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司馬江漢11:西遊旅譚と西遊日記 [北斎・広重・江漢他]

kunouzan1_1.jpg 天明6年に田沼意次の老中罷免。松平定信の浮世絵、戯作、異学(朱子学の他)などを締め付けるイヤな時代が始まった。江漢はそんな江戸に背を向けるように天明8年(1788)4月、42歳で念願の長崎へ旅立った。

 3年予定も、丸1年で江戸へ帰ってきた。その絵日記〝西遊もの〟を読む前に、心得ておくことがある。江戸に戻った寛政元年~2年(1789~90)頃には、旅の絵と文をまとめた『西遊旅譚』完成も、出版ままならず刊行は10数年後の享和3年(1803)になった。

 寛政6年(1794)に全5巻の版完成も、第1巻に「久能山之図」(静岡県・日本平辺り)に東照宮が描かれていて絶版命。同絵は海際に聳える山にジグザク階段が山頂まで続き、頂きに五重塔や社。問題ありの絵に思えぬが、そこは家康埋葬の東照宮(埋葬翌年に日光へ改葬)。「寛政の改革」がそこまで厳しかったってことだろう。

kunouzan2_1.jpg 文章は「府中より東の方三里久能山あり、海を望て山俄に高し、石段十七曲斜に登る、左に五重塔、唐銅の鳥居入て正面本社、右に経蔵堂、御廟は頂に有、扨此山を下りて一里余行て八部と云所十二景あり」

 東海道は「清水」から西に真っ直ぐも、江漢は海岸線(現150号線)を歩いたか。雪舟描く『富士三保清見寺図』の絶景を見て、描きたかったと推測する。「久能山之図」さえ描かなければ~と思うが、お上は何かと難癖をつけたような気もする。

 なお、この絶版は『司馬江漢全集(一)』に収録、「序」の日付も寛政甲寅(寛政6年)五月。ゆえに「久能山之図」も掲載。挿絵も大量135図で圧巻です。問題の絵を削除し、各地名士らとの交流記述も削除した『画図西遊譚』全5巻(享和3年・1803年刊)は国会図書館データベースで公開。

 そして69歳、己の「死亡通知書」配布後に同旅行を懐かしく思い出し、絵と文を改めた『西遊日記』6冊を清書。この自筆本、なんと大正5年(何故か陸軍士官学校書庫で)発見まで眠り続け、昭和2年に初刊行。

 参考に「久能山」の次に掲載の駿河湾を眼下に富士山眺望の両方の絵をアップ。絵上は『画図西遊譚』(第1巻のコマ番号16)が銅版画を意識してか、鋭く短い筆致の風景画。絵下は国立博物館蔵アーカイブス『江漢西遊日記』(本文17P)は柔らか筆線と濃淡の絵。「久能山観音寺ヨリ富嶽ヲ望図」が、お上に忖度して「八部山ヨリ眺望ノ図」になっている。

 この両絵と雪舟「富士三保清見寺図」、江漢の寛政11年作の油絵「駿河湾富士遠望図」を併せ見るも一興。むろん各「西遊もの」併読がお薦めです。

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司馬江漢10:『蘭学事始』概要Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

rangakukoto_1.jpg 杉田玄白は4年間で、原稿書き換え11回。前野良沢は蘭語の完璧解釈が目的だが、玄白は一日でも早く正しい解剖知識をもって治療に役立てたく『解体新書』を刊。

 前野良沢は蘭語勉強に生涯をかけ、中川淳庵は海外の物産研究へ。玄白の許に何度も質問状を送った奥州一関の建部清庵と玄白の往復書簡は『和蘭医事問答』にまとめられた。

 清庵は老人ゆえ門下の大槻玄沢を江戸へ上らせ、玄沢は先輩らに学んだ後に長崎へ。通詞宅寄宿で勉強後に江戸で『蘭学階梯』を刊。新井庄十郎は長崎の通詞の養子だったが、源内の許へ。後に福知山侯の地理学の手助けをした。宇田川玄隋は秀才で根気もあって『内科撰要』全18巻を刊。

 京都の医者・小石元俊は大槻玄沢宅に同居勉学後に、京都で蘭学を広めた。高橋宗吉は玄沢に入門後、大阪に戻って医者になって蘭学を広めた。山村才助も玄沢に入門後、新井白石『菜覧異言』に新知見と訂正を加えて全13巻を刊。

 石井恒右衛門(庄助)は長崎通詞の養子になって馬場清吉。定信侯は彼にドドニュース『本草書』を和訳させた。彼はまた『ハルマ辞書』も翻訳。桂川甫周は秀才でオランダのことは概ね通じて名声広く、将軍より和訳御用を承っていた。

kaitaikokkaku_1.jpg 稲村三伯は玄沢門下で蘭学を学び、全13巻の蘭日辞書『江戸ハルマ』を編纂。宇田川玄真は玄沢門下から甫周の塾で学び、杉田玄白の養子になるも放蕩が過ぎて離縁。その後に『医範提網』を刊。行いが改まったので玄白と昔通りの間柄になった。

 大槻玄沢は将軍家御所蔵の蘭書和訳を命じられた。玄真も同様拝命を受けた。オランダ通詞・元木栄之進の弟子・志筑忠次郎はオランダ文法を研究。文化年間に吉尾六次郎と馬場千之助他らが学んだ。千之助は天文分野で蘭学翻訳。

 『解体新書』から約50年で、かく蘭学は全国普及。その医術は人々の命を救い、鎖国の日本に西洋知識を普及させた。

 挿絵は前野良沢と杉田玄白。玄白資料が83歳の皺だらけゆえ少し若く描いた。写真下は『解体新書』の精緻な小野田直武の模写例(国会図書館蔵)。次回から司馬江漢の〝西遊〟について。

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司馬江漢9:『蘭学事始』概略Ⅰ [北斎・広重・江漢他]

kaitaisinsyo_1.jpg 江漢はまだ江戸に戻って来そうもないので、その間に当時の蘭学事情をお勉強。『解体新書』の杉田玄白が83歳になって当時のことを記した『蘭学事始』を読む。

 まず菊池寛の同題を青空文庫で読んだが、一部クローズアップの小説化。ここでは中公クラシック刊『蘭学事始ほか』から私流概略です。

 まずは平戸出島のオランダ医師による外科手術を見様見真似の「阿蘭陀外科」西流、栗崎流、桂川流あり。それらは読み書きに至らず。八代将軍吉宗が蘭学勉強を許可し、江戸では野呂元丈と青木昆陽に勉強を命じた。

 備前中津藩養子で藩医・前野良沢が晩年の青木昆陽に師事。青木著『阿蘭文字略考』を覚えて長崎留学へ。百日昼夜一心の勉強。小浜藩の杉田玄白と中川淳庵は麹町在住で、長崎遊学の医師・安冨寄碩からアルファベットで「いろは47文字」を習った。

 前野良沢の許に蘭学を学ぶ杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周、平賀源内、司馬江漢らが集った。オランダ通詞の元木良永、馬道良らも仲間に挙げておこうか。時は田沼意次時代で望遠鏡、暗室写真機、寒暖計などの西洋器機も続々入荷。

 当時はオランダ商館一行の長崎から江戸参府が恒例で、宿舎は日本橋・長崎屋。上記の蘭学仲間らがここに馳せ参じた。某日、商館長カランスが、彼らに知恵の輪仕掛けの袋を差し出し「開けられたら差し上げましょう」。誰もがお手上げも末席の源内がスラッと開けた。本草学の源内は、逆に竜骨を披露・贈呈で、カランスは源内に『禽獣譜』『生殖本草』『アイボンス貝譜』などを贈呈。その後に源内は長崎遊学。壊れたエレキテルを入手。

hokusainagasakiya_1.jpg 明和8年(1771)、長崎屋でオランダ人が人体解剖図『ターヘル・アナトミア』『カスパリュス・アナトミア』を譲ると言った。玄白は家老直訴でお金を工面して入手。その直後に千住で腑分けの一報。前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、小杉玄適他計6名が立ち会った。オランダ解剖図に間違いなしと確認した。

 帰り道で良沢、玄白、淳庵、玄適は「せめて『タ-ヘル・アナトミア』一冊でも翻訳してみよう」と約束。以来、良沢宅で1ヵ月6,7回ペースで解読に精魂を傾けた。

 写真は『解体新書』の「解体図」小野田直武模写の扉カット(リンク第1巻の17頁)。写真下は北斎が享和2年(1802)に描いた『画本東都遊』の長崎屋(リンクの29頁)。オランダ商館の江戸参府は寛政2年から4年に1度になっているが、その際に描いたものだろう。画像は共に国立国会図書館デジタルコレクションより。 

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司馬江漢8:源内と直武はゲイ? [北斎・広重・江漢他]

gennai1_1.jpg 江漢が天明8年(1788)に長崎へ旅立ったので休憩余談。

 江漢出立の12年前、安永5年(1776)に平賀源内はエレキテル復元に成功。エレキテル=電気治療器に江戸中が大騒ぎ。だがその3年後に源内は獄中死。翌9年に小野田直武32歳も死去。蘭学・蘭画史の謎。

 それを探って平野威馬雄『平賀源内の生涯』を読めば、解説文が田中優子先生だった。優子先生(現・法政大総長)は自著『江戸の恋』で<源内と直武はゲイだった>と記している。

 ~源内『根南志具佐』は、女形役者の二代目・瀬川菊之丞に捧げた小説。源内は実生活でも役者に溺れた。源内宅には常に男性複数が同居。そのなかで直武は特別な存在。相当の美青年ではなかったかと記していた。

 『解体新書』挿絵をはじめで江戸滞在4年。安永6年に一時帰郷。江戸に戻って1年後に謹慎処分(理由不明)で急きょ秋田に戻された。彼が帰途についた直後に源内の殺人事件~獄中死。直武も半年後に死去。病死とされるも血染めの裃が残されていたとかで、自害ではないかと推測していた。

 「やむにやまれぬ理由で人を斬らねばならぬとしたら、源内はやはり直武を江戸から逃がすであろう。殺人の理由を追及されて、それが直武に係わる事であれば、獄中で自害するかもしれない。一方直武の死が自害ならば、どう考えたって〝後追い自殺〟である」(他に佐竹藩内紛、直武の酒の失敗等々説があるらしい)

 また田中優子先生は平野著の解説で興味深い指摘をしていた。「源内は紙で遊んだ人である。源内が江戸に出てきてすぐに四国高松藩(出身地)で作られた「衆鱗図」が幕府に献上された。源内の関わりは不明だが、これは紙に凸凹をつけて感触も愉しむ絵。春信の「錦絵」が源内アイデアなら、春信の「空摺り」(凹凸付け)も源内の発案だろう。

 源内の有名な「金唐革」も紙に凹凸を付けて革を模して煙草入れ、壁紙などになった。源内の「火浣布」も燃えない不思議な紙のようなもの。彼は紙で遊ぶことを教えてくれた人だった、と記す。

 また源内の油絵、直武や秋田藩主・佐竹曙山らの「秋田蘭画」は、日本と中国と欧州の絵がそのまま混在した奇妙な東洋画。それは模倣ではなく完璧に混合形態で、それを阿部公房は「文化のクレオーレ現象」と言っている。秋田蘭画もクレオーレ変異の産物だろうと記していた。

 自分の基礎がしっかり出来ているから、単なる模倣ではなく消化する力が強い。その系譜が源内~直武~鈴木春信~江漢へと繋がった。同様指摘は黒田著にもあった。「当時の洋画家は、それまでの和漢画の素養を放棄せず、むしろ駆使し折衷して独自の画風を生み出している」。小生はさらに続け加えたい。北斎はじめ浮世絵に刺激を受けた印象派らのジャポニスムもまた然りと。

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司馬江漢7:油絵と銅版画 [北斎・広重・江漢他]

masayosie_1.jpg 江漢は『春波楼筆記』に ~吾が年三十の時に仙台侯へ絵の御前披露をした。その時に同席の親和親子(深川在住の書家、篆刻家)より〝足下は唐画描と聞きしに和漢の人物風景山水を描く〟と誉められた、と記している。三十歳で唐絵(紫石門下)としてすでに名を成していたらしい。だが編者・成瀬不二雄は、仙台藩正史にそれは天明元年の記録ゆえ、江漢35歳が正しいと記す。

 年代解釈はさておき、深川で思い出した。清澄庭園から隅田川寄り「アサノセメント深川工場」脇に建つ「平賀源内電気実験の地」碑を撮ったことがある。面倒ゆえ写真探しはしないが、同地は神田を火事で焼け出された後の源内が移転した「深川清澄町の武田長春院の下屋敷」だろうか。源内は安永5年(1776)のエレキテル復元成功の3年後に獄中死。翌9年に小野田直武も秋田で死去。

 二人の死の謎は後述するが、ここでは万象亭『紅毛雑話』掲載の北尾政美画「エレキテル」治療図(国会図書館)を紹介し、次に江漢の油絵習得について調べる。

 江漢『西洋画談』(寛政10年刊)の書き出しが面白い。油絵を説明するにあたってまずは「西洋は唐日本より西にある国土をさして云々~ 其遠く国土を欧羅巴(ヨーロッパ)と名づけ世界の一大州にして~」と世界地理の説明から入る大変さ。

 「西画は蝋油を以て膠に換ふ。故に水に入りても損ぜず。世俗之を油絵と云う」。崎陽(長崎)に遊んだ際に阿蘭人チシングより画帖を贈られた。本は『コンスト・シキルド・ブ-ク』(『紅毛雑話』では「シキルデブック」)。

 黒田著には「当時チシングは長崎にいない。彼の江戸参府が安永9年か天明2年。江漢は蘭学仲間の一員として江戸で彼と交誼を結んだ際に〝仲間共有の書〟として貰ったのだろう。そう推測すれば天明3年の銅版画創製も符号する」と記す。それが正しいだろう。

 すでに万象亭が『紅毛雑話』で同書を訳してい、さらに『解体新書』翻訳の前野良沢、大槻玄沢らにも協力をあおいでの油絵、銅版画習得だったと思われる。江漢の初期油絵の代表作『異国風景人物図双幅』(神戸市立博物館蔵)を黒田著では天明5年頃と推定している。ならば江漢の長崎旅行前で、すでに油絵を描いている源内の油絵具で、画法も源内にも教わったかしらと解釈したい。

(追記:森銑三著作集・第1巻「平賀源内研究」にこんな一文を見つけた。~藤岡作太郎博士は「日本油絵の祖」なる一文に於いて「近世油絵の祖は平賀源内なり」と断定せられ、司馬江漢の油絵は、源内より伝へられたのであらうといはれてゐる)

 同じように腐食銅版画の法も研究。油絵より早い天明3年(1783)に『三囲景図』(神戸市立博物館蔵)を完成。続いて『御茶之水図』『広尾親父茶屋図』『不忍池図』『両国橋図』『七里ヶ浜図』『中洲夕涼図』を描いている。これらは覗き眼鏡用ゆえに左右逆構図。絵上部の題字も裏返し。銅版画をものにした江漢は、それら作品と折り畳み式覗き眼鏡を弟子に持たせて、天明8年(1788)42歳で念願の「画修行のため」長崎に旅立った。

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司馬江漢6:再び人体比率図を~ [北斎・広重・江漢他]

fujinratainozu_1_1.jpg 前回、江戸は明和7年(1770)刊、万象亭(桂川甫周の弟、森嶋中良)編の『紅毛雑話』の人体比率図をアップしたら、美術系友人から「江戸時代にそんな図が出回っていたとは驚いた。文章があれば、それも紹介せよ」の連絡が入った。古文書初心者ゆえ、たどたどしく読んでみた。

 「紅毛の画法附銅板の法」 紅毛の画たるや至れり尽せり。尤(およそ)此道学ぶ者、初めに男女の骨節(骨格の意だろう)を精(くわし)うし。夫(それ)より赤裸(あかはだか)の人物を出き習ひ。其上にて衣服を着たる所を画くにいたる。下に出す画法は「シキルデブック」に載る。一チ二箇を模写して、好事の人に看(かん)に呈す。「シキルデ」は画、「ブック」は書の事なり。扨(さて)銅板(あかねばん)を~ 文章はここから銅版画の法の説明に入っていた。(誤訳あればごめんなさい)

koumougahou1.jph_1.jpgkaonokakikata_1_1.jpg 残念ながら、比率図に関する文章はこれだけ。ついでに「婦人身體之図」と「同異本之式~是はコンパスル矩(さしがね)にて割たる法なり~」(顔の描き方の説明図)もアップ。これまた現在のデッサンの教材と同じ。

 改めて記すが、杉田玄白『解体新書』刊の4年も前、鬼平が火付盗賊改方長官になる17年も前の、明和7年刊の書です。当然ながら以後の絵師らも、むろん北斎も同図を見ていたような気がします。

 国立国会図書館『紅毛雑話』下巻をリンクゆえ、興味ある方はその先もお読みください。他に「骨節之式」「手足之式」「人物活動之式」なども掲載。次回は司馬江漢の油絵と銅版画についてのお勉強に入ります。

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司馬江漢5:源内に親炙して [北斎・広重・江漢他]

mansyouteizu_1.jpg 江漢の師・宗紫石は平賀源内の友人の一人。源内著『物類品隲(ひんしつ)』(宝暦12年・1763刊。前年の「東都薬品会」全1300種展示から360種を掲載・全6巻)の第5巻「産物図会」の絵を担当。著者名は楠本雪渓(宗紫石)。また同著には源内も「鳩渓山人自画」クレジットで砂糖黍を絞る図を描いている。

 当時の源内はオランダ版『紅毛花譜』、ヨンストンス著『禽獣譜』、ドドニュース著『生殖本草』、アンボイス著『貝譜』、ブルックネル著『世界図』などを蔵書。紫石はそれら銅板挿絵を粉本に「ライオン図」なども描いている。杉田玄白『蘭学事始』には、当時の蘭学仲間の交流がいきいきと書かれている。若い江漢は、彼らの西洋情報に胸踊らせていたに違いない。

 同宝暦13年、源内は戯作『根南志具佐』(女形役者に捧げた小説)、『風流志道軒伝』(小人・巨人・足長・女だけの諸国遍歴物語。『ガリバー旅行記』匹敵の物語)刊。源内の才恐るべし。その数年後には平秩東作『水の行方』序文を、大田南畝『寝惚先生文集』序文も書いている。

 明和7年(1770)に鈴木春信、46歳で死去。江漢は源内にたきつけられて(小生説)春信の偽作を描く。同年、前回登場の万象亭(桂川甫周の弟、森嶋中良の著名)が『紅毛雑話』編・刊。驚く事に現在も人体デッサン基本の人体構成比率図を洋書から模写。(写真は:国会図書館所蔵

 明和8年、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らが小塚原の腑分けに立ち会う。その3年後に安永3年(1774)に玄白『解体新書』刊。挿絵は秋田藩の小野田直武。彼は源内が秋田藩の鉱山視察の際に出会った青年。源内が泊まった造り酒屋に良い屏風絵があって、訊ねると直武作。彼に「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」。直武困惑に、源内が洋風陰影を教えたとか。26歳の青年藩主義敦(狭山暁山)も和洋折衷画法の腕を磨いて「秋田蘭画」を形成。藩主は直武に源内の洋画法を学ばせるべく上京させ、その最初の仕事が『解体新書』挿絵だった。

 では源内がいかに洋画を学んだか。彼の長崎遊学は宝暦2年、25歳の時。2回目は明和7年で「阿蘭陀翻訳御用」で長崎へ。だが源内は語学不得手。翻訳勉強をせずに『陶芸工夫書』などを書いていた。だが長崎で観た油絵・ガラス絵・銅版画、そして技法も訊いて「ヨシ!」とばかりに自ら描いてみたのが油絵『西洋婦人図』。手製キャンバスに油絵具で模写。素人の初油絵とすれば上出来だろう。

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司馬江漢4:源内と春信と紫石と~ [北斎・広重・江漢他]

harusigebijin_1.jpg 江漢は最初に狩野派(黒田著:木挽町狩野派4代目・狩野古信では時代が合わぬゆえ、その実子・典信に就いたのだろう)の修行から始め、南蘋派の宗紫石(本名・楠本雪渓)に師事した。

 南蘋派については「ジャポニスム」シリーズで調べた。江戸では唐画。中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保16年(1731)に長崎に渡来して始めた派。特徴は色の濃淡でリアルな質感写実の描き方。

 「宗紫石は円山応挙と雁行の存在なり」と黒田著。応挙は円山四条派の大御所。彼は奥村政信の「浮絵」と同じく、オランダ渡来の遠近法で肉筆画、版画製作もしていた(吉田暎二著「浮世画入門」)。吉田著には遠近法で描いた政信と同じような応挙「芝居場内図」掲載。その意では奥村政信、円山応挙、宗紫石ともに雁行なり。

 黒田著は「江漢は紫石に師事しながら鈴木春信の門へ。これは紫石が放任したか、春信門下が先かは不明」と記すも、そこも小生は「ジャポニスム」でこう解釈していた。

 明和2年(1765)に鈴木春信が多色摺版画「錦絵」を創始した年、司馬江漢は19歳。神田の春信の借家に平賀源内が入居していて、源内ベッタリだった江漢は源内と春信の付き合いにも従っていただろうと。杉田玄白、宗紫石らも近所付き合い。紫石は源内著作の絵も描いている。皆、仲間だったんだ。

 芳賀徹著『平賀源内』の「神田白壁町界隈」にもこうある。~源内は明和2、3年(1765~6)の「大小の絵暦」ブームに一枚加わっていた。これは旗本や道楽商人らが連を組んで、暇と金と才にまかせた工夫で、大小の月を絵の中に巧みに隠し込んで張り合った遊び。これによって浮世絵は墨摺り、紅と緑を基本の紅摺絵から「見当」を付けての多色摺りへ。紙も薄い粗悪品から厚手の奉書に。顔料進化、彫工や摺師の腕も磨かれて「錦絵」誕生に至る。

 万象亭著『反古籠』にも「春信は神田白壁町の戸主にて画工なり。画は西川に学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁(源内)の工夫なり」。この頃の江漢は、源内に従って秩父鉱脈探しにも付き合っている。源内に従えば春信とも交流で、江漢も錦絵誕生の渦中にいたと推測できる。

  なお万象亭の本名は桂川中良。源内門人かつ蘭学の桂川甫周の弟で秀才。明和7年に「紅毛雑話」を森嶋中良の名で編。(平野威馬雄著『平賀源内の生涯』より)

 明和7年(1770)、春信46歳で没。江漢の春信偽作は、源内に〝たきつけられて〟と推測する(これ小生案。多くの江漢研究者が版元・彫り・摺りの世界でそんな偽作は不可能だろうに~と記すも、源内企てなら可能だろう)。また源内が油絵「西洋婦人画」を描いたのも明和8年らしい。

 平賀源内と司馬江漢それぞれの年譜を付け合わてみると、面白いことが次々に発見できて面白い。挿絵は「春信款」の鈴木春重(江漢)「楼上縁立美人画」(国立博物館所蔵)。生前の春信はこんな背景(唐画風・遠近法)は描いていない。美人図より遠近法や背景の描き方の方が主役で、江漢ならではを強調している。 

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司馬江漢3:出自と絵師修行 [北斎・広重・江漢他]

sibahon_1.jpg もう少し江漢の出自・没年を探ってみる。『司馬江漢全集』(八坂書房1992年刊)第四巻末の成瀬不二雄「司馬江漢の生涯と画業」に、こんな記述あり。

 慈眼寺の過去帳に、父と思われる戒名のそばに「丸屋市良兵衛」との注記あり。細野正信氏紹介の儒者東条琴台の記に「江漢は江戸の四谷の生まれ、のち芝新銭座に移った」とある。父母と過ごしたのは四谷で、15歳で父を亡くして財産を失い、母の実家に寓居。後に芝銭座に移った。40余歳で土田氏に入夫して士分となって勝三郎、または孫太夫だろうと推測していた。新銭座町は裏長屋の密集地(芳賀徹著)。

 芝ゆえ「司馬」、号は江漢著『春波楼筆記』の「江漢後悔記」の項に「江漢とは、予が先祖は紀州の人なり。紀ノ国に日高川、紀の河とて大河あり。洋々たる江漢は南の紀なりと、故に号を江漢とす」。江漢と称したのは25,6歳頃らしい。

 黒田著には「江漢享年は72歳説と81歳説あり。81歳説は江漢晩年の空想的産物だろう」で、生まれは史跡文通り延享4年(1747)。生没に関してはこの辺で了とした。

 次は絵の修行について。延享4年生まれならば、その歳の先輩は奥村政信61歳、鈴木春信23歳、平賀源内19歳、杉田玄白・円山応挙15歳、歌川豊春13歳。後輩では大田南畝2歳下、葛飾北斎と山東京伝が15歳下になる。

 江漢誕生の4年前に、奥村政信が中国経由の透視画を見様見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を描いている。江漢誕生の翌年には羽川藤永(経歴不明)が、将軍への挨拶を終えた「朝鮮通信使来朝図」(神戸市立博物館)の一行を透視画で描いている。遠景に富士、江戸城石垣。それを背に常盤橋を渡って本町二丁目を行列する一行図。江漢誕生期には早くも「浮絵」普及だろう。

 そうして絵画状況のなかで、江漢は上記「後悔記」に「我が先祖に画を描きし者ありけるにや、吾伯父は吾親の兄なり。生まれながらにして画を善くす。其血脈の伝はりしにや、予六歳に時、焼物の器に模様ありけるを見て、其雀を紙にうつし、伯父に見せける。十歳頃に至りては、達磨を描く事を好みて、数々描きて伯父に見せけり」

 さらにこう続く。「長じて狩野古信に学べり、然るに和画は俗なりと思ひ、宗紫石に学ぶ、其頃、鈴木春信と云ふ浮世絵師当世の女の風俗を描く事を妙とせり、四十余にして俄に病死しむ。予此にせ物を描きて、板行に彫りけるに贋物と云う者なし、世人我を以て春信なりとす。予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣(共に明代の画家)等が彩色の法を以て、吾国の美人を描く~」

 次回は、この画業経歴の検証です。写真は『司馬江漢全集』と黒田源次著『司馬江漢』(昭和47年刊)。

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司馬江漢2:慈眼寺の史跡看板から [北斎・広重・江漢他]

koukanjigazo1_1.jpg まずは慈眼寺の墓碑・旧跡看板文から、司馬江漢の概要を記して見る。

 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋(なんぴん)派の宗紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋画風の教えを受け、天明三年(1783)腐食銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書に「西洋画談」「春波楼筆記」「和蘭通舶」などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。

 墓碑裏面に「資堂金入不許萬古毀」。〝萬古毀すこと許さず〟で今も建っている。さて、史跡看板文としては長文で苦労してまとめられているが、そう簡単に参らぬのが司馬江漢です。黒田著に「関根只誠翁の名人忌辰録に麻布浄林寺に葬る。同寺は廃寺」の記述あり。その「名人忌辰録」を国会図書館データで読んでみた。

sibasisekibun_1.jpg 「名峻字君岳号不言道人俗称勝三郎後孫太夫本邦油絵の祖文政寅年十月廿一日没す歳八十二(※七十二)麻布浄林寺に葬る(本村慈眼寺にも墓碑ありと云えり)江漢は始め浮世絵師鈴木春信の門に入りて重信(※春重)と号し師没後二世春信と名のれり後長崎に行き蘭画を学び油絵銅板の術を得たり文才もありいさゝか蘭学をも伺ひ天文地理暦数の事にも心得ありてその筋の著述もあり又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委しきことは畧す」

 黒田著には江漢書簡「小人今は老衰腰痛み歩すること漸一里をかぎり候。先便に申上候通り、今麻布岡崖の辺地へ庵を結び、一人の老婆を遣ひ安居仕候~」が紹介されている。晩年の文化11年秋に、芝新銭座(浜松町駅から新橋方向へ徒歩3分ほど)から麻布笄町(現・西麻布)に転居。同地で亡くなったのならば麻布のお寺に葬られたとも推測できる。

 「又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委(くわ)しきことは畧(略)す」は面白そうなので、後述することになりそう。挿絵は黒田著のモノクロ掲載「司馬江漢(淡彩)」を着色簡易模写。江漢像は高橋由一の油絵が有名だが、由一もこの絵から描き起こしたのかも知れない。ネットに美術史家・青木茂<高橋由一「司馬江漢像」の成立について>があって、面白く拝読した。

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司馬江漢1:かくインプットされて [北斎・広重・江漢他]

sibanohaka1_1.jpg 神田古本市で、黒田源次著『司馬江漢』(東京美術、昭和47年刊)を1500円で入手した。「司馬江漢」の名は幾度か眼にするもスルーしてきた。強くインプットされたのは川本三郎『大正幻影』だった。佐藤春夫『美しい町』クローズアップで、それは隅田川・中洲に幻想市街(ユートピア)を作ろうと夢想する男たちの物語。

 主人公のひとりFが、その理想地を探すのに疲れ果て、ふと立ち寄った画廊で見たのが司馬江漢の銅板画『東都中洲之景』。思わず「ここだ!」と決定する。実際は江漢作に『東都中洲之景』なぁんてぇのはなく、彼が描いたのは『中洲夕涼』『江戸橋より中洲を望む』『三囲之景』など。佐藤春夫がそれらをミックスして『東都中洲之景』としたらしい、と小生は1012年10月のブログ「荷風の中洲(5)」で記している。

 二度目にインプットされたのは「ジャポニスム」シリーズの永井荷風『江戸芸術論』。~北斎は司馬江漢の油絵並に銅版画により和蘭画の法式を窺ひ知りしは寛政八年頃~などの記述だった。

 「ジャポニスム」シリーズの次は「司馬江漢」のお勉強を、と思って図書館で成瀬不二雄著『司馬江漢/本編編・作品編』を借り読んだが、どうも〝ノリ難かった〟。どうやら難解人物らしくお勉強を放置。だがその後に黒田著入手で、再度挑戦。同著冒頭「序説 江漢研究の諸問題」は二十章に亘って実証できぬ諸問題を展開。〝ノリ難い〟はずである。

 まずは勢いをつけるべく染井霊園隣「慈眼寺」へ掃苔。すでに幾度か訪ねている同寺だが、今回はカメラ持参。芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓には写真を撮る若い女性が幾人もいたが、司馬江漢に関心を払う人はなし。次回は東京都指定旧跡看板の文言より司馬江漢の略歴を記してみよう。

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カンディンスキー(8)バウハウス以後~ [スケッチ・美術系]

yuukitai1_1.jpg カンディンスキー夫妻は1928年にドイツ国籍を取得も、落ち着いた生活は短かった。翌年、世界恐慌。1933年1月、ヒットラー政権誕生で「バウハウス」閉鎖。身の危険に、12月にスイス経由でフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 妻ニーナによると、彼がパリに落ち着くことに、対極の存在のピカソは嫌ったとか。カンディンスキーは穏やかな生活のなかで晩年作を制作。この時期は、生命の発生や進化に関心を持って有機体が空を浮遊しているような「空色(空の靑)」「穏やかな飛翔」など。どこか〝陽気ではないミロ〟風作品です。挿絵はその一部をアレンジ模写。

 一方、ドイツでは1937年にナチス「退廃芸術展」。膨大な押収作品のなかにカンディンスキー作57作。そこから油彩1点、水彩6点が展示されたとか。1937年、スイスでクレーの臨床を見舞ったのが最後の旅。1940年、ナチスのパリ侵攻。ナチスのパリ占領下の1944年、78歳の誕生日パーティー後に永眠。

 カンディンスキーと別れたミュンターは、ドイツ表現主義の女流作家として活躍し、第二次大戦の戦禍からカンディンスキー作品を守り抜き、85歳で逝去。遺言でミュンヘン市立ギャラリー「レンバッハハウス」に作品寄付。同美術館は一夜にして有名美術館になったとか。(ウィキペディア参照)

 最後に松下透著「あとがき」文を紹介。~彼が抽象絵画に向かった動機の一つは、物質主義のなかで「芸術における精神的なもの」が危機に瀕しているという時代認識。一つは人並み外れた感受性によって、自然から受け取る感動で「自然と宇宙との交換によって生み出されたように思われる」と結んでいた。

 「バウハウス」の理念、カンディンスキーの教えは、米国へ亡命した多数教師陣らによるシカゴ「ニューバウハウス」によって、また教え子らの活躍によって世界中に普及。今も人気のフォント「フーツラ」「ユニバース」もバウハウス系。これにてカンディンスキー理解の〝玄関口〟に辿り着いたようなので、ここで終わる。

 参考資料:二十歳の頃の教科書『点・線・面~抽象芸術の基礎』『抽象芸術論』。展覧会ショップで購入の松本透『もっと知りたいカンディンスキー』、図書館本でアナベル・ハワード『僕はカンディンスキー』、フランソワ・ル・タルガ『WASSILY KANDINSKY』、ハーヨ・デュヒティング『ワリシー・カンディンスキー』。

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カンディンスキー(7 )バウハウス [スケッチ・美術系]

tensenmen2_1.jpg カンディンスキーの時代を俯瞰後は、再び彼の「バウハウス」招聘前後に焦点を当て直す。

 1917~1922年はロシア内戦の荒廃・破壊・残虐・干ばつ・大飢饉。1919年に3歳の長男が胃腸炎(栄養失調)で死去。社会主義革命に奉仕の芸術中心になって、1921年に夫妻は12枚の絵と僅かな身の回り品だけを持ってドイツへ逃亡。

 極貧生活を救ったのがパウル・クレー。彼の尽力で「バウハウス」(すべての造形活動の究極の目的は構成である)校長から招聘される。

 かくして「バウハウス」カンディンスキー先生が誕生。教えることは、自らも色彩・フォルム(点・線・面)の分析考察の日々。教室講義から『点・線から面~抽象芸術の基礎~』を1926年に刊。

 同書が小生二十歳の時の画塾の教科書だった。教科書ゆえ作者への関心なし。今思えば大変な時代を背に構築された諸理論に、もっと有難く拝読すべきと反省する。だが小難しい記述で再読する気にならず、よって関連書の〝孫引き〟です。

 <線>幾何学上、線は眼にみえぬ存在である。線は動く点の軌跡、したがって点の所産である。線は運動から生まれる。~しかも、点そのものが内蔵している完全な静止を破壊することによって、そこには、静的なものから動的なものへの飛躍がある。だから線は、絵画における最初の要素~点~に対しては、最大の対立関係にある。ごく厳密に考えれば、線は二次的要素と名づけられるべきものである。

 あぁ、若き日の記憶が僅かに甦ってくる。カンディンスキーは「バウハウス」がデッサウ市に移転前後に、今度は「円」に熱中する。<円>もっとも控えめな形態だが、容赦なく自己主張をし、簡潔ではあるが、無尽蔵に変化が可能。安定していると同時に不安定。無数の緊張を秘めている。

 かくしてカンディンスキーの抽象画は、次第に筆致が消えて幾何学的になって行く。挿絵は同時期に描かれた「尖りに拠って」。線画模写し、透明水彩+ガッシュで簡単彩色模写。逆三角形がそれぞれの重量と動きを与えられ揺れ揺られるドラマを演じている。

 この歳でコンパスを使うとは思ってもいなかった。机をひっくり返して見つけた小さなコンパスの鉛筆アタッチメントを外し、「PILOT HI-TECボールペン」をセロテープで仮固定して円を描いた。

 二十歳の頃に通っていた画塾は「カンディンスキーの2冊を読め」と「石膏デッサン」の外は大したカリキュラムもなかった。週一か、月一に師のアトリエに入り、師が前夜酔っぱらって茶碗を叩きつつ呟くテープを聞かされるだけだった。某広告代理店デザイナー募集で「カンディンスキーを読んでいました」が採用の決め手だったらしい。

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