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ジャポニスム8:林忠正とはⅡ [北斎・広重・江漢他]

tadamasa1_1.jpg 「忠正の店」「ビングの店」活況で、日本の浮世絵は根こそぎ海外へ流出。「浮世絵の生命は実に風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外へ輸出せられたり。悲しからずや」(荷風)

 当時の日本では浮世絵は庶民のもの。F.ブリンクリーが銀座の夜店で〝紙屑扱い〟の歌麿、師宣らの一枚一銭に十銭払って、店主が腰を抜かしたとか。それがまぁ、パリでは数百フランで飛ぶように売れた。国内価格も跳ね上がって十四、五銭に。

 1888年(明治二十二年)のゴッホの記録では1枚3フラン。それが数年後に250~300フラン。当時のパリの小市民一ヶ月生活費が100~200フラン。それで浮世絵500フランの高値にも。浮世絵バブルだな。

 かくして忠正は巨万の富を得た。一方で浮世絵が欲しいドガ、ルノアールなどには絵と交換か購入で〝印象派コレクション〟を充実。日本で西洋美術館を建てる計画だったとか。

 フェノロサはパリの〝北斎絶賛〟に「彼は町絵師に過ぎず伝統的日本画は~」と寄稿して一蹴された過去あり。しかし1898年(明治三十一年)の小林文七主催「浮世絵展」カタログに「浮世絵は中国の影響を受けた官学派の絵画と違い、純粋に日本の風土から生まれた絵画で、その版画は最古の傑作」と立派な浮世絵解説を記したとか。

 1889年、日本では洋風画家らが「明治美術会」を発足。忠正も賛助会員になって、多額の寄付とコレクションを参考作品として展示。また黒田清輝をラファエル・コランに紹介。黒田は帰朝後に「明治美術会」出品で認められるようになった。

 1891年(明治二十四年)、ゴングール『歌麿~靑楼の画家』を刊。1896年に『北斎~十八世紀の日本美術』を刊。忠正は日本資料の仏語翻訳で協力した。しかし次第にブームは低迷。忠正はシカゴ万博などに参加も不成功。1900年(明治三十三年)のパリ万博の事務官長就任。仏国政府、日本政府から受勲。

 これを機にパリの店仕舞い。「売り立てカタログ」は三冊。1905年に帰国。現・新橋演舞場の二千坪の地に自邸を建てたが、翌年に五十二歳で没。印象派コレクションを帝国博物館で引き取るよう望むが、印象派の価値が認められずニューヨークで競売になる。

 長くなったので荷風『江戸芸術論』の引用で終わる。~林氏は尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に古美術品を競売に附するに際し浩瀚なる写真版目録を出版せり。この書今に到るもなほ斯道研究者必須の参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひ取りてこれを欧州人に紹介し以て欧州近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりというべきなり。

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ジャポニスム7:林忠正とはⅠ [北斎・広重・江漢他]

tadamasa2satu_1.jpg 印象派の画家らが「ジャポニスム」熱中のパリで、日本美術品を売る「ビング」と「林忠正」の店~と記した。そこで今回は「林忠正」について。木々康子著『林忠正とその時代~世紀末のパリと日本美術』、定家武敏著『海を渡る浮世絵~林忠正の生涯』両著より、林忠正とは~を要約してみる。

 林忠正は1856年(安政三年)高岡生まれ。生家はオランダ医学を修めた外科医・長崎家。十四歳で林家・養嗣子になって林忠正。上京してフランス語を学び、翌年に貢進生で南校入学。その後に廃藩置県かつ養父失脚で藩費喪失。新川県の給費生で東京開成学校へ。1878年(明治十一年)、大卒直前だったが二十四歳で四度目のパリ万博出店の起立工商会社(政府出資)の通訳募集に応募して渡仏。

 同社背景には、弊ブログの「岡倉天心、フェノロサ」関連で幾度も登場の「瀧池会」の存在あり。「日本美術で輸出増加を図る」趣旨で設立。パリ万博の初参加は1867年(慶応三年)。この時に出品の浮世絵が若い印象派の画家らを虜にした。

 浮世絵はそれ以前に、1856年(安政三年)に日本から送られた陶器の詰め物に「北斎漫画」があって、版画家ブラックモンが注目。それをマネ、ドガ、ホイッスラーらに見せ回った。または1862年(文久二年)にモネがル・アーブル港の着荷の中から日本の色刷り版画を見つけた等々の諸説あり。

 林忠正に話を戻す。パリ万博終了と同時に解雇。フリーの通訳になる。日本からの警察制度調査の大警視一行の欧州視察の通訳、有栖川親王の欧州御巡回の通訳などで存在感を得る。そこに起立工商の副社長・若井兼三郎(瀧池会の主要会員)がパリ支局の立て直しに来て、忠正に共に働くよう要請。立て直しが成功し、本社機構の改革を訴えるが叶わずで若井、忠正共に退社。

 忠正は1883年(明治十六年)にパリの下宿で美術店を開業。経営順調のなか、翌年に若井がパリに戻って「若井・林カンパニー」設立。今度は若井が日本で大量の美術品を仕入れてパリへ発送、忠正が売り捌くシステム。忠正は英国・米国まで販路を拡大しつつ、次第に古美術鑑定眼と知識を増し、各国美術館の顧問も務めるようになった。

 1886年(明治十九年)、林忠正は仏国有力紙「パリ・イリュストレ」の日本特集号の全編を仏文執筆・編集。忠正の存在・評価が高まった。やがて若井とも別れ、独立してパリ都心に店を構えると、たちまちに地下~四階の店舗拡大。忠正が海外で売り捌いた浮世絵はン十万枚とか。他に巻物、絵本、肉筆画、屏風など膨大。日本の浮世絵が根こそぎ海外流失。日本での仕入れは妻・里子はじめの東京陣営が担当したとか。(続く)

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ジャポニスム6:ゴッホの場合Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

tanemakuhito2_1.jpg さて、ゴッホの「ジャポネズリー」が「ジャポニスム」へどう深化したか。

 ゴッホが南仏へ旅立ったのは、浮世絵模写の翌年。アルルの明るい色彩=日本のように美しい光溢るる日出ずる国=色彩の饗宴。ゴッホの心は躍った。

 「もう日本の絵は必要ない。僕は日本にいると思っているから。感銘を与える目の前のものを描きさえすればいいんだ」。『黄色い家』『ラ・クロの収穫』『夜のカフェテラス』『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』『アルルのゴッホの寝室』『アルルの跳ね橋』『ひまわり』など三百点余。

 ゴッホは従来画家が成し得なかった鮮やかな色彩、色彩の単純化、大胆な構図、素描の早さ、繊細さ、平面的な色面などを掌中にした。

 だが彼はどう解釈を間違えたか? 日本は決して「南仏のように光溢るる国」ではないし、絵師らは作品交換をする「共同生活者」でもない。彼の胸をときめかしたのは〝大いなる幻想の日本〟だった。

 ここで圀府寺司著『ファン・ゴッホ』他を読む。ゴッホの父は牧師。当時のオランダは「ドミノクラシ―」(牧師支配の状況)で聖職者が文化的指導者。彼も牧師になるべく勉強を始めたが、次第に近代化の波が押し寄せて教会離れ。ゴッホも聖職者を諦めて画家を目指した。当初は炭鉱夫、その妻たち、職工、農夫を描いていたが、パリに出て印象派の洗礼を受けた。そこに浮世絵があった。

 小生はやはり、こう思う。ゴッホは「聖職者・伝道師」への〝激しい情熱〟を「浮世絵・日本」への想いに〝すり替え〟た。その結果、彼のジャポニスムは絵画に収まらず、〝幻想の日本〟へ精神丸ごと入れ込んだ。彼は仏僧にも憧れたが〝隠棲〟を知らず、〝陰翳礼讃〟を知らず、〝粋〟を知らず。さらに云えば浮世絵の肉筆画とは違う〝木版画特有の優しき色調〟(荷風)をも知らず。逆に余りに他者との絆を求め過ぎてゴーギャンとも破綻した。

 1890年(明治二十三年)、ゴッホはパリ郊外の旅館滞在中に拳銃自殺?で享年三十七歳。写真は『種まく人』。その構図は彼が模写した広重『江戸百/亀戸梅屋鋪』に似ている。なお、十月二十四日から東京都美術館で「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」開催とか。日本人はなぜにこうもゴッホ好きか。次は「林忠正」について。

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ジャポニスム5:ゴッホの場合Ⅰ [北斎・広重・江漢他]

tangijiisan1_1.jpg ゴッホは1853年(嘉永六年)、オランダ南部生まれ。日本は開国までオランダが唯一の欧州交易国。1837年(天保八年)よりシーボルトの日本資料が民族学博物館に陳列とか。港町には日本からの輸入陶磁器を売る店が随所にあったそうな。

 ゴッホは十六歳より美術商グーピル商会に勤務。二十歳の時に、弟テオが同商会ブリュッセル支店勤務で、ゴッホはロンドン支店からパリ本店勤務へ。やがて大学で神学を学び聖職者を目指そうとするも挫折。伝道活動をするも余りに献身的過ぎて伝道仮免許停止処分。

 1880年(明治十三年)、二十七歳で画家になると決意。1885年(明治十八年)、弟宛の手紙に「大好きな日本の版画コレクションを壁にピンで留めて~」の文言あり。ゴッホがパリの弟の処に転がり込んだのが翌年。折しも日本ブームで、第八回印象派展(最後の開催)を観て仰天した。

 弟は画商仕事で新進画家らとお付き合い。スーラ、ドガ、シスレー、モネ、ピサロを紹介してもらう。交友がロートレック、べルナール、ピサロ、ゴーギャンへと広がる。ゴッホの絵も印象派、後期印象派らの影響を受けて行く。

 カフェ(キャバレー)「ル・タンブラン」の女主人セガトーリを描いた絵には、カフェの壁に浮世絵あり。当時のパリで日本美術品を扱う主な店は、ビングと林忠正(彼の評伝書二冊読了ゆえ後述予定)の店。ゴッホ兄弟はビングの店の版画を委託販売したり、浮世絵展を開催。そして画家仲間との交流の場のひとつが、画材屋のタンギー爺さんの店。

 ゴッホは1887年、林忠正による日本特集の雑誌表紙(英泉『花魁』)を、広重『亀戸梅屋舗』や『大橋 あたけの夕立』を模写。『タンギー爺さんの肖像』もこの頃の作で、背景に多くの浮世絵を描き込んだ。

 タンギー爺さんは、貧乏な印象派の画家らを助ける素朴でユートピア的社会主義者で、ゴッホには日本の僧にも思えた存在。描かれたタンギー爺さんは、仏陀のように正面向きで両手を組んでいる。馬渕明子著では背後の浮世絵を右上が広重五十三次名所図会「石薬師」、右下が英泉「花魁」、頭の後ろが広重の漁網越しの富士山、左上が広重の雪景色、左中が歌川豊国「岩井粂三郎の三浦屋高尾」、左下が伊勢辰「東京名所 以里屋」だろうと解説。長くなったので、ここで区切る。(続く)

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ジャポニスム4:モネの場合 [北斎・広重・江漢他]

mondejap1_1.jpg 印象派の「ジャポニスム」を語る上で留意すべきは、伝統的日本画ではなく「浮世絵」ってこと。1883年(明治十六年)、仏国の美術雑誌が余りに北斎を絶賛するので、フェノロサが正統派日本画を紹介したが一蹴されたとか。庶民パワーの浮世絵を見くびってはいけない。

 永井荷風は『浮世絵の鑑賞』でこう記している。~(浮世絵は)圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。(中略)遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。

 さて馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、今度はモネのお勉強。同著では多数評論家のモネ作品の「ジャポニスム」指摘を北斎、広重版画などと図版対比で詳細説明。ここはブログゆえ要点のみを簡略・箇条書きです。

●モネのジャポニスムは、初期から晩年まで六十年の画歴を通じて見られる。●モネの急速に遠方に退く誇張気味の遠近法も広重に似ている。従来西洋画になかった浮世絵版画の遠近法を採り入れている。

●モネは「空から振る枝」「画面前景に立ちはだかる木」「すだれ効果」「イメージの重なり」「画面の分割構図」「画面に平行な前景の処理」「俯瞰する視点」など北斎、広重に学んだ。

●日本人は自然を彩られた明るさに満ちたものとして捉え、多彩な色調、色彩の明るさで背景を暗くしない。モネは西洋風景画家のなかで最初に色彩の中に溶け込んで行く日本人の大胆な色彩感覚を得た。

●晩年の『睡蓮』連作には、暗示的な芸術性、日本的自然観などを深く理解した結果の現れ。日本美術の自然モティーフを多用した装飾性も認められる。

 この説明に、小生は再び永井荷風の記述を加えたい。●クロード・モネが四季の時節及朝夕昼夜の時間を異にする光線の下に始終同位置の風景及物体を描きて倦まざりしはこれ北斎より暗示を得たものなりといはる。

m_sanpokasa2_1.jpg モネ作品ことごとくに「ジャパニスム」が認められるならば~。小生が絵を描き始めた2年前秋のこと。モネ展へ行こうとするも余りの大行列で断念し、自室に籠って不透明水彩で簡易模写したこのパラソルの絵だって、浮世絵には傘さす似たような女性絵は沢山ある。これまた「ジャポニスム」と云えなくもない。

 ここで改めて手元のモネ画集をひも解けば「ジャポニスム」の文言一切なし。注目度変遷をネット調べすれば、官邸サイトに辿り着いて興醒めなり。来年の日仏友好160年に「ジャポニスム2018をパリ中心に開催」の推進会議内容らしい。

 また今年十月には国立西洋美術館で「葛飾北斎とジャポニスム」開催とか。馬渕明子著『ジャポニスム』初版が1997年で、最終章が『葛飾北斎とジャポニスム』。それで氏は今、国立西洋美術館館長らしく唸ってしまった。

 写真上はモネ『ラ・ジャポネーズ』(1876年、明治九年)。ホイッスラーの着物立ち姿と似ている。次はゴッホの場合。

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ジャポニスム3:ホイッスラーⅡ [北斎・広重・江漢他]

whishiro1_1.jpg 野上秀男『日本美術を愛した蝶~ホイッスラーとジャポニスム」を読む。こんな時代(あらゆる意を含み)の今年一月に、十九世紀末の画家ホイッスラーの評伝書が出版とは。まずは冒頭文。

 ~十九世紀後半、日本美術を初めて知った西洋の画家たちは衝撃を受けた。彼らは浮世絵版画の鮮やかな色彩、繊細な線、独創的な形象のとらえ方、構図などに感嘆したのである。西洋美術における日本美術の影響はジャポニスムと呼ばれ、西洋人画家たちは、その手法を自分たちの作品に取り入れようとした。そうした試みに最も早く取り組んだ画家の一人が、パリとロンドンで活躍したアメリカ人画家、ジェイムズ・マクニール・ホイッスラーであった。

 単行本一冊の評伝ゆえ、前回ブログに大量追記したくなるも、ここは「興味ある方は同書をどうぞ」で省略し、破産後のホイッスラー逸話を同書より簡単紹介。

 名を成せば富豪も注文で、画家は金満になる。邸宅装飾を頼まれて、自邸も建てたくなった。「ホワイトハウス」と呼ばれた外観に、意匠を凝らした室内装飾。1878年秋に入居だが、半年後に経済破綻。作品批判のラスキン相手の訴訟費用もあって邸宅、蒐集してきた日本美術品も競売へ。

kyobasihiro1_1.jpg ホイッスラーさん、めげずにベネチア風景のパステル画を百点、エッチング五十点で負債額に近い収入。富豪らの肖像画もセッセと描いた。1885年(明治十八年)、美術思想と主張を語る「十時の講演」ツアー。企画はオペレッタ『ミカド』のプロモーター女史。

 裁判、経済破綻、講演で再び人気上昇。メンペスとショカートが弟子入り。メンペスは師に内緒で来日し、河鍋暁斎に逢った。暁斎の弟子ブリンクリーとコンドルについては弊ブログ「青山・外人墓地」で紹介済。ホイッスラーは帰国したメンペスから、日本人画家らの話を食い入るように聞いたそうな。弟子の二人は後に英国を代表する画家へ。

 1886年、ホイッスラーは英国画家協会・会長に就任。米国人鉄道事業の成功者フリーアがパトロンになって、作品は高値で次々に米国へ渡った。ボストン美術館を無期休職されて生活苦のフェノロサがフリーアの日本古画購入に助言し、自身が持つ蒐集品も彼に買ってもらったそうな。

 ホイッスラーは1903年(明治三十六年)に69歳で病没。彼の「講演」内容も記したいが、「ジャポニスム」は印象派巨匠らも控えているので終わる。写真は『ノクターン:靑と金色~オールド・バターシー・ブリッジ』と歌川広重『京橋竹がし』。似ているでしょ。

 また、永井荷風はこう記している。「ホイスラアが港湾溝渠の風景の如き凡て活動動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事僅少ならず。(続く)

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ジャポニスム2:ホイッスラーⅠ [北斎・広重・江漢他]

whistler1_1.jpg まずは最も早い「ジャポネズリー」とも云うべき絵を描いたホイッスラーについて。参考は小野文子著『美の交流~イギリスのジャポニスム』の第2章「ジェームズ・マックニール・ホイッスラーのジャポニスム」。

 彼は米国マサチューセッツ州生まれ。画家を志して1855年(安政二年)渡仏。四年後に英国移住。日本では吉田松陰が伝馬町入獄の年。

 ホイッスラーは英国の「芸術のための芸術=唯美主義」をリード。彼がオリエンタル・ペインティング『陶磁の國の姫君』を描いたのは1864年(文久四年)。同様作は他に『紫とばら色』(中国服モデルが陶磁器絵付けの図)、『紫と金の狂騒狂:金屏風』(大和絵屏風を背に床に座る着物女性が浮世絵を見る図)。

 著者はホイッスラーが日本美術品を見たのは渡仏時代で、入手はロンドン移住後。1863年(文久三年)のオランダ旅行で日本陶磁を購入し、パリの店へも注文していたと推測。当時のパリはリヴォリ街にドゥゾワ夫妻経営の日本・東洋品を扱う店あり。夫人が1862年に日本在住歴ありで、夫と同店を経営。顧客はマネ、ラトゥール、ボードレール、ゴンクール兄弟ら。またロンドンにも東洋品を売る店があったらしい。

 彼はかくしてオランダ、パリ、ロンドンで東洋品(次第に日本美術品)を蒐集し自邸を飾って、英国の日本美術愛好家の芸術家リーダー的存在に。1870年代に<ノクターン(夜景画)>シリーズを開始。その代表作が『靑と金~オールド・バターシー・ブリッジ』。

 同作は広重『名所江戸百景/京橋竹がし』からインスピレーション。その構図、情景印象を僅かな色彩と繊細な色使いで静寂を表現。禅画、水墨画にも通じる作品で「ジャポネズリー」(日本趣味)から「ジャポニスム」へ深化。従来西洋画から完全脱皮した新たな西洋画を構築。

 彼はさらに日本画の技法、溜込(たらしこみ)だけで描いた作品(水彩画かしら)も挑戦。同書のそのモノクロ図版を見て、小生思わず「あっ」と叫んでしまった。同書では俵屋宗達『風神雷神』の黒雲を例に説明していたが、小生は同作より緻密かつ完成度の高い溜込作品を見たことがあったからだ。

 以後は余談入りだが、小生は若い時分に画塾通いの時期があって、師はアル中で絵筆持てず、黄色系顔料をスポイトに吸い込んでポタッ・ポタ~リと大キャンバスに垂らし、具象抽象とも云えぬ風景画を描いていた。

 同書のモノクロ図版『バターシー』から、五十年も前に見た画塾先生の作品群が突然甦ってきた。そうか、先生はアル中なんかじゃなくて〝ホイッスラー〟だったんだと知った。

 ホイッスラーは1879年(明治十二年)に経済破綻。贅を凝らした邸宅、蒐集した日本美術品も競売されたとか。(Ⅱへ続く)。

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ジャポニスム1:まずはじめに [北斎・広重・江漢他]

mabutiakiko2_1.jpg 俄か絵画好き隠居の「ジャポニスム」お勉強です。教科書に馬渕明子著『ジャポニスム 幻想の日本』(著者は現・国立西洋美術館館長?)を選んで、テーマ毎に別参考書も加えて自分流要約。まずは定義から。

 「ジャポニスム」は「ジャポネズリー=日本趣味、エキゾティック趣味」と違って、西洋絵画がルネッサンス以来の遠近法的な空間表現と価値観(キリスト教の)から、現代的表現、価値観を構築すべく日本美術からヒントを得て壁を打破しようとした作品。仏国辞書に「ジャポニスム」登場は1876年(明治九年)。期間は1860年(文久年間)頃から第一次世界大戦前後(1910~20年、明治四十三~大正九年)。

 日本美術の海外進出の経緯。最初は長崎出島のオランダ交易。そしてペリー艦隊と共に来日のドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネ(「ペリー総督横浜上陸の図」を描いた)の日本紹介出版物(ドイツ語版1856年・安政三年。翌年にフランス語版)。続いて各国外交官メンバーらが次々に日本紹介出版物を刊行。日本の風俗・景色紹介に『北斎漫画』や『富嶽百景』が活用された。

 1862年(文久二年)の「ロンドン万博」出品作選択は英国初代駐日総領事オールコック。彼は大著『大君の都』等を出版。蒐集した日本美術品も母国に持ち帰った。以後経緯は枚挙にきりなく省略。 

 過日のブログで「フェノロサはホイッスラーのジャポニスム作品の話題を知って日本に関心を抱き~」と記したが、ホイッスラーが『陶磁の國の姫君』を描いたのが1864年(文久四年)。その二年後にはマネが『エミール・ゾラの肖像』背景に浮世絵版画を描き込んでいた。その頃から日本ブームが始まっていたらしい。

 1867年(慶応三年)に「パリ万博」。パリの「カフェ・ゲルボワ」にマネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、シスレー、モネ、ピサロがたむろっていた。ルノワールは1871年(明治四年)に『花束と団扇のある静物』、翌年に『本を読むモネ夫人』。両作共に団扇入り。マネは1873年(明治六年)に『婦人と扇』。同年に第一回印象派展開催。モネが着物姿の西洋女性が振り向く『ラ・ジャポネーズ』を描いたのは1876年(明治九年)。

 パリ中心の日本ブームに若き印象派画家らが飛びついたが、著者・馬渕氏は「この頃はまだ〝ジャポネズリー(日本趣味)段階。エキゾチック演出に屏風、扇子、団扇、着物、陶器、版画などを描き込んだに過ぎず」と記していた。(続く)

 

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グラフィックデザイナー・藤島武二 [スケッチ・美術系]

mucha2_1.jpg 「生誕150年記念 藤島武二展」は、多彩な描き方のサンプル集みたいで、小生の胸打つ作品はなかった。図録年譜をみると四十三歳、明治四十三年(1910)から四年間の欧州留学(官費)。帰国後に東京美術学校の助教授から教授になって高等官七等とあり、その後の昇進も記されていた。

 ここで気付いた。「あぁ、彼のスタンスは文展・帝展、日本の西洋画アカデミスの教師・官費・官吏ゆえの破綻のなさ、安定感なんだ」と。図版の偉そうな官僚・軍人風の写真と相まって、ゆえに絵に面白さがなかったんだと納得した。

 そのなかでグラフィック・アーティスト=藤島武二のコーナーは「おぉ、いい仕事じゃないか」とちょっと胸が騒いだ。それら仕事は明治三十四年(1901)の東京新詩社(与謝野鉄幹主宰)の『明星』表紙や挿絵、また与謝野晶子『みだれ髪』表紙に端を発したグラフィックデザイナー的な仕事群。

 白馬会や東京美術学校など黒田清輝の世界から離れた土壌で、個性・才能発揮かしらと思った。藤島武二の名や絵を知らぬ方も、与謝野鉄幹・晶子歌集の表紙の絵、といえば多くの方が頷くかもしれない。

 そのなかに明治三十五年『文芸界』表紙もあった。確か永井荷風が同誌懸賞小説に応募し、入選を逸するも単行本化『地獄の花』(荷風処女本)されたはず。森鴎外から〝読みましたよ〟と言われて大感激した青年・荷風がいた。また荷風が慶応義塾文学部教授と『三田文学』を辞めた二年後、与謝野鉄幹が同教授になっての『三田文学』(大正八年)の表紙や『スバル』表紙もあった。

 これら仕事の図録解説を読むと、留学前に欧州に憧れて蒐集していたアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォーの中心人物)、オットー・エックマン(ドイツ・ジャポニスムの先駆者、日本の書からアレンジヒントを得た書体)、スタンラン、ハンス・クリスチャンセン、ヤン・トーロップ、フェリックス・ヴァロットンら「ジャパニスム~アール・ヌーボー」の人々の資料を参考に描かれたもの、と説明されていた。

 ここで、失礼ながら藤島武二の絵への興味は急速に薄れ、彼が模倣(参考にした)した「ジャポニスム~アール・ヌーヴォー」への関心が盛り上がった。

 先日のフェノロサの記事で、彼が〝お雇い外国人〟になったのはホィッスラーのジャポニスム作品から日本への興味を抱いて~と記したばかりゆえ、まずは印象派、後期印象派の画家らの「ジャポニスム」についてお勉強したくなってきた。俄か絵画好き隠居に美術史は無知領域で、お勉強にキリがありません。

 挿絵は若い藤島武二が熱心に模写しただろうアンフォンス・ミュシャ作品から、小生は「自転車パーフェクタ」ポスターの簡易模写(途中まで)。次は「ジャパニスム」のお勉強へ。(藤島武二3おわり)

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『芳蕙』は不明、『鉸剪眉』は油彩 [スケッチ・美術系]

kousenbi2_1.jpgkousenbi5_1.jpg 「行列してまで〇〇したくない」小生に、練馬区立美術館は程好い〝空き〟具合。会場で〝お葉さん〟を探したが、代表作の『芳蕙(ほうけい)』、そして『女官と宝船』もなかった。

 図録に<『芳蕙』は『蝶』と共に行方不明。『芳蕙』は五十年前の展示から足跡が途絶えている>とあった。所有者某が没落後に行方不明。あの中村彝『エロシェンコ氏の像』は、その某氏から東京国立近代美術館へ寄贈されたのだが~とあった。

 その代わり、同時期の鉛筆画『婦人像』があった。作品説明に「モデルは〝芳蕙〟と同じ、佐々木カネヨであろう。彼女は藤島モデルとしても知られるが〝お葉〟の名で竹久夢二の恋人、モデルとしてつとに有名である」。だが竹久夢二の前は〝責め絵・伊藤晴雨〟のモデル・愛人だったとは記されていなかった。

 そして『鉸剪眉(こうせんび)』。事前に観ていた現代日本美術全集『青木繁/藤島武二』収録作とは違っていた。全集同作は「紙・パステル・水彩」で、横顔の輪郭線があり、背景との間に白地が残されていた。同画集には「油絵よりも、このパステルと水彩の作品がすぐれている。まさに絶品と言えよう」とあった。展示の油彩は横顔や背景が無筆触単色塗りで、あの味わいが塗り潰されてしまった感じだった。

 同テーマの『東洋振り』や藤島模写のルネッサンス期の横向き婦人像も展示で、作者の模索過程がわかって面白く、それだけに『芳蕙』が観たかった。小生はこの連作を観つつ、狩野芳崖が『悲母観音』で見せた基督教美術と仏教美術の融合、そして藤島武二の「油彩で描いた日本画風仕上げ」を較べていた。

 会場には実に多彩な描き方、筆触の作品が並んでいた。それらはどれも何処かで観たような気がして、作品に魅了されるのではなく「私はこんな風にも描けますよ」というサンプル展示を観ているよう。これが文展・帝展アカデミズムの中心に居続けた画家・教師・官吏のスタンスで、つまらん安定感と思った。俄か絵画好きの素人感想で失礼は承知だが、胸打つ画家なんて、そんなに多くはいない、と改めて認識した。

 写真は『鉸剪眉』の部分。左がパステル・水彩作。右が油彩。次はちょっと胸躍った藤島武二のグラフィックデザイナーとしての仕事について。(藤島武二2)

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〝お葉〟に会いに藤島武二展へ [スケッチ・美術系]

oyoufutatabi.jpg 秋の気配に、閉じ籠もっていた冷房装置の部屋を出て美術鑑賞へ。興味を惹いたのは〝大行列の大美術館〟ではなく、練馬区立美術館「生誕150年記念 藤島武二展」。

 フェノロサ、狩野芳崖、岡倉天心らによる洋画排斥の東京美術学校創立までを勉強したので、その六年後の西洋画科設置からのお勉強。藤島武二は慶応三年、薩摩藩士の子として誕生。十六歳より四条派の画家に学び、十八歳で上京して深川の四条派・川端玉章門下。「玉堂」の名で美人画などを描くも、二十二歳で西洋画に転向。二十九歳で西洋画代表・黒田清輝によって助教授任命。

 三十八歳、明治三十八年に四年間の欧州〝官費留学〟。五十九歳、大正十五年に「油彩で東洋的典型的美」到達の代表作『芳蕙(よしえい)』、翌年に『鉸剪眉(こうせんび)』発表。その代表作も観てみたかった。

 さらにそれら代表作のモデルが、なんと〝責め絵〟伊藤晴雨から竹久夢二へモデル・愛人遍歴を経たお葉さん(本名・佐々木カ子〝ネ〟ヨ、通称嘘つきお兼、〝お葉〟は夢二が名付けた)らしいのだ。この時、お葉さんは二十二歳。どこでこんな知識を得たかと云えば、本棚の金森敦子著『お葉というモデルがいた』。

 以前の弊ブログで「夢二の〝お葉〟は責め絵モデルだった」「夢二・晴雨・お葉」(共に閲覧多い記事)の〝お葉さん調べ〟は図書館資料によったが、その中の一冊の同書を神田古本市で三百三十円で入手。本棚にあったのを引っ張り出して読み直したってワケ。

 藤島武二とお葉さんの関係を同著より要約する。~お葉さんは十三歳から東京美術学校のモデルとして活動。当時の藤島は日本的画題を描く時に彼女をモデルにしていたとか。長女より一つ下のお葉に父親のように接していたそうな。

 やがてお葉さんは責め絵・伊藤晴雨のモデル・愛人。そして竹久夢二のモデル・愛人へ。運命の男たちと愛と性の遍歴を経て、再び藤島武二の前に立ったのが大正十五年。藤島は横浜で中国服をオーダーして、代表作『芳蕙』と『鉸剪眉』を描き、お葉さんにとってもそれが最後のモデル仕事。

 昭和五十二年の「藤島武二回顧展」を訪ねたお葉さんが、こう言ったそうな。~「女官と宝船」もそうですし、先生の代表作「芳蕙」のモデルも私でした。半年間も先生のアトリエに通い詰めましてね」(同著の孫引きで平岡博「藤島武二展での邂逅」より)。お葉さんは、そう述懐した三年後の昭和五十五年に七十六歳で没。

 さぁ、藤島武二展へ〝お葉さん〟に会いに行こう。挿絵は二年目のブログで描いたのを再利用。(藤島武二1)

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芳崖「悲母観音」の秘密 [永井荷風関連]

hibokannon_1.jpg 狩野芳崖「悲母観音」の解釈は諸説。吉田亮著の最終章「悲母観音をめぐって」も諸説彷徨。~フェノロサの影響はなかった。米国フリーア美術館蔵「魚籃観音」原画説も違うだろう。では日本の聖母子像か、はたまた裸婦下絵群の意味は~。著者は亡くなった妻に〝理想の母像〟を見たのではと結んでいた。

 それではスッキリしない。芳崖夫妻に子はなく、彼にとっての妻は苦難を支えた伴侶で〝母〟ではなかろう。松本清張『岡倉天心』では「観音像は八歳で失くした母への追慕だろう」と記していた。

 小生は弊ブログの九鬼周造シリーズで、彼の父・隆一と母・初子と岡倉覚三(天心)の濃密な不倫関係を記したゆえに、「悲母観音」の裏にも三角関係ありとする中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』の考察が〝面白い〟と思う。

 以下、同趣旨を要約。~初子は茶屋「山本山」七代目と芸者の子。裕福な暮らしも七代目失踪で絶縁されて芸者へ。そんな十五歳の初子を文部官僚の漁色家・九鬼隆一が落籍(ひい)た。九鬼には常に外に女がいるも、初子は八回妊娠させられ四人の子を産んだ。ワシントン日本公使時代も別の女がいて、その上でまた身籠った。

 この時、フェノロサと岡倉は九ヶ月に及ぶ欧米美術視察旅行。米国視察から欧州へ。覚三はキリスト教絵画の聖母像、聖母子像、受胎告知、アダムの創造などを見て、明治十七年に芳崖が描いた「観音」を想った。彼ならば「キリスト教美術と仏教美術の融合作」が描けると確信した。

 欧州から再び米国に戻って公使館へ。妊娠中の公使夫人・初子が体調不良を理由に覚三と共に帰国を望む。長い船旅の間に二人の心が通った。帰国後の明治二十年秋、覚三・初子・覚三の弟・由三郎が秘かに小川町の芳崖宅を訪問。芳崖は「受胎観音」を描く下絵に初子の(西洋画と同じように)裸体デッサンを重ねた。(この裸婦下絵群は「悲母観音」と共に国指定重要文化財)。

 芳崖は同下絵から「受胎観音」を描けば、九鬼隆一の眼が誤魔化せない。また自身に病魔が襲って時間的余裕がなくなったことで同下絵で「悲母観音」に切り替え、覚三と自身の挑戦「キリスト教美術と仏教美術の融合」かつ「真の芸術は宗教と結びついてこそ」を具現。

 荷風の師・不崩は「しのぶ草」で「悲母菩薩の童子モデルは翁の愛孫(養子の子)、眼下の奇峯は妙義山が参考にされた」と記した。そしてモデルは初子、お腹には九鬼周造。その後の覚三と初子の仲は一段と深まって、幼き周造は覚三が父だと思ったほどの暮しを展開。だが九鬼隆一は頑として離婚を認めず、彼女を精神病院に閉じ込めた。

 長くなったので、この〝お遊び〟を終わらなくていけない。最後に長じた九鬼周造は、永井荷風の「いき」に憧れて、「いき」を哲学した、と小生の独断で締めくくって終わる。(荷風の絵心7で完)

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