司馬江漢11:西遊旅譚と西遊日記 [北斎・広重・江漢他]
天明6年に田沼意次の老中罷免。松平定信の浮世絵、戯作、異学(朱子学の他)などを締め付けるイヤな時代が始まった。江漢はそんな江戸に背を向けるように天明8年(1788)4月、42歳で念願の長崎へ旅立った。
3年予定も、丸1年で江戸へ帰ってきた。その絵日記〝西遊もの〟を読む前に、心得ておくことがある。江戸に戻った寛政元年~2年(1789~90)頃には、旅の絵と文をまとめた『西遊旅譚』完成も、出版ままならず刊行は10数年後の享和3年(1803)になった。
寛政6年(1794)に全5巻の版完成も、第1巻に「久能山之図」(静岡県・日本平辺り)に東照宮が描かれていて絶版命。同絵は海際に聳える山にジグザク階段が山頂まで続き、頂きに五重塔や社。問題ありの絵に思えぬが、そこは家康埋葬の東照宮(埋葬翌年に日光へ改葬)。「寛政の改革」がそこまで厳しかったってことだろう。
東海道は「清水」から西に真っ直ぐも、江漢は海岸線(現150号線)を歩いたか。雪舟描く『富士三保清見寺図』の絶景を見て、描きたかったと推測する。「久能山之図」さえ描かなければ~と思うが、お上は何かと難癖をつけたような気もする。
なお、この絶版は『司馬江漢全集(一)』に収録、「序」の日付も寛政甲寅(寛政6年)五月。ゆえに「久能山之図」も掲載。挿絵も大量135図で圧巻です。問題の絵を削除し、各地名士らとの交流記述も削除した『画図西遊譚』全5巻(享和3年・1803年刊)は国会図書館データベースで公開。
そして69歳、己の「死亡通知書」配布後に同旅行を懐かしく思い出し、絵と文を改めた『西遊日記』6冊を清書。この自筆本、なんと大正5年(何故か陸軍士官学校書庫で)発見まで眠り続け、昭和2年に初刊行。
参考に「久能山」の次に掲載の駿河湾を眼下に富士山眺望の両方の絵をアップ。絵上は『画図西遊譚』(第1巻のコマ番号16)が銅版画を意識してか、鋭く短い筆致の風景画。絵下は国立博物館蔵アーカイブス『江漢西遊日記』(本文17P)は柔らか筆線と濃淡の絵。「久能山観音寺ヨリ富嶽ヲ望図」が、お上に忖度して「八部山ヨリ眺望ノ図」になっている。
この両絵と雪舟「富士三保清見寺図」、江漢の寛政11年作の油絵「駿河湾富士遠望図」を併せ見るも一興。むろん各「西遊もの」併読がお薦めです。
2017-12-31 10:32
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