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司馬江漢7:油絵と銅版画 [北斎・広重・江漢他]

masayosie_1.jpg 江漢は『春波楼筆記』に ~吾が年三十の時に仙台侯へ絵の御前披露をした。その時に同席の親和親子(深川在住の書家、篆刻家)より〝足下は唐画描と聞きしに和漢の人物風景山水を描く〟と誉められた、と記している。三十歳で唐絵(紫石門下)としてすでに名を成していたらしい。だが編者・成瀬不二雄は、仙台藩正史にそれは天明元年の記録ゆえ、江漢35歳が正しいと記す。

 年代解釈はさておき、深川で思い出した。清澄庭園から隅田川寄り「アサノセメント深川工場」脇に建つ「平賀源内電気実験の地」碑を撮ったことがある。面倒ゆえ写真探しはしないが、同地は神田を火事で焼け出された後の源内が移転した「深川清澄町の武田長春院の下屋敷」だろうか。源内は安永5年(1776)のエレキテル復元成功の3年後に獄中死。翌9年に小野田直武も秋田で死去。

 二人の死の謎は後述するが、ここでは万象亭『紅毛雑話』掲載の北尾政美画「エレキテル」治療図(国会図書館)を紹介し、次に江漢の油絵習得について調べる。

 江漢『西洋画談』(寛政10年刊)の書き出しが面白い。油絵を説明するにあたってまずは「西洋は唐日本より西にある国土をさして云々~ 其遠く国土を欧羅巴(ヨーロッパ)と名づけ世界の一大州にして~」と世界地理の説明から入る大変さ。

 「西画は蝋油を以て膠に換ふ。故に水に入りても損ぜず。世俗之を油絵と云う」。崎陽(長崎)に遊んだ際に阿蘭人チシングより画帖を贈られた。本は『コンスト・シキルド・ブ-ク』(『紅毛雑話』では「シキルデブック」)。

 黒田著には「当時チシングは長崎にいない。彼の江戸参府が安永9年か天明2年。江漢は蘭学仲間の一員として江戸で彼と交誼を結んだ際に〝仲間共有の書〟として貰ったのだろう。そう推測すれば天明3年の銅版画創製も符号する」と記す。それが正しいだろう。

 すでに万象亭が『紅毛雑話』で同書を訳してい、さらに『解体新書』翻訳の前野良沢、大槻玄沢らにも協力をあおいでの油絵、銅版画習得だったと思われる。江漢の初期油絵の代表作『異国風景人物図双幅』(神戸市立博物館蔵)を黒田著では天明5年頃と推定している。ならば江漢の長崎旅行前で、すでに油絵を描いている源内の油絵具で、画法も源内にも教わったかしらと解釈したい。

(追記:森銑三著作集・第1巻「平賀源内研究」にこんな一文を見つけた。~藤岡作太郎博士は「日本油絵の祖」なる一文に於いて「近世油絵の祖は平賀源内なり」と断定せられ、司馬江漢の油絵は、源内より伝へられたのであらうといはれてゐる)

 同じように腐食銅版画の法も研究。油絵より早い天明3年(1783)に『三囲景図』(神戸市立博物館蔵)を完成。続いて『御茶之水図』『広尾親父茶屋図』『不忍池図』『両国橋図』『七里ヶ浜図』『中洲夕涼図』を描いている。これらは覗き眼鏡用ゆえに左右逆構図。絵上部の題字も裏返し。銅版画をものにした江漢は、それら作品と折り畳み式覗き眼鏡を弟子に持たせて、天明8年(1788)42歳で念願の「画修行のため」長崎に旅立った。

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