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「菊丸」月島桟橋と投身事件 [週末大島暮し]

kikumaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットの「黒潮小屋」の次は船です。船マニアではないから自信なしも、煙突とマーク、その後ろのアーチ状柱などから「菊丸」と推測した。写真は岡田港で、手前のドロップ(涙)状堤防の内側は漁港かな。

 「菊丸」は昭和4年に就航の759トン。霊岸島~大島~下田、房総航路など。昭和10年に木更津港外で座礁。昭和13年頃に傭船で陸軍船として中国へ。昭和17年より機密津軽防備部隊船として室蘭方面で活動。昭和21年に東海汽船復帰。昭和44年に解体。昭和初期と昭和21~44年に大島航路に就いていたらしい。

 「菊丸」をネット検索したら、小生の記事「辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ」がヒット。西木正明『夢幻の山脈』で、昭和27年の「もく星号墜落」後に辻まこと・西常雄の両名が、宝石回収に東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島へ向かった、の記述に、それは間違いだろうと記していた。

 竹芝桟橋船客待合所竣工は昭和28年7月。松本清張著の「遺体は東海汽船の〝菊丸で月島桟橋〟へ帰ってきた」とある。また野口富士男『耳のなかの風の音』は、大島より〝月島桟橋へ帰港途中のK丸〟から実父が身投げした事件の顛末記。辻と西は「月島桟橋」から大島へ向かった、が正しい。

 霊岸島から芝浦桟橋に移ったのが昭和11年。昭和23年3月から月島桟橋で、昭和28年7月に竹芝桟橋になる。昭和初期に霊岸島発「菊丸」で大島へ渡った林夫美子、与謝野晶子、漫画家集団ら多くの文化人が記録を残している。「葵丸」が昭和14年12月に乳ヶ崎海岸で座礁沈没ゆえ、当時のメイン船は「菊丸」。

 時代は遡るが野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を読むと、同家繁栄を築いたのが母方の祖父・久右衛門で、長男が二代目を継いだが女道楽。東京湾汽船の社長・桜井亀二の娘「菊」と結婚も芸者を落籍。「菊」は離婚し、二代目は信用を失って放浪生活へ。

 その後を潤一郎の伯父(先代の長女の養子婿)が引き受けて手堅く商売していたが、長男が無茶な相場で大損。伯父は大正4年(1915)に、息子の責を負って大島通いの船から三崎沖で投身自殺とか。「菊丸」の前の「豆相丸」だったろうか。

 船は乗客それぞれの悲しく辛い人生も運んでいる。そう思うと、船ってちょっと悲しく重い感じもする。

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黒潮小屋とナチスと三原山人気 [週末大島暮し]

kurosiokoya1_1.jpg 池袋西口「古本まつり」で「ジャポニスム」関連書の他に、面白い絵葉書を入手した。「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セット300円也。

 制作年の印字なし。何時頃のものだろうか。紙袋に「第五種郵便」。そこから昭和26年~五種廃止の昭和41年までの間と推測した。

 15枚の中で、小生まったくわからぬ「黒潮小屋」(写真)があった。これは何だろうか。島関連のネットで、大島公園の現・椿資料館が「元黒潮小屋」と知った。昔の「島の新聞」をひも解く。昭和十三年八月五日号に「太平洋を望む〝黒潮小屋〟大島公園に新登場」の見出し。

 今では想像もできぬ大仰なリード文に思わず笑った。「世界第二位の人口を誇る大東京六百三十万市民の健康・厚生のための近距離〝海の公園〟として~(中略)~面目も一新しやうと昨年から着々工事を急ぎつゝあったが、三年計画第一期工事中の王座たる山小屋が此のほど竣工したので、その一般的開放披露をかねた落成修祓式が去る一日同所で執行された」

 式次第レポート後に施設説明。「落成したロッジは木造平屋建百五十坪、赤瓦のモダンなコッテージ風の建物で、宿泊料は三十銭、休憩料十銭という大衆向きであるが、ベランダに出れば太平洋の黒潮が一望の彼方に見渡せる雄大な気分をそのまゝに『黒潮小屋』と井上公園課長が命名した御自慢のもの(以下略)」。

 同月廿五日発行号にも注目すべき記事。吉阪正隆氏『(大火の)元町復興計画』の項で記した「日独伊三国同盟でヒトラー・ユーゲント(ナチスの少年組織)一行三十名が、東京聯合少年団数百人と共に九月十八日に来島」の報。この東京少年団のなかに語学堪能の吉阪少年もいたのだろう。

 次に同年三月に大島人口の発表。「大島人口は一萬五百人。女性の方が百三十人多く〝女護の島〟の観を呈していると分析。大島の明日は限りなく輝いていた。

 それを裏付けるように、同記事隣に「春は大島へ、来るぞ!一萬人~」。「六日の日曜日に二千人、八日に東京のデパートガールが押しかけ、十日に東京の理髪業五、六十人を混えた四百名。その他に平日ながら四、五百人づつ流れ込む三原山ゴールドラッシュ。島内はまさにあふれるような超景気」とあった。

 昔の絵葉書「黒潮小屋」からのアレコレでした。島は今も輝き続けているだろうか。

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ジャポニスム22:印象派の政経事情 [北斎・広重・江漢他]

 目下、日本ではお粗末政治話題で喧しいが、印象派の裏の政経状況を記した吉川節子著『巴里・印象派・日本』を読んだ。「通説の印象派=官展サロンに対抗、落選画家らの独自展覧会の出品者。批評家がモネ『印象‐日の出』を揶揄して〝印象派〟と命名」。

 著者はその「通説」は大違いと記して当時の状況説明へ。小生も同著を離れて当時のフランス状況をお勉強した。1789年フランス革命。絶対王政から共和制へ。(同年の日本は寛政元年。寛政の改革で浮世絵、戯作、狂歌が締められた。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦重が財産半分没収、恋川春町は自刃か、大田南畝は狂歌を辞めた)

 だが約十年後に共和制から再び王制復活。以後は紛争続き、1870年(明治三年)に普仏戦争(普=普盧西=プロシア=ドイツ)敗北。第二帝政崩壊で第三共和制へ。ドイツへの賠償金や財政赤字を克服後、1873年に王制派マクマオン元帥が大統領。1879年まで王制志向。未曽有の好景気を迎えるも、美術界は保守派画家中心。

 その最中、1874年(明治七年)四月に印象派第一回開催、会場はパリ・キャプシーヌ街三十五番。モネが前年に同地移住で「キャプシーヌ大通り」を描いて同展に出品。大繁華街での開催だった。

 第一回参加者は三十人。出品作は百七十点。三十人のうち十二人が、なんと官制サロンに同時出品。サロン無監査の年配実力者もいたし、モネは二十四歳で、ルノワールは二十三歳で、シスレーは二十六歳で、女性画家モリゾは二十三歳ですでに「官制サロン」入選済。

 第一回印象派展は通説「官制サロン」反抗・落選組の展覧会ではなかったらしいのだ。しかも好景気に少しでも高く多くを売りたい狙いがあったようで、正式名称も「画家、彫刻家、版画家など美術家による共同出資会社第一回展」。

 入場料1フラン(現在の千~千二百円)。全入場者数三千五百人。悪くない数字。モネ『印象‐日の出』は八百フラン(約百万円)売約など、どの作も高額売値。若く貧しい画家のイメージもない。

 だが翌年にフランス大不況。1879年1月に共和派大統領で共和制確立も金融大恐慌。第一回印象派のお買い上げ作品も暴落。株仲買人ゴーガンは年収三千万の生活を失って画家へ。高額所得者・画家らも低所得者へ。若き印象派の画家らは天才ゆえの貧乏ではなく、実際はバブル崩壊による貧乏画家へ。

 画家らはその後もフランス景気に、また王党派VS共和派(町絵師・北斎好き)に揺れつつ生きる宿命~。詳しくは同著をどうぞ。物事は両面を見ないと真実を見誤るらしい。

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ジャポニスム21:古本市で関連書入手 [北斎・広重・江漢他]

boston3_1.jpg 池袋西口・古本まつり初日が十八日だった。以後は連日雨予報で初日に行った。かつて同まつりで全作揃いの広重『狂歌入東海道五十三次』を入手。書道系書棚下に文鎮を見つけてから骨董市で文鎮探しも始めた。

 今回はブログ「ジャポニスム」シリーズ中ゆえに、二十九年前の日仏共同企画でパリと国立西洋美術館共催『JAPONISME』展図録を千円で入手した。ジャポニスム資料として貴重な四百頁。片手で持つも辛い重さ。

 次に三年前のボストン美術館浮世絵名品展『北斎』図録を千五百円で入手。すでに所有のボストン美術館所蔵・肉筆画浮世絵展『江戸の誘惑』図録と併せ揃ったことになる。

 以上が物語る通り、浮世絵名作はことごとく海外美術館が所蔵。当時の日本では浮世絵(錦絵)は紙屑同然扱いで、屑屋から紙漉き所へ運ばれる束一貫目(四キロ)が十銭。それらを林忠正がせっせと欧米で売り捌いた。「ジャパニスム12」掲載の歌麿『鮑取り』三枚続が1050フラン(パリ小市民一ヶ月生活費150フランほど)とか。かくして日本の浮世絵は底をついたが、流失先で画家や工芸家らに大影響を与え、かつ大事にされて海外美術館に収まった。

 永井荷風『江戸美術論』執筆が大正二年だった。欧州の浮世絵人気に、日本画や西洋画を真似した日本油絵作をもってパリ展を開催したのが大正十一年。酷評。振り向く人は皆無。大きな〝勘違い〟。反省もなく、荷風没の二十一年後、昭和五十五年(1980)になって、やっと『ジャポニスム(=浮世絵の影響)」に注目した。日本の画家や美術界は相当に惚けていたと言って過言ではない。

 そんな事も記す瀬木慎一『浮世絵 世界をめぐる』も六百円で入手した。浮世絵全般を要約の函入り吉田暎ニ『浮世絵入門』(昭和三十六年刊)を千円で入手。他に北斎川柳の理解に中野栄三『江戸秘語事典』(昭和三十六年刊)も六百円で入手。

 これだけで相当に重かったが、帰宅後に自転車を駆って四谷図書館で岸文和著『江戸の遠近法~浮絵の視覚』、成瀬不二雄著『司馬江漢』(本文編・作品編)を借りた。「ジャポニスム」シリーズ20回で終了と思ったが、新資料入手であちこちに補足追記遊びに相成候。

 国立西洋美術館「北斎とジャポニスム」展が始まった。入場料1600円で図録が3000円らしい。新たな資料展開があるとは余り思えぬのだが~。貧乏隠居には古本と図書館本相手がお似合いかも。

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ジャポニスム20:北斎の艶本 [北斎・広重・江漢他]

hokusaiwa2_1.jpg 〝浮世絵=春画〟イメージ&概念は根強い。小生、内緒だが幾年も前の「池袋西口古本まつり」で絵師別春画(林美一&リチャード・レイン共同監修)を五冊入手。北斎は『東にしき』と『縁結出雲杉(いつも好き)』。

 さて「ジャパニスム7:林忠正とは」で木々康子著『林忠正とその時代』を紹介したが、今回は同著者の『春画と印象派』を読んだ。著者の義祖父が林忠正で〝春画流出の国賊〟を払拭すべくの著作。冒頭「はじめに」を要約する。

 ~春画を欠いて浮世絵は在り得ず、つまり春画を欠いて印象派も在り得ず。なのに〝春画〟は常に隠されてきた。欧州の巨大文化(キリスト教文化)による伝統絵画から脱皮せんと闘っていた若き印象派の芸術家らが、江戸の小市民=町絵師が描いた浮世絵の画力、また大らかな庶民の姿や春画からも、人間性回復の勇気を得たのではないか~、その推理を解き明かしたい、と記して検証・分析に入っている。

 本文紹介はブログ一回分で足らぬゆえ小生の経験を記す。「ヰタ・セクスアリス」? いやそんな秘め事ではない。東京オリンピックを二十歳で迎えた。東京がうるせぇ~ってんで、友人と東伊豆に脱出した。食堂の空き部屋で一週間ほど滞在。店主紹介の村営浴場に通った。納屋ほどの小浴場だが、なんと老若男女で賑わう混浴だった。

 なんとまぁ、大らかだったことよ。昭和四十年の東伊豆から江戸時代を想像すれば、まさに浮世絵で描かれる庶民の光景が展開と思われる。働く男らは褌姿で、夏の女性は下着なしの薄着物。古典落語では庶民長屋の壁が板一枚で、屁さえ隣に筒抜けの滑稽を語っている。弥次喜多が東海道の宿に泊れば、隣部屋の新婚を覗いて襖ごと倒れ込む。春画に襖、障子からの覗き絵が実に多い。武家屋敷裏口からは奥女中相手に〝張形売り〟の行商が出入りした。この辺は法政大総長・田中優子先生の著作に詳しい。まぁ、大らかだった。

 欧州絵画の女性像は〝女神〟限定。宗教神話中心ゆえ花鳥風月は最下位の価値領域。だが産業革命の都市荒廃で自然復興に目覚めれば浮世絵の花鳥風月、江戸庶民のイキイキとした姿があった。美術工芸品は『北斎漫画』の花鳥風月を先を争うように取り込んだ。

 著者は「ジャポニスム12」掲載の歌麿『鮑取り』同ポーズで、ミレーが裸の『鵞鳥番の少女』を描いたと指摘。またゴングール「日記」より「今朝、ロダンとブラックモンと食事。ロダンは全く獣じみた様子で、私のエロティックな日本の作品を見たいと頼んだ」。その絵の細部ひとつ一つに感嘆の声をあげた~の記述を紹介。

 浮世絵は西洋から遠近法(浮絵)を学んだが、春画の局部拡大図法に腰を抜かしたに違いない。眼を剥いたロダンのように。そうか、もっと自由に描いていいんだと。著者は「外叔父・林忠正は浮世絵の画法・画力のみならず、パリの芸術家に花鳥風月を愛でる心、人間の本質の素晴らしさを伝えたかったのではないか」と結んでいた。

 写真は北斎『東にしき』一部。「あれサ、こぞうがおきますよ。そんなにせわしなくせずとも、いいじゃねへかナ」。ちなみに、これら絵や絵本を称して和印、読み和、笑い本、笑い絵、独り笑い、あぶな絵、秘画、秘本、写し絵、鏡絵、勝絵、避火図、会本(えほん)、艶本、猥本、エロ本、好色本、色本、春本、籠底書、埒外本など。(続く)

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ジャポニスム19:北斎のバレ句 [北斎・広重・江漢他]

hokusaisenryu.jpg かつて宿六心配著『北斎川柳』を読んだ。上品に育った小生は、余りの下劣さに、こりゃ~眉唾だぁとブログに記すのを躊躇した。いい機会ゆえに確認してみよう。

 永田生慈監修の図版本を読めば、巻末に『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』収録の北斎川柳が二百句ほど掲載。飯島虚心『葛飾北斎伝』にもこんな一文あり。「北斎翁、嘗て川柳風の狂句を好み、名を百姓といひ、秀吟頗多し。実に葛飾連の棟梁たり」。

 永田著『葛飾北斎』(吉川弘文館)にも「北斎は文政六年頃から弘化三年(1823~1846)にかけて娘・栄と共に川柳の『誹風柳多留』に投句し、句選も行うなど本格的に活動。お栄も評を行う力量で発表句は七十四句」。さらにボストン美術館浮世絵名品展「北斎」図版のコラム(鏡味千佳)にも、北斎の川柳号は「卍」句が百八十二句、「万字」句が四句、「百姓・百性」句が二十八句。「カツシカ」句が二句。計二百二十五句と記されていた。

 これで宿六心配著は本当のことと納得した。「宿六さん、疑ってすみませんでした」。ちなみに幾つかの句を紹介してみる。~いゝのいゝのを尻で書く大年増/其腰で夜も竿さす筏乗り/まじまじと馬の見て居る麦畑/立ちながらこそ細布はおつぱづれ/擂粉木をきぬたに寺の秋牛房/指人形も居敷から手を入れる/この翁とうとうたらり水っ鼻/無理口説き大根おろしで引きこすり/間のわるさ月の影さす夜蛤/弱よく強を刺レマア寝なんしょ/婚礼を蜆ですます急養子~などなど。

 宿六著の解説をうろ覚えで記せば「立ながら~」は立ってイタす時の滑稽姿。「寺の秋牛房~」は坊主の逸物。「夜蛤」は夜鷹のこと。「馬の見て居る~」は麦畑でイタしている時の光景。性を大らかに笑っているエロ川柳=バレ句=破礼句=艶句ばかり。小生も読み解こうとしたが「江戸の秘語・隠語事典」なくしては解釈できなかった。

 画業には厳しい集中力が求められる。北斎と娘・お栄は、こんなバカ川柳を作っては笑い合って息を抜いていたのだろう。偶然だがお栄さん(応為)の肉筆画に素晴らしい『月下砧打図』あり。北斎の〝わ印〟も、そんな川柳に通じていたのだろう。

 北斎艶本の林美一&リチャード・レイン共同監修の解説を読むと「彼の艶本は文化十一年~文政四年(1814~1821)制作で、欧州で話題騒然の〝タコに犯された海女〟も文化十一年『喜能會之故真通(きのえのこまつ)』の一作、と解説。

 艶本制作期が北斎五十四~六十一歳の頃で、バレ句は六十四歳~八十七歳頃。まぁ、北斎の絶頂期じゃないか。こうなってくると北斎の〝わ印〟にも注目しなければいけないだろう。「ジャパニスム」とは関係なさそうだが浮世絵は町絵師=庶民(北斎は特に貧乏だった)の体制への反抗心、自由、自然生活感があってこそ。それが欧州画家らに強固だったキリスト教伝統文化から脱皮する勇気を促した。(続く)

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ジャポニスム18:北斎・遠近法の謎 [北斎・広重・江漢他]

mitiwari2_1.jpg 前項で北斎『〝浮絵元祖〟東都歌舞岐大芝居之図』の遠近法が、歌川豊国を真似ただけとわかった。同右画面の透視線が消失点に集中していたのに、左画面の透視線がズレて(消失領域)いるのは何故だろうか。

 さて、もうひとつ注目の北斎の遠近法が『北斎漫画(三編)』の見開き頁にあった。右図は「三つわりの法」(写真上)。画面縦横三等分の線と透視線が二本。黄金比に近い矩形で左右対象構図。北斎文字は「ここにて三寸のたかさにかゝんときハ」「二ツを天とすべし」「一ツを地となす」。北斎は後にこの構図で『富嶽三十六景・深川万年橋下』を描いた。

 解せぬが左頁図(写真下)。木が約4:6で左寄り(靑線)、建造物透視線(赤線)、帆船らしき船が浮かぶ水平線(緑線)。北斎文字は「間のすじにあわせてかくべし」「かくのごとし」と読める。この図は明らかに左右非対象を主張しているような気がする。

hokusaihitaisyo.jpg この両図はオールコック『日本の美術と美術産業』(日文研データベースで閲覧)に銅板模写で紹介されていた。同著はロンドンで明治十一年(1878)に刊。北斎とは記されぬまま日本の遠近法として紹介されたか。

 この左右非対象図をよくよく眺めれば、どこか異国風ではないか。沖の帆船、人物の帽子やコート姿はオランダ人のシルエットっぽい。北斎は、この図をオランダ資料を見て描いたような気がしてきた。ならば、その元図はどこにあるのだろうか。

 そしてパリの印象派の画家らは左右対称図には見向きもせず、消失点がズレた左右非対象で奥行きを演出したを風景画を幾作も描いていたような~。

 ならばこの左右非対称図はオランダ~日本~ロンドン~パリ~日本を駆け巡ったように思えて、ちょっと愉しくなってきた。次が北斎のバレ句(艶句)について考えてみる。(続く)

 ★なお、岸本和著『江戸の遠近法』を読んだので、その内容を前項「ジャポニスム17」に大幅追記した。同著は多数の歌舞伎座内図に小生と同じく透視線を引いて詳細考察されていた。

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ジャポニスム17:北斎が学んだ新画法 [北斎・広重・江漢他]

hokusaisibaizu.jpg 「ジャポニスム15」文中、荷風文の「(北斎が学んだ新画法は)司馬江漢が西洋遠近法の応用」を引用した。また「彼が司馬江漢の油絵並に銅板画によりて和蘭画の法式を窺い知りしは寛政八年の頃」なる記述もあった。鍬形薫斎(北尾正美)からも勉強したのだろうか。この辺が詳しく知りたくなった。

 荷風『江戸芸術論』、飯島虚心『葛飾北斎伝』に加え、大久保純一『北斎』、永田生慈の『葛飾北斎』他を読む。

 北斎六歳の明和二年(1765)に鈴木春信が多色摺版画=錦絵を創始。この年、司馬江漢が十九歳で春信門下になる。神田の春信の借家に平賀源内が入居。近所の杉田玄白、宋紫石らも在住。錦絵は源内の発案との説がある。安永七年(1778)、北斎十九歳で勝川春章に入門。翌年に平賀源内が没。天明三年(1783)に司馬江漢が「銅版画」制作に成功。

 平賀源内で「おゝ」と気付く。この時代は蘭学を通じて西洋文化が入っている。十八世紀前期に中国経由で透視画法が日本に入って「奥村政信」が見よう見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を制作したのが寛保三年(1743)。

 難しく云えば「平行遠近法」から視点を軸にした「幾何学的遠近法」へ。これには江戸中がびっくり仰天で、当時の事件簿に載っているそうな。但し遠景は日本の伝統的絵画の「平行遠近法」が残されていて「共存型」。これは芝居内容を伝えるために意図的なこと。

 そして同世紀後半(明和四年~寛政年間・1767~1801)に歌川豊春、豊国、北尾重政、北尾政美らの浮絵第二世代が西洋から輸入された銅板画を学ぶなどして「浮絵」を改善。具体的には写真のように透視線が消失点ならぬ「消失領域」に集約されるようになった。また遠近法強調に視線を後ろにして遠近空間を広くしている。

 北斎は春章入門後の二十八歳、天明七年(1787)頃に、歌川豊国「浮絵 歌舞伎芝居之図」を参考に左右対称一点透視画『絵浮元祖東都歌舞岐大芝居之図』(写真)を描く。※~と記されているが、小生が両図共に透視線を引いてみれば、目線は二階席の高さで、右側透視線は消失点に集中しているが、画面左側は豊国と同じく「消失領域」で視線がやや彷徨っている。北斎が「浮絵を改善」とは言い難く、それで〝浮絵元祖〟はおこがましい。彼の〝てらい〟性なりとわかる。北斎はこの頃から遠近法強調作を描き始めている。

 次に大きな画法習得は、中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保十六年(1731)に長崎に渡来して始めた南蘋派(江戸では唐画)から、色の濃淡でリアル写実(質感)の描き方を学んだ。

 そして銅版画習得へ。その代表作が『銅板 近江八景』や『阿蘭陀画鑑 江戸八景』(文化八年~十一年頃)。これは本物の銅板画(エッチング)ではなく、その描線(ハッキング)を模した作品群。大久保著では年代的及び普及度から司馬江漢の後の「唖欧堂田善の江戸名所銅版画」から学んだのだろうと推測していた。

 ★岸文和著では「(こうした経緯をもって)北斎や広重は〝浮絵という風俗画領域〟から、浮世絵を〝風景画領域〟へ進めた」と記していた。また同著では北斎の弟子・昇亭北寿「東都両国之風景」について、豊春とも春朗(北斎)とも趣を異にしていると注目。これは同著の81年前の荷風『浮世絵の山水画と江戸名所』で「空と水の大なる空間を設けたること(中略)山水画に光線を表示せんと企てたる事なり」と記していた。81年前の荷風洞察の鋭さをまた認識です。

 北斎は弘化五年(1848)の絵手本『画本彩色通』二編末に、腐食銅板画の説明を記しているそうな。なお司馬江漢は江戸の町屋生まれ。源内の鉱山探しに同行した奇人だそうで、ぜひ調べ知りたい人物です。

 次が油絵のお勉強。文化前期・中期頃に油絵風五作あり。石垣模様の縁取りで、ひらがなを横書きした英語風「ほくさいゑがく くだんうしがふち」。九段坂の急なお濠崖が〝板ぼかし〟で重厚な油絵風に仕上げられた作。銅板画と同じく、これも絵手本『画本彩色通』初編に荏油(えのあぶら)の作り方が絵入りで紹介されている。

 写生力、画題の広範さに加えて、これら北斎の西洋画法の試みもあって、印象派画家らから身近な存在として迎えられたようにも思える。次は『北斎漫画』に描かれた不思議な遠近法の謎について。(続く)

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ジャポニスム16:北斎の戯作&画 [北斎・広重・江漢他]

tokitaro2_1.jpg 今回は〝おまけ〟で、北斎が「時太郎可候」名で戯作者&絵師で仕上げた『竈将軍勘略巻』の巻末「舌代」文と自画像の模写遊び。

 同作の刊は寛政十二年(1800年)。北斎四十一歳。「戯作者&絵師」は山東京伝が絵師・北尾政寅でもあったように当時は特別珍しいことでもなし。この世で隠居中の小生も、現役期はライター&デザイナーだった。以下、参考原画は国会図書館デジタルデータベース。「漢字くずし方辞典」を久々に紐解いての筆写です。

 舌代 不調法なる戯作仕差上申候(つかまつりさしあげもうしそうろう)。是ニ而(にて)、御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々當年評判すこしもよ路しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(早々=急ぎ書き、不具=気持ちを充分に言い表わせていませんがの意の手紙結文) 十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 参考:鈴木重三校注

 作者名「時太郎可候」の時太郎=幼名。可候=かこう(そうべく、そうろうべく)。北斎が勝川派から離脱して「春朗」から琳派「宗理」改名が寛政七年頃。そして「宗理」を捨てて「可候」へ。「北斎」に至る狭間期で未だ前途厳しく、絵一筋の心持に至らずの「戯作&絵」だったのだろうか。未だ馬琴と大喧嘩をしていない。

 だが自画像を見れば、江戸時代の四十歳らしく?すっかりお爺さん姿。しかし本領発揮はこれからで、相当に奥手(大器晩成)だったと再認識です。

 これでシリーズ終了と思ったが、北斎について知りたいことが幾つも出てきた。北斎は〝遠近法〟をはじめの新画法をどのように身に付けてきたのだろうか。次はその辺を探ってみる。(続く)

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ジャポニスム15:荷風の北斎論Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

hokusaitera.jpg 荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」の続き。『北斎漫画』については周知多々ゆえ省略し『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』の記述を読む。

 「これら諸作はいづれも文政六年以後の板行せられしものにして、北斎が山水画家としてまた色彩家としてその技量の最頂点を示した傑作品たるのみに非ず、その一は司馬江漢が西洋遠近法の応用、その二は仏国印象派勃興との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす」

 北斎の遠近法には快感さえ覚える。またその線は日本画の線を廃し、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、色彩の濃淡中に混和して分別しがたきものあり。これは浮世絵在来の形式の超越、西洋画の新感化を応用なり、と分析する。

gakyouhaka.jpg 「文政六年歳六十余に初めて富嶽三十六景図の新機軸を出(いだ)せり。北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事を知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし」

 次に色彩について。「その色彩は絵画的快感を専らとしたり。天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主にしたるものならずや。(中略)これは色彩板刻から得たものだろうが、仏蘭西印象派の画人らが初めて北斎の板画を一見するや、その簡略明瞭なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論と対照して大に得る処ありとなせしものなり」

 それによって印象派の画家は、北斎の山水板画を以て成功したのだろう、とまで言っている。特に富士山の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずの新理論は印象派の主張と一致すると指摘。荷風さん、子供時分から岡不崩に絵を習い、仏語の北斎論も読み込んでいるだろうから、その観察眼・指摘を侮ってはいけない。

 写真は三年前の春、自転車で元浅草・誓教寺の北斎お墓を掃苔して撮ったもの。1893年(明治二十六年)にも書肆・逢枢閣主人で浮世絵商の小林文七が、写真師・小川一真を伴って写させている。飯島虚心『葛飾北斎伝』にも載ってい、また「これを欧州に贈りたる」とあるから、林忠正の手を通してゴンス、ゴンクールの手にも渡ったのだろう。

 写真家・小川一真については「青山・外人墓地」シリーズの「荷風と下水道とバルトン」や「凌雲閣設計と写真とバルトン」に登場済。彼はまたフェノロサや岡倉天心との関係あり。(続く)

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ジャポニスム14:荷風「泰西人の北斎」 [北斎・広重・江漢他]

kafuedo1_1.jpg 今回は永井荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」を読む。荷風はまず日本人による優れた北斎評がないのを歎く。

 「泰西人の北斎に関する著述にして余の知れるものに仏国の文豪ゴンクウルの『北斎伝』。ルヴォンの『北斎研究』あり。独逸人ペルヂンスキイの『北斎』。英吉利人ホルムス『北斎』の著あり。仏蘭西にて夙(つと)に日本美術の大著を出版したるルイ・ゴンスはけだし泰西における北斎称賛中の第一人者なり。ゴンスは北斎を以て日本画中の最大なるものとするのみに非ず、恐らく欧州美術史の最大名家の列に加ふべきものとなし~」

 まぁ、日本人の情けないことよ。日本では1893年(明治二十六年)の書肆・逢枢閣を営む浮世絵商・小林文七から出版の飯島虚心『葛飾北斎伝』くらいか。だが同書を読めば経歴・逸話を集めた書で、北斎絵画評ではなし。同書は鈴木重三校注で岩波文庫刊。原文はARC古典籍ポータルデータベースで読める。

 ★追記:荷風さんが同著執筆は大正二年(1913)、没年は昭和三十四年(1959)。日本の美術関係者が「ジャポニスム」に注目して執筆開始は昭和五十五年(1980)前後から。日本の画家はじめ美術関係者の眼と頭は相当に惚けていたと言っても過言ではなさそうです。

 さて、荷風さん改めて「そもそも何が故に斯くの如く(北斎が)尊崇せられたるや」と分析・考察。北斎称賛要素に「堅実な写生力」と「画題範囲の浩瀚無辺」を挙げた。

 まず写生について。日本画古来の伝統法式ではなく、その円熟の写生が泰西美術の傾向と相似たる所で、その写生力が泰西鑑賞家らにとって「初めて日本画家中最も己に近きものあるを発見し驚愕歓喜のあまり推賞して世界一の名家となせしに外ならざるなり」

hokusaiden1_1.jpg その写生力は観察力の凄さ。印象派と同じく性格の表現に重きを置かんとして、人物禽獣は飛躍せんばかり。彼は浮世絵、琳派、狩野の古法、支那画、司馬江漢に西洋画を学んだが〝写生の精神〟は始終変わらず。老いてなお、観察はさらに鋭敏にその意気いよいよ旺盛。この点において北斎は寔に泰西人の激賞するが如く不覊自由(ふきじゆう)なる独立の画家たりといふべし。

 次に画題範囲の浩瀚無辺について。筆勢の赴く処、縦横無尽に花鳥、山水、人物、神仙、婦女、あらゆる画題を描き尽せしもの古来その例なし「一驚せざるを得ざるべし」と記す。

 さらにその制作は肉筆、板刻の錦絵、摺物、小説類の挿絵、絵本、扇面、短冊、図案等各種に渉りてその数夥しい。そのなかで泰西人称美の第一は『北斎漫画』などの絵本、第二は『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』等の錦絵。第三は肉筆掛物中の鯉魚幽霊または山水。第四は摺物なり。長くなったので区切る。写真は岩波文庫『江戸芸術論』(全集では第十四巻収録)と飯島虚心『葛飾北斎伝』。(続く)

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ジャポニスム13:荷風の風景画論 [北斎・広重・江漢他]

hirosiryogoku1_1.jpg 永井荷風の著作を読むと『絵本江戸土産』や『江戸名所図会』を愛読していたことがわかる。小生の古文書講座の初受講教材が、広重『絵本江戸土産』だった。そこから自習で西村重長版『絵本江戸土産』や長谷川雪旦『江戸名所図会』で〝崩し字〟勉強を続けた。

 池袋古本市でボロボロながら全作揃いの広重『狂歌入東海道五十三次』を入手し、狂歌解読の遊びもした。それらに関する荷風『江戸芸術論』より「浮世絵の山水画と江戸名所」を読む。

 浮世絵は風俗俳優の容姿を描くを以て本領としたが、時代の好尚(趣向・流行)や画工技能の円熟によって背景・遠景図が発達して山水風景画に至った。西洋画も人物背景から風景画へ発展は同じ。かくして葛飾北斎や広重の二大家が現れて江戸平民絵画史の掉尾を飾った、と説明。

 ここで荷風さん、天明年間の江戸に勃興した〝狂歌〟の影響が無視できぬと指摘。「江戸名所を課題とする狂歌の流行は、江戸名所の風景に対する都土人の愛好心を増進した。それと共に画工の風景に対する観察を鋭敏ならしめた。狂歌は絵本と摺物において、よく浮世絵の山水画を完成せしめた。(中略)天明寛政の平民美術についてはその勢力隠然狂歌にありしといふことを得べし」。この辺は「ジャポニスム」には負えぬ江戸の奥深さだな。

 「北斎も狂歌全盛の時代に出で〝浮絵〟の名所絵に写生の技を熟練せしめたる後、寛永八年頃より司馬江漢につきて西洋油絵の画風を研究し、これを自家特有の技術を加えて北斎一流の山水をつくり出せり」※浮絵=西洋の透視画法を用いて遠近法を強調して描いたもの=くぼみ絵、遠視画。奥村政信~歌川豊春にその作品が多い)

 荷風が記す北斎の山水画を制作順に記すと絵本『江都勝景一覧』(1799年・寛政十一年)、『東都遊』(1802年・享和二年)、『山復山』(1804年・文化元年)。次第に腕を磨いて『隅田川両岸一覧』(1806年・文化三年)へ。北斎の名所絵本はいづれも狂歌の賛をなしたるものにして、後年の『富嶽三十六景』(1823年~・文政六年~)、『諸国滝巡り』(1833年~・天保八年~)、『諸国名橋奇覧』(1833年~・天保六年~)へ至ったと説明。

 小生はこれらを所有せぬゆえ「国会図書館デジタルライブラリー」閲覧で確認した。『隅田川両岸一覧』は一作にほぼ二首の狂歌入り。『江都勝景一覧』は一作に四首ほどの狂歌挿入、『山復山』は「絵本狂歌山満多山」で各作に狂歌がびっしり挿入だった。「北斎の精緻なる写生は挿入せしその狂歌と相俟って、見るものをしておのづからその時代の雰囲気中にあるの思をなさしむ」

 一方、広重の山水画は『名所江戸百景』『江戸近郊八景』『東都名所』『江都勝景』『江戸高名会亭尽』『名所江戸坂尽』そして狂歌入りを含む『東海道五十三次』など。絵本は『江戸土産』(十巻)、『狂歌江戸名所図絵』(十六巻)など。広重作品についても詳細解説されているが、ここでは省略。

 荷風さんは北斎と広重の比較を「北斎は美麗なる漢字の形容詞を多く用ひたる紀行文の如く。広重はこまごまとまたなだらかに書流したる戯作者の文章の如し」と評していた。写真は露出が少なかろう広重『東都名所・両国夕すゞみ』三枚続の一枚。

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ジャポニスム12:荷風の浮世絵鑑賞 [北斎・広重・江漢他]

maroawabi1_1.jpg 「ジャポニスム」最後は、やはり浮世絵の復習でしょう。永井荷風『江戸芸術論』より冒頭章「浮世絵の鑑賞」を読む。

 荷風さん、端から歎いていた。「(帰朝して我邦を見れば)西洋文明模倣の状況を窺ひ見るやに、余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり」。広重や北斎の江戸名所絵で都会や近郊の風景を見つつ、専制時代の平民の生活や悲哀の美感を求めようとするも、西洋模倣ばかりになってしまった。日本人の歴史に対する精神を疑う他にないと~。

 浮世絵は政府の迫害(遠島や手鎖)を受けた町絵師らの功績。「木版摺りの紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。(中略)その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」(ゴッホは浮世絵の何を見ていたのか!)

 油絵の色や筆致に画家の強い意思や主張があるのに比し、木版摺の色彩には専制時代の人心の反映だろう、その頼りなく悲しき色彩に哀訴の旋律が秘められている。絵師は日当たりの悪い横丁の借家で、畳の上で両脚を折り曲げ、火鉢で寒を凌ぎ、廂(ひさし)を打つ夜半の雨を聴きつつ、そんな虫けら同然の町人によって制作されたもの。

 ここで浮世絵技法の歴史を辿り「鈴木春信が初めて精巧なる木版彩色摺の法を発見。その錦絵には板画の優しき色調がある。比して肉筆画は朱、胡粉、墨等の顔料がそのままで生硬(せいこう)なる色彩の乱雑を感じる」 荷風反骨の独壇場へ続く~

 「官営の美術展覧場に厭しき画工ら虚名の鎬(しのぎ)を削れば、猜疑嫉妬の俗論轟々として沸くが如く(中略)~独り窃に浮世絵を取出して眺むれば、あゝ、春章・写楽・豊国は江戸盛期の演劇を眼前に髣髴たらしめ、歌麿・栄之は不夜城の歓楽に人を誘い、北斎・広重は閑雅なる市中の風景に遊ばしむ。予はこれに依って自ら慰むる処なしとせざるなり」

 最後にこう締めくくる。「浮世絵の生命は実に日本の風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外に輸出せられたり。悲しからずや」 これ、大正二年正月の文章。荷風さん三十四歳。慶応義塾大学文科教授で「三田文学」編集の時。その三年後に大逆事件の囚人馬車が走る光景を見て、戯作者にまで身を沈めると隠棲生活に入った。

 ちなみに遠島は英一蝶、手鎖五十日の刑は喜多川歌麿、月麿、勝川春亭、勝川豊国ら。戯作者では山東京伝(絵師名は北尾政寅)と十辺舎一九も手鎖五十日の刑で、恋川春町は自刃し、蔦屋重三郎は身代半減の刑など。

 写真は荷風同著「ゴンクウルの歌麿及北斎伝」でも詳細説明の歌麿「鮑取り」の三枚続の一枚。裸(肉体)輪郭線が墨ではなく薄い朱色になっている。(続く)

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ジャポニスム11:北斎とジャポニスム [北斎・広重・江漢他]

hokusaimonet2_1.jpg 馬渕明子著『ジャポニスム』最終章が「葛飾北斎とジャポニスム」。まず著者は、開国後の日本紹介に『北斎漫画』が好んで活用されたと記す。

 当初は北斎の名も知らずに使用だが、その名の初登場は英国人評論家が1865年(慶応元年)の日記に「二冊の北斎の本を買った」の記録あり。そして1868年の新聞各紙の美術記事に詳しく紹介されるようになって、同年記事に「画家クロード・モネは北斎の忠実なライバル」なる記述があったとか。

 北斎の絵がどう使われたか。最初は『北斎漫画』の動植物図(モチーフの宝庫)が、絵付け陶器の装飾に採用。絵画で最も早く北斎をヒントにしたのがドガ。ドガの絵には『北斎漫画』からのポーズ転用が多いと図版比較例多数。

 小生は昨年二月にブログ十四回シリーズで北斎『悪玉踊り』を女性に描き直して全模写遊びをしたが、冒頭のトンビ・ポーズもドガ『カフェ・コンセール「アンバサドゥール」で歌うベガ嬢』になっているとの図版説明には驚いた。ドガ自身は、そこまで活用しながら、北斎の詳細を知らなかったらしい。

 また『富嶽百景』はバカラ・クリスタルが『竹林の不二』を採用。花瓶や皿へ『富嶽三十六景/神奈川沖裏波』の転用など多数例あり。モネの1865年『サン=タドレスのテラス』は『五百羅漢寺さざゑ堂』の構図、他に『蘆中筏の不二』などの構図ヒントになった作品多数。

 そんな十年程を経て「芸術家・北斎」が次第にクローズアップ。その最初が1880年(明治十三年)のエドワード・S・モース『北斎論~近代日本絵画の開祖』。単行本では1896年(明治二十九年)のゴングール『北斎論』(飯島虚心の著作を林忠正が翻訳して提供)、ミシェル・ルヴァン『北斎試論』(東京帝国大フランス法教師として来日)などでやっと巨匠扱い。(欧州の北斎論については荷風『江戸芸術論』に詳しい)

 また北斎の『富嶽百景』『富嶽三十六景』など、同一モチーフを多角的に捉える試み(連作)も、従来西洋画にはなく、モネの『サン・ラザール駅』や『睡蓮』などの連作を生んだとか。またジャポニスムに無縁だったようなセザンヌも、1890年代には「サント=ヴィクトワール山」連作を試みている。かく北斎は欧州絵画の堅固な伝統からの脱皮に大いに手を貸した、と著者は同書を結んでいた。

 さて著者・馬渕明子をネット検索すると、現在は国立西洋美術館・館長らしく、この十月二十一日より同館で「北斎とジャポニスム」開催。楽しみです。写真は弊ブログ「狂歌入東海道」シリーズの最初に〝ゴッホ筆致の広重〟を描いたので、今回は英泉描く北斎像模写+モネ睡蓮のコラージュ。次回は永井荷風『江戸芸術論』の再読。

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ジャポニスム10:クリムトの場合 [北斎・広重・江漢他]

klimt2_1.jpg 再び馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、グスタフ・クリムトの場合をお勉強。著者は「ウィーンでのジャポニスムは、パリに比して神話・歴史を題材の歴史様式が圧倒的に続き、日本美術が入ったのも遅かった。パリ万博六年後の1873年(明治六年)にウィーン万博で、絵画より工芸美術品中心だった」と説明。

 ウィーンは〝いわく〟在り気で、同著を離れて「ウィーンの歴史」を覗いてみれば、やはり十九世紀後半~二十世紀初頭に史上稀な〝文化爛熟=世紀末ウィーン〟があった。当時は「オーストリア・ハンガリー帝国」で多彩な民族性融合国家。従来の帝国体制凋落に従ってコスモポリタン要素を含んだ文化爛熟が盛り上がった。

 シュトラウス、ブラームス、マーラーなどの音楽家。グスタフ・クリムトは1862年(文久二年)のウィーン郊外生まれ。フロイトより六歳年下で、カフカより二十一歳年長。前述ウィーン万博の三年後に工芸学校入学。1879年(明治十二年)ころから弟や仲間と建築系装飾の仕事を開始。

 美術史館の中庭、ストゥラーニ宮殿の天井寓意画、皇妃別荘、劇場内装など。1897年(明治三十年)、アカデミックな芸術団体を嫌った人々で「ウィーン分離派」を形成し、三十五歳のクリムトが会長に就いた。

 その頃の彼は、どんな絵を描いていたのだろう。『ジル・ネレー翻訳画集』を見ると、フロイトの影響もあったのだろう、早くも裸体画中心のエロティスム追及。同年の寓意画「悲劇」を見れば、馬渕著には記されていなかったが、女性を囲む幅広額縁に「龍」が描き込まれていた。美術史館の壁画ゆえ、同館の日本コレクションを参考にしたと推測される。また描かれた女性は娼婦風とかで「分離派」ならではの作品。

 馬渕著では、1890年(明治二十三年)頃から後にウィーン分離派になる若い人々は日本文様(水流、渦巻、立湧、唐草模様、鱗模様、靑海波、家紋など)を多用で、平面化が顕著だったと指摘。

 クリムトと云えば〝金箔〟。その平塗りならば伝統的遠近法を覆す象徴。著者は「それぞれの文化で異なった〝ジャポニスム〟が生み出されるところも面白い」と指摘していた。小生はクリムト晩年の素描群を見れば、版画春画の影響大と思うのだが、いかがだろうか。

 写真は背景に東洋系カットが描き込めれたクリムト作品。モネ「ラ・ジャポネーズ」、ゴッホ「タンギー爺さん」と較べたくなる作だが、モネより四十年、ゴッホより二十九年遅い。

 なおアドルフ・ヒトラーはウィーン美術学校受験に失敗し、ヒトラーより一歳下でクリムトを師としたエゴン・シーレは同校入学で、師と同じく「エロス」を追求。世紀末ウィーンはなかなか奥が深そうです。(続く)

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