉生を例えば永井荷風、大杉栄、池田満寿夫らと比せば、その像もより明確になって来よう。弊ブログ絵もこんな感じのラフ絵が描けたらいいなぁです。(続く)

コメント(0) 

劉生5:「内なる美」「卑近の美」など [スケッチ・美術系]

jibunnokao1_1.jpg 劉生の鵠沼時代の充実について、もう少し記す。前回、デフォルメされた麗子像を簡易模写したが、この辺は「内なる美」から「東洋の〝卑近美〟」へ移った例。門外漢の小生には難解だが、岸田劉生随筆集より『東洋芸術の「卑近美」について』をまとめてみた。

 「東洋芸術には、概して一種の卑しさ、下品に見える味があって、実はそこに〝渋い美〟が多く見かけられる。それは露骨な美(端正、偉大、権威、伝統的写実)とは正反対の〝卑近美〟だ。日本の踊は概して西洋の舞踊に較べて端正の味を欠く。歌舞伎の所作にもある種の卑しさに似た渋い美の味がある」

 小生は北斎の裸踊り図を模写したことがある。それが歌舞伎舞踊の「願人坊主」「うかれ坊主」でもあり。その味は下世話で露骨に違いない。劉生はこう続ける。

 「概して東洋美術及び日本美術の味には端正とか、権威とか、精神的というか倫理的感銘が欠けているかのように見えると思う。露骨な美(端正な写実)と〝卑近美〟がある。例えば水墨画の深さは西洋美に匹敵して劣らない。ならば美は二つあるのか。いや、そうではない。東洋の美は露骨性が避けられ、匿(か)くされているのだ。そこに〝渋さ〟がある。一皮剥ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さがある。それが東洋美術の〝卑近美〟である。ゆえに全美術家は、通俗さを恐れなければいけない」

 そして「デカダンスの考察」へ。デカダンスを分類分析した後で「日本の音曲の江戸末期のあるものは、明らかに本質上のデカダンスでありながら、必ずしも非芸術として捨ててしまえない一種の芸術的な魅力を持つ。一種の芸術的な魅惑となって我々の感情を一種の陶酔に導くのは何故か」

jibinkao3_1.jpg そして自答する。「それは技巧の味覚である。江戸末期の芸術は、多く技巧の繊細に走って、それがますます鋭くなるにつれ、芸術上の本質が腐ってゆく代わりに、技巧の味覚だけは非常に進んだ。その技巧の持ち味が人を或る陶酔に誘うのである」

 劉生の当時の日記を読むと、夫妻で三味線や長唄の出稽古を受け、日々上京の折りには必ず東洋・日本美術品を鑑賞しては蒐集の欲を募らせていた。だが富山秀男著では「劉生のそうした進化が、関東大震災後を契機に欧州から流入の前衛的画風が画壇主流となり、次第は無視されていった」と記す。劉生は油彩で日本画風に、または水墨画を、油彩で大首絵風を描いたりと彼の探求心は限りなく展開するのだが~。

 さて挿絵は劉生自画像の油彩、素描淡彩を一皮崩してみれば、何かが見えてくるような気がしてデジタル処理してみた。ははっ、どちらの絵が油彩か素描かが分からなくなってきた。これで色を抜けば水墨画にもなろうか。こんな遊びはきっと「剽窃・加工」でいけないこと。(続く)

コメント(0) 

劉生4:充実の鵠沼時代 [スケッチ・美術系]

reiko4_1.jpg 岸田劉生26歳、大正6年(1917)。より温暖な地・鵠沼へ移転。草土社、白樺派メンバー、そしてバーナード・リーチも訪ね来る。椿貞夫も引っ越して来た。梅原龍三郎は鎌倉で、萬鉄五郎は茅ヶ崎。大正期の湘南画壇はちょっと熱かった。劉生の健康も回復してパトロンも増え〝劉生の鵠沼充実期〟へ。

 若い画家らの信奉者が多かったのは、彼が展開する画論・芸術論などの筆力(父親譲り)も影響大だったろう。大正7年『麗子肖像』から麗子連作も始まる。大正9年元旦から克明な「絵入り日記」(大正14年7月まで一日も欠かさず)を書き始める。この頃の画論「内なる光」について富岡秀雄著では、以下のように要約していた。

 「印象派はものの表面に当る光によって対象を認識し、刻々と変わるその見え方の違いに注目した。だが劉生は逆にものの表面ではなく、ものの奥にあるものを表現しようとした。有形な対象によって形而上の無形な精神まで捉えようとした」

 後期印象派風から、対象の生命感をも細密描写で描こうとする「写実的神秘派」を自称。麗子像、友人肖像などはアルブレヒト・デューラー(ドイツ・ルネサンス期)風に。小生の素人感想では、油彩ゆえ脂ぎった顔をマクロ撮影したような迫力満ちたリアリズム。

 写実を極めると、また次の画境へ向かう。京都での個展を機に、唐絵や肉筆浮世絵への関心を抱く。 麗子像も中国宋元時代の画家・顔輝が描く寒山の顔に似てくる。それまであの画材、技法では絶対に写実は無理と断言していた日本画を認め、さらに水彩画も再認識する。

 「筆触を重ねて美を追求する油彩に比し、唐画や日本画はまず対象美をすっかり飲み込んだ上で筆触少なく描くところに味・美が生まれる。水彩は〝美をいきなり掴む独立した芸術作品〟だ」。新概念を激しく展開。なんだか岡本太郎みたいと思ってしまった。

 大正11年「東洋芸術の『卑近美』に就いて」「写実の欠如の考察」「デカダンスの考察」を発表。瞠目すべき画論。内的にも充実の日々に、大正12年9月1日の関東大震災が襲った。

 「十二時少し前かと思う。ドドドンという下からつきあげるような震動を感じたので、これはいけないと立ちあがり、蓁につづいて立って玄関から逃れようとした時は大地がゆれて~」と緊迫の日記。家屋半壊。充実の鵠沼時代が無残に終わった。

 挿絵は中国宋元期の画家・顔輝が描く寒山の顔と、それに似たデフォルメの麗子像の対比部分模写。

コメント(0) 

劉生3:「切通之写生」現場へ [スケッチ・美術系]

kioujinnjya_1.jpg 家に籠って連日読書では運動不足。自転車を駆った。岸田劉生関連書を読書中ゆえ、彼の旧居巡りと相成候。まずは劉生が新婚所帯を構えた妻の実家「西大久保457」小林宅へ。あらっ、ご近所だ。大正時代の地図を見れば、現・新宿職安通りから歌舞伎町方面へ曲がってすぐの鬼王神社隣辺り。

 今はスナックビルとラブホテル群の歓楽街で、当時の面影皆無ながら、104年前の大正始めに22歳の劉生が、ここで新婚生活と思えばなんだか身近な存在になってくる。

 職安通り沿い(鬼王神社へ曲がる手間)には、島崎藤村旧居碑あり。極貧生活のなかで『破戒』執筆中に栄養失調で三人の女児を亡くし、同通りの山手線寄り「長光寺」に葬られている。

 ここから新宿駅南口前の甲州街道を数分走って「西参道」(地図は間違えて〝北参道〟になっている)に入る。突き辺りが明治神宮で、右坂下が小田急線「参宮橋」。まずは「北参道」左側、代々木3丁目側を走って西大久保からの移転先「代々木山谷117」を探す。今は「山谷」地名はなく代々木3丁目だが「山谷幼稚園・山谷小学校」に地名が残ってい、この辺りが劉生夫妻の移転先。

yoyogitizu6_1.jpg 近くに「田山花袋終焉の地」碑あり。花袋がここへ移転は明治39年。彼の『東京三十年』(岩波文庫)に、こう記されていた。「(社から帰ってまで来客の相手はたまらぬゆえ)代々木の郊外に新居をつくった。郊外の畑の中に、一軒ぽっつりとその新居を構えた」

 当時の氏は自然主義文学の拠点、博文館「文章世界」編集主任。忙しかったのだろう。静かな郊外の家で、あの『蒲団』などを執筆。自然主義小説のもうひとつの代表作が、前述の島崎藤村『破戒』。

 次に「西参道」の反対側へ。記憶通り参宮橋側(代々木4丁目方面)は急坂で下っている。劉生の「道路と土手と塀(切通之写生)」や「代々木付近の赤土風景」などはこの辺で描かれたに違いないと、あちこちの急坂を登り降りしていたら、何ということでしょう、「立正寺」脇に「岸田劉生が描いた〝切通しの坂〟」なる碑柱があるではないか。

 勘がピタリと当たった。碑柱に「名作「切通之写生(重要文化財)は大正4年に発表された」とあった。劉生「赤土風景連作」はまさに〝都市開発最前線風景〟だった。ちなみに松本清張『半生の記』文庫表紙も同絵。東京のコンクリート・ジャングルの地下は〝赤土〟で、そこに江戸・明治・大正が眠っている。(続く。次は劉生の鵠沼時代へ)

コメント(0) 

劉生2:白馬会から草土会へ [スケッチ・美術系]

ryusei17_1.jpg 当初は水彩風景画を描いていた劉生だが、17歳で赤坂・溜池「白馬会葵橋洋画研究所(黒田清隆が指導)」に入門(挿絵は当時の劉生。痩せていた)。同所で木村荘八と親友に。木村は東日本橋の牛鍋(すき焼き)「いろは第8支店」生まれ。木村の父は愛妾担当の支店を22まで拡大して子供は30人。(岸田、木村の父は共に傑物)

 藤田嗣治が黒田の指導を嫌ったのは有名だが、劉生も黒田の指導日は避けたそうな。それでも3年在籍で、19歳で黒田スタイルの2点で文展入選。その直後、明治44年(1911)からゴッホ、ゴーギャン、マチス、セザンヌなど後期印象派の影響を受けた絵に一変。特にゴッホに夢中。後期印象派を紹介の雑誌「白樺」同人に接近。6歳年上の武者小路実篤と親交。同誌に文章も発表。バーナード・リーチとの交友も始まった。

 大正元年(1912)、高村光太郎筆頭のヒュウザン会に出品。ゴッホ風自画像などで注目。同展に学習院・漢学教授の娘で鏑木清門下生だった小林蓁(しげる)さんが観に来て、それを機に二人は結婚。新婚所帯は妻の実家・西大久保457番の小林宅二階。

 新婚当時の劉生は、訪ね来る客を次々にモデルにして数時間で完成。「岸田の首狩り・千人斬り」と言われたとか。モデルがいなければ自画像の連作、新妻も描いた。次第に後期印象派から離れ、アルブレヒト・デューラーに近づいて写実を深める。

 神経質・癇癪持ちの劉生に、妻の実家の二階は住み難く、早々に代々木山谷117の一軒家へ移転。大正3年に長女・麗子誕生。同年、二科会結成も劉生は監査委員に推されるも辞退。

 大正4年、事実上の第1回草土社展を開催。あの有名作「道路と土手と塀(切通之写生)」はじめ一連の〝赤土の風景〟を描く。同年秋「草土社」を結成。メンバーは木村荘八、中川一政、椿貞雄、高須光治など。同会展観は大正11年まで全9回開催。草土社に集う若い画家らは、劉生を狂信的に崇め、彼もまた独裁。その結束力は凄かったらしい。

 しかし大正5年、25歳の時に肺結核と診断。療養目的で駒沢村へ移転。戸外写生は無理で静物画に取り組む。大正6年、より暖かい鵠沼の別荘を借りる。次第に健康回復で、同地での6年半が彼の最も充実した〝鵠沼時代〟になる。(続く。次回は西大久保、代々木の〝赤土〟巡り)

コメント(0) 

劉生1:劉生は岸田吟香の子 [スケッチ・美術系]

ginko5_1.jpg 松本清張の短編『装飾評伝』(昭和33年)を読んだ。概ねこんな内容。~私は、耽溺の末に39歳で病死の天才画家を小説に書きたく思っていた。彼の伝記を某が書いていた。某は彼に師事も、画業的には彼に圧倒されて挫折。私は、彼の小説を書くには某への取材が必要と思っていたが、某の死亡記事を見た。某には妻子がいて、当時の某はその子を連れて彼を訪ね続けた。それが彼を破たんへ誘った。彼が某の妻を寝取った秘密が~。

 天才画家は岸田劉生で、某は椿貞雄がモデルと揶揄されている。実在モデルを、そんなフィクション仕立てにすれば非常に失礼なこと。その後の清張『岸田劉生晩景』(昭和40年)が気になった。

 新潮社『岸田劉生晩景』(昭和55年刊)を読んだ。他に「骨壺の景色」「筆写」「女囚」「鳥羽僧正」と「北斎」(期待したが資料本抄録に過ぎず)の短編を収録。『岸田劉生晩景』は小説でなくノンフクションだった。ならば別の書も読むべきで、富山秀男『岸田劉生』(岩波新書)と画集がわりに別冊太陽『岸田劉生』を図書館から借り、書店で『岸田劉生随筆集』と『摘録劉生日記』(共に岩波文庫)を購った。

 それらから劉生のお勉強。彼は岸田吟香の子。おぉ、青山外人墓地シリーズのジョセフ・ヒコで登場済だ。ヒコが横浜で「海外新聞」発行時の編集手伝いが吟香。彼はヘボンの英和辞書を上海で印刷のために旅立って「海外新聞」は27号で休刊。吟香はその後「東京日日新聞」記者、諸事業展開。40歳の晩婚ながら14人もの子を設け、劉生は明治24年(1891)6月に9番目の子として誕生。

 吟香は銀座2丁目で、ヘボン博士より特許譲渡の目薬(精錡水)会社を経営(劉生書には、その地は現・銀座2丁目の服部時計店の地。富山書には名鉄メルサがある地)。劉生は隣や近所の勧工場(間口1間半ほどで長い通路の両側に玩具、絵草子、文具、漆器などを並べ売っていた)見物が好き。とくに油彩や水彩画の常設展覧所となった勘工場があって、そこで劉生は絵心を育んだらしい。

 なお『岸田劉生随筆集』の冒頭は「新古細句銀座通」で10章にわたって明治の銀座の思い出が〝絵入り〟で記されている。ついでに劉生の親友・木村荘八(荷風『墨東奇譚』の挿絵でお馴染み)の『東京繁盛記』も面白い。

 さて、裕福に育った劉生13歳の時に長兄が、翌年に父72歳が、母が50歳で死去。父が亡くなれば借財があって、彼は中3で退学。熱心な基督教信者になって牧師志望も、牧師から〝気性が激しいから牧師より画家になりなさい〟。燃える信仰心のやり場を絵画に向けたのはゴッホも同じだな。(続く)

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。