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荷風の友・井上唖々とは(2) [永井荷風関連]

rasosanjin1_1.jpg 荷風による『井上唖々君のこと』を読む。書き出しに「本年七月十一日肺結核で永眠した」とあり、亡くなったニケ月後、大正十二年九月「枯野」発表の原稿。前回との重複部分を割愛し、( )に注釈や訂正も加えつつ概要引用する。

 ~彼は秀才で在学時より書店「大学館」の編集部員。同館発行誌「活文壇」は生田葵山(きざん)君編集で井上君が其助手を勤めていた。同誌の俳句選者は河東碧梧桐(かわひがしへきごろう)氏。在学当時は漢文を島田篁村(こうそん)の塾に学び、漢詩を(荷風と同じ)岩渓裳川(いわたにしょうせん)に学んだ。同級生に俳句を作る者がいて時々俳句会を開催。仲間には正岡子規の処に出入りしていた者もいた。

 (荷風十九歳の時)明治三十一年に自作『簾の月』を携えて広瀬柳浪氏を訪ねた時も井上君は同行した。また唖々君は葵山君の紹介で巖谷小波(いわやさざなみ)氏の「木曜会」に出席するようになった。(荷風自身は挿絵の清国人・羅臥雲〝蘇山人〟の紹介で「木曜会」に参加と記している)

 唖々君の「大学館」勤務は明治三十四年から大正元年。同館退社の数年は遊んでいたが、その間に加賀藩の編纂所で史料記載。細君を迎えてから一時深川の森下に住んでいたが、間もなく以前の加賀藩の関係の本郷の前田邸内の家に戻った。明治四十三年に私が慶応義塾講師になって『三田文学』を編集したが、その第一号に唖々君小品文を載せた。

 大正元年、荷風最初の結婚(材木商の次女ヨネさん)は、唖々の両親夫妻が仲人。同年末に父・久一郎が脳溢血で倒れた時、荷風は新婚に係わらず八重次と箱根で逢瀬。翌年一月の父・死去の翌月にヨネと離婚し、八重次を外妾にした。大正三年に市川左団次夫妻晩酌で八重次と結婚も、半年程で彼女は置手紙を残して荷風に別れ。

 大正五年(慶応、三田文学を辞めて)に籾山庭後、井上唖々らと雑誌『文明』を創刊。同誌は丸二年続き、其の後の『花月』は私の処に発行所を置き、編集を唖々君がやってくれた。大正七年に唖々君が「毎夕新聞」入社で『花月』廃刊。彼は亡くなるまで「毎夕新聞」に在社。主な著は『夜の女界』『猿論語』と『小説道楽』(荷風渡米前に大学館から刊。荷風を主人公にしたモデル小説)。君の家の菩提所は白山の蓮久寺であるから、君もそこに葬られたのであろう。~で同随筆は終わっていた。

 挿絵は荷風を「木曜会」に紹介した羅臥雲(らがうん)。男もゾクッとする眉目秀麗とか。写真を見ると描かなかったが右手が女性仕草っぽかった。羅臥雲については「荷風句雑感(その3)」で詳細を記したの省略。(次は『断腸亭日乗』や随筆『深川の散歩』に書かれた井上唖々について~)※明日から1週間ほど〝島暮し〟。帰京後に続きをアップ。

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荷風の友・井上唖々とは(1) [永井荷風関連]

kafuaa1_1.jpg 時に荷風関連記事の閲覧あり。読み直せば、荷風と〝水魚の交わり=井上唖々〟の名を流し記すも、彼の人となりを記さなかった反省と、ネット上でも彼の詳細記述少なく、改めて調べ直してみた。

 まずは秋庭太郎著『考證 永井荷風』を参考にする。荷風と井上唖々が出会ったのは、荷風の東京高等師範尋常中学校(神田一ツ橋、6年制)時代。荷風は明治24年、12歳で同校2年編入学。軟派・荷風は硬派の寺内壽一(後の元帥陸軍大将)らに殴られている。

 荷風は病弱で長期療養で1年留年。その間の読書で文学に親しんだ。17歳より尺八と三味線の稽古を開始。併せて書を岡三橋に、絵を岡不崩(横山大観と共に東京美術学校の第一期生)、漢詩を岩渓裳川に学んだ。漢詩を共に習った同級生・井上唖々と親しくなる。

 余談だが、荷風が絵を習っていたとは知らなかった。荷風は師の不崩とは晩年まで交際を続けたそうな。荷風が描く絵に、かく謂れがあったと改めて認識した。ちなみに弟・威三郎(後に農学者)も同中学在籍で、彼の同級生で図画は〝藤田嗣治か威三郎〟と言われたそうな。威三郎は昭和35年の西欧旅行の際のパリで藤田に逢い〝少女像〟を額入りで贈られ持ち帰った。藤田は日本画壇に愛想をつかしフランス国籍、レオナール・フジタになった後だろう。

 話を戻す。秋庭著より井上唖々(本名・井上精一)経歴を簡単に記す。~金沢藩士の長男。明治11年、名古屋生まれ。幼少より父と東京飯田町に住み、第一高等学校第一部を卒。東京帝国大学独文科に学ぶも、病のために学業を廃し、書店に勤める傍ら雑筆を以て口糊とした。英独語に通じ、漢文学の素養浅からず、式亭三馬や斉藤緑雨風の滑稽風刺文を得意にした。

 日本史に明るく、芝居を好み、俳諧に遊んだ。文壇に見向きもせず陋巷陰士的生活をよしとし、酒を愛し清貧に甘んじ、明治43,44年頃に継母と衝突して深川東森下町近くの裏長屋に女と隠れ住む。

 その後、正妻みねを娶り二子を設ける。大正時代に籾山書店勤務後に毎夕新聞に入社(酒が呑める暮し優先で校正係りに甘んじる)。荷風主筆の文芸雑誌『文明』『花月』の編集に協力。大正12年、46歳で〝脱俗陰淪(だつぞくいんりん)の一生を終わった。著書に『猿論語』『酒行脚』『裏店列伝』『小説道楽』『遊楽書生』など。荷風との合作『夜の女界』。

 挿絵は荷風帰朝後に浅草で撮った写真を参考に描いた。二人、無頼ぶっている。写真ではよくわからないが荷風は髯を蓄え、唖々は丸眼鏡を外しているか。(このシリーズ4、5回は続きそう)

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円形信号機から若き日々を [スケッチ・美術系]

nisigutidigi_1.jpg さらに苦手の高層ビル街へ。新宿警察署近くの「新宿アイランド」前にLOVEの赤文字オブジェ。道路反対側は「新宿三井ビル」(1Fにキヤノン修理サービスあり。先日も立ち上らぬストロボ修理が無料だった)

 その十字路が「新宿警察署裏交差点」で珍しい〝円形信号機〟が架ってい、それを描いてみた。なんだか〝塗り絵〟のようになってしまったが、苦手のビル街を描いたことで、苦手意識が薄らいできたような気がした。

 描き終わって、この円形信号機(サインリング)が「GKデザイン」作と知った。GKグループ創業者は栄久庵憲治さん(2015年没)。工業デザイン草分けの偉い方だが、実は氏は小生が若い時分に数年所属の「ヘラ鮒底釣り会・喜楽会」会長だった。

 当時、上井草駅近くに「釣り堀・喜楽沼」あり。何故そこへ、どう行ったかも思い出せないが、釣りを見学していて誘われたのだろう、「喜楽会」へ入会した。

 月例会後に、帰り道が同方向だったかで栄久庵さん、老哲学者、絵描きさん他のメンバーで喫茶店に立ち寄ってしばし談笑が恒例。その談笑が釣りより愉しかったのを覚えている。栄久庵さんはヤマハのバイクもデザインしていて、当時の小生はヤマハ音楽振興会の仕事をしていた。

 当時は仕事一途だったが、このヘラ鮒釣りを機に、子供時分の釣りを、高2からの山岳会(東京白陵会)活動を思い出して、一気に野外遊びに目覚めた。遊びのためにバイク、自動車免許を取得。ランクルにある日はトライアル競技バイクを積み、また海釣りやダイビング機材を載せて走り回るようになった。そんな事も思い出して~(苦手の風景スケッチ克服記6で完とします)

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ツナギを購った萬年屋を描く [スケッチ・美術系]

mannenya3_1.jpg 新宿御苑を出て自転車に跨れば「島の作業ツナギがボロボロで、新ツナギ購入」を思い出し「萬年屋」へ向かった。新宿南口からワシントンホテル前を通って角筈交差点際の黄色ビルへ。

 店頭にツナギが吊るされ〝格安札〟。1階奥壁に3180円の各色ツナギが並んでいた。腰に伸縮自在の蛇腹折り付き。ポケットにあった数千円で買える価格ゆえ、そのブルー色に即決。

 店員が親切で「2階も見て下さい。その上でコレが良いならばMとLの試着をして下さい」。ズボンの上から着ることが多いのでLを購入。店のロゴ、亀のイラスト入りタオルをくれた。

 同ビルは人目を惹く黄色ペイントに亀のイラストが描かれていた。左右ビルを省略し、手前に街路樹と黒塗り高級車を配した。初めて自動車(3台も)を描いた。満足できる絵ではないも〝苦手〟を描いたことで〝よし〟としましょ。

 ネットで水彩画巡りをすれば、本格水彩画に写実派、濡れた(水気たっぷり)抒情派、人物中心、街中心、風景中心など実に多彩多岐。さらに「線と淡彩」、「線画中心」などの描き方もあって、それぞれがグループ(指導者と生徒たち)が形成されている。小生は群れるのが嫌いゆえ、あくまでも〝自己流〟探しです。

 次は最も不得意、描きたくもない高層ビル街の真ん中へ行ってみた。(苦手の風景スケッチ克服記5) 

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カップルを〝さっぱり描き〟 [スケッチ・美術系]

couple1_1.jpg 描き込み過ぎた台湾閣を大反省し、再びプラタナス並木に戻ってベンチに座るカップルを超省略で描いてみた。

 右上に広重風景版画を意識して、プラタナスの葉を大きくデフォルメかつ白スペース風に残した。葉の繁みもプラタナスとわかる描き方で簡略。彩色もサッと幾筆。

 ウム、ちょっと要領がわかってきたぞ。背後から覗き込んできた西洋人が「オォ、ジャパニーズ〝サッパリ〟ネ」と言った。(それは嘘。先日のテレビで建築家・隈研吾と日本修業を経て米国で日本食レストランを成功させたオーナーシェフが対談。二人が〝さっぱり〟コンセプトを話し合っていた)

 〝サッパリ〟の要領を覚えた次は、さらに苦手の建造物(街)を描くことにも挑戦したくなってきた。(苦手の風景スケッチ克服記4)

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台湾閣を描く。写実より省略を [スケッチ・美術系]

goryoutei15_1.jpg 新宿御苑3作目は御苑スケッチの定番、旧御涼亭(台湾閣)。この日もどこかの〝教室〟の年配者らが並び坐ってスケッチをしていた。彩色仕上げまでするのか、蚊の対策は万全か。

 野外スケッチは椅子が肝心だ。身体の安定をもって画用紙、ペンの走りも安定する。小生も鳥撮り用にコールマンの折り畳み傘状になる携帯椅子を持っているが、公衆の場(人前)で椅子に座って絵を描く勇気がない。風景画苦手には景色観察は遠視で、手元は近視で、その遠近調整が少々辛いことも関係している。

 ここは御託を並べても埒はあかない。無理して描き始めれば、風景を〝写す〟ことに己を見失って描き込み過ぎた。小生のような初心者でも、ペン・筆を持てば描けもしないのに、見た通り(写実)に描こうとし、その結果〝無残なお目汚し〟になってしまう。

 人は何故、細部を描こうとするのだろうか。本能や? ゴッホらジャポニズムの西洋画家らは、浮世絵の大胆な省略(デフォルメ)に胆を潰し魅了されたらしい。

 西洋画は〝見るまえに跳べ〟の実存主義的なところがある。その引き換えに一つづつの筆触に責任を負う。比して水彩画は〝描く前に考えろ〟だ。構図やテーマを、白をどう残すか、どう省略し、どんな線で、どう彩色するかなどを描く前にしっかりと頭の中でデザインしてから描き始める。

 細部を描こうとする性癖が本能ならば、ここは浮世絵や水墨画でも描く〝禅的〟な気持ちを持って、思い切った省略(抽象に近いほど)の覚悟が必要だろう。次はこの辺に留意して描いてみることにした。(苦手の風景スケッチ克服記3)

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プラタナス並木を描く [スケッチ・美術系]

platanus1_1.jpg 最初に描いたのは日本最古のプラタナス巨木だが、次に大木戸門方向の「プラタナス並木」を描いた。ベンチに座ると、並木の陰と陽が交互に続くのが面白いと思った。

 昔、ここのプラタナスの穴にワカケホンセイインコが出入りしていたのを見たことがある。

 プラタナス並木と云えば『鈴懸の径』。立教大キャンパスの〝鈴懸の並木〟から佐伯孝夫が作詞で灰田勝彦作曲。あたしは4ビート・アレンジの鈴木章治のクラリネット、平岡精二のヴィヴラフォンが好きだ。

 御苑のプラタナス並木の秋の風情もいい。プラタナスの大きな落葉が、ベンチを埋めるかのように降り積もる。

 昔、某有名写真家が某のジャケット写真をここで撮った。〝早撮り〟の彼のこと、苑の許可なしでサッと撮ったらしいが、子供時分から御苑を知っている者には〝あぁ、この写真の木はあの木だなぁ〟とわかる。そう指摘すると彼は頭を抱えた。某の名は言えぬ。

 そんな鳥や歌や写真家のことなどを思い出しつつ、この絵を描いた。途中で投げ出そうかと思ったが、最初に描いたベンチの板の線(角度)が良かったので最後まで頑張れた。さて、3枚目はどこで描こうか。(苦手の風景スケッチ克服記2)

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新宿御苑2度目のスケッチ [スケッチ・美術系]

taijyu3_1.jpg 2年前の春、暇つぶしに新宿御苑で初スケッチ。「うひゃぁ~、描けねぇ」で、ムキになって始めた水彩画。人物を描くのは好きになったが、風景画は相変わらず苦手。2年振りにクロッキー帖持参で御苑へ行った。

 これまでも幾度かスケッチブックを持参で御苑に行ったが、風景画は描かずしまい。「今度こそ」。新宿門を入ってすぐ右の巨木(明治20年頃に移植の日本最古のプラタナス=モミジバスズカケノキ)を前に、藪を背にしたベンチ(後ろから覗かれない)に座って描き出した。

 向こうに白シャツの男が座り込んで紫陽花を描いていた。鉛筆でアタリを取り、ペンで描き始めて数分か、ブ~ンと蚊が手に止まった。払い避け、まくり上げていた袖を手首まで伸ばす。再びブ~ン、チクッ。

 虫よけ剤を不携帯。最初はヤブ蚊くらいに思っていたが、痒くなるに従って、ひょっとしてネッタイシマカ、ヒトスジシマカだろうか。デングウィルス感染かと思ったら集中力が切れた。

 彩色せずも、せめてペンだけはと頑張ったが「いやぁ、参った・参った」。次のスケッチ場を探しながら、もしもデング熱ならば潜伏期間2~14日後に高熱かぁ~とつぶやきつつ、次は大木戸門方面のプラタナス並木へ向かった。(苦手の風景スケッチ克服記1)

 ★安倍内閣の暴挙止まらず。蛇蝎かの嫌悪感を覚えるあの顔が、テレビに映る度にチャンネルを変えてきた。チャンネルを変えれば〝御用新聞系チャンネル〟だったりで、テレビから離れる日々。風景スケッチの苦手は努力すれば克服できようが、議会無視で次から次へ憲法を変えて行くヤツラの罪は計り知れぬ。〝地獄に堕ちろ〟と記せば、戦前ならば即〝憲兵〟が飛んで来ただろう。チクッ、チクッ。毒がまわって暗黒の大日本帝国時代が甦る。 

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累計総閲覧数200万を越えて~ [ブログ&アクセス関連]

access1_1.jpg 大島シリーズ中に、ブログ累計総閲覧数が200万を越えていた。最近の閲覧数多い記事は「島の玄関・竹芝の高層ビル群」「九鬼周造の人生」「岡倉天心と九鬼周造」「謎の〝大島元町復興計画〟」「吉阪隆正と大島」「大江戸骨董市の掘り出し物」だろうか。

 思わぬ記事に閲覧が多く、これはと思う記事に閲覧が少なかったりもする。或る日は最新記事に一切見向きもせず、古い記事ばかりが閲覧されていることもある。古い記事は、自分でも何を記したかを忘れてい、自らアクセスして懐かしく読み返したりもする。

 そそっかしい小生は誤字脱字も多く、そうした際に訂正もし、時には過去の〝改ざん〟もする。ブログの写真を絵に替えたのが2年前。暇ならば昔の記事の写真なしに絵を添え、写真を絵に差し替える遊びもある。

 ブログ歴が永いくせに、200万を越えて「so-netブログ」左枠最下段「検索ボックス」の便利さに初めて気付いた。ちなみに「霊岸島」で<検索>すると18件ヒット。冒頭に写真か絵がアップで、文章は途中で<・・・>で終わる形で関連記事一覧が出る。そこの題名クリックで全文記事へ飛ぶ。

 江戸時代の金銭、時間、古文書解読などは一度勉強しても忘れてしまうことままで、そんな際にも過去の勉強記事に一瞬に飛べて、これは便利と今更になって感心した。

 写真は6月7日(今朝の数字は2006522)。更新はほぼ隔日ペースで記事数は1900ほど。1日の平均訪問者は200名で記事閲覧数はその3倍ほど。アクセスランキングとやらは1434だから、まぁ、地味な存在なのだろう。

 何故にブログを? 決まっているじゃないですか、隠居は暇なんですよぅ。金持ちならば他の遊びもあろうが、こちとら(此方人等)貧乏隠居ゆえ図書館の本を読む、絵を描く、散歩をし、自転車に乗り、ブログを記す。みぃ~んなタダで遊べることばかりです。

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大型船と中村屋とゴジラカレー〈2017‐10〉 [週末大島暮し]

ohgatasen3_1.jpg 元町の観光協会前、「寿し光」海側の小公園に座って元町桟橋を眺めていたら、大型船「さるびあ丸」が出航するところだった。

 かつて竹芝を夜発の同船に乗るべく長蛇の列に並び、座る場所確保に熾烈な闘いを展開した嫌や思い出が甦ってきた。だが大島を昼発の大型船には〝優雅な船旅感〟があった。「久し振りに大型船で帰ろうか」。しかし帰京日の大型船運航なし。

 大島暮し7日目に、元町からジェットフォイル艇で島を後にした。ややして右舷窓から我がロッジが見えた。大別荘の脇の小さな茶色屋根。手前の白線は塩工場の屋根。車で海岸通りをロッジへ走っていると「ロッジが火事だ」とドキッとすることがある。白煙は火事ではなく塩工場から立ち昇る煙(湯気)らしい。

 塩害については不明だが、いずれにせよ防風林が伐採されて船からロッジが丸見え。ロッジから海一望で、冬はニシ(強い西風)を食らって怖くて住めなくなった。老人ゆえ残り幾度の島暮し。ここは島の産業、塩の量産・発展を祈りましょ。

wagaya1_1.jpg 船の中で大島土産を確認した。「アシタバ五把、ゴジラカレー二つ、冷凍ハンバノリ四つ、そして大島の塩」。土産を見ながら「ゴジラカレーと中村屋がコラボすればおもしろかったのに」と思った。中村屋はインドカリー発祥店。中村屋の娘と結婚できぬ傷心を島で癒した中村彝。前回記したが新宿中村屋ギャラリーで「中村彝生誕130年記念展」をやっていた。実は我家は安くて旨い中村屋のレトルトカレーを常備している。

 それが元町「ベニヤ」にもあって驚いた。もしも前述のコラボが実現していたら、全国のスーパーに「中村屋の大島ゴジラカレー」も並んだだろうにと、その絵を想い浮かべたら、ちょっと楽しくなった。

 楽しくないのは、初めて描いた船の絵。友人が言う。「お前は線がダメなんだよ。描く前に線を引く練習をする。縦に、横に、円も描く。太く、細く、早く、遅く、入りと抜き~」。今回の大島暮しで痛感は、もう少しマメに島通いをすること。風景スケッチ苦手を克服すること。(今回の大島シリーズおわり)

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御神火太鼓の子供たち〈2017‐9〉 [週末大島暮し]

gojinkataiko2_1.jpg 今回の大島では、ライフライン復活と草刈りでスケッチをする余裕もなかった。そこで「ぶらっとハウス」裏の多目的広場で行われた恒例「軽トラ市」で行われた子供たちの「御神火太鼓」の写真より〝お絵描きの練習〟です。

 ブログ絵は迷った結果、やはり「ペン画+淡彩」がいいと結論し、改めてペンを再考。今までのペンは万年筆=LAMY Safari(ラミーサファリ)+インク=プラチナのカーボンインク・ブラックの細字と太字の2本。そしてボールペン=パイロットHI-TEC-C。共に水彩をのせても滲まぬインク。

 ボールペンではやはり硬質過ぎやしないかと、もっとタッチ感の出そうなSTAEDTLER pigment liner(ステッドラーピグメントライナー、水性顔料インク)が良さそうだ。世界堂へ行くとボールペンは文具売り場で、ステッドラーは画材売場。ドイツ製。絵を描くには、やはりコレがいいらしい。

 かかぁが言った。「お爺さんが文具に夢中になって、女学生みたいじゃないの。絵は道具じゃないの。腕よ、デッサン力よ。描いて・描いて・描きまくらないと上手にならないよ」。ピカソか、はたまた漫画の浦沢直樹みたいなことを言った。

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吉谷神社への参道に感動〈2017‐8〉 [週末大島暮し]

mikageisi2_1.jpg 新宿区百人町在住だった早大教授で「ル・コルビュジエ」に師事した建築家・吉阪隆正。彼は昭和40年の元町大火のテレビ映像を観た夜に「大島復興計画書」を書き上げて大島へ届け、復興の希望と勇気を元町に届けた。(弊ブログ2月に6回シリーズで紹介)

 「大島町史」にも昭和41年に〝吉阪教室による町づくり〟なる文言あり。彼らは「都市計画」と同時に建築家集団ゆえに島南部(例えば波浮小学校)の建物など多くを手掛けたらしいが、実際にどの建物の設計をしたのかは小生調べでは確証を得るには至らなかった。

 その中で「復興計画書」に図入り記載され、かつ多数建築家らが吉阪隆正について語った膨大な「You Tube」資料にも「吉谷神社への敷石参道」も彼のアイデアだったとあった。それは町づくりにおける海岸から神社へのドラマ性の演出で、敷石は都電廃止で不要になった御影石を利用とか。

 都電史をみれば、銀座を走っていた都電も同時期に廃止ゆえ、この参道の御影石に銀座の敷石が混ざっていたように推測してみた。さて、本当にその敷石参道はあるのだろうか。この眼で確認したく元町をちょっとワクワクしながら歩いてみた。

 「あった、あった、確かにあった」。

 計画書通り御影石の参道は、海岸沿いの道、現・観光協会事務所の前、以前に何度か共に呑み、元町花火を屋上で楽しませてくれた夫妻の現・廃業ホテルと東屋のある小さな公園の間から石畳みは始まっていた。

mikageisi3_1.jpg tosyokan_1.jpgそこから山側へ真っ直ぐ続いて役場通りの元町郵便局まで続き、すこし左にズレて銀行から吉谷公園(昭和43年開園。これも吉阪チームによるものらしい)を通って神社までドッシリとした石畳参道が続いていた。

 あぁ、これが銀座を含めた都電廃止による御影石の参道だ、コルビュジエに学んで都市計画に情熱を燃やした吉阪隆正の痕跡だな、とちょっとジーンと胸が熱くなった。彼は同計画に日本初?の住民参加のワークショップを勧め、また世界初のボンネルフ設計(人間優先の車道で、後に真っ直ぐな車道に直されたらしい)など数々のユニークなアイデアを提案・実施。

 小生なら参道下に、この石敷参道の由来を記した案内板を設置し、観光客を吉谷神社へ誘いたく思うのだが、そんなことを思う島の方は誰もいないんだなぁとちょっと淋しかった。

 また朽ちかけた元町図書館も、多くの資料に「吉阪プロジェクト」によるものとの記述があったので写真をアップです。

 追記:グーグルマップの大島元町上空からの写真を見ると、この敷石だけが何かを訴えるようにクッキリと映っていた。 

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夏来る繁茂の庭と老い戦〈2017‐7〉 [週末大島暮し]

kusakariman.jpg 何日も要して腰まで伸びた庭の雑草を、小生の頭(坊主)のようにきれいに刈り込んだ。島ではあちこちで〝草刈り現場〟を眼にした。その手際の良さに感服も、街育ちの老人(小生)は10分やって30分の大休憩。

 「こんなに辛い草刈りはもうイヤ」。ついに「除草剤」を買った。草刈り後に〝いざ散布〟と説明文を読めば、撒くのは草刈り後ではなく、雑草に直接散布して葉や茎を経て根を枯らすとあった。除草剤は次回へ。「老いぼれて闘い放棄の除草剤」

 さて、帰京後の仕事が上手く行けば、かかぁの友達らと再び島遊びの予定。同じメンツで幾度も島を愉しんできた。庭写真の「杉」は、I夫人が某社催事で入手の15㎝の苗を植えたもので、それがこんなに大きくなってしまった。

kusakarikanryo_1.jpg 昨年は玄関急階段でT夫人が転げ落ちた。いつの間に全員の足許が覚束ない歳になった。手摺りが必要だが、それを作る技術なく、庭に土を削った緩い階段を拵えた。

 ご夫人方全員がマンション暮しで〝あぁ、私たちもそんな土の階段作りがしたかったなぁ〟と言い出しそう。マンション暮しで出来ぬ作業に汗するのも〝島暮し〟の愉しみです。

 今回の庭仕事で、長年(20年)愛用〝黄色いツナギ〟がボロボロになった。庭仕事や防腐剤塗りなどで必需品。新調すべくネット検索すれば「草刈り専用ズボン(前部にパット、背部にベンチレーションジッパー)が15,120円。専用ヘルメット、ジャケット、手袋、ブーツもあって計68,000円。リッチな方も草刈りをするらしい。

 近所に「ワークマン」なし。西新宿の「萬年屋」か「伊勢啓中村屋」で安いツナギを求めよう。挿絵は描き終わってパソコン取り込み後に、肩ベルトが本体に繋がっていない(描き忘れ)のに気付いた。Windows「ペイント」のマウスで描き足した。草刈りが苦手でも、パソコン操作は若者のようにサッと出来る。

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長らへてあと幾度や島の風呂〈2017‐6〉 [週末大島暮し]

roten6_1.jpg ロッジのライフライン復活と草刈りで疲労困憊。いつもなら毎夕愉しむ「浜の湯」(水着着用の露天風呂)だが、今回は7日間で2日だけ。

 かつて、湯に浸かりつつ〝島の古老らの話を聞くのが愉しい〟と記したが、湯に寛ぐ方々を見回せば〝吾も古老〟かと気付かされた。かかぁが湯にあたって倒れはせぬかと眼を離せず、自分も弱った足腰をマッサージしつつの入浴。

 2年前のこと、突然の足裏のシビレに驚いた。大病院診断は「脊柱狭窄症」。病院通いをすれど改善せず、自己流ストレッチで痺れを軽減。1時間ほどのウォーキングも平気になった。腰痛は慢性。

 過日のこと、小石を踏んで転んだ。自己判断をすれば足首の柔軟性、強靭性が失われて踏ん張る力を失ったと判断。大腸内視鏡検査を勧められ「ケツから何かを突っ込んで調べるなんぞ真っ平御免でぇ」と啖呵を切るも、結果はポリープ(良性)を二度に渡って除去し、年に1度の定期検査を受けることにもなった。

 若い時分に無理をした反省あり、逆に遠慮したことの反省あり。いずれにせよ、人生やり直しが効かぬ歳。そう思ったら「浜の湯」隣にある「中村彝(つね)像」が気になった。彼は小生の半分37歳で逝った。島ではどんな暮らしをしていたのだろうか。

 帰京後に「新宿・中村屋ギャラリー」で開催中の「中村彝・生誕130年記念~芸術家たちの絆展」を観た。彼は岸田劉生と同じく「白馬会研究所」に在籍。劉生の2年先輩で、二人の仲は良くなかった。その劉生も39歳で逝った。思わず「長らへてあと幾度の島の風呂」です。(季は〝島〟で四季)

 挿絵は「浜の湯」に自分らを配す〝想像〟で描いた〝初想像画〟。今回の「浜の湯」は若夫婦と2歳半の赤ちゃんが展開する微笑ましい入浴風景が記憶に残った。

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自然木カウンター〈2017‐5〉 [週末大島暮し]

counter1_1.jpg 大島のボロロッジは薪ストーブ、吹き抜け、天井を回るファンに加えて、この太い自然木カウンターが存在感を発揮している。

 かつて島を去った知人が譲ってくれたもの。チェーンソーでカウンターの形に整えて入念に塗装。大人4、5名でワッセ・ワッセの掛け声に合わせて運び込んで設置したのを覚えている。

 ブログ挿絵は、目下さまざまな描き方を模索中。いや、迷って悶々としている。この際に改めて「不透明水彩(ガッシュ)」も使ってみようすれば、暫く使わなかった幾色もが凝固して使えなくなっていた。世界堂へ行けば2号(5ml)の単体販売はなしで、プロ仕様のような大きなチューブだけで頭を抱えてしまった。

 筆のコーナーを見る。「これは使い易そう」と選んだ筆をレジへ持って行こうとしたら4千円で、慌てて商品棚に戻した。それでも千円の水彩筆を2本買った。えらく彩色し易い。水をたっぷり含んだ描き方には、それなりの筆がある。ン万円も有りで驚いた。 

 今回は仕切り直して、チューブから出した「透明水彩パレット」を作り直し、色見本も作り直して壁に貼ってみた。初心者ながら、描き方の試行錯誤や迷いは限りなく続くのだろう。ブログ挿絵は「絵日記」のようなものゆえに、最も簡単な「鉛筆+淡彩」がいいのだろうが、悶々の日々は続く~。 

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