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国立競技場へ往復1万余歩(1) [千駄ヶ谷物語]

kyougijyo1_1.jpg 4年前の秋のこと。横浜で「五姓田義松展」を観た後に煉瓦街へ向えば、足裏に酷い痺れ。慌てて大病院へ行った。MRI検査で「脊椎狭窄症」と診断された。

 若い時分は山登り。ウォーキングにも凝って、さながら韋駄天のように都内疾駆。歩き過ぎて踵を痛めた。それでも今度は鳥撮りで野を歩き回った。「もう歩けないのか」と愕然とした。

 脊椎狭窄症は、薬治療のみでらちが明かない。自己流ストレッチや腰痛体操。少しづつウォーキング。やがて5千歩、小1時間ほど歩けるようになった。

 そんな矢先の昨年の大島暮しで「草アレルギー」。脛が酷くかぶれた。これは病院の薬一発で治ったが、汗をかくと顔や頭が痒くなった。これもアレルギーらしい。酷暑と汗を嫌って、夏の間はずっと冷房装置の部屋に閉じ籠った。歳を取るとワケ分からぬ病気が襲う。

 涼しい季節になって、ウォーキングを再開。身体がすっかり衰えて、歩くのがえらく辛い。「歳をとると、こうして歩けなくなって行くんだ」と思った。まだ頑張れる歳だろう。歯を食いしばって自宅~新宿伊勢丹の往復、小1時間のウォーキングを再開。少しづつ背中の筋肉の辛さが薄らいでいった。

 先日、伊勢丹を越えて歩き続けた。原宿手前を左折。国立能楽堂脇を経て東京体育館のドーム横へ。あれまぁ、眼前に国立競技場の骨格が聳えていたじゃないか(写真)。かく帰宅すれば1万数千歩。ここまで歩ければ「脊椎狭窄症」とは言えまいぞ。家に籠って衰えきっていた筋力も、どうにか復活と認識した。

 話は変わるが、国立競技場の現場を観ていて、この現場の過労死の青年がいたことを思い出した。きっと五輪開幕時の華やかな最中にも、青年の死を思い出すだろう。NHKや電通でも青年が過労死。中小企業には、そうした事例がさらに多いような気もする。

 人の営みの裏にはビッシリと罪が張り付いている。日本の歴史然り、日本の風景の至る所で、そんな罪が満ちている。なんだか千駄ヶ谷には〝いろんなこと〟が詰まっているような気がするので「千駄ヶ谷物語」に取り組んでみる。

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雪払ふ肩が恋しやはぐれ鳥 [暮らしの手帖]

inko1_1.jpg 都内4年振りの大雪、草津白根山噴火、米軍ヘリ今月3回目の不時着、相撲取りの不祥事、韓国冬季五輪の騒動、破棄した森友学園の文書開示~。そんな騒々しい1月23日のこと、我が身にも〝椿事〟あり。

 夕餉の食材買いの帰り、我がマンション数軒手前でスゥ~と白い鳥が横切った。かかぁが「アァッ」と指さし、小生「ハクセキレイ」。だがセキレイの飛び方でもなく、止まった辺りをよくよく見れば白と青のインコ。セキレイインコ(背黄靑インコ)。

 「あれまぁ」と見やれば、なんと云うことでしょうか、飛んできてかかぁの肩に止まった。「まぁイヤ~」と払えば、今度はあたしの肩に止まった。

 そのままエントレンス、エレベーターを経て7Fの我家へ。餌と水を与えたが(写真)、飲み食いほどほどに、すぐに肩や頭に飛び止まる。可愛がられていたのだろう。

 どうしましょう。糞もしよう。ならば鳥籠が必要か。いや飼えば最後までが責任だろう。元気な若鳥らしく、ワシらより長生きしそうだし、飼えば旅行もまままらぬ。

 餌も水も摂ったゆえ、外へ出した方がいいのかも知れない。ベランダに出るも肩から飛ぼうとせず。〝弱ったなぁ〟と何度も言いつつ、結局は払うようにして、やっと空へ。数年前にもベランダの手摺りに飛んできたインコを部屋の中から撮ったこともある。〝迷いインコ〟多いんですね。

 今年もベランダのローズマリーへメジロが遊びに来た。紐一本で着脱可能の餌台をセットすれば、新宿とは云え何羽のメジロが集い、ヒヨドリも来る。ヒヨはメジロを追い払い、糞もデカい。今年は餌台を止めようかしらと思案中。

 さて〝椿事〟と云えば、1月28日から伊豆大島〝椿まつり〟。この寒さに「椿にメジロ」が愉しめましょうか。

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机上〝文鎮動物園〟 [暮らしの手帖]

buntinzu_1.jpg 「明窓浄几」は〝まぁ〟として「古鼎宋硯」の「鼎」は若い時分に通った新宿伊勢丹前の地下酒場。墨汁+筆ペン+コピー紙で「〝硯〟もほろろ」。窓外は「奇峰遠水」ならぬコンクリート建築群の遥か先に東京スカイツリー。

 かく「文房清玩」とは程遠い机上に〝ガラクタ文鎮〟増殖中。机には万年筆4本、無数のボールペンや絵筆もある。それらに各々の使い勝手があるように、文鎮群も夫々の役目と思い出がある。

①文鎮初入手の鶏。1000円。(池袋古本まつり):書道系書棚で発見。机の佇まいが妙に整う感じで、初めて文鎮を認めた。従来の「習字セットの金属棒」を捨て文鎮集めが始まった。この「鶏」はつまみ易く、文庫本などの見開き押さえなど稼働多し。

②牛。1500円。(池袋古本まつり):形悪く期待ゼロも、ズシリッと重い鉄の塊でお気に入りに。キーボードを立て掛け置く場合、この「牛」でビクとも動かぬ。

③鯉。2500円。(代々木公園の大江戸骨董市):絵を描く時、分厚い本の見開き押さえに稼働。この種の文鎮は数万円の工芸品級をよく見かけるが、これは某学校ノベルティー。

④仕掛け鍵の亀。2500円。(花園神社骨董市):仕掛け鍵で尾の錠が外れる。面白いので机に居る。インド製。

⑤銭山に乗る亀。1500円。(護国寺骨董市):小生の文鎮は粗悪品が多いが、これは細部まで精緻。小さく摘まみ易いのでメモなどにマメに使っている。

⑥REGALウエスタンブーツ型ペン立て。500円。(代々木公園の大江戸骨董市):同じのがヤフオフで6800円也。この種の骨董値はあってないものと教えてくれた。

⑦虎。800円。(花園神社骨董市):ウォーキング途中でつい手が出た。期待ゼロも意外に重くて気に入った。小生の文鎮価値は形より重さが肝心。

⑧象形文字の山。300円。(国際フォーラムの大江戸骨董市):女房がチェスト上に敷く正月、クリスマス用の金糸刺繍の帯が欲しいってんで、初めて骨董市に連れて行った。2千円の帯を5本購入。そのついでに買った。

⑨古代刀貨レプリカ。2500円。(護国寺骨董市):骨董市でよく見かけるが、本物とレプリカの違い不明。先日の司馬江漢調べでは数冊を見開き読み較べの際に大活躍。

⑩滑車付き分銅。1300円。(国際フォーラムの大江戸骨董市):「これは何だい」「こんなモン買ってどうすんの」「文鎮替わりになるかなと」「へぇ、そんな使い方もあるんだ。200円引きで持って行きな」

⑪象。1200円。(富岡八幡宮骨董市):画集を見開きで立て掛け鑑賞する時の押えになる。他にドアノック用装飾金具も買った。

⑫龍。2000円。(代々木公園の大江戸骨董市):これも重いのがいい。★机上ガラクタは12個まで。新文鎮購入で机上隠退の入れ替え制。

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司馬江漢22:参考書一覧 [北斎・広重・江漢他]

★主な参考書:黒田源次『司馬江漢』(昭和47年刊)、『司馬江漢全集』第一巻/西遊旅譚、吉野紀行、江漢西遊日記。第二巻/独笑妄言、春波楼筆記、無言道人筆記、訓蒙画解集、江漢書簡集、雑纂。第三巻/輿地略図、地球全図略説、和蘭天説、天球図、西洋画談、和蘭通舶、おらんだ俗話、白薾天文図解、地転儀略図解、天理理譚、痘瘡伝法など。第四巻/作品集。細野正信『司馬江漢』(昭和49年刊)。東洋文庫『江漢西遊日記』

★その他参考書:芳賀徹『平賀源内』(昭和56年刊)、日本古典文学大系『風来山人集』、菅野陽『江戸の銅版画』、吉田暎二『浮世絵入門』、平野威馬雄『平賀源内の生涯』、田中優子『江戸の恋』、川本三郎『大正幻想』、永井荷風『江戸芸術論』、芳賀徹他『杉田玄白~蘭学事始ほか』(中公クラシックス)、杉本つとむ『江戸長崎紅毛遊学』(ひつじ書房)、河出書房社『江戸の科学大図鑑』、森銑三著作集・第一巻。

★国会図書館デジタルコレクション:司馬江漢著作群、中井宗太郎『司馬江漢』(昭和17年刊)、西村貞『日本初期洋画の研究』の「晩年の司馬江漢」、石井栢亭『画人東西』(昭和18年刊)、本田寛編『画家逸事談』、『伊能忠敬言行録』の「交友門弟」、村岡典嗣『天地画談』(昭和5年刊)、松本愛重『本朝立志談』(明治23年刊)など。

★東京国立博物館アーカイブス:司馬江漢著作群

★ネットヒット:青木茂<高橋由一「司馬江漢像」の成立について>、近藤秀美「司馬江漢の面白さ」、田川邦子「晩年の司馬江漢~『春波楼筆記』を中心に」。

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司馬江漢21:定信の子飼い亜欧堂田善 [北斎・広重・江漢他]

 司馬江漢シリーズ「終わり」予定も、小生は「ジャポニスム17~北斎が学んだ新画法」で「大久保純一著『北斎』では(北斎が学んだのは江漢の遠近法ではなく)年代的及び普及度から〝亜欧堂田善の江戸名所銅版画〟から学んだのだろう」なる記述を紹介した。やはり亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)も調べ知りたい。

 細野正信著『司馬江漢~江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売選書、昭和49年刊)他より「亜欧堂田善」を簡単要約でお勉強です。

 亜欧堂田善(善吉)は、延享5年(江漢生の翌年)に白河藩の中心地、福島・須賀川に生まれた。代々農具商の5代目の次男。兄は家業を継ぐと同時に狩野派に学んだ画家。善吉は兄から絵の手ほどきを受けた。兄弟はやがて染物業異国屋に転業。〝異国染〟は鈴鹿・白子で栄えた紙型(現在も文化財)で、同技術は「応仁の乱」で京都と伊勢に二分された。京都では雁金屋(尾形光琳の父)が隆盛を極めた。一方、伊勢の型彫師は全国行脚の商売で、吉宗時代に隠密的性格を帯びて名字帯刀。この伊勢系が江戸進出で「江戸小紋」になった。

 著者は、福島の異国染もそうして伝えられたものだろうと推測。善吉は型紙彫と併せて画業の精進も続けて、白河藩主・松平定信に認められた。天明7年(1787)、田沼意次が失脚後に徳川家斉が11代将軍で定信が老中へ。

 定信は、老中首座を退いた時点で『退閑雑記』を書き始めた。そこに寛政6年(1794)、善吉を見出してお抱え絵師・谷文晁に学ばせたとあるそうな。同年、江漢『西遊旅譚』で久能山を描いたとして絶版命。寛政8年頃に善吉は紺屋を知人に譲って白河城下に住み、定信の御用画家的存在へ。寛政10年、定信は彼を江戸藩邸に呼び寄せ「銅版法を習い製作せよ」と命じた。その時に見せられたのが大黒屋光大夫が帰国の際に持参したオランダ版世界地図。すでに江漢が模刻済も、さらに精密なものを作れと命じたらしい。定信『退閑雑記』と江漢『春波楼筆記』は、共に公開予定なしゆえ、互いに非難し合っている。

 善吉は4年ほど長崎で銅版画修行へ(ウィキペディア)。一方、定信は「寛政の改革」を展開。山東京伝が手鎖50日の刑、版元・蔦重が財産半分没収、恋川春町が自刃?に追い込まれている。文化2年(1805)、善吉は『鈴ヶ森』で銅板画・亜欧堂田善としてデビュー。号は定信が授けた。同年、江漢は59歳、田善58歳。すでに江漢は蘭学者グループから孤立し、同年の『頻海図』を最後に銅版画から手を引いた。

 田善は定信の力をバックに検印なしで銅版画を次々発表。銅板画が江漢から田善へ移行した裏には、びっしりと田沼意次~松平定信の政変があったと推測して間違いなかろう。著者・細野忠信は、田善を〝体制側子飼い名職人〟と評していた。その通り、田善は定信が致仕(隠棲)する文化11年頃には須賀川に帰郷。政局は再び田沼グループの水野忠成が老中へ。

 江漢の「死亡通知書」だが、死亡宣告後は市井の民としてホンネで生きて行こうという思惑もあったような気がしないでもない。「寛政の改革」で狂歌から身を退いた大田南畝(蜀山人)は「白河の清き魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)というて夜もねられず」とこっそり詠ったらしい。

 天明8年(1788)の江戸の町方人口136万8080人(これに武士・出家・吉原そして武士45万人がプラス)が、吉宗の重農主義で10年後の寛政10年(1798)には町方人口49万。江戸人口は1/3になった。細野著より)。

 なお田善は4年間の長崎修業をしたらしいが、同著には勝本清一郎が「田善はオランダに密航して銅版画を学んだという話は奥羽史料にもある」と記していると紹介。どの史料かは定かではない。これは余談になるが、勝本清一郎と云えば、永井荷風の別れた妻・静枝のその後の若い愛人。その後も竹下夢二の愛人から徳田秋声と同棲した山田順子の恋人でもあった人物。その顛末は、徳田秋声自身が書いているそうな。

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司馬江漢20:己の「死亡通知書」配布 [北斎・広重・江漢他]

jiseigo2_1.jpg 『春波楼筆記』を記した翌文化9年、江漢は新銭座の家蔵を売り、終の棲家を吉野に定めて旅立った。だが親類に預けた金子が遣われたと知って、1年ほどで江戸へ戻った(『無言道人筆記』)。『吉野紀行』を記し、今度は己の死亡通知書『辞世ノ語』(文化10年・1813年)を配布。ここは絵とくずし字お勉強。

 江漢先生老衰して、画を需(もとむ)る者ありと雖(いえども)不描、諸侯召ども不往、蘭学天文或ハ奇器を巧む事も倦ミ、啻(ただ)老荘の如きを楽しミ、厺年(去年)ハ吉野の花を見、夫よりして京に滞る事一年、今春東都に帰り、頃日(けいじつ=近頃)上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠摂禅師の弟子となり、遂に大悟して後病(わずらい)て死にけり。

 一、万物生死を同(おなじう)して無物に復帰(またきす)る者ハ、暫く聚(あつま)るの形ちなり、万物と共に尽ずして、卓然として朽ざるものハ後世の名なり、然りと雖、名千載を不過、夫天地ハ無始に起り無終(むじゅう)に至る、人(ひと)小にして天(てん)大なり、万歳を以て一瞬のごとし、小慮なる哉 嗚呼 七十六翁 司馬無言辞世ノ語 文化癸酉(十年)八月

 前述通り「七十八翁」は虚構で、正しくは「六十七歳」。「万物生死~」からの文は老荘思想だろう。この「死亡通知書」後日談に、こんな逸話もある。西脇玉峰編著『伊能忠敬言行録』(大正2年)の<交友門弟>「司馬江漢」の記述~。

 「某江漢の後背を見、追うて其の名を呼ぶ。江漢足を逸して走る。追ふもの益々呼びて接近甚だ迫る。江漢首を廻らし、目を張り叱して曰く、死人豈(あに)言を吐かんや。再び顧みずしてまた走り去れりと」(この逸話は木田寛栗編「画家逸事談」にも紹介されていた)

 さて司馬江漢は、北斎ほどに絵を極めたわけでもなく、良沢のように蘭語を極め、玄白のように医学に情熱を注いだわけでもない。その意では、やはり師匠・平賀源内にどこか似ている。知的遊民、ディレッタント的要素を受け継いだフットワークのよい反骨精神で自由に時代を走り続けた人のようにも思われる。虚無的な人生観を語って、文政元年(1818)10月21日、72歳で没。

 長くなり過ぎたので、ここで司馬江漢シリーズを一応終える。しかし生涯を辿っただけで、様々に考えるのはここからだと思っています。多くを図書館本、国会図書館デジタルライブラリーなどに依ったので、せめて『春波楼筆記』くらいは蔵書し、書き込みもしつつ読み込みたく思っています。次回に参考書籍を一覧。

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司馬江漢19:晩年の老荘著作群 [北斎・広重・江漢他]

 江漢の晩年著作を年代順に記す。文化7年(1810)に身辺雑記・人生訓の随筆集『独笑独言』、8年に随筆集『春波楼筆記』、9年に『吉野紀行』、10年に死亡通知書『辞世語』、11年に『無言道人筆記』、12年に『西遊日記』。その2年後の文政元年(1818)10月22日、72歳で没。

 まず文化6年に哲学的な絵『桃栗に地球儀』を描き、文は「桃に生る虫を桃むしと云、栗に生る虫を栗虫といふ。地球に生るを人間といふ。つるんでハ喰てひりぬく世界むし、上貴人より下乞食まで」。天から見れば人に貴賤なし。そんな事が老年になっても不知の者が多いと歎く。さらに顕微鏡で覗き、それら虫の寄生虫も示す。

 「須弥山論説」では、世界の中心に聳える聖なる山・須弥山をもって世界観を解く古代インドだが、地球や天体を知れば絶笑・妄説。無智の凡僧なんぞや天地広大なる事をしらんや。こうした視点から体制側を切りまくる。江漢の顔が、老荘思想の哲学者になっている。

 『春波楼筆記』冒頭。~狐や狸が人に罠をかける。酒肴の罠にすれば食い倒れ。小判を罠にすれば欲が膨れて大損し盗みにも至る。女を罠にすれば誰もがひっかかる。そうならぬように狐の稲荷に手を合せて拝むがいい。無欲がいい、度量を過ぎず、中庸が宜しい。

 自身の反省も忘れない。「後悔記」はすでに引用の画歴だが、その最後に「我名利と云ふ大欲に奔走し、名を需め利を求め、此二つのものに迷ふこと数十年。今考えるに、名のある者は躬に少しの謬(あやま)ちある時は、其あやまちを世人忽に知る者多し。名のなき者誤ると雖も知る者なし。是名を得たるの後悔。今にして初めて知れり。愚なる事にあらずや」と記す。

 明治27年に同著を読んだ日本哲学の父・大西祝はショウペンハウエルと一致する。江漢は我国の思想界に於ける稀有の産物といふべきと記した。

 成瀬不二雄は「彼の思想を一言でいうと、西洋天文学と老荘思想とを合せた虚無思想。宇宙は水と火で成り立ち、死は水と火が分離して宇宙の大気に還る。そんな虚無のなかで、人間は欲望に翻弄され苦しむ存在。そこから厭世主義にならず現世的な自然主義と中庸主義に落ち着く」と説明。

 小生、これら著作を読むと、下級武士(徒歩組)の大田南畝(蜀山人)が、司馬江漢(庶民絵師・庶民学者)が長崎に旅立った頃に出版した『鶉衣』の著者、上級武士ながら隠居後の横井也有翁の三者を較べ考えざるを得ない。大田南畝も也有翁はもっと洒脱な虚無観だったような気がするのだが~。次は江漢自らの「死亡通知書」。

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司馬江漢17:悩ましき晩年 [北斎・広重・江漢他]

sensoujisiba2_1.jpg 江漢は長崎から戻って旅行記を、天文学や世界地理、物理などの新知識をまとめ、さらには油絵風景画の代表作を次々に発表。脂がのりきった観がするも、心は暗く、次第に隠棲を望むようになっていたらしい。

 推測するに、その一つの原因は、寛永5年(1703)からの蘭学者らとの孤立化。これは桂川甫周がロシア漂流の帰還者・大黒屋光大夫への質疑応答筆記『漂民御覧記』を批判してのこと。烏有道人筆(匿名)が「盲蛇」と題して〝汝は学者にあらず~不届千万なり〟と激しく逆批判。お抱え医・お抱え蘭学者と庶民学者・江漢の間に溝が生まれたこと。

 翌6年の『西遊旅譚』に久能山を描いたことで絶版命。寛政8年には『蘭学者芝居見立番付』で〝唐ゑ家のでつち猿松〟や〝銅(あかがね)やの手代こうまんうそ八〟と揶揄されたこと。

 江漢、ほとほと厭になったのだろう。文化3年(1806)、60歳になって柳橋万八楼で「退隠書画会」を行う旨の引札を配布。「今茲年已(すでに)耳順(60歳)気力且衰」によって業を門人に譲り閑居すると宣言。開催は翌文化4年だった。

 文化5年から〝江漢奇行〟のひとつ、9歳加算の年齢偽称が始まる。文化6年には浅草観音堂に納めた蘭油『錦帯橋景』が「衆之を奇とし、観るもの堵の如し(群がって)、清浄の地に南蛮の画を揚ぐるは不可なりと因(よ)つて終に之を撤せり」という事件も起きた。(西脇玉峰著『伊能忠敬言行録』より)

 なんと、80年後の明治23年刊の松本愛重著『本朝立志談』(国会図書館蔵)に、その想像情景図が掲載されていた(上写真)。文は「当時は西洋諸国を南蛮と卑しめける世の習いで、諸僧が清浄なる伽藍に蛮画を掲ふるは穢らハしといふ論起りてとり除きぬ」と説明。

 翌文化7年に慈眼寺に寿塔。これには私的な悩みもあったと推測される。「母七十三にして没しぬ。家を捨てゝ諸国遊覧と思ったが、人道にあらずと親族に諫められて~」、42歳で長崎に旅立った時は「宿(裏長屋)に妻子置きたる故~」で、この時には所帯持ち(入夫して一女を設ける)。

 だが『春波楼筆記』では「四十を過ぎて後妻を娶るべからず、人四十にして漸く精気衰ふ。女子と小人とは養ひがたし」「今に至りて考えるに、子は無きにしかじ」とも記していた。そんな精気衰ふが原因か、妻とは離別。娘に入夫された門人・江南は小胆者で間もなく不縁。持参金三十両で惣右衛門を入夫させたが早くに没で、二代目惣右衛門は俗人でままならず(昭和17年刊の中井宗太郎著『司馬江漢』より)。墓は自分で建てておく他になかったのだろう。

 かくして公私共に厭なことも次々に起こっての隠棲だろう。ついには己の「死亡通知書」配布に至る。隠棲となれば、筆峰は遠慮なく鋭くなる。次は晩年の著作集について。

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司馬江漢16:地動説を説明 [北斎・広重・江漢他]

tidousetujiga_1.jpg 次は寛政8年(1796)『和蘭天説』。朝鮮文字、韃而靼文字、西洋文字の例をあげ、諸国商船は万国に通じていると説明。さらに関心は宇宙に飛ん太陽系惑星図(水・金・地球と月・火・木・土星)と、公転周期(地球は約365日など)も説明。

 そして象限儀之図(四分儀)、起源儀之図(六分儀)で、天体の角度を測定して現在地の緯度を知る法。(ブログ「古代の天文学」さんは江漢の図を見て、絵を真似ただけで観測装置に無知だとわかる、と記していた)

 さらにコペルニクス紹介。「刻白爾(コペルニカナ)ト云人ノ説ニテ、日輪ハ天ノ中心ニアリテ運転シ、月ハ大地ヲ中心トシテ施リナガラ~」ちなみにコペルニクスは地動説『天体の回転について』の発表を25年余もためらい、70歳の死の当日に校正刷り(1542年刊)だったとか。それでも100年余後のニュートン万有引力の法則(1687年、元禄元年の前年)をもって、初めて「地動説」が受け入れられたらしい。

 江漢は上記説明に続いて雨、雪、雷、隕石、太陽の黒点、虹、蜃気楼、地震、干潮、温度、火山などを説明。同年は他に『天球図・天球全図』(禽獣人物異形ヲ以テ星ノ名トス=星座図)を紹介。一転して顕微鏡で見る小虫や雪の結晶などミクロ世界も紹介。文化2年に『頻海図』(アジア海図)、文化5年(1808)に『和蘭通舶』で五大陸風俗から西洋画法、銅板画までを説明。

tidousetu_1.jpg この時期の江漢からは、西洋知識の啓蒙普及に情熱を燃やす姿が浮かんで来るも、絵師として油絵の風景画代表作も次々発表していた。寛政6年(1794)『捕鯨図』(石井柏亭が布置・写形・着彩すべてよく傑作と称していた)、寛政8年『相州鎌倉七里浜図』、寛政9年『富嶽遠望図』『品川沖図』、寛政10年『品川富士遠望図』、他に『駿河湾富士遠望図』や『犬のいる風景図』など。

 銅版画から油絵へ、西洋の新知識普及、旅日記など脂がのりきった大充実期と思われるが、どうやら、その裏でジワジワと〝陰〟が忍び込み、次第に彼の頭に厭世の人生・世界観を膨らんでいたらしい。挿絵上は文化5年(1808)刊『刻白爾天文図解』の江漢自画像。挿絵下は地動説の説明図。(国会図書館蔵)

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司馬江漢15:地球・天体の著述へ [北斎・広重・江漢他]

sibacikyuzu1_1.jpg 江漢は長崎から戻ると『西遊旅譚』の絵と文のまとめ、各スケッチから油彩代表作を描き、さら長崎で入手の書物から天文学、世界地理、物理への興味を募らせ、これら模写・説明にも熱中した。

 黒田著「司馬江漢の自然科学的業績について」冒頭に~ 「司馬江漢は我国洋画の先駆者であると共に窮理学(物理学)の開拓者である。『和蘭天説』『刻日爾天文図解』等の著述を通じて、我国に初めて地動説を紹介した彼の業績だけでも明白である。またこれら知識を旧思想打破の一武器として利用しやうとした感がある。窮理学的業績が彼を思想家、哲学者に仕上げて行った」

 成瀬不二雄も「西洋の進んだ世界を紹介し、控え目ながら開国貿易論、人間平等論を説くなど鎖国体制下の進歩的思想家としての業績も評価したい」。これら著作を年代順に簡単に紹介してみる。

 寛政4年(1792)に『銅板輿地全図』『輿地略説』。「輿地=ヨチ、万物をのせる地=地球」。地球儀風平面図で世界の大陸を紹介。寛政5年に『地球図』『地球全図略説』。勝手現代訳で読めば「余絵事の余暇に、オランダ舶来の奇器画図の類を模写する。すでに西洋の銅版画法を考察し、すでに諸図を新製して人に見せて来た。今、その法でかの西洋の図を得て、是を模写して銅版に刻す~」

gesyokuhoka_1.jpg こんな調子で南極、北極、赤道、夏至と冬至、黄道、月蝕、日蝕などを説明。「月は一つの水晶の玉の如くにて、ひかりなきものなり、日の光りを受け、映じ照して光をなす、(略)~(月と日が)行合重なるときに日蝕するなり、又日月の間に地を隔て月地のために塞られて月の光を失ふゆへ、月蝕する也」

 緯度・経度、五大洲の説明。「エウロツパ諸州の人、遠く此諸国に船を通じ、其物産を交易しとなり、余先年長崎に遊し時~」と体験談も交える。熱帯、極寒地の人々の絵も描く。

 東海道ブームで旅行熱が高まる江戸で、江漢さんは海の向こうの五大陸、天文知識を披露。隣の熊さん・八っさんが「江漢先生よぅ、あっしも〝士農工商〟の窮屈な江戸から飛び出せるかなぁ~」なぁ~んて訊ね来る光景が浮かんで来る。挿絵は国会図書館デジタルコレクションより『地球図』(1巻)、月蝕・日蝕図(2巻)です。

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司馬江漢14:捕鯨体験記 [北斎・広重・江漢他]

kujiraawase_1.jpg 江漢は天明8年11月16日に長崎から船で平戸嶋に渡った。当地はシビ(鮪)漁が盛ん。

 21日、壱岐守(平戸藩第9代藩主、松浦静山侯、文政4年・1821年に全278巻『甲子夜話』刊。ちなみに妾腹33人の豪)書斎へ。侯は多数蘭書、西洋絵画、地図類を蒐集。宿に戻って、亭主に殿様から薄茶と菓子を戴いたと言うと、胆を潰した。22日、足軽船方宅に泊。翌日より平戸見物とスケッチ。

 9月4日、生月島へ渡る。鯨師・益冨又左衛門と倅・亦之助がいた。鯨の実談をせんと逗留。8日、鮪発見に、漁師の舟に乗る。6艘で網を囲み、引き上げるのを見物。13日、鯨来る。カコ6人の鯨舟に乗るも未発見。16日、鯨来る。前回に懲りて船に乗らぬと思うも、急き立てられて乗舟。矢の如く疾走。

 7、8艘が鯨を取り巻き、鯨の背に舟を乗り着けるようにして17本の銛を打ち込む。鯨の両側に3艘づつで剣を打つ。鯨が弱った段階で一人が鯨の潮吹きの処に登って穴を穿ち綱を通す。1人が海へ飛び込み、鯨の腹へ大網を回し込む。舟2艘に丸太2本を横に渡して鯨を支え吊り(沈まぬように)、午後10時に鯨の解体地へ着岸。一番大きなセミクジラで大きさ15間。17日、人足10人が各々長刀で解体。油200樽。金400両なり、鯨は捨てるところなし。

kuaitaawasw_1.jpg 江漢は同地で大晦日・正月を過ごし、1月20日に下関から筑前若松船の百石積の船に乗った。船賃40目、古き布団1貫200で出航。備前(岡山)牛窓で上陸し、大津~草津から石部へ。ここで江戸帰りのオランダ人一行と逢う。吉雄幸作が長崎から送った荷物が無事に着いているのを知らせてくれた。中山道経由で寛政1月4日に江戸着。

 なお『画図西遊旅譚』は国会図書館デジタルコレクションで、『江漢西遊日記』は東京国立博物館アーカイブスで閲覧できる。『西遊日記』は出版を諦めたことで、自由に記した自筆書。大正5年(1916)に陸軍士官学校で英語講師奉職中の岡村氏が同校書庫で発見まで眠っていた。昭和2年に黒田源次・山鹿誠之助校注で坂本書店から刊。同年に与謝野寛・晶子、正宗敦夫編『日本古典全集』の『江漢西遊日記』で刊。

 挿絵は『西遊旅譚』4巻の捕漁之図、解体之図。「鯨漁之図」の図中文字は「鯨頭を出し海上にあらハれ気を吹、即夫を見て魚〇(モリ)を投、気を吹終れハ尾を出し波を扣(たたい)て海底に入」「鯨舟ハ二十艘を出す、其他勢子舟いづる、又網舟を出す、双海と名づく、一結と云ハ網舟二艘に通舟二艘なり、此島にて三結を出す、三結ハ皆にて六艘、網舟ハ大船なり、是網を積故なり」

 なお挿絵上の捕鯨図は、寛政6年頃に数点の油彩に仕上げている。石井柏亭著『画人東西』(昭和18年刊)で、「布置(ふち、配置)と云ひ写形着彩と云ひすべてがよく整って居り~と称賛されていた。

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司馬江漢13:長崎日記 [北斎・広重・江漢他]

dejimaawase_1.jpg 江漢『西遊旅譚』と『西遊日記』のクライマックスは長崎。簡略に記す。小生、長崎知らずゆえ、机上に地図を広げる。江漢の長崎着は天明8年(1788)10月10日で、約一ヶ月滞在。

 まず高き処「浦上」より入る。おらんだ屋敷(出島の商館)、唐人屋敷(中国人居留地)を望み、湾内に7,8隻の唐船。遠くにおらんだ船1艘。「長崎町数九十六、町中石段多し、旅館はなし、旅人滞在を禁ず」

 「おらんだ部屋付き役」稲部松十郎宅へ滞留すべく訪ねる。夕方に「おらんだ大通詞」吉雄幸作(『解体新書』序文を記す)、本木栄之進(通詞で蘭学者。ラテン語やフランス語にも通じ天文・地理・暦学関係の10数冊の蘭書を翻訳。『天地二球用法』でコペルニクス地動説を初紹介。(江漢の江戸に戻ってからの窮理学系出版物の多くは、彼の翻訳書に頼ったような気がする)

 11日、幸作宅へ。二階の「おらんだ座敷」(幸作蒐集の洋書、絵画、器具が陳列)を見学。12日、御崎観音へ(長崎から7里の半島先端)。13日、三崎からの帰路で初めて唐人を見る。16日、南京寺を見て丸山町へ。大夫揚代二十七匁。夜芝居を見学。

kabitantunagi_1.jpg 17日、出島は坊主、総髪出入りならずで、剃って野郎(商人風?)となり江助を名乗ると決める。21日、町役と丸山で大夫を揚げ、泊る。22日、通詞方で交易の話を聞く。23日、唐船に乗って見学。24日、吾が白河侯の隠密と思われていると知り、江戸会所商人となって館内に入ることにする。

 25日、江戸会所より門の切手(札)を入手して出島入り。暫く行くと江戸の長崎屋で逢った外科医ストッツルに逢う。彼の部屋へ上がる。その後、通詞幸作の案内で「カビタン(商館長)部屋」へ。初めて黒人に逢う。商館長は江戸で逢っているロンベルグ。江漢に付き添う長崎在住者は、江漢がオランダ人と話している姿に胆を潰す。

 26日、悟真寺で唐人、オランダ人の墓を見る。27日、おらんだ船に乗る。船の詳細スケッチ。28日、通詞と共に唐人60名余の仏参に同行。30日、ビイドロ細工の玉屋訪問。ガラス絵を伝授してもらう。2日、長崎出立を決め、船が出るまで土産購入、挨拶回り。

 以上、多数スケッチを掲載。そのなかより出島とカビタン室内をアップ(国会図書館蔵)。『司馬江漢全集』掲載図には、出島絵には「阿蘭陀人ハ出島ヲ築(キズキ)館ヲ作(ツクル) 一年二銀五十五貫目地代ヲ日本へ出ス」や面積、各施設説明文入り。室内絵には「阿蘭カビタン居所ビイドロ額人物山水をえがく障子ビイドロに張ナリ」などの書き込み有り。

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司馬江漢12:一九や北斎とも絡み~ [北斎・広重・江漢他]

sannin.jpg 江漢は天明8年(1788)4月に江戸を出立し、丸1年で江戸に戻ってきた。即〝旅日記〟を完成だが、東照宮を描いたことで絶版の命。14年後の享和3年(1803)に同絵や文章大幅削除で『画図西遊譚』を刊。

 その前年、享和2年に十返舎一九『浮世道中膝栗毛』初編大ヒット。享和4年(文化元年・1804)、東海道人気にあやかって葛飾北斎も『狂歌入り東海道五十三次=春興五十三駄之内』(広重の東海道五十三次・保永堂版より約30年も前)を板行。

 同年、喜多川歌麿が『太閤五妻洛東遊観之図」(国立博物館蔵)で入牢3日間50日の刑。十返舎一九もベストセラー人気に調子に乗ったか、『化物太平記』で手鎖50日の刑。それを知って58歳の江漢は、首をすくめたに違いない。

 かく厳しい改革のなかで、江戸の出版業界は艶物から一九の道中もの、馬琴の勧善懲悪の読み物へギヤチャンジ。浮世絵も北斎が風景画を前面に押し出し始めた。江漢は文と絵をもって両方のシフトチャンジに拍車をかけた。(と小生は推測)

koube_1.jpg 以上の時代状況を認識した上で、いよいよ司馬江漢〝西遊もの〟を読む。「天明戌申四月二十三日 昼過、江戸芝神僊坐(新銭座)を出立して金川(神奈川)に至る。其日曇て雨なし。従者には宿(自宅の裏長屋)に居たる弟子なり。歳二十位の者にて松前の産れなり、吾此度の旅行はじめてなり、是より肥州長崎の方諸国を巡覧して、三年を経ざれば帰るまじと思ひ立しにや~」

 江漢は描き上げたばかりの『三囲景図』など一連の腐食銅版筆彩作、覗き眼鏡、蘭書などを携帯。4月26日に熱海に着。29日「今井に一碧楼と云有。画など認め、持参した蘭器・書蘭など取出し、皆々に見せけるに、事好なる者もなし、見物山の如し」

 覗き眼鏡を知る好事家などいないから我も我もと大騒ぎ。蘭書の世界地図の見せたかもしれない。封建制度下に生きる人々には驚愕だっただろう。江漢、秘かに啓蒙者気取り。そんな調子で行く先々で長逗留が多く、長崎に本当に行く気があるのかと思わすが、同年10月10日に長崎着。

 ここで道中すべてを紹介するわけにはいかないゆえ、次回に旅のハイライトだろう長崎部分と、例の捕鯨体験の部分を紹介の予定。

 挿絵上は左から江漢・北斎・一九の似顔絵(今までに描いてきた小生絵を合成)。挿絵下は「覗き眼鏡」(神戸市立博物館蔵)。江漢は折り畳み式を携帯。反射鏡で左右逆に映るゆえ、絵は左右反転の遠近法〝浮絵〟で描かれている。

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