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岡田暮しが飛躍の原点:不染鉄(2) [週末大島暮し]

ohsimafuukei_1.jpg 不染鉄は「山海図絵」の前後にも「海村」「大島風景」などで各展入選。3年間の岡田村暮しが、彼の飛躍の基と言っても過言ではなかろう。

 「海村」は展示なしも「大島風景」は、これまた大島の絵では珍しい岡田・風早崎灯台(大正4年に灯火開始)を前面にした大島俯瞰図。灯台左に岡田港。港右の崖下に「龍王神社」、風早崎の右に乳ヶ崎と野田浜。多くの人家と沖に船。その先がたぶん赤禿で、遠くに元町。

 画面には〝すやり霞(素槍霞=大和絵から浮世絵に使われる省略、場面転換、遠近表現で使われる手法)〟が採用されて、沖に鯨が2頭。まさにこの俯瞰も漁師として沖に出て、そこから上昇して見る鳥眼(マクロ)と、想像的緻密描写(ミクロ)の混淆。

 さて、不染鉄は昭和2年末(1927)に、京都を離れて唐招提寺、薬師寺など名刹が点在する奈良県生駒へ移住。この頃に出自の僧侶資格も得たらしい。不染鉄の作品群を大別すれば奈良古刹を描いた作品群と伊豆大島作に分けられよう。

 昭和6年(1931)に神奈川県大磯に移住。昭和8年に妻の実家がある横浜へ。昭和10年(1935)に東京へ移住。同年頃の作に「大島絵物語」。これは霊岸島を夜の10時に出航し、荒波に揉まれて岡田村へ着くまでのを巻紙に描いた作品。

omoidenookada1_1.jpg やがて軍部の力が画壇を浸食し始めると、画壇から距離を置いた。戦後、昭和20年(1945)に乞われて奈良の中学校の理事長から校長へ。奈良の画室からの眺めを平和への感謝をこめて描き出す。昭和27年に同omoidenookada2_1.jpg校を退職。

 昭和33年(1958)、67歳で62歳の妻〝はな〟死去。この頃から再び亡き妻と暮した伊豆大島・岡田村を思い出して描き出す。岡田村を海上から俯瞰したシリーズ「海村」「南海海村」「南島」、そして昭和43年「思出之岡田村」など。これら作の多くには村中央奥に「八幡神社」、右崖の「龍王神社」に描かれている。

 ~村の人同様になり夏の海冬の山、お正月色々思ひ出はつきません。今から四十年も前の事です。今ではかはら屋根の家が並び、築港が立派になり岡田港となりました。~との文があるから、その後も彼は大島を訪ねていたと推測される。

 昭和37年、奈良に建てた終の住処兼画室で描かれたのだろう昭和47年(1972)81歳の作品が「思い出の岡田村」(写真下の横長の作品を2枚に分けてアップ)。脳裏に焼き付いた岡田港を描いたのだろう。沖に中型船が2艇停泊して艀が岸に着くシーン。海岸に並んだ小さな漁船。その右崖下に「龍王神社」、湾の左は現・堤防基部となっている勝崎(かったき)。その奥に人家が軒を連ねて、その一軒に不染らしき人物。人家の奥に「八幡神社」。同作を描いた4年後の昭和51年85歳で没。

 不染鉄の美術館回顧展は、21年前の奈良県立美術館の1回だけで、東京での展覧会は「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)が初めて。次回は3年間の岡田村暮しをクローズアップしてみたい。(6月下旬の大島暮しの思い出7:付録・不染鉄2)

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