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カンディンスキー(6)絵画状況と欧州史 [スケッチ・美術系]

kandinskyhon3_1.jpg インプレッション、インプロヴィゼーション、コンポジション制作期は1910~13年頃。今回は同時期のパリの絵画状況、欧州史を俯瞰してみたい。

 カンディンスキーはパリの「サロン・ドートンヌ」に1904年から出品。1906年に大賞。1905年の同展でマティス「フォーヴィスム」が注目。1907年にはピカソが「アヴイニョンの娘たち」制作。だがマティスは抽象へ走らず(75歳からの切り絵コラージュは抽象っぽい)。ピカソもブラックも抽象へは向かわず。

 カンディンスキーがいたドイツでは表現主義(絵画、文学、映像、建築に主観的表現に主眼をおく運動)中心だったが、1914年(48歳)第一次世界大戦勃発。ドイツの対ロシア宣戦で中立国スイスへ。諸都市を転々後にミュンターと別れてモスクワへ帰郷。

 1917年、51歳で10代の二―ナと結婚。同年11月、ロシア革命でソヴィエト政権樹立。政治に距離を置くも「教育人民委員会」の造形芸術・工芸芸術部に参加。モスクワ国立自由芸術工房の長、絵画文化美術館・館長、芸術科学アカデミー設立の副総裁。彼の許に若いロシア・アヴァンギャルドの芸術家らが集った。

 だがカンディンスキーの「コンポジション」に比し、若い世代は次第に感覚性・芸術性を排した「コンストラクション」(工業製品に限定)志向。社会主義革命に奉仕する芸術優先となり、彼は1921年12月に再びベルリンへ戻った。

 そのドイツでは1918年「ドイツ革命」翌年にワイマール共和国(ドイツ共和国、1919~33年)誕生。その最中1922年にワイマール州立美術学校「バウハウス」開校で、招聘される。この時、56歳。

 同校は「すべての造形活動の最終目標は建築(Bau、バウハウスは造語)である」が設立宣言だが版画、彫刻、陶器、ステンドグラス、壁画、織物の工房も設けられ、カンディンスキーは壁画工房のマイスター就任。ステンドグラス工房にパール・クレー就任。

 同校は1924年にドイツ人民党の圧力で自主解散。翌年にデッサウ市立バウハウス開校。製品生産会社も設立で家具を生産。カンディンスキーやクレーは応用美術、課外授業で絵画も教えた。

 ここでのマイスターハウスは2連住宅で隣がクレー家。互いに影響し合わぬわけがない。だが1933年1月のヒットラー政権で「バウハウス」閉鎖。身の危険にカンディンスキーはフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 写真はフランソワ・タルガ著『WASSILY  KANDINSKY』(美術出版社)。バウハウス時代の「黒い随伴」(1924年作)が表紙になっている。

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カンディンスキー:コンポジション(5) [スケッチ・美術系]

composition2_1.jpg その3:コンポジション(composition)について。カンディンスキーは「インプロヴィゼーションと同じだが、今度は時間をかけ練り上げての表現。私はこの種の絵を〝コンポジション(作曲)〟と呼んでいる」とか。

 作例に1911年の「コンポジションⅣ」をあげる。画面中央に城砦を頂く青い山。中央の人物が持つ黑い長槍が画面を左右にわける。左側が戦闘場面で、右側が平和場面で右下に男女が横たわる。

 この作品には、抽象過程をうかがわせる「コンポジションⅡ」がある。同作より「Ⅳ」へ至る過程例として「Ⅱ」の部分模写を添えてみた。肩肘で寛ぎ横たわる男女、馬を駆る二人の騎士、荒波に呑まれる人々が描かれ、それが「Ⅳ」の表現に至っている。(あぁ、小中学だったか、具象をこんな風に崩して抽象画に仕上げる図画の授業があったと思い出した)

 カンディンスキーは、夜明けの薄明りのアトリエで目にした絵が余りに美しいのに涙し、後でそれが自分の描いたこの絵だと気付く。この時期の彼は恋人ミュンターと妻アーニャとの三角関係の窮地にあって、相当に深刻だったらしい。極めて鋭敏・繊細な精神状態だったのではと推測するが、いかがだろうか。

 ちなみに二人は1916年頃に別離。こじれにこじれた。1921年に弁護士が彼女へ連絡をとって彼の持ち物や絵を返却するよう要求するも、大半は「精神的ダメージへの補償」として拒否。(ミュンターその後は後述)。

 異性との激しく諍いの後は、可愛い女性がいい。同年51歳のカンディンスキーはモスクワへ戻ると、なんと10代のニーナと結婚。彼はとんでもない〝ロリコン親父〟になった。彼女は奔放で妖艶で軽薄(『僕はカンディンスキー』著者記述)だが、彼女は27年後の彼の死まで添い遂げたそうな。

 理論家、哲学者、偏屈、完全主義者、厳格教育者のカンディンスキーに秘められた裏の顔がチラッと伺えるも、私生活を秘すも彼の流儀。※参考資料は最後に記す。


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カンディンスキー:インプロヴィゼーション(4) [スケッチ・美術系]

improvisation2_1.jpg カンディンスキーの抽象画への道、その2:インプロヴィゼーション。彼はこう記しているそうな。「無意識な大部分は突然に成立した内面的性格をもつ精神過程の表現、つまり〝内面的な自然〟の印象。この種のものを、私は〝インプロヴィゼーション(即興、improvisation)〟と呼ぶ。

 作例に1910年「インプロヴィゼーションⅣ」を挙げよう。彼は子供時分に伯母から繰り返し聞いた中世物語を心の中に膨らませていたのだろう。絵は帆船が襲われるシーン。右下に死んだ馬か。大砲の砲筒があり、その上に射撃手が並ぶ。銃口先に連なる白煙。傾く帆船、必死にオールを漕ぐ人、左舷着弾の水柱。画面上は絞首刑の人々、血に濡れた赤い月、雷鳴が響いている。(写真は〝即席〟模写)

 「即興(インプロヴィゼーション)」とは云え、前作「インプレッション」に比して、この絵は作者内面で充分に発酵形成された映像だろう。心の奥の熟成画像の〝即興表現〟と捉えたらいいだろうか。

 彼は42歳の頃に「シュタイナーの神智学」(人間界は物質界、魂界、霊界の三つで~云々の神秘主義)に夢中だったそうな。その内容は知らぬが、心の中で映像を形作る訓練にはなったと思われる。小生だって、子供時分は心のなかで映像を浮かべる経験もしたかと思うが、今は耄碌して、そんな感性は失った。

 ドイツ中世物語にも興味なしだが、孫が遊びに来る度にせがむ絵本「おむすびころりん」物語を、こんな調子で描くことは出来るかも知れない。画面中央下にネズミの饗宴。上部に抜ける穴。穴の上は斜面で「おむすび」が転がって、爺さんと狸が走っている。右下に爺さんを待つ婆さん。左上に小槌と溢れ出た小判。左下に強欲な爺さん婆さん。そんな絵を描き上げれば、孫の心の奥と響き合えるかも知れない。だが、孫はカンディンスキーより断然ショアン・ミロの絵の方が好きだと言いそうだな。次は「コンポジション」ヘ。

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カンディンスキー:インプレッション(3) [スケッチ・美術系]

impressin3-2_1.jpg カンディンスキーの風景画は、次第に目に見える自然を解体し、色彩の響き合いに重点が移って行く。そうした過程で思索されたのが『芸術における精神的なもの』(1911年刊)。

 二十歳の頃に読んで難儀したので、再読したいとは思わぬが、彼はこう記しているそうな。

 ~実景から解放されたコンポジション(構図、構造、構想画)を描くことが目標になった。それは印象派によって壊された欧州の偉大な構想画(コンポジション)の伝統を、今度は〝神話・聖書世界〟から脱却して再興することだ。

 それは、次のように展開される。「内的ヴィジョンの直接的な表現(即興、インプロヴィゼーション)や、目に見える自然の解体(印象、インプレッション)が必要かつ大切。それには精神性かつ色彩と形体をめぐる綿密で持続性の省察も不可欠~」

 二十歳の頃に、こんな小難しい書と格闘していたとは。カンディンスキーは、かくして次第に抽象絵画へ向かって行く。1912年、46歳で初の個展をベルリンで開催。インプレッション・シリーズ、インプロヴィゼーションン・シリーズ、そしてコンポジション・シリーズ。

 まずはインプレッション(impression):外面的な自然から受けた直接的印象。これが素描的・色彩的な形態をとって現れるもの。この種の絵を私は「印象、インプレッション」と名づける。

 作例に1911年の「インプレッションⅢ(コンサート)」を挙げてみよう。彼は友人と共に室内楽コンサート(アルノルト・シェーンベルクの弦楽四重奏第二番。別の惑星の空気を感じるような風変わりな作品)を聴いた。聴衆は驚き笑いヤジを飛ばしたが、彼には天啓のように響いたそうな。

 その感動を二日後に一気に描いた。黒く大きなグランドピアノ、ピアニスト、聴衆、右斜めに傾いた構図、白い縦線は不協和音か。

 カンディンスキーはチェロとピアノが得意。音楽を聴くと、視覚的な感性が震えるそうで、音楽は画家として欠かせぬ要素。同作を描いた後で、彼は興奮して作・演奏者に手紙を書いた。面白そうだから〝即興〟模写をしてみよう。

 おっと、数ヶ月使っていなかった「ホルベインガッシュ」半分が凝固していた。比して10年も前の「ニッカーガッシュ」が使えたり。顔料次第で凝固按配が違うのか。あたしは〝インプレッション・インプロヴィゼーション、コンポジション~〟と呟きつつ、新宿・世界堂まで「ターナーアクリルガッシュ」(安価)を求めに往復ウォーキングに相成候。

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カンディンスキー(2)まずは具象画 [スケッチ・美術系]

kandinskykao9_1.jpg 二十歳で読んだカンディンスキー著作は、理解に難儀して〝人となり〟まで気は回らなかった。今回のチラシ『商人たちの到着』を観て、「抽象画の前に、こんな絵を描いていたんだ」と驚いた。幾点ものスナップ写真から容姿も知った。ショップで購入の松本透著『もっと知りたいカンディンスキー』や図書館本より、まずは彼の経歴調べ~

 1866年(慶応2年、2年後に明治)、モスクワ生まれ。黒田清輝と同い年だな。幼児期に両親離婚。ドイツ系伯母に育てられる。叔母は彼にドイツの伝統的童話をよく話した。1892年(明治25)、モスクワ大卒。経済学と法律を学び、同大法学部助手の時期(1896年、30歳)にモネ「積みわら」を観て、画家を志し、ミュンヘンへ移住。

 ちなみに黒田清輝は18歳で法律を学ぶべく渡仏も、20歳で画家志望に転向。1896年に東京美術学校に西洋画科発足で教師に。さて30歳のカンディンスキーは、画学生に混じって画塾でデッサン開始(ピカソのデッサンは秀逸も、彼のデッサン力は?)。ミュンヘン美術アカデミー2度目?の入試で合格。33歳。インテリゆえ考察・分析力は鋭く、旧来授業に疑問。芸術集団「ファーランクス」を結成。展覧会自主運営や画学校も開設。当時はどんな絵を描いていたのだろうか。

 「木版画」と「彩色ドローイング」とか。「木版画」はドイツ中世騎士物語(幼児期に叔母から聞いた童話の数々。また改革へ向かう画家をも託して)。「彩色ドローイング」は平たく言えばチラシ系題材で短い筆致の具象画。1904年からパリの「サロン・ドートンヌ」に出品。1906年に大賞。大学卒業頃に従姉妹の妻・アーニャ(1911年に離婚)と結婚していたが、当時は画学生の生徒ガブリエール・ミュンターが恋人(1914年に別れ)。

 ドイツは当時「ユーゲント・シュティル」(アール・ヌーヴォー要素を色濃くした絵画からデザインまでを含めた考え方)や、「ミュンヘン分派派」(絵画を建築の一部と捉えた考え)の動きがあって、それらに影響を受けたらしい。

 題材=ドイツ中世舞台、技法=テンペラ画(生卵使用)、短い筆致~これらを選んだのは、実景から離れて自身の色彩感を自由に描きたくての意もあったか。次第に眼に見える〝風景解体〟で、色彩を自由に構成する抽象絵画傾向へ。1910年、水彩による最初の抽象画を描く。〝具象から抽象〟へ変わって行く過程が、どことなく微笑ましい。

 この時期に各国各都市を旅行。生活は?と心配すれば、なんと彼はモスクワに7階建てアパート所有。裕福な茶商人だった父の遺産かしら。〝生活なら召使がやってくれる〟とまで言わぬが、彼に生活の苦労は無縁で芸術的思索に耽溺か。

 1911年、45歳で『芸術における精神的なもの』刊。似顔絵は47歳の写真から。鼻眼鏡。「彼の写真から画家をイメージするのは難しい。行政長官か哲学教授か、あるいは医者を想像させる」(フランソワ・タッルガ著)

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汐留でカンディンスキーと逢う(1) [スケッチ・美術系]

kandinskytirasi1_1.jpg 「今日は何をしようかしら」。隠居ってぇのは、そんな日々です。「そうだ、パナソニック汐留ミュージアム『カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち』を観に行こう」。

 二十歳の頃に、某大・応用化学科の実験白衣を脱ぎ捨て、美術塾へ通った時期がある。そこはイラストなど描けば罵倒される雰囲気で、教科書代わりが59年刊カンディンスキー『点・線・面~抽象芸術の基礎』(下写真の左)、58年刊『抽象芸術論』(下写真の右)だった。

 難解なり。当時は「バウハウス」と「イラスト」両派があって、師は「バウハウス派」だったか。かくしてイラストを一度も描かずに、グラフィックデザイナーとして社会人になった。

 久し振りに眼にした「カンディンスキー」の名に、懐かしさを覚えて同展へ。ポスターもチラシ(写真)も『商人たちの到着』。カンディンスキーが具象画を描いていたとは知らなかった。胸踊らせて会場に入ったが108点中、カンディンスキー作は僅か18点だった。

 ゆえに図版は買わず、ショップで「カンディンスキーのガイド本」を買った。二十歳の時に読んだのは、函入りハードカバーで活字中心。このミニ画集が、当時のカンディンスキー概念を変えてくれそうな気がした。

 同書を数頁めくると、昨年に小生が新宿御苑でスケッチした絵と、まったく同じ構図の絵『サン=クルー公園~陰暗い並木道』があって愉快なり。お閑な方は同題画像探索と、弊ブログの新宿御苑スケッチ「プラタナス並木を描く」を見比べて下さい。

kandinsky2mai.jpg さて「汐留」は電通、日テレ、汐留シティセンターなど街は様変わり。だが「新橋駅」よりはサラリーマンの街。定食屋で「サンマ定食」を食いつつ、電通のガラス高層ビルを眺めながら「過労死するほど働いている青年はいないだろうな」と心配した。

 小生、カンディンスキー没年の生れ。大学の実験白衣を脱ぎ、彼の著作を読んだ。カンディンスキーはモスクワ大卒で同大法学部助手になるも、モネ『積みわら』を観て画家を志した。30歳だった。

 生きる道は幾つもある。「決して死ぬほどの無理をしてはいけません」。小生、好き嫌い激しく生きて来た結果が貧乏隠居だが、昔も今もそれなりに愉しく暮らしている。

 若い時分を思い出したので、いい機会ゆえ、二十歳の頃に読んだカンディンスキーを、少しだけ再勉強してみようと思った。(続く)

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「大島動物公園」脱走物語 [週末大島暮し]

osimakoen1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」最後は「大島自然公園」。この写真は水鳥らの池だろうか。小生、閑ゆえ<昔の「島の新聞」>から〝動物公園脱走物語〟を記したことがある。

 まずは「熊脱走物語」。昭和11年5月17日早朝。壁に立てかけ忘れた梯子から子熊3頭が脱走(熊は木登りが得意)。警察・消防団が大捜索も同日未発見。18日に公園付近で1頭捕獲。同日夜に公園から3里は離れた御神火茶屋隣接のラクダ小屋で1頭捕獲。20日、野増村の〝かよばあさん〟が大いびきの熊を発見して捕獲。野増から泉津への帰還沿道は拍手喝采。

syowa38kuma3_1.jpg 昭和11年10月4日。再び子熊3頭脱出。19年後の昭和30年12月26日の朝日新聞に大熊目撃の相次ぐの報に、園長は「昭和11年脱走の2頭捕獲も、逃げた1頭だろう」。さらに昭和43年10月、大島猟友会3人が落花生畑の大熊を射殺。昭和11年脱走熊なら35歳。射殺せずも長寿全う間近だった。

 次にタイワンサル。昭和17年の大島公園から数匹脱走。昭和39年の「島の新聞」に7~80頭繁殖か。平成14年の朝日新聞によれば推定2千頭。平成22年1月の「asahi.com」では4千頭に繁殖。

 次はタイワンリス。同じような経緯で脱走・繁殖。現在は計測不能の数万頭とか。林の木が揺れていれば、そこにリスがいる。林の中でガァガァの鳴き声がすればリスだ。平成17年に特定外来種に指定。

 目下はキョンが話題。昭和45年の台風で10数頭が脱出。目下は1万5千頭とも。三原山樹林でも我がロッジからもキョンを見る。今秋に捕獲チーム名「キョンとるず」、ロゴマークも決まったそうな。

simasaru2_1.jpg 別の動物話題を二つ。中西悟堂『定本野鳥記』第1巻「放飼編」を読んでいたら、家や部屋ん中で多数大型野鳥を飼っていたが、同編末に「今は禽舎はガラアキ。ほとんどの鳥を、東京湾汽船の林社長の懇望で伊豆の大島へ移してしまった」の記述。昭和10年記で、同年は動物公園開園。

 さらに驚いたのがWeblio辞書。「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集められた鷲、鷹、雉などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥と記されていた。本当かしら。これは裏をとっていない。

 最近の動物公園は素敵に楽しく改修・拡充されている。東京都立大島公園は植物縁・椿園/動物園/ハイキングコース/海のふるさと村で構成。同サイト最新ニュースには「レッサーパンダの赤ちゃん公開開始」「ラマの赤ちゃんが産まれました」と楽しそう。

 300円で入手の「昔の絵葉書」だが、たっぷり楽しませていただいき、これにて終了。新聞切り抜きはクリック拡大で本文読めます。

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「長根浜」の象とライオンと羊と [週末大島暮し]

naganehama1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に「長根浜公園から三原山を望む」写真あり。同公園の為朝顕彰碑は紹介済だが、今はゴジラ像、中村彜(つね)像などがあり、水着混浴露天風呂「浜の湯」、道路向こうに食堂・プール併設の「御神火温泉」がある。

 この写真で眼についたのが赤屋根の東屋。公園から野田浜へ向かう「サンセットパームライン」沿いに同じような東屋が幾つかある。同ライン開通は「黒潮小屋」竣工時と同じく「島の新聞」に大仰な見出しで報じられていた。「世界第二の人口を誇る大東京六百万人の健康と行楽のためのハイキングコースとして開通」。なんと昭和12年開通で、昭和38年の大島循環道路開通より26年も前のこと。この絵葉書は昭和25・26年噴火後のもの。その当時からこの東屋は建っていて、前回紹介の縦長写真のアンコさんが寄りかかるのも同東屋の柱だろう。今は「浜の湯」で撤去されている。

 第二に注目は、松林奥の赤い建物。なんだろう。伊豆大島「懐かしの写真集」を見たら「移動動物園を長根浜公園に設置し、象やライオン等、島の人達が普段見ることの出来ない動物を披露した」とあった。ホントかいなぁ。

 調べたら確かにそうで、昭和26年5月に上野動物園「移動動物園」のアジア象「はな子」と雌ライオンが、東海汽船の貨客船「黒潮丸」(昭和22年進水)で大島にやって来て一ヶ月滞在。その間に「はな子」散歩中に脱走騒ぎもあったとか。

 ネットを丹念に探索すると、アンコさんが子象に乗った当時の写真が「東京ズーネット、井之頭自然公園」サイトでヒット。「はな子」は昨年6月末に69歳で長寿全うした。また昭和30年刊の岩波写真文庫「伊豆の大島」に、長根を背景にした草原(公園)に〝羊の群れ〟写真があった。昭和10年の「島の新聞」に動物公園の孔雀と羊の群れの記述があり。動物園から連れて来て撮ったのかも知れない。

 なお「長根浜」の名は、眼下の海に突き出た溶岩岬=長根から。室町幕府成立=1338年噴火熔岩で、当時は先端まで大地で、波に浸食されて熔岩だけ残った形とか。ってことは昔は西海岸一帯が200㍍先まで大地だったということか。話題豊富な長根浜公園です。

 現・長根浜公園と云えば「浜の湯」。昭和61年の大噴火で、元町地区の水源井戸の温度が上昇して温泉になったとか。大規模「御神火温泉」に比して「浜の湯」の常連古老らは〝効きが断然違う〟と絶賛。温泉から望む夕陽は絶景だが、振り向けば三原山で、4年前の土石流の痛々しい傷跡(山肌)が、やっと緑になってきた。

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「アンコさん」とジオパーク [週末大島暮し]

anko1_1.jpg 前回記した坂口安吾『消え失せた沙漠』を読むと、門外漢ながら観光施策を考えてしまう。同随筆は三原山噴火の書き出しだが、島の魅力考察でもあった。

「東京から七時間、伊東から二時間の大島だが、風俗習慣がガラリと変わっている珍しさがある。内地を一昼夜特急で走っても、これほど習慣の差のあるところはない」(原文を圧縮引用)

 つまり「三原山(ジオパーク的関心)+アンコはじめの異風習=大島人気」と分析・指摘していた。アンコ風俗、祭神、遺跡出土品、祖先(ネイティブ)、島言葉、古民家、タメトモさん、水事情、酪農などをそれぞれ考察して結論へ。

 「〝旅〟です。大島にはそれがある。それが味わえる。村のアンコたちと噴煙を見ているだけで、旅行者は〝旅愁〟を味わえる。日本にもそんな島があるということ」

ankoyuhi1_1.jpg その指摘通り、大島観光客は急上昇で昭和48年に83.9万人のピーク。同年オイルショックもあってか急降下を開始。それは昭和61年の三原山噴火まで続いて約40万人。離島ブームで少し上昇した平成3年にミニピーク(約46万人。小生ロッジ建造年)。

 後は現在までダラダラ下降線で今は18万人ほど。推移グラフを見ると内輪山から外輪山、そして海まで下る等高線のようであります。(参考:「伊豆諸島・小笠原諸島観光客入込実態調査報告書」「大島町統計資料」)

 現観光施策を部外者の眼でみれば「補助金頼りの格安展開+ジオパーク展開」は〝下降現状の持続可能展開〟のように見える。ジェットフォイル艇90分も旅を日常化した。では〝消え失せた異風習〟に代わるものは何か。答えがないのかも知れない。超アイデアが出るか、はたまた自然変化が起こるか。それまでは観光客減+人口減を併せて、下降線が〝海岸線〟へ迫って行くような気がしないでもない。

 小生は島では外食もせず会食もせず、ただ静かにのんびりと過ごすのが何より。なのに実際はボロロッジのメンテナンス、雑草刈りで疲労困憊になる。ゆえに疲れを癒す夕陽見つつの「浜の湯」がいい。ボロでもマンションにはない木の家の心地よさがいい。静かな夜に見つめる薪ストーブの火がいい。そうか、「昔の絵葉書セット」にはない〝島の三至福〟だなと気付いた。

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「三原山」消え失せた砂漠 [週末大島暮し]

miharayama2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に、二つ折りパノラマ写真「三原山全景」があった。この写真を前に考え込んでしまった。小生が知る風景とはかなり違う。焦げ茶の溶岩、黄色の砂漠。古い絵葉書ゆえの褪色か、はたまた砂漠風に彩色修正が施されたものか。

 本当はどんな色なのかしら。昔の写真を探し見るもモノクロばかり。小生の昭和32年の大島遠足のクラス写真も白黒で、カラー写真は未だ普及していない。

 写真探しを諦めて三原山噴火史を探った。近世では天和4年(1684)~元禄3年(1690)の7年間に渡った噴火。安永6年(1777)噴火。そして260年振りの昭和25,26年(1950~51)大噴火。これで風景が一変した。

miharakako2_1.jpg 当時の様子を坂口安吾『消え失せた沙漠~大島の謎~』(「文藝春秋」昭和26年7月1日号掲載)が書いていた。

 「正月元旦に大島上空を飛行機で通過したとき、内輪山の斜面を溶岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていただけで、くすんだ銀色の沙漠が広がっていた。(略)いわば海の上へスリバチを伏せたようなケーキを置き、その上に白クリームをかけ、その中央にチョコレートを二本半の線で垂らしたように見えた。火山の凄味はなく、夢の国のオモチャのように美しいものであった」(原文を短くまとめた。以下も同じく)

 「そんな風景が噴火で一変した。三月と四月の大噴火で広い沙漠の半分を熔岩が埋めてしまった。大変なことです。(略)元禄以来二百六十年振りという大爆発。(略)この熔岩が風化して再び沙漠になるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が昭和二十六年(1951)に失われて熔岩原となった。今後は熔岩原が三原山の新名物で、再び沙漠が名物になるには百年もかかるとすれば、これは一つの歴史的爆発に相違ない」 改めで同随筆題名は「消え失せた沙漠」。またこの絵葉書もそれ以後の製作とわかる。

 三原山はその後、昭和32年(1957)に爆発し、昭和61年(1986)11月15日に火口噴火。一週間後に〝割れ目噴火〟で溶岩が元町まで迫って同21日に全島民が島外避難。

 小生が知っている三原山・表風景は平成3年から。平成8年(1996)秋に火口周辺まで開放されて遊歩道が開通。その時に〝陶芸の野焼き〟をし、遊歩道を歩いて火口を覗いた。

 三原山は噴火の度に景色を変えていると改めて知った。15日が全島民避難の大噴火から31年目。噴火は40年周期とも。次に島へ行ったら「火山博物館」を訪ねて、昔の三原山の様子を、また今後の心構えをしておこうと思った。

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「橘丸」船も島も有為転変 [週末大島暮し]

tatibanamaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」より五枚目は「橘丸」。煙突の流線型が特徴か。愛称〝東京湾の女王〟。写真は元町港。昭和十年(1935)霊岸島から初就航。岡田堤防完成(昭和十五年)まで交通船が沖合まで往復。

 昭和十三年に海軍徴傭で病院船に。同年に中国軍襲撃で浅瀬座礁・横転。仮修理後に日本で本格修理。翌年解傭で東京湾汽船に復帰。だが観光客少なく日清汽船へ傭船も、「葵丸」が乳ヶ崎で座礁・沈没(昭和十四年十二月)で、再び大島航路に復帰。

 昭和十八年、陸軍徴傭で病院船。「橘丸事件」(病院船ながら部隊、武器輸送で千五百人捕虜)。戦後は復員船。昭和二十五年二月に東海汽船・大島航路に復帰。昭和四十四年「かとれあ丸」就航で神津島・式根島航路へ。昭和四十八年「さるびあ丸」就航で引退。

ensoku.gif なんと波乱の〝船歴〟よ。小生は昭和三十二年(1957)に中1の秋の大島遠足で「橘丸」に乗っている。記憶皆無も背景は三原山、両脇にアンコさんのクラス全員写真。

 町史をみれば第一回椿まつり、小涌園ゴルフ場完成、波浮港大火(十六戸焼失)の翌年。遠足年の十月に三原山噴火で火山弾で一名死亡、重軽傷五十三名。そして遠足翌年が三原山・山津波(狩野川台風)で元町五十五戸全壊。本当にそんな時期の災害の間隙をぬった遠足だったかと首をひねるも写真記録に間違いはなかろう。

 船のみではなく、大島も波乱の連続だな。〝自殺名所〟という変な要素を含んだ三原山人気、離島ブーム、元町大火も凄く、全島避難を含む幾度の三原山噴火、土石流などの大災害など。今は観光客減、人口減に直面しているか。小生もフリーランス人生で仕事は荒波サーフィンの如しも、平成三年に島ロッジを建てるとは思ってもいなかった。

 振り返れば島へのアクセスも激変だった。羽田発YS-11、ジェット機B737-500、双発機DHC8-300。調布発のアイランダー機。船は夜発の大型船「かとれあ丸」「さるびあ丸」。それでは愛犬同伴が厳しく車で熱海発「シーガル」へ。今はジェットフォイル艇。空便はジェット機に備え空港大拡張も、利用者少なく羽田便消滅。

 船史、島史、アクセス史、ついでに我が人生も「有為転変」。明日のことは誰にも分らず。今をそれなりに一生懸命生きること~。

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「行者窟」伝説に満ち満ちて~ [週末大島暮し]

bakinbun1_1.jpggyoujyakutu2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」から、次は「行者窟」。小生、島通い27年も未だ訪ねず。この機会に〝役小角〟も少しお勉強。

 まず馬琴『椿説月張月』を読んでいたら、「行者堂」言及の一節あり。江戸の読本なれど楷書版字で実に読み易い。その一節を原書通りに筆写してみた。

 伊豆國は、いにしへより罪人を流さるゝ地なれど、大嶋へは文武天皇元年、役小角を配流されし、これはじめ歟(か)。その以前の事傳らず。今も小角が往ける嵒窟(いはや)、泉津といふ村にあり。嶋人これを行者堂と称して、常に詣るとなん。

 役小角(えんのおづぬ)のお勉強に藤巻一保著『役小角読本』を読む。信頼できる史料は死後百年後の797年刊『続日本紀』と822年『日本霊異記』のみとか。その『続日本紀』も史実は一節。

 丁丑(ひのとうし、文武三年〝699〟五月二十四日)、役君小角、伊豆嶋に流される。初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師なりき。後にその能を害(ねた)みて、讒(しこ)づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配(なが)さる。

 次から早くも伝聞。「小角能く鬼神を使役して、水を汲み薪を採らしむ、若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る」 史実はそれだけ。しかも亡くなって百年後の記述で、どこまで信用していいのやら。史実はこれにて終了。折角ゆえ〝虚構〟も少し遊んでみる。

 没後、約八百年の室町末期に、一冊にまとめられた最古の小角伝『役行者本記』あり。著者は同記より経歴を要約。舒明六年(634)、葛木上郡茅原(現・奈良県御所市)生まれ。父は高賀茂十十寸呂(たかかもとときまろ)、母・白専女(そらとうめ)。賀茂氏の氏神・賀茂大神の祭祀、呪術を司祭する家系。

 十代、二十代は家職の知識習得。その合間に山に籠って修行。三十代に入ると人間界の一切を捨て、山中籠居で過酷な仙人修行。日本最初の神仙道家になる。山に籠って三十年余の文武二年(698)、朝廷が全国各地に鉱物資源調査を命じる。朝廷のお膝下の大和國調査に小角に白羽の矢が立った。小角は命を断って朝廷の怒りを買った。捕縛の内通者が弟子の韓国連広足。かくして文武三年(699)に伊豆大島へ配流。

 絵葉書の「行者窟」で昼は修業し、夜は富士山へ飛んだそうな。二年後の大赦で故郷・茅原に帰り、以後は諸国の峰々を巡ったので、各地の霊山幽谷に行者の足跡が残された。著者は巻末に全国99カ所の霊地を紹介。小生自宅近くの高田馬場「穴八幡」の別当「放生寺」にも、子犬が潜れるほどの窟に〝役行者〟由来が記されていたりするから、窟=役小角と思っても過言ではないかも。

 さて島の「行者窟」は間口16m、奥行24目m。本人作と伝わる像もあり。都指定旧跡。毎年6月15日の「行者祭」は無形民俗文化財。島内外の信者が「護摩供養」をし、十年ほど前までは洞窟手前の浜で地元・泉津小の子供らの奉納相撲もあったとか。平成三年より落石危険で行者窟への道は交通止とか。

 今、行者窟へ行けば、配流699年から現2017年までの1318年の時空を一気に飛ぶことになる。そう、ここから富士山へ飛ぶなんぞは朝飯前のこと。大島は伝説の島と改めて認識です。

 追記:「大島公園」から下って海岸遊歩道へ。「サンドスキー場」跡の先が行者浜で、平成6年(1994)に「行者海岸トンネル」(500㍍)が開通。トンネルを抜けると「海のふるさと村」。緊急時や職員用トンネルらしいが、車は通れぬも自転車走行の写真が幾点もアップされていた。自転車は可らしい。島は狭いが、知らない場所も多い。

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「源為朝」を神田の茶店で~ [週末大島暮し]

hatimanjinjya_1.jpg 前回の続き。「神田古本市で『保元物語』を探そう」と思った。岩波書店刊の日本古典文学大系『保元物語 平治物語』を200円で入手。近くのタリーズ店でコーヒーを飲みつつ頁をひも解いた。

 「此為朝をば首を刎らるべきか、禁獄せらるべきか、如何有べきと様々也けるに~」。「遠流にてこそあらめ」とて、伊豆の大嶋へ流しつかはさる」。そして「以後弓を引せぬ様に相計べし」。かくして左右の腕をのみにて打放てぞ抜たりける。 

 「伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人共せず。思様に振舞ければ、預(あづかり)伊豆国大介、狩野工藤茂光もてあつかひていかゞせんとそ思ひける」 ここで終わっていた。何度も読み返したが、為朝の記述はここで終わっていた。

 同書は「金毘羅宮所蔵本」で、後に多くの流布本が出た。同書には小活字で付録「宮内庁書陵部蔵本『古活字本 保元物語』も収録。それを読むと、為朝が湯屋で真裸のところを捕まって「伊豆大島へながされけり」と出てきた。すでにフィクションが膨らんでいる。まぁ、そこから読んでみる。

 「我清和天皇の後胤として八幡太郎の孫なり」と大島を菅領し、五島をうちしたがへし。十年過ぎ、白鷺が飛んで行くのを見てはや船をだして鬼ヶ島へ。彼らを配下に。これを聞いた後白河院がおどろいて茂光に命じ五百余騎、兵舟二十余を率いて大島へ討伐に」

 だが為朝は、無駄な殺生を嫌って念仏を唱えるが、そこに一陣の舟が迫ってきて矢を射った。沈む舟から兵らが他の舟に移るなどを見て「保元の時は一矢でおほくの兵をころした。あぁ、南無阿弥陀仏」と唱えながら家の柱を後ろに腹をかき切った。「つゐに本意をとげず三十三にして自害して、名を一天にひろめけれ」で終わっていた。

tokyokokurituhaku_1.jpg そして『保元物語』から587年後、江戸は文化4年に馬琴『椿説弓張月』。「保元物語」の優れた武将・為朝の末路が甚だ悲惨だとして、大島で死なず琉球に渡って大活躍の椿説=珍説物語を創作。これが大当たり。浄瑠璃、歌舞伎、簡易読物、錦絵などになって大普及。馬琴の勧善懲悪、道義心、士気高揚を為政者らも利用したりで、大島の「為朝顕彰碑」もその一つかも。

 なお馬琴『椿説弓張月』最後に「為朝神社并南嶋地名辨畧」の項あり。全国の為朝神社が挙げられていた。大島に関しては~「和漢三才図会絵巻の六十七、伊豆国の條下に云(いわく)為朝社は大嶋にあり、祭神鎭西八郎為朝云々。大嶋の為朝の社あること、いまだ詳ならず」と記されていた。

 大島・元町の「為朝神社」(頭殿神社)は藤井家の氏神で神事は十月。岡田港の村に「八幡神社」(写真上)あり。同神社の御神体は為朝が配流の際に奉じた「九重の巻物」。「開かずのお箱」に収められ、開けたら眼がつぶれる。毎年1月15日に正月祭。為朝がテコ(梃子)で溶岩を取り除いた縁起から「天古舞」が奉納されている。

 写真下は『椿説弓張月』より国芳描く「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(東京国立博物館蔵/研究情報アーカイブスより)は、為朝が清盛を討つべく水俣の浦から船出をするも、荒天で転覆瞬間に讃岐院使者と称する天狗らに救われ、紀平治が抱く舜天丸(すてまる、後に琉球王)も沙魚(わにざめ)に救われる図。

 史実(現実)はさておき、戯作者も絵師も長屋の庶民も〝想像力豊かな世界〟を共有して愉しんでいる。これを〝飛んでいる〟と解釈すれば、次の絵葉書「行者窟」へ入りやすい。

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「源為朝碑」伝説の大島 [週末大島暮し]

tametomohi2_1.jpg 興味や出会いなしだと、スルーして無知のままの例も多い。昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットに「源為朝碑」と「行者屈」あり。無関心だったが、いい機会ゆえお勉強。まずは「源為朝」から。

 源為朝は保元1年(1156)「保元の乱」の登場人物。後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇の白河殿を襲った乱。上皇方の源為義・為朝父子は、父が打首で為朝は大島に配流。史実としては概ねそこまでか。

 鎌倉時代の承久2年(1220)頃(年代不詳)に作者不詳の軍記物語『保元物語』が刊。「保元の乱」はじめの武勇は詳細記述も、捉えられた後は、弓が引けぬように肘を鑿で抜かれた。「為朝は伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人ともせず」で、伊豆国を預かる狩野工藤茂光も「あつかひかねる」で終わっている。島での暮し、鬼ヶ島などの詳細は記されていないとか。(次回に『保元物語』を読み、この辺を改めて記す)

 江戸は文化4年(1807)になって曲亭馬琴が、武将末路がそれでは気の毒だと、万巻の書を看破して膨らませた『鎭西八郎為朝外伝 椿説弓張月』(挿絵は葛飾北斎)の前篇を刊。計5編29冊。琉球でも大活躍の椿説=珍説、為朝外伝=正史外の物語に仕上げた。

tametomoya2_1.jpg さて、絵葉書「為朝顕彰碑」(現在は露天風呂〝浜の湯〟管理棟前にある)には、何が記されているのだろうか。「町史」によると大正8年建立だが、摩耗して解読できぬが「為朝公の事蹟を世に伝え、英雄の霊を慰め、更には島の男子の雄心を鼓舞するため」の碑文とか。

 島には為朝が祭神の岡田八幡神社、為朝神社あり。その神事を含め椿説・為朝が満ち満ちている。また島の娘と所帯を持った男性を〝為朝さん〟と云うそうな。加えて「役小角」他にも伝説があって、島民はそれらを上手に語れなくてはいけない。

 写真下は北斎の挿絵。為朝が射った一本の矢が、先陣・忠重の討伐船を撃沈する場面。島民にこの画を見せれば、血沸き肉躍る説得力で語ってくれよう。島民は〝大嘘上手〟で誰もが馬琴さん、北斎さんなのだ。(と記し、そうだ神田古本市で『保元物語』入手を、と思い立った)。

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