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草かぶれ・アレルギー [週末大島暮し]

okadakou3_1.jpg 島暮しの初告白。実は20年も前から、島で草刈り・庭仕事をした後で、決まって腕に〝草かぶれ〟症状が出ていたんだ。帰京後1週間も経てば自然に治るので、皮膚科を訪ねたことなし。それが今回は脛に出て酷くなった。

 そもそも〝脛のかぶれ〟は十年ほどのキャリアがある。最初は鳥撮りで藪や干潟に踏み込むことが多かったので、ちょっと良い長靴を買った。ピタッと足に吸い付くようで誠に歩き易かったが、何が悪かったか、同長靴を履いた後に〝脛にかぶれ〟が出た。

 次は明らかに歳のせいだろうが、冬の乾燥肌で脛が痒くなり、掻けばかぶれた。爺さんなのに、娘さんのように入浴後に保湿乳剤を塗り始めたら治った。

 今回〝脛のかぶれ〟が酷くなったのは、5月の1年振りの島暮しで、腰までの雑草と闘って出来た際の脛のかぶれが完治せぬまま、再び草と戯れたせいかも知れない。帰京翌朝、初めて皮膚科を訪ねた。「こりゃ酷い。よく我慢したねぇ。これは間違いなく草かぶれアレルギーです」。塗り薬2種、飲み薬1種を出されてピタッと治った。

 上記に関係あろうか。若い時分から髭剃りは剃刀派で、数年前に小さな傷をつくった。茶飯事なれど、顔全体が赤くなった。その後は髯を温かい湯で柔らかくして、シェービングクリームの泡をつけ、終わった後はスキンコンディション液でお肌の手入れ。爺さんになって面の皮も〝したたか〟になったと思いきや、抵抗力を失って弱くなったらしい。

 さて、島の草木かぶれの原因は~。かぶれる草木は無数で、草に棲息する虫もいる。島は椿が多く茶毒蛾の毒も飛散しているかも。今後は肌露出なしの完全防具で草刈り・庭仕事になろう。「都会育ちはヤワで情けねぇ」と呟けば、かかぁが「おまいさんのブログには〝老い病〟のカテゴリーがない。そこが今は肝心じゃないか」と云いやがった。

 挿絵に「草かぶれ」は絵にならず、連日酷暑にクーラー部屋に籠って暇ゆえに、また岡田港漁船を描いた。船の絵は5回目。50回も描けばうまく描けるようになるだろう。(これにて6月下旬~7月上旬の島暮らしの思い出10で完)

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船を描き、船の思い出を~ [週末大島暮し]

okadafune4_1.jpg 絵を描き始めて、船は難しそうで敬遠していたが成り行きでジェットフォイル艇、さるびあ丸、橘丸を、そして岡田村で3年間漁師として暮した〝不染鉄〟にあやかって岡田港の漁船を描くに至った。いつかは手慣れた感じで〝船〟が描けるようになりましょうか。

 この絵を描きつつ〝船の思い出〟が巡った。まず中1秋の遠足が「橘丸」で大島へ。社会人4年後にフリーになって最初がレジャー企業のPR誌編集だった。社長が江ノ島ヨットハーバーに大型クルーザーを係留していて(当時は加山雄三〝光進丸〟の隣)、毎週末にクルー召集。その時期に波浮港までクル―ジングしたことがあった。

 某ヨット教室のテキストを作ったことがあって、お礼に24フィートのボロヨットをくれた。係留費がなく、真鶴(港)の青年らにヨットを預けた。その頃が確か小型船舶免許制開始で、あたしは裸眼視力がダメでかかぁに免許を取ってもらった。漁師達に混じっての受験で小型船舶免許を取得。その後に小型免許が細分化され、彼女の免許は「一級」(航行区域無制限)に昇格した。

 自動車免許を持たぬ彼女は「小型船舶一級免許」を身分証明証替わりに使っていた。その後、矯正視力が認められて小生も三級(現・二級?)取得も、ヨットやクルーザー所有には至らなかった。

 そうだ、子供時分の最初の夢が「外国航路の船員」で、それは祖父が外国航路の「大洋丸」に乗っていた時もあって、素敵な写真をみていたからだ。だが小4年頃からの眼鏡人生で、船員学校には裸眼審査ありと知って断念した。この歳では新たな船の思い出はつくれまい。船の絵を描くことぐらいだろうな。(6月下旬の島暮しの思い出9)

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岡田暮し3年の様子:不染鉄3 [週末大島暮し]

okadamoide1_1.jpg 最後に不染鉄の岡田村暮しをもう少しクローズアップしてみたい。前述「思い出の岡田村」の解説にこんな記述あり。~岡田村では「ネギどんの家」といわれる家に泊まり、漁師とともに漁をして、3年間暮らした。村人たちと親しく交流し「ふぜんさん、ふぜんさん」と呼ばれた~。

 同作には八幡神社下に軒を連ねる草屋根の一軒に、不染らしき人物が囲炉裏に向かっている姿が描かれている。雄大な自然に囲まれ、情の深い村民たちと過ごした大島での生活は、彼には欠くべからざる思い出・経験だったのだろう。

 また昭和44年の絵葉書「お正月」(写真)には、こんな文章が書き込まれていた。「私が三十ぐらいの時(正確には23~27歳)、伊豆大島で漁師をしていた時、いつも乗っていた小さな舟である。今は皆キカイ船で二人舟はあるまい。大浪の時、風の時、大きな魚をとった時、色々なつかしき思出はつきない。お正月は松かざりをつける。お前と別れて、今は都会に何不自由なく倖せだよ。七十九のお正月だよ。お前を思ひ出して年始にかいて皆んなにお前の話をするよ。あの時は楽しかったなぁ。これをかいていると涙がでそうになってくるよ。悲しいのではないよ。なつかしさの涙だよ。浪の静かなお正月の日出のころにしようねえ」。〝お前〟とは妻のことだろうか。

fusentetu2_1.jpg 読み間違いもあろうが、凡そこんな文章。また昭和初期の作「海辺の村」の解説には~ 「茅葺屋根の住まいには、一間の部屋にいろりがあり、潮風が吹き、波音が聞こえ、海草の香る生活だった。干潮時には、かにや小魚が岩場に姿を見せ、周囲に牛やにわとりを飼う家も多かった」で、そんな抒情的な絵が描かれている。

 また奈良に移った後も、可愛いミニチュア風の岡田村「草屋根の家や舟」と題した作陶を多数創り、思い出の家を板型にして着色したり、魚達の木彫・絵も多い。さらに「思い出の岡田村」と題された絵が描かれた「着物」を幾着も制作。これらは妻亡き後に身の回りの世話をしてくれた女性たちに贈ったとか。

 不染はまた若い女性たちに「正しく美しい心がからだに一パイになると、あふれてこぼれるようにいゝ美しい画になります」と書いた絵葉書を送ったそうな。不染鉄はそんな晩年を送って85歳で逝った。

 小生の島ロッジも間もなく崩れ朽ち、いや、その前に島へ行く元気も失せよう。自動車免許更新が無理になるかもしれない。島へ行けなくなったら、不染鉄のように思い出だけで〝大島暮し〟の絵を描きはじめるかもしれない。改めて〝島の写真集〟でも作るつもりで記録・記憶保存をしておくのも良いかもしれない。

 最後に図録掲載の不染鉄の写真を参考に、彼の絵を描いてみた。小生の心が「正しく美しくない」とみえて上手い絵にはならなかったが、晩年の彼は実にいい表情をしていた。(6月下旬の島暮しの思い出8:付録の不染鉄は3で完)

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岡田暮しが飛躍の原点:不染鉄(2) [週末大島暮し]

ohsimafuukei_1.jpg 不染鉄は「山海図絵」の前後にも「海村」「大島風景」などで各展入選。3年間の岡田村暮しが、彼の飛躍の基と言っても過言ではなかろう。

 「海村」は展示なしも「大島風景」は、これまた大島の絵では珍しい岡田・風早崎灯台(大正4年に灯火開始)を前面にした大島俯瞰図。灯台左に岡田港。港右の崖下に「龍王神社」、風早崎の右に乳ヶ崎と野田浜。多くの人家と沖に船。その先がたぶん赤禿で、遠くに元町。

 画面には〝すやり霞(素槍霞=大和絵から浮世絵に使われる省略、場面転換、遠近表現で使われる手法)〟が採用されて、沖に鯨が2頭。まさにこの俯瞰も漁師として沖に出て、そこから上昇して見る鳥眼(マクロ)と、想像的緻密描写(ミクロ)の混淆。

 さて、不染鉄は昭和2年末(1927)に、京都を離れて唐招提寺、薬師寺など名刹が点在する奈良県生駒へ移住。この頃に出自の僧侶資格も得たらしい。不染鉄の作品群を大別すれば奈良古刹を描いた作品群と伊豆大島作に分けられよう。

 昭和6年(1931)に神奈川県大磯に移住。昭和8年に妻の実家がある横浜へ。昭和10年(1935)に東京へ移住。同年頃の作に「大島絵物語」。これは霊岸島を夜の10時に出航し、荒波に揉まれて岡田村へ着くまでのを巻紙に描いた作品。

omoidenookada1_1.jpg やがて軍部の力が画壇を浸食し始めると、画壇から距離を置いた。戦後、昭和20年(1945)に乞われて奈良の中学校の理事長から校長へ。奈良の画室からの眺めを平和への感謝をこめて描き出す。昭和27年に同omoidenookada2_1.jpg校を退職。

 昭和33年(1958)、67歳で62歳の妻〝はな〟死去。この頃から再び亡き妻と暮した伊豆大島・岡田村を思い出して描き出す。岡田村を海上から俯瞰したシリーズ「海村」「南海海村」「南島」、そして昭和43年「思出之岡田村」など。これら作の多くには村中央奥に「八幡神社」、右崖の「龍王神社」に描かれている。

 ~村の人同様になり夏の海冬の山、お正月色々思ひ出はつきません。今から四十年も前の事です。今ではかはら屋根の家が並び、築港が立派になり岡田港となりました。~との文があるから、その後も彼は大島を訪ねていたと推測される。

 昭和37年、奈良に建てた終の住処兼画室で描かれたのだろう昭和47年(1972)81歳の作品が「思い出の岡田村」(写真下の横長の作品を2枚に分けてアップ)。脳裏に焼き付いた岡田港を描いたのだろう。沖に中型船が2艇停泊して艀が岸に着くシーン。海岸に並んだ小さな漁船。その右崖下に「龍王神社」、湾の左は現・堤防基部となっている勝崎(かったき)。その奥に人家が軒を連ねて、その一軒に不染らしき人物。人家の奥に「八幡神社」。同作を描いた4年後の昭和51年85歳で没。

 不染鉄の美術館回顧展は、21年前の奈良県立美術館の1回だけで、東京での展覧会は「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)が初めて。次回は3年間の岡田村暮しをクローズアップしてみたい。(6月下旬の大島暮しの思い出7:付録・不染鉄2)

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「山海図絵」の秘密:不染鉄(1) [週末大島暮し]

sannkaizue_1.jpg 「東京ステーションギャラリー」で開催「没後40年 幻の画家 不染鉄(ふせんてつ)」へ行った。ギャラリ―には東京駅竣工時(大正3年)の煉瓦壁あり。まずは代表作「山海図絵」(伊豆の追憶)に注目。

 この絵、なんと大島・野田浜から見た伊豆の風景だというから驚くじゃないか。同作の元になったスケッチ「伊豆風景」(下)も展示で、不染の文が紹介されていた。「大正十二年十二月廿五日 大島野田浜海岸にて伊豆を見て描く。暖かい冬の日向の下、枯草のそよぐ上に、煙草を吸ひながら海を見る。はるかに富士山に雪がふってるのを見、寒い国の冬を想ひ出す。枯木山や、かさかさした笹にふりつむ雪、霜の道。(中略)~数日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない」

 伊豆から島に渡ったのだろう。その時に見た伊豆の風景を、大島・野田浜で蘇らせつつ描いている。見えるはずもない汽車まで走らせて、富士山の奥には雪降る日本海の漁村まで描いている。「山海図絵」は大正14年の第6回帝展入選で不染鉄の代表作。

nodahamafuji1_1.jpg 小生も絵を描き始めた2年前に乳ヶ崎(野田浜)を数度描いた。乳ヶ崎トンネル越しに見える海と富士山を描いた際には、ハッキリ見えぬのに伊豆の町並を描き込んだ。小生の想像力はそこまでだったが、不鉄は時空を超えた。

 図録解説文には、同作品に不染の特質=中心性、俯瞰構図、マクロ的視線とミクロ的視線の混淆、多視線のすべてがここに現れていると指摘されていた。あの<バベルの塔>を描いたブリューゲルと共通点が多いとも指摘。

 図録より不染鉄の経歴を読む。明治24年、小石川・光円寺(現存、茗荷谷駅の近く。大田南畝と共に活躍した狂歌師・鹿都部真顔の墓あり)生まれ。浄土宗の名門・芝中学入学もワルで放校。画家を目指し、小石川の川端画学校の日本画家・山田敬中の門下生から大正3年に日本美術院の研究会員へ。だが金も自信もなく行き場も失って、妻(はな)と共に霊岸島から汽船に乗った。〝行き場も失って〟の裏には、図録年譜に18歳で母を亡くし、22歳で父を亡くしたことの影響があろう。

「廿七の秋(正しくは大正3年23歳)東京に住むところのなくなった私は病ひ上りの家内と二人東京を小さな汽船に乗って話にきく大島へまいりました。途中風雨夜中からはげしく目的地まで行く事が出来ず、岡田村という淋しい村につきました。そこで三年程都を忘れて漁師と遊びくらしました」

 その後、京都市立絵画専門学校日本画予科から本科を首席で卒業。その年(大正12年、32歳)に大島を再訪して描いたのが「山海図絵」。彼は妻を亡くした晩年も、共に暮した岡田村を思い出して実に多くの大島を描き遺している。次回は〝不染鉄にとっての大島とは〟、その次に〝岡田村で暮した3年間の様子〟を探ってみたい。(6月下旬の島暮しの思い出6:付録・不染鉄1)

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岡田港の昔と明日 [週末大島暮し]

okadatunami2_1.jpg 今回の島暮しで、小生は〝岡田港〟について無知だったと相知候。我がロッジ住所が大島町岡田字~なのに、大島通い26年なのに。

 大島発着港は元町か岡田で、元町は島の中心で馴染店も多い。比して岡田港は馴染店なし。だが船は元町より岡田港が多い(ナライ=北風が強いと元町港で、西風や南風が強いと岡田港)。岡田に着岸すれば即バスやタクシーで港を離れ、出航時はいつも慌ただしい。

 今回は、元気な老夫人らに「港で慌ただしくお土産を買うのはイヤ」ゆえに、事前に岡田港へ連れて行けと仰せつかった。彼女らの買い物中に、初めて岡田港の村ん中を散策。家々を縫い歩けば鎮守様「八幡神社」へ出た。為朝建立。御神体も為朝がらみ。1月15日の「正月祭」で〝天古舞〟奉納。若衆が梃子(てこ)を用いて木槍に合せて舞う。都の無形文化財。その模様はYou Tubeにもアップされていた。

 そして漁港(絶壁)側に「力士大島伝吉碑」と「力石」。その右側の崖に「龍王神社」。八幡神社の祭神が源(為朝)ゆえ、平家の神々が怒って災害を起こすので建立とか。

 史蹟案内板には、岡田港の災害も記されていた。関東大震災(1923)の津波で繋舟(かいせん、つなぎぶね)が民家二階に押し上げられ、崖崩れで死者も出た。元禄16年(1703)の大津波では回船・漁船の18槽、男女54名、流人2人、家58軒が波に取られたとあった。史蹟看板に「繁舟」とあるが「繋舟」の間違いだろう。

 さて、そんな岡田港が目下大工事中。大島支局HPを見ると仮称「岡田港船客待合所兼津波避難施設」。当初は2015年完成も、何か事情があったのだろう、遅れに遅れて今は土手状階段部分(津波避難通路?)が完成しつつあった。ここから堤防基部に「緑地施設休憩所・船客待合所及び津波避難施設」(確かな情報ではないが外観三階建てだが4、5階に備蓄倉庫や貯水槽、その屋上部分が高さ約12㍍とか)へ繋がるらしい。

 島のブログを拝見すれば車で1分、走って数分で高台ゆえ、わざわざ海に面した避難施設が必要だろうかと云う指摘に納得もするが、竣工すれば店舗も入り、イベント開催も可能だろうから岡田港に新たな魅力も生まれるかもしれない。★完成予想図が見つからなかったので、勝手想像で完成図を俯瞰気味に描いてみた。

 そんなことで岡田港に改めて関心を寄せれば、大正3年(1914)から岡田港で漁師生活3年を過ごしたという日本画家・不染鉄(ふせんてつ)の展覧会が「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)で開催中と知って、さっそく鑑賞に行った。岡田港の絵がたくさん展示されていた。次回は不染鉄の岡田港暮しについて。(6月下旬の島暮しの思い出5)

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爺婆とBBQとスイカと~ [週末大島暮し]

kokisuika.jpg 古希越えの友人婆さんらと、ベランダでバーベキューをした。島のS氏に婆連を紹介し「この歳でも食える柔らかい肉を按配して~」と注文。まぁ旨かった、良く食った、ビールも戴いたワインも飲んだ。最近は〝長生き・元気の元は肉〟ってんで、老人達もよく肉を食う。

 もうひとつ、皆でぜひ食いたかったのが、口からプッと種を飛ばしつつ食うスイカ。誰もが子供時分は縁側のある生活も、今は縁側のある家には住んではいない。旨いスイカだった。「げんろく」で買ったが〝内地もの〟だろう。

 昭和40年の元町大火復興計画のコルビュジエ師事の建築家・吉阪隆正調べで都立中央図書館へ行った際に、横井弘三『東京近海 島の写生紀行』も借りて読んだ。未だコンクリートやアスファルト道路もない時代の長閑な大島スケッチ群。そして練馬区立美術館で昨年開催の「横井弘三の世界展」チラシが、写真の通り老人がスイカを食う絵だった。

 他によく食べたのが野菜即売場「ぶらっとハウス」の野菜たち。開店と同時に売り切れになる店は島のどこにもなく、島一番の人気店と云っていいだろう。とくにアシタバは元ベテラン主婦の婆さん連が腕を振るって様々に料理してくれた。また彼女らは実にたくさんのアシタバをお土産に持ち帰った。

 食さなかったは意外に思われるが〝魚〟だ。島で出回る〝地魚〟は僅少。〝魚市場〟はあるも鮮魚なし。島の宿が提供する魚は、一体どこから仕入れているのやら。島で魚が食いたかったら自分で釣るか、突くしかない。島は〝肉よし〟〝野菜よし〟だが〝魚よし〟とは参らない。

 さて、横井弘三が大島スケッチをしたのが昭和2年で、それより10年も前に岡田港で漁師らと共に3年暮した日本画家がいた。現在「東京ステーションギャラリー」で「没後40年幻の画家 不染鉄」が8月27日まで開催中。その話は後で~ (6月下旬の島暮しの思い出4)

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海原と空に似合わぬ船の色 [週末大島暮し]

tatibanamaru2_1.jpg 大島へのお客様の帰京便に「橘丸」をセットしたので、数日後の自分達も「橘丸」で帰ることにした。数年前の新艇だが、新しさ微塵も感じぬ〝何と無粋な色よ〟と思った。逆によくもまぁ、こんな色・配色を考えたものと感心した。

 例えば、こう問えば納得できようか。「貴方はこの配色の車を買いますか?」。おそらく全員がNOだろう。青い海原と空に、何とも似合わない。そう云えば、ジェットフォイル4艇も子供のオモチャみたいに着色されていて、もっとスッキリできなかったのだろうかとも思う。東海汽船の〝模様デザイン〟は柳原良平らしい。

 ちょっと前までの元町桟橋の壁画も、不気味な深海魚が蠢くような幻想ゴチック風だった。現・空港の土手壁もちょっとギョッとする。きっとバームクーヘン風模様を意識したのだろう模様が描かれている。海も緑も美しいのに、人間の変な手が加わって不自然、妙な具合になる。

daibakikyou_1.jpg さて、色は無粋も〝橘丸〟の船名復活は個人的には楽しい。その名に60年前の「中学1年生秋の遠足」を思い出した。「橘丸」で一泊の大島遠足。日本は未だ米不足だったか、宿泊する遠足は自分用の〝白米〟持参だったと記憶する。

 当時は裕次郎ブーム。小生のアルバムには三原山をバックにトレンチコートの襟を立て、短い脚ながら裕次郎を気取ったポーズの色褪せた写真が残っている。写真は「橘丸」で夜のレインボーブリッジ下を通過中。優雅な大型船の旅も、貨物船に乗っているようだった。(7月上旬帰京の大島暮しの思い出3)

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小綬鶏が玄関に居る鄙暮し [週末大島暮し]

IMG_6349_1.JPG 終始賑やかだった客人らが帰った後、ロッジに静謐が満ちた。気が抜けてソファーで惚けていたかかぁが「おまいさん、玄関に鳥が来たよぅ」。小綬鶏。網戸越しの写真はピンボケだった。

 ロッジに居れば、大鳴声「コッチコイ!」が響き渡るも、その姿をなかなか見ること叶わず。そこで幾羽の小綬鶏が出没するという東京郊外・府中の浅間山(せんげんやま)公園まで行ったことがある(下写真)。玄関に小綬鶏で長年の謎が解けた。久し振りに島へ行けば、玄関床に鳥の白い糞あり。「そうか、犯人はコヤツだったか」と。

 なお小綬鶏は昭和14年9月の「島の新聞」に「昨年に放した小綬鶏の繁殖全島で分布し~」の記事があり、昭和13年に放鳥されたものと推測される。

 野鳥話題をもうひとつ。静かになったロッジ・ベランダで寛いでいれば ♪特許許可局~トッキョキョカキョク~」。その鳴き声はホトトギスに違いない。スマフォで「伊豆大島 ホトトギス」で検索すれば「グローバルネイチャークラブのガイド日記」の写真と記事がヒットした。

m_kojyukei2_1[1].jpg ウグイスの抱卵時期に〝託卵〟すべく5月中旬頃に島に飛来とか。双眼鏡を手に鳴き声方向に車を走らせたが、姿を見ることは叶わず。だが白っぽい腹に横線模様の鳥が、上空を一直線で飛んで行く姿を見た。「うたた寝にその鳴き声ぞホトトギス」

 ウグイス、ホオジロの囀りは終日響き渡り、斜め隣家の屋根はイソヒヨドリのお好み場だ。野鳥に加え「グバッ・グワッ」の野獣声方向を見ればタイワンリスがいて、キョンの親子も歩いている。

 「あぁ、鄙なる暮しよ」と思えば、今朝のテレビで山形県鶴岡市の民家の玄関に熊出没の映像が流れていた。熊の心配はないが、かくも大島の鄙な暮らしです。(6月下旬の島暮しの思い出2)

 ★メモ:「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集めた鷲、鷹、雉子などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥された。(Weblio辞書)ホントかいなぁ~。

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煙突へ絡む枝葉の切り落とし [週末大島暮し]

tentotu1_1.jpg 薪ストーブの煙突に、桜の枝葉が絡み付いていた。秋のストーブ稼働を思えば、枯葉に火が燃え移る危険もあろう。当初はチェーンソーで木を伐採と思っていたが、それも大ごとで「高枝ノコ」で切り落としてみようと思った。

 東京のホームセンターで「高枝ノコ」を見れば、数千円から1万円余まで各種あり。島で安いのを購入と思ったが約7千円の品だけ。そこで隣家より長い垂木を借り、「くぼごん」で格安ノコと針金を求め、垂木先端にノコを括りつけた。

 ノコが格安過ぎか、ヘナッと曲がってしまうのを騙しだまし、かつ軟弱な肩の筋肉を励まし、膝の屈伸も加えつつ幾本もの枝を切り落とした。「ここまで切り落とせば、秋に薪ストーブが愉しめるだろう」と満足気に見上げれば、今度は屋根の垂木覆い?の板が弱っているのに気がついた。貧乏隠居には、業者を頼んで足場を組んでもらう余裕もなく、これまた垂木に刷毛を括りつけて防腐剤を塗りましょうか。

 ロッジを建てた若い時分はチェスト、ベンチ、椅子、棚などのDIY仕事が愉しかった。しかしロッジがボロくなってくるとメンテナンスで目一杯。併せてこちらの身体にあちこちとガタが来た。手当しつつだまし騙しで生きている。

 ボロ小屋暮しも、老いた身体との付き合いと同じく、ガタとだまし騙し上手に付き合って行くことに〝暮らし方の極意〟がありそうな気がしてきた。(6月下旬の島暮しの思い出1)

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荷風の友・井上唖々とは(5)内妻と本妻 [永井荷風関連]

yaeji3_1.jpg 井上唖々の終焉地が東大久保の西向天神祠畔(しはん)とわかった。だが唖々と云えば〝深川の陋巷暮し〟が有名で、荷風の憧れだった。そこは深川「大久保長屋(湯灌場大久保)」で、二つの〝大久保〟が紛らわしい。今回は荷風が憧れた唖々の深川暮しをテーマにする。

 荷風文の「(唖々は)深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり。子が〝深川夜烏〟と称せしは此の故なり」が〝大久保長屋〟で唖々の女は「阿久(おひさ)」さんだった。これは荷風の随筆『深川の散歩』に詳しい。

 同随筆には、彼らが若き頃に編集の「文明」に、唖々が「深川夜烏」の名で大久保長屋暮しについて記した文を掲載で、荷風が長文引用している。まずはその地を確認する。〝六間掘に沿った東森下町の裏長屋〟は、隅田川の「新大橋」と上流「両国橋」に挟まれた〝川向こう〟。現・都営新宿線「森下町」駅辺り。

 「東森下町には今でも長慶寺という禅寺が在る。此寺の墓地と裏河岸との間に、平屋建の長屋が秩序なく建てられてゐて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じてゐた。長屋の人達はこの處を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び~」なる書き出しで、深川夜烏こと唖々がその暮しを書いている。

 「露地を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久(おひさ)の家で、即ち私の奇遇する家である。阿久はもと下谷の芸者で、廃(や)めてから私のせわになって二年の後、型ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。(両隣の家族を紹介してから)私の家は二畳と四畳半の二間切りである。四畳半に長火鉢、箪笥が二棹と机。そこに阿久とお袋と阿久の姉と四人が住んで居るのである。そこで型ばかりの式を友人十人ばかり招いて酒宴を張ったのが明治四十三年六月九日だった」

 荷風は同随筆で、唖々の明治四十四年五月の深川芝居見物の顛末記も引用紹介している。荷風はそうした亜々の生活を「裏長屋に潜みかくれて、交りを文壇にも世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでゐたのを見て、江戸固有の俳人気質を伝承した真の俳人として心から尊敬してゐたのである」と記している。

 亜々と阿久一家が何時、何故に別れたかは不明だが、彼は次に「みね」を正妻にして二子を設けたのが本郷元富士町二番地前田侯邸内」。永井荷風の水魚の交わり=井上唖々調べは、この辺で区切りをつけたい。挿絵は唖々が東森下町の長屋暮しをしていた頃の荷風のお相手・新橋巴屋八重次、後の藤間静枝さん。

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荷風の友・井上唖々とは(4)終焉地 [永井荷風関連]

nisimukitenjin_1.jpg 「東大久保の僦居に帰りしが、病處に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しむ」。荷風文を書き写して、思わず「東大久保だと?」。我家近所じゃないか。〝東大久保〟を調べてみなくてはいけません。

 そこで『断腸亭日乗』大正十二年七月十一日をひも解く。「午後速達郵便にて井上唖々子逝去の報来る。夕餉を食した後東大久保の家へ赴く。既に霊柩に納めたる後なり。弔辞を述べ焼香して帰る」 以後、唖々に関する記述はなく九月一日の関東大震災を迎える。『日乗』を遡ってみる。

 大正十一年四月二十五日:井上唖々子厳父如苞翁逝去の報に接す。(荷風は唖々の父の葬儀で焼香した後に、唖々家菩提寺の近く、白山・本念寺で大田南畝、南岳=南畝甥の墓を掃っている。この時期の日乗には頻繁に地震記述あり。大震災の兆候だろう)

 八月二十三日:唖々子書を寄す。頃日本卿加州侯邸内の旧居を引払ひ東大久保西向天神祠畔に移りしといふ。唖々子本郷に住すること実に二十三年の長さに及び、去るに臨みて涙なきを得ざりしといふ。余大久保売宅の事を想出して亦悵然たり。(唖々は父逝去で加賀藩邸を出ることになって西向天神祠畔の借家へ移転。荷風はつい先日に大久保余丁町の家を売却したばかり。なお本郷住所は『断腸亭尺牘(しゃくどく、書簡)』によれば本郷元富士町二番地前田邸内)

 そして大正十二年五月九日:毎夕新聞社に唖々子を訪ふ。その後健康次第に頽廃せしものゝ如く顔色憔悴し、歩行も難儀らしく、散歩に誘ひしが辞して其家に帰れし。唖々は体調を崩して弱っている。荷風さん、心配してたびたび唖々を訪ねている。

 六月十二日:東大久保村西向天神祠畔(しはん)の寓居に唖々子の病を問ふ。甚だしく気管支を害し、肺炎を起せしなりと云ふ。専心摂生に力めなば恢復の望未全く絶えたりとも言ひがたきやうなり。されど衰弱甚だしく見るからに痛ましきさまなり。細君はさして心配の様子もなきやうなるは如何なる故歟(か)。夕陽枕頭に映じ来る頃再見を約して去る。そして七月十一日の唖々逝去の報。

 以上によって井上唖々が本郷から東大久保へ移転の経緯と場所が特定でき、亡くなった状況もわかった。西向天神は荷風『日和下駄』に〝夕陽〟の項に登場。弊ブログでも長谷川雪旦の精緻スケッチ「江戸名所図会」と、広重のデフォルメされた「絵本江戸土産」の両西向天神の絵を紹介済で、ここでは境内を撮った写真をアップ。

 今年五月、西向天神社・例大祭の笛の音に誘われて里神楽「悪鬼退治」を拝見した。あのリフレインされる妙なる笛と鼓の調べを井上唖々も聴いただろうか。

 なお最後に唖々を見舞った荷風は、その足で余丁町の旧宅前を過ぎ、谷町通善慶寺〝平秩東作の墓〟を掃苔。「東作の建てたる其父母の墓と、稲毛屋次郎右衛門と刻したるもの二基ありも〝平秩東作の墓〟がわからなかった」と記している。小生は確か東作は父母の墓に眠っていると聞いている。墓標は「南無阿弥陀仏」、台座に「立松之墓」とあったはず。荷風さんに教えてあげれば良かった。次回は唖々の内妻と本妻について。

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荷風の友・井上唖々とは(3) [永井荷風関連]

aameiji452_1.jpg 永井荷風は『断腸亭日乗』昭和五年七月(荷風五十一歳)でも井上唖々の詳細を記している。八回忌に白山蓮久寺へ掃苔せんと家を出るも雨に遭って叶わず。「平生(へいぜい)から彼の詳伝をつくらむと思ひながら老いて懶(ものう)く遂に果さず。年々物事忘れ勝ちになり行けばここに思出るままを識し置くべし」と書き出している。

 前二回との重複部分を割愛し、まずは二人がこれ程までに仲良くなったのは~「子が高等学校に学びし時は厳君(=父君)が家を麹町飯田町三丁目に移したり。恰是時(あたかもこれと)余が家も小石川より飯田町もちの木坂に移りしかば日として相見ざるはなく交誼〝水魚の如く〟なりき」。※正確には小石川から麹町区飯田町三丁目もちの木坂下へ。翌年に麹町区一番町四十二番地へ移転。※本名は精一、号は九穂、玉山、晩年は不願醒客。荷風の日乗では号が記されること多々で、覚えておく必要がある。

 秋庭著には、荷風家の一番町移転後エピソードが記されている。「唖々の家から九段坂を登れば直ちに一番町の荷風の家に至る。(中略)九段下から唖々が大荷物を背負ってきた。それは唖々家の本で、二人はそれを質屋へ持ち込んだ金で人力車を北廓(吉原)に飛ばした」

 荷風文に戻ろう。「(子は)明治三十二年に至り高等学校を退学し、予及木曜会の諸生と提携して文学雑誌〝活文壇〟を刊行せり。同誌廃刊の後唖々子は雑誌発売の書店大学館の編集員に雇はれ、大正改元の秋頃まで凡そ十四五年間通勤し居たり」 次は人となりとプライベートを紹介。

 「子は二十歳の頃より当時の青年と全く性行(せいこう、性質と行い)を異にしたる人にて名聞を欲せず成功を願わず唯酒を飲むで喜ぶのみ。(略)。明治四十三年八月都下大洪水の頃、子は凡一年余り元下谷の妓なりし女と狎れ親しみ深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり。子が〝深川夜烏〟と称せしは此の故なり」。その当時の暮しを唖々自身が記していて、荷風がその部分を引用紹介している文もある。それは次回紹介で、この荷風文を続ける。

 「明治四十四五年の頃甲州の人某氏の女を娶り男子二人を挙げたり。大正七年の冬に毎夕新聞社の三面に筆を執りしが、数年後に活版所校正係となれり。日々愚にもつかぬ世間の俗事を記述するは永く堪ふべき所ならず(略)それより酒飲む暇の多き閑職こそ望ましけれと言ひ」。そして最晩年の紹介。

 「大正十二年六月の中旬友人某々等と共に麹巷の旗亭(きてい=酒場、料理屋)に登り、飲んで夜深に至り醉倒(すいとう)して遂に起つ能(あた)はず。翌朝友人に扶けられて東大久保の僦居(しゅうきょ、借家)に帰りしが、病處に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しぬ。年を享(うけ)ること四十有六なり」

 挿絵は再び井上唖々。前回は無頼風も今回は所帯を構えた頃の写真だろうか、それを参考に描いてみた。次は終焉地・東大久保、深川の妓とは?調べてみる。

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