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劉生1:劉生は岸田吟香の子 [スケッチ・美術系]

ginko5_1.jpg 松本清張の短編『装飾評伝』(昭和33年)を読んだ。概ねこんな内容。~私は、耽溺の末に39歳で病死の天才画家を小説に書きたく思っていた。彼の伝記を某が書いていた。某は彼に師事も、画業的には彼に圧倒されて挫折。私は、彼の小説を書くには某への取材が必要と思っていたが、某の死亡記事を見た。某には妻子がいて、当時の某はその子を連れて彼を訪ね続けた。それが彼を破たんへ誘った。彼が某の妻を寝取った秘密が~。

 天才画家は岸田劉生で、某は椿貞雄がモデルと揶揄されている。実在モデルを、そんなフィクション仕立てにすれば非常に失礼なこと。その後の清張『岸田劉生晩景』(昭和40年)が気になった。

 新潮社『岸田劉生晩景』(昭和55年刊)を読んだ。他に「骨壺の景色」「筆写」「女囚」「鳥羽僧正」と「北斎」(期待したが資料本抄録に過ぎず)の短編を収録。『岸田劉生晩景』は小説でなくノンフクションだった。ならば別の書も読むべきで、富山秀男『岸田劉生』(岩波新書)と画集がわりに別冊太陽『岸田劉生』を図書館から借り、書店で『岸田劉生随筆集』と『摘録劉生日記』(共に岩波文庫)を購った。

 それらから劉生のお勉強。彼は岸田吟香の子。おぉ、青山外人墓地シリーズのジョセフ・ヒコで登場済だ。ヒコが横浜で「海外新聞」発行時の編集手伝いが吟香。彼はヘボンの英和辞書を上海で印刷のために旅立って「海外新聞」は27号で休刊。吟香はその後「東京日日新聞」記者、諸事業展開。40歳の晩婚ながら14人もの子を設け、劉生は明治24年(1891)6月に9番目の子として誕生。

 吟香は銀座2丁目で、ヘボン博士より特許譲渡の目薬(精錡水)会社を経営(劉生書には、その地は現・銀座2丁目の服部時計店の地。富山書には名鉄メルサがある地)。劉生は隣や近所の勧工場(間口1間半ほどで長い通路の両側に玩具、絵草子、文具、漆器などを並べ売っていた)見物が好き。とくに油彩や水彩画の常設展覧所となった勘工場があって、そこで劉生は絵心を育んだらしい。

 なお『岸田劉生随筆集』の冒頭は「新古細句銀座通」で10章にわたって明治の銀座の思い出が〝絵入り〟で記されている。ついでに劉生の親友・木村荘八(荷風『墨東奇譚』の挿絵でお馴染み)の『東京繁盛記』も面白い。

 さて、裕福に育った劉生13歳の時に長兄が、翌年に父72歳が、母が50歳で死去。父が亡くなれば借財があって、彼は中3で退学。熱心な基督教信者になって牧師志望も、牧師から〝気性が激しいから牧師より画家になりなさい〟。燃える信仰心のやり場を絵画に向けたのはゴッホも同じだな。(続く)

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