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ジャポニスム22:印象派の政経事情 [北斎・広重・江漢他]

 目下、日本ではお粗末政治話題で喧しいが、印象派の裏の政経状況を記した吉川節子著『巴里・印象派・日本』を読んだ。「通説の印象派=官展サロンに対抗、落選画家らの独自展覧会の出品者。批評家がモネ『印象‐日の出』を揶揄して〝印象派〟と命名」。

 著者はその「通説」は大違いと記して当時の状況説明へ。小生も同著を離れて当時のフランス状況をお勉強した。1789年フランス革命。絶対王政から共和制へ。(同年の日本は寛政元年。寛政の改革で浮世絵、戯作、狂歌が締められた。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦重が財産半分没収、恋川春町は自刃か、大田南畝は狂歌を辞めた)

 だが約十年後に共和制から再び王制復活。以後は紛争続き、1870年(明治三年)に普仏戦争(普=普盧西=プロシア=ドイツ)敗北。第二帝政崩壊で第三共和制へ。ドイツへの賠償金や財政赤字を克服後、1873年に王制派マクマオン元帥が大統領。1879年まで王制志向。未曽有の好景気を迎えるも、美術界は保守派画家中心。

 その最中、1874年(明治七年)四月に印象派第一回開催、会場はパリ・キャプシーヌ街三十五番。モネが前年に同地移住で「キャプシーヌ大通り」を描いて同展に出品。大繁華街での開催だった。

 第一回参加者は三十人。出品作は百七十点。三十人のうち十二人が、なんと官制サロンに同時出品。サロン無監査の年配実力者もいたし、モネは二十四歳で、ルノワールは二十三歳で、シスレーは二十六歳で、女性画家モリゾは二十三歳ですでに「官制サロン」入選済。

 第一回印象派展は通説「官制サロン」反抗・落選組の展覧会ではなかったらしいのだ。しかも好景気に少しでも高く多くを売りたい狙いがあったようで、正式名称も「画家、彫刻家、版画家など美術家による共同出資会社第一回展」。

 入場料1フラン(現在の千~千二百円)。全入場者数三千五百人。悪くない数字。モネ『印象‐日の出』は八百フラン(約百万円)売約など、どの作も高額売値。若く貧しい画家のイメージもない。

 だが翌年にフランス大不況。1879年1月に共和派大統領で共和制確立も金融大恐慌。第一回印象派のお買い上げ作品も暴落。株仲買人ゴーガンは年収三千万の生活を失って画家へ。高額所得者・画家らも低所得者へ。若き印象派の画家らは天才ゆえの貧乏ではなく、実際はバブル崩壊による貧乏画家へ。

 画家らはその後もフランス景気に、また王党派VS共和派(町絵師・北斎好き)に揺れつつ生きる宿命~。詳しくは同著をどうぞ。物事は両面を見ないと真実を見誤るらしい。

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