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岡倉覚三と狩野芳崖と初子 [永井荷風関連]

okakurahatuko2_1.jpg フェノロサと狩野芳崖の出会いに比し、岡倉覚三と狩野芳崖の出会いを重視する説も多い。岡倉覚三(天心)については、今年春の「九鬼周造」の項、松本清張「岡倉天心」の項で紹介済も改めてお勉強。

 岡倉の父は、横浜で福井藩交易所支配人。福井の生糸・絹を外国貿易商に売っていた。覚三は同家次男で文久二年(1863)生まれ。長男早逝で、父は覚三を英才教育。八歳で母を亡くした頃から漢籍、英語の勉強。英語は横浜の教会塾。

 明治四年、十一歳で廃藩置県。一家は東京・蛎殻町で宿屋兼越前物産取次所を経営。覚三は南画、漢詩、琴、茶道を習いつつ東京外国語学校から開成学校へ。学制改正で同校は東大。文学部で英米文学を読み漁った。弟。由三郎は後の英語学者だが、彼にして兄の英語力には遠く及ばなかったとか。

 そして東大の政治学、経済学教授がフェノロサだった。彼の古美術蒐集・研究に英語堪能かつ漢文が読めて古書・古文書が解読出来る覚三の存在は欠かせない。

 東大卒から文部省官吏。最初は音楽取調掛(後の東京音楽学校。掛=かかり=係)も上司と合わず内記課へ。明治十六年、文部官僚実力者・九鬼隆一が「龍池会」副会頭になり九鬼~岡倉~フェノロサの日本美術復興体制を固めた。

 明治十六年春、第二回内国絵画共進会開催で、フェノロサが芳崖作品に驚嘆。芳崖を訪ねたフェノロサの同行者・通訳が覚三だった。明治十七年、九鬼によって覚三とフェノロサを京都・奈良へ三度派遣。法隆寺・夢殿の秘仏(救世観音)が初めて姿を現した。明治十八年、図書取調掛(美術学校設置準備)が小石川植物園内に設けられて覚三が掛員に就任。明治十九年、覚三とフェノロサが約九ヶ月の欧米美術視察へ。

 明治二十二年〈1889)、帝国博物館総長に九鬼隆一が、翌年に東京美術学校初代校長に覚三が就任。翌年に狩野芳崖が絵画科主任教授に就任。開校直前の十一月、芳崖急死。その絶筆が近代日本画の代表作「悲母観音」(一方、当時の油彩代表作は高橋由一「鮭」)だった。「悲母観音」には、覚三と芳崖の秘めた想いが込められていたらしいのだが、長くなったので次回へ。(荷風絵心6)

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狩野芳崖とフェノロサの出会い [永井荷風関連]

fenollosa2_1.jpg フェノロサについては前述の吉田亮、中村愿の両著に加え栗原信一著『フェノロサと明治文化』も参考にする。フェノロサはハーバード大(当時は有名大とも言えず)で哲学、経済学、政治学を学ぶ。卒業が明治七年(1874)。二年後、二十四歳でボストン美術館附属の美術学校(米国最初の)でデッサンと油絵を学ぶ。

 当時のフェノロサ家にはいち早く北斎版画あり。またジェームズ・ホィッスラーのジャポニスム作品(金屏風前の着物女性など)の話題も米国にも届いて日本へ興味を抱くようになっていた。そこに東大〝お雇い外国人・モールス〟(大森貝塚発掘のモース)〟が一時帰国。モールスに東大哲学講師を誘われて明治十一年(1878)に来日。

 当時の日本は廃仏毀釈で、日本美術の宝庫=諸寺が瀕死状態。上流階級も疲弊。世をあげた文明開化で西洋かぶれ。明治九年、伊藤博文進言の工部美術学校設立でイタリア講師を招聘。お雇い外国人月給が数百円で、芳崖はじめの日本画家らは一円にも困る生活。古美術は二束三文で骨董屋に溢れていた。

 当時の外国人の多くがそうだったようにフェノロサも古美術を蒐集。多くの偽物も買い込んだ。黒田侯爵家の立派なコレクションに衝撃を受け、本格的な古美術研究を開始。日本語を読めぬ話せぬ彼の古美術蒐集・研究の手助け(通訳)を、東大の教え子で英語力抜群の有賀長雄(後の法学・社会学者)と漢籍も学び古書も翻訳できる岡倉覚三がした。狩野友信や狩野永悳(えいとく)など日本画の人脈も広げて、彼の古美術研究が進み、明治十五年(1882)に「日本美術工芸は果たして欧米の需要適するや否や」を講演。これが『美術真説』と題して刊。

 これに、押し寄せる西洋文明に危惧・反感を覚え、伝統的日本美術を保護・育成、かつそれらを海外輸出の殖産興業にと画策した「龍池会」メンバーらが乗った(利用した)。彼らは今までの鬱憤を晴らす勢いで洋画排斥、日本美術ムーブメント興しに立ち上がった。

 フェノロサは日本古美術を救った恩人か、単に利用された存在か、はたまた日本美術品の海外流出の罪ある存在か~。この辺も諸説ありで、興味ある方は膨大なフェノロサ関連書でお勉強をどうぞ。

 かくして「龍池会」の活動で、洋画科なしの東京美術学校開設(初代校長は岡倉覚三、副校長がフェノロサ)。ちなみに西洋画科設置は明治二十九年(1896)。この辺は政治がらみの複雑さゆえ省略。(松本清張『岡倉天心~その内なる敵』に詳しい)

 さてフェノロサと狩野芳崖の出会いは何時か。明治十五年(1882)の第一回内国絵画共進会でフェノロサが芳崖作品を激賞。友信に誘われて芳崖がフェノロサを訪問。(栗原信一著では、フェノロサが岡倉覚三と共に芝公園の芳崖宅を訪ねた)。以後、フェノロサが月々二十円で、芳崖に画を描く環境を整えたとか。(荷風絵心5)

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狩野芳崖:狩野派の厳しい修行 [永井荷風関連]

hougai1_1.jpg 荷風の絵の先生・岡不崩の大師匠は近代日本画の礎・狩野芳崖。彼は高橋由一、冬崖と同じ文政十一年(1828)生まれ。以下、吉田亮著『狩野芳崖・高橋由一』、中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』を参考にまとめる。

 狩野芳崖は長府藩のお抱え絵師・狩野晴皐の四子(長男)。本名・幸太郎。藩校で四書五経を学び、父から狩野派画法を学ぶ。元服十五歳、菩提寺で参禅開始。仏教体験を深化。十九歳、弘化三年(1846)に長府藩より十年間の江戸遊学を許可され、父と同じ木挽町狩野家で修業。塾生五、六十人余。弟子一人二畳の割り当てで絵具と箪笥と一枚の板張り。稽古が終わればそこに布団を敷いて寝た。

 最初は花鳥山水人物のお手本をまとめた三巻物の複写(臨写)。次に五巻の「御貸し画帖」(当時は狩野常信の山水人物六十枚)の原画模写、模写からまた模写の稽古書き。この期間が一年半。次が半年かけて花鳥十二枚。次に「一枚もの」。これは狩野派名手らの作品模写。修業は朝七時から夜十時まで職務と臨書で自由時間なし。狩野派の修行恐るべしです。全教程七、八年だが、芳崖はその半分期間で終了とか。

 その後、芳崖は弟子頭(塾頭)となって後輩を指導。この期間に道一本隔てた佐久間象山の塾に通った。象山は彼を〝今に人物になる〟と気に入り、彼も象山塾に毎日通った。狩野派の修行に加え、象山から東洋思想、西洋知識も吸収。

 安政四年に風景スケッチをしつつ帰郷。八歳若い医者の娘よしと結婚。藩のお抱え絵師になる。その後も長府と江戸を行き来するも、長州はじめの攘夷運動が過激化して江戸滞在ならず。明治四年、廃藩置県。御用絵師の扶持を失って生活苦へ。世は文明開化。〝西洋〟だけがもてはやされて日本画では食って行けない。極貧生活を妻が支えた。

 明治十年(1877)、五十歳で上京。生活苦は続くも二年後に薩摩・旧藩主島津公が伝統の家臣鍛錬行事「犬追物」の記録を絵で残すべく芳崖を月俸三十円で雇った。やがて若き岡倉天心、フェノロサと出会って近代日本画の雄として活躍。挿絵は狩野芳崖に妊婦モデルを添えた。さて、その女性とお腹の子は誰?(荷風の絵心4)

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岡不崩の師・狩野友信 [永井荷風関連]

wirgman3_1.jpg 「芳崖先生逸事」より、荷風の絵の先生・岡不崩がどんな先生だったかを知りたく「(五)先生と予の関係」を読む。冒頭にこう記されていた。

 「予が初めて(芳崖)先生に会ったのは明治十七年で、其時分、予は狩野友信翁の門に洋画を習って居った。最も其頃は画家に成るつもりでやって居たのではなかった。(小文字は省略)或る時、友信翁が一緒に来いと言はれるから、従って行ってみると、老人揃の集会である~」

 端から注目記述。まず岡不崩が「狩野友信から〝洋画〟を習っていた」こと。さらに老人揃の集会が東京美術学校設立を内包した「鑑画会」だろうこと。まずは「狩野友信」を調べてみる。

 狩野友信は天保十四年(1843)、江戸築地の御用絵師・浜町狩野家の長男として誕生。狩野派の修行後に将軍家茂の奥絵師。その傍ら文久三年(1863)から開成所(後の東大)へ洋画修業に二年間通う。慶応元年(1865)に川上冬崖に水彩画を三年、ワーグマンに油彩画を二年学ぶ。明治六年に開成学校勤務。明治十四年(1881)に東京大学予備門の助教諭。この頃にフェノロサと交流。

 これで岡不崩が狩野友信から〝洋画を習った〟に納得です。改めて岡不崩の経歴を振り返る。明治二年〈1869)福井生まれ。明治十三年(1880)に上京して番町小学校へ。十六歳で狩野友信に入門。友信翁に従って鑑画会創立当初から参加。これを機に狩野芳崖から日本画を本格的に習った。

 明治十九年〈1886)、小石川植物園内に設置された図画取調掛の事務所(画塾)に通って修業。明治二十一年十一月、東京美術学校開校直前に芳崖が没。岡倉天心の勧めで東京美術学校入試を受けて第一回生になる。明治二十三年に高等師範学校講師に抜擢されて同校を退学。そして永井荷風、井上唖々の(さらに荷風弟・威三郎や藤田嗣治の)東京高等師範学校付属尋常中学校で図画を教えた。

 『しのぶ草』第五章では、友信翁の使いで芳崖宅に膠を貰いに行ったのを機に日本画の教えを直接受け始めたこと、芳崖から教えられた心得の数々、また妙義山スケッチに同行した思い出などが記されていた。

 永井荷風と云えば日本画、版画への造詣ばかりが注目だが、荷風の眼は不崩によって西洋画へも向けられていたと推測される。荷風のフランス滞在期(明治四十、一年:1907・8)は、ピカソがアトリエ〝洗濯船〟で「アヴィニョンの娘たち」完成の年。

 なお川上冬崖(寛)の明治四年刊「西画指南」は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。挿絵は狩野友信の顔資料なしゆえ五姓田義松、高橋由一、狩野友信に洋画を教えたチャールズ・ワーグマンを描いた。彼は文久元年(1861)に「イラストレイテッド・ロンドンニュース」特派員で来日。髭の有無両資料から髯ありを描いた。(荷風の絵心3)

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岡不崩は朝顔権威、考現学へ [永井荷風関連]

okafuhou1_1_1.jpg 秋庭太郎著『考証永井荷風』で、著者は永井威三郎博士(荷風の弟)にも取材。博士談で「(家には)荷風が若い頃に描いた絵巻物もあった。荷風が絵事を好んだのは南画を能くした外祖父(鷲津)毅堂の血筋を受け継いだものであろう」を紹介。続いて~

 「因みに威三郎も同じく高師附属中学時代は、同級生の藤田嗣治と倶に〝図画は永井か藤田か〟と謂はれたくらゐに巧みであった。博士が昭和三十五年に欧州に旅した際に、巴里で藤田に逢ひ、その描くところの少女像を額入のまゝ贈られて帰朝。博士邸応接間に掲げられてあるその絵をわたしも見たことがあるが、兄弟揃って絵心があったのである」。(図画教師が荷風と同じ岡不崩との明記はないが、そうだとすれば不崩は藤田嗣治も育てたことになる)

 ここで藤田嗣治がらみ余談。八月中旬のこと、前日のブログ閲覧が通常の三倍余。藤田嗣治シリーズの「高田馬場でマドレーヌ夫人急死」記事の閲覧数が膨らんでいた。

 ややして気付いた。前夜の某テレビで「迎賓館でフジタの幻の天井壁画六点初公開」が紹介され、同作は〝藤田のマドレーヌヘの愛の表現〟のような説明から小生ブログ記事に辿り着いたらしい。

 だが弊ブログでは、マドレーヌが薬物使用疑惑で急死、藤田はすでに日本女性と交際開始。彼女の急死が闇に葬られたのは、同アトリエが高田馬場の陸軍軍医総監・中村緑野(ろくや。嗣治の二番目の姉の嫁ぎ先)宅内で、陸軍の闇が動いたせいだろうとの記事。テレビの〝愛の物語〟からアクセスされた方々を裏切る内容で申し訳なく思っている。

 さて、岡不崩は関東大震災後に小石川久堅町八十一番地(『しのぶ草』奥付に著者住所あり。金剛坂の荷風生家近く、春日通りと小石川植物園の間辺り)から、下落合(淀橋区下落合1980)に移住。この移転先は落合道人氏のブログ「考現学的アプローチの岡不崩」に詳しい。

 同ブログでは不崩宅を特定(中井駅北側の〝二の坂〟から分岐する階段坂の右側)し、不崩は大震災の復興具合を店舗詳細地図(挿絵、看板写生を含め)で記録。その『帝都復興一覧』は出版なし和綴じ二巻で国会図書館蔵。落合氏はその内容を詳細紹介。今和次郎と同じ考現学的仕事をしていたと紹介。小生は不崩の絵画から離れて朝顔栽培や復興地図などへの熱中は、明治画壇のゴタゴタに愛想尽きたゆえと推測するが、いかがだろうか。

 さて他人ブログに頼らず、自らも調べなければいけませんから国会図書館デジタルコレクションの岡不崩『しのぶ草』を読むことにした。これは狩野芳崖二十三回忌の明治四十三年十二月刊で、副題は「芳崖先生逸事」。(一)翁の絶筆 慈(悲?)母観音に就いて (二)翁の持論と美術学校の創立 (三)芳崖翁と大蒜 (四)翁の女子教育 (五)先生と予との関係。まずは不崩を知るべく(五)を読んでみる。

 挿絵は岡不崩。資料写真が落合氏紹介の一点のみ。やや不鮮明で髯の有無がはっきりせぬが髭ありで描いてみた。(荷風の絵心2)

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荷風の絵の師・岡不崩とは [永井荷風関連]

kafusketch2_1.jpg 永井荷風の俳句が好きで、ブログ記事の題名を十七文字にしてみた。荷風「断腸亭日乗」をひも解くと、時に荷風スケッチが掲載。小生も絵が描けたらいいなぁ~で、ブログの写真を絵に替えてみた。

 先日、荷風の友・井上唖々調べの記事で、荷風も唖々も図画を岡不崩(ふほう)に習ったと記した。不崩の師は狩野友信、狩野芳崖。その名が出てくればフェノロサ、岡倉天心、九鬼隆一につながる。

 『「いき」の構造』九鬼周造シリーズで、彼の父・九鬼隆一と母・初子(波津)と岡倉天心の凄まじい三角関係を知った。今回は「荷風~岡不崩~狩野友信~狩野芳崖~フェノロサ」の流れをお勉強してみたい。

 井上唖々の項と重複するが、秋庭太郎著『考証永井荷風』より、岡不崩についての記述を長めに引用する。「岡不崩、名は吉壽、はじめは蒼石と号した。加州金沢の人である。狩野芳崖の高弟にして横山大観、下村観山等と倶に東京美術学校第一期の入学者であったが、不崩は業半に抜擢せられ高等師範学校講師兼附属中学校教師として教鞭を執った。附属中学に於て壯吉は同級生の親友井上精一(唖々)と倶に図画を蒼石に教へられた」

kafusketch1_1.jpg 唖々は先生が入ってくる前、黒板に岡蒼石の墓に柳と幽霊を描き、蒼石先生を憤激、顔色〝蒼石〟にさせる悪戯をしたそうだが、荷風は唖々と違って絵事を好み、不崩の寓居に至って学び、不崩に連れられて上野東照宮拝殿の探幽の絵を模写しに通ったそうな。

 秋庭太郎の文はこう続く。「不崩は花鳥山水画に長じたが、後年は本草学者として知られ、特に牽牛花(けんぎゅうか=うしひくばな=あさがお)の研究栽培の権威であった。荷風は不崩先生の晩年まで交際があり、荷風が後年日本画を能くしたのは、兎にも角にも師に就いて学んだからである」。そして師の朝顔関連著作八作を紹介。

 これらの幾冊かは古書ネット販売で数千円でアップされていた。そして不崩著の狩野芳崖先生逸話集『しのぶ草』は、国会図書館デジタルコレクションで読むことができた。

 挿絵(上)は「断腸亭日乗」昭和七年一月の砂町八幡宮の荷風スケッチ。挿絵(下)は同年一月十八日の、堀切端から四木橋を望むスケッチ。(荷風の絵心1)

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所ジョージの〝喉仏ファン〟 [スケッチ・美術系]

tokoronodo1_1.jpg 新しいマルマン「sketch帖」で何を描きましょうか。先日、幾人かの若い女性の〝首〟を描くも、男性の首は未だ描いていない。その時に「所ジョージの喉仏、胸鎖乳突筋、頸切痕などがクッリキ出ていて面白い」と記したので、改めて彼の番組を観て描くことにした。

 喉仏が実に良く動き、首皮膚の下に〝元気な独楽ネズミ〟がいるかのようで見飽きない。願わくは頸切痕、鎖骨切痕までがよくわかるシャツで、カメラは頸全貌がわかるローアングルで撮っていただきたかった。

 喉仏左右は「胸鎖乳突筋」。血管は「頸静脈」。その後ろは「中斜角筋」で、縦筋の多くは「広頸筋」だろうか。ネットに満ちる「首の図解」だが、いまいちハッキリしない部分も多く、画学生たちはどんな教材で勉強しているのだろうか。

 新しい挿絵帖「マルマンsketch 100sheets B5 soho501」の描き心地やいかに。う~ん、小生には慣れ親しんだ「クロッキー帖+淡彩」の方が描き易かったなぁ。「クロッキー帖」は水を含むと紙が細かく波打ったが、この「sketch帖」は僅かな水気で大きく強靭に波打った。

 紙が波打つのを嫌うなら、水彩紙を水張りしてから描けばいいのだろうが、そこまでやれば〝挿絵領域〟を越える。「いいなぁ~」と思ったのは「白地がきれい」。これは「クロッキー帖」と比べれば当然のこと。クロッキー帖は次頁の絵が透けるワケで、透けないゆえの〝白さ〟が新鮮だった。

 この「sketch帖」も100枚綴りを描き切った頃には慣れて来るだろうが、目下は連日猛暑で頭の回転停止状態に陥った。次に記すブログ内容も絵もまったく浮かんでこない。

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挿絵をクロッキー帖から昇格? [スケッチ・美術系]

sketchbook2_1.jpg ブログ挿絵を、マルマン「クロッキー帖」に描き続けて2冊目が残り僅か。次の「クロッキー帖」を用意すべく世界堂へ行った。

 同じのを1冊買った後に、クロッキー帖より厚く、画用紙より薄いB5サイズ100枚綴りのマルマン「sketch 100sheets B5 soho501 」を見つけた。従来クロッキー帖はコピー紙ほどの薄さで〝淡彩〟と云えども、紙は波打った。

 最近では新宿御苑スケッチ、船の絵などは、紙は嵐に遭ったかのように波打った。それでも「クロッキー帖」に固執は〝挿絵=絵日記の絵〟ゆえ〝1点1枚もの〟ではなく〝綴りもの〟が相応しいと思うから。

 同時に、目下は紙が水彩を吸っても波打たぬ程度の〝アッサリ淡彩〟、つまり〝薄い紙でも波立たぬほどの淡彩〟が目標。だが幾ら何でもコピー紙程度のクロッキー帖に水彩はなかろう、そんな紙では水彩が紙に染み込む味も、滲みの味も出ないだろう~という指摘もあって、少し気にしていたんです。

 そこで見付けたのが、このマルマン「sketch 100 sheets B5 soho501」。クロッキー帖と同じ100枚綴りも気に入った。ネットの商品評を見れば「このスケッチブックで水彩は無理」なぁ~んて投稿もあるが「てやんでぇ~、こちとら、今までクロッキー帖で水彩をやって来たんだ。人それぞれ、余計なことを記すな」である。

 さて、ブログ挿絵を従来通りのクロッキー帖で描き続けるか、新しいスケッチ帖に切り替えるか思案中です。

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大腸内視鏡検査の告白(2) [暮らしの手帖]

naisikyou2_1.jpg 最初の大腸内視鏡検査(ポリープ切除)一ヶ月後にポリープの組織分析結果を聞く。「良性ポリープでした。取り残しがありますから来月にまた検査(切除)しましょう」。

 翌月の再検査(切除)は、スコープ挿入部がS字結腸から下行結腸への曲がりを緩やかにすべく難儀していたのだろうか、脇腹下にグリグリとした痛みを感じた。

 その一か月後に再び分析結果を聞く。大腸内映像を見つつ切除したポリープを映し、その細胞分析結果を聞く。「直腸辺りにあったやや大きなポリープも切除したから、これで安心です。また来年に定期検査を受けて下さい」。下剤で大腸をきれいにするなんてことも初めてだったし、ポリープも全切除。ホッと安心です。

 その一年後の定期検査日に仕事が重なってキャンセル。再予約すべく病院へ。そこで前回記した同年配の不安を抱く御仁に話し掛けられたってわけ。すでに二回の検査体験で先輩面でこう言ったものだ。「心配するこたぁねぇよ。ケツから突っ込むたって痛くもねぇ。とにかくやっちまえばスッキリ安心ですぜ。どうぞ心配せずにケツから突っ込まれて下さい」。

 御仁をそう励ました後に、小生が再予約すべく診療室へ入れば、前任医師から新人医師に代わってい、彼がこう言ったから腰を抜かすほど驚いた。「前回切除のやや大きなポリープが〝癌〟でしたから~」「ええっ、そんなこたぁ~聞いていねぇよ」。小生の荒げた声に、新人医師の表情がこわばって、慌てて組織分析の難しそうな説明を展開した。

 ここで何となく医者の裏側をチラッと垣間みた。前任医師は「切除したから心配なし。だが来年も検査を~」の言葉の奥には〝判断に少し不安もありますので、来年も検査をして~〟の意を含む患者の気持ちを配慮した〝こなれた説明〟だったように思った。比して新人医師の〝癌があったから〟は教科書通り直球の、なんだか〝青臭い〟弁のように感じた。

 そんな新人医師に検査されるのはイヤだなぁ。案の定、検査室での内視鏡操作はぎこちない気が充ち、それをベテラン看護婦が支える雰囲気だった。「まだ終わらねぇの」と焦れた頃にやっと終了。

 翌月、今月上旬に検査結果を聞いた。「すべて良性ポリープでした。ポリープが出来やすい体質かもしれませんので、当センターの医師としては二年後の検査をお薦め致します」。新人医師の弁が親切・丁寧になって急成長をしている感なり。当方はこれで大腸癌の心配は消えたが、この歳ではいつあの世に召されるかは分からない。

 なお、大腸のクネクネと曲がった形に沿って内視鏡挿入部が入って行くかと思っていたが、小生ネット調べでは、腸の複雑な曲がりを緩やかな湾曲に直しつつ内視鏡を盲腸まで入れて行くらしいと知った。図らずも「首のお勉強」から「大腸のお勉強」へとボディ・フィジカル面の関心が続いた。

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大腸内視鏡検査の告白(1) [暮らしの手帖]

naisikyoukensa1_1.jpg 昨年、大腸内視鏡検査(ポリープ切除)を二度受けた。今年の定期検査日に仕事があり、再予約で大病院へ行った。待合席に座っていると、同年輩の男性がオズオズと話しかけてきた。

 「あのぅ、すでに内視鏡検査をお受けになったご様子で~。私はそれがイヤでイヤで逃げ回っていたんですが、家内がうるさくて」「そりゃ、誰だってイヤですよ。ケツから何かを突っ込んで調べるなんざぁ~」「そう、そうなんです」。彼は小生の検査体験を聞きたく擦り寄って来た。

 そんなことがあったゆえ「大腸内視鏡検査体験」を記すことにした。それは数年前のこと。新宿区の高齢者健康診断で「便潜血・陽性」。女医さん「大病院で内視鏡検査を受けて下さい」。「てやんでぇ~、その血とやらは痔のせいよ。でぇいち、ケツから何かを突っ込まれるような検査なんぞ、真っ平御免でぇ~」

 女医さん、その後も会う度に内視鏡検査を勧める。ふとした機会に息子にそれを話せば、会社の健康診断から内視鏡検査でポリープ切除したとサラッと言いやがった。ふ~ん、それが今の世の〝当たり前〟かと気付いた。ケツから突っ込まれることが大ごとで嫌悪を覚えるのは、古い人間ってぇことらしい。かくして半年後にやっと受ける気になった。

 当日の朝、「ニフレック」なる下剤薬を2リットルの水に溶かし、2時間で飲み切れと。1時間1リットルほどで便意。何度目かで便は水になり、小便のようにジャージャーと勢いよく排出。便器の溜まりが透明になった。

 下剤のイヤな味に、最後は吐きそうになったが、2リットルを飲み切った。大病院は近いゆえ、漏らさぬようゆっくりと歩いて行く。ケツが裂けた検査着で検査室ベッドに横たわる。痛みを感じぬ鎮痛剤(注射?)のせいかで、ケツから何かを突っ込まれる〝苦痛・屈辱感〟もなく、大腸内で何かがモゾモゾと蠢いている感じ。

 小1時間も横たわっていただろうか。ポリープを幾つも切除し終わって、看護婦がつぶやくのを耳にした。「数は多かったけれど、小さかったから大丈夫そうね」(大腸癌ではないの意らしい)。検査とは云え、ポリープ切除だから簡易手術と言ったほうがいいかも。検査・切除後は安静室で1時間ほど過ごして帰宅。(長くなったので、続きは次回~)

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モディリアーニの首、永井龍雲 [スケッチ・美術系]

ryuun1_1.jpg 細く長い首ならばモディリアーニだと検索すれば、YouTube『モジリアーニの絵のようなシュールな女の存在』がひっかかった。永井龍雲のアルバム『カトレア』(1994)収録曲。オフィシャルかファンが作ったかはわからぬが、モディリアーニの絵が次々に入れ替わって、あの龍雲の伸びやかな歌声が流れていた。

 永井龍雲のデビュー時は「ポニーキャニオン」で、小生は同社プロモーションペーパーの編集・執筆をしていたから、彼の原稿を随分と書いた。彼の出身地・博多まで取材に行ったとも記憶する。

 デビュー曲は『想い』で21歳か。小生30代半ば。彼のオフィシャルサイトを拝見したら、ちょっといい彼のエッセーが掲載されていたので、以下、簡単に紹介する。

 海外の大学に留学中の娘2人が夏の帰省中(龍雲は福岡出身も沖縄在住)。日本状況に疎い彼女らに、彼はテレビを観つつ「この首相を守るためにみんなで苦しい嘘をついているんだよ」と説明。そして留学先へ戻る彼女らを成田まで見送る。

 まず那覇空港で〝良くない人〟が、前沖縄知事の県民葬出席で来沖の混雑に遭遇。長女がiPhoneでその人を撮ろうと前に出たら、握手の手が差し出されて思わず「こんにちは」と握手。それを喜ぶ娘の姿に「邪心なく素直な良い子に育ってくれた我が子よ」と彼は記す。そして成田へ。それまではしゃいでいたが、ゲートに入る瞬間に三人の眼に別れの涙。「こんな親子の夏はいつまで続くのだろうか」と締め括っていた。

 小生が知っている龍雲は20代前半で「あの龍雲が大学生の二人の娘の、いいお父さんをしている」、「おぉ、今年でデビュー40周年」かとしばし感慨。写真を見ればデビュー当初のアフロヘアではないも、あの頃に音楽評論家・三橋一夫さんからいただい原稿に「(あの声は)神様からの授かり物です」と記されていた喉は、今も健在だった。「首の構造・筋肉のお勉強~細く長い首~モディリアーニ~永井龍雲」と辿り着いたお話でした。

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首美人?首上手の絵描き? [スケッチ・美術系]

kubiiroiro1_1.jpg 首の骨格・筋肉お勉強後に、若い女性の首を幾つか描いてみた。まぁ、難しい!と再認識した。男はさらに筋肉質で甲状軟骨(喉仏・アダムのリンゴ)も逞しく突き出ていよう。

 眠れぬ夜にテレビを観たら、所ジョージの喉仏が大きく飛び出てい、彼のおしゃべりに従って忙しく上下する様に釘づけになった。桑田佳祐の喉仏はそんなに飛び出してはいなかった。さて子供らの首は? 爺婆の首はやはり皺だらけなのだろうか? 興味は次々に膨らんで行く。

 ここに描いた絵では「肩甲舌骨筋」も頸静脈や首動脈も確認できなかった。また多くの縦筋は「広頸筋」らしい。いずれにせよ肥った方・痩せた方・首の短い方・長い方。細い方・太く短かければ猪首で、鍛錬された屈強な首もある。それぞれに胸鎖乳突筋をはじめ鎖骨切痕、頸切痕などの見え方が違ってこよう。

 ついでに〝首美人〟と検索したらgooランキング「スラリと長い首が美しい!有名人ランキング」てぇのがヒットして1位は菜々緒、2位は杏、3位はダルビッシュ有とか。ホントかいなぁと思った。

 浮世絵は胸鎖乳突筋など細部省略で、それがいいように感じた。漫画も首の筋肉・喉仏などをしっかり描き込んだ作もあったが、ちょっと煩いと思った。首の描写は細部に拘ると、それが〝首枷〟にもなるらしい。日本の〝首〟については言わぬが華だろう。

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首〝相〟が不安定 [スケッチ・美術系]

kubikouzou1_1.jpg 人物を繰り返し描くも、恥ずかしながら〝首ってどんな構造なんだろう〟と思っていた。手足は自分で観ることも容易だが、自分で自分の〝首〟を観ることは叶わない。爺さんゆえ、自分のツラを鏡で観るのは髯を剃る時ぐらい。大げさに言えば、手前の顔がどんなツラなのかも知らない。

 男なのに自分の顔をしげしげと観るのは〝ナルシスト・芸人・自画像を描く画家・鏡を観る商売の方々〟だろうか。と思っていたら3歳の孫が「スマホ〝自撮り〟」を当然と思っているのに驚いた。その意では〝スマホ世代=従来世代より自分の顔を最も知っている世代〟なのかも知れない。

 前段はこのくらいにして「首の骨格・筋肉」について無知で、遅まきながら初お勉強。フ~ン、首のあの大きな筋は「胸鎖乳突筋(胸骨と鎖骨についている)で、首下の小さな凹部は「頸切痕」で、左右鎖骨内側の凹部は「鎖骨切痕」などを初めて知った。

 かくして首を少しは上手に描けるようになりそうだが、日本の首相は大統領選と違って国民が直接選べないから〝おぼっちゃま〟が成ったりする。〝お坊ちゃま育ち〟はややもすれば「見栄っ張り・エエ格好しい・嘘もつく・特権意識・上から目線・考えの偏狭・性格に幼稚性」が指摘されるそうな。そんなのに、いいようにやられたら、たまったものじゃない。

 隠居や主婦は昼間の国会中継などを観て〝人となり〟を感じるが、働き盛りの方々はテレビを観る時間も少なく、気になるのは〝経済〟だろうから、なかなか化けの皮が剥がれなかった。やっとここに来て信用できぬ人物だとわかってきたらしい。なぜこんなことを記すかと云えば、絵を描き始めて最初に描いた似顔絵が「2015年9月」(安全保障関連法・可決)のその人だったんです。その時は〝頸切痕〟なんて物騒な名は知らなかった。

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