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司馬江漢5:源内に親炙して [北斎・広重・江漢他]

mansyouteizu_1.jpg 江漢の師・宗紫石は平賀源内の友人の一人。源内著『物類品隲(ひんしつ)』(宝暦12年・1763刊。前年の「東都薬品会」全1300種展示から360種を掲載・全6巻)の第5巻「産物図会」の絵を担当。著者名は楠本雪渓(宗紫石)。また同著には源内も「鳩渓山人自画」クレジットで砂糖黍を絞る図を描いている。

 当時の源内はオランダ版『紅毛花譜』、ヨンストンス著『禽獣譜』、ドドニュース著『生殖本草』、アンボイス著『貝譜』、ブルックネル著『世界図』などを蔵書。紫石はそれら銅板挿絵を粉本に「ライオン図」なども描いている。杉田玄白『蘭学事始』には、当時の蘭学仲間の交流がいきいきと書かれている。若い江漢は、彼らの西洋情報に胸踊らせていたに違いない。

 同宝暦13年、源内は戯作『根南志具佐』(女形役者に捧げた小説)、『風流志道軒伝』(小人・巨人・足長・女だけの諸国遍歴物語。『ガリバー旅行記』匹敵の物語)刊。源内の才恐るべし。その数年後には平秩東作『水の行方』序文を、大田南畝『寝惚先生文集』序文も書いている。

 明和7年(1770)に鈴木春信、46歳で死去。江漢は源内にたきつけられて(小生説)春信の偽作を描く。同年、前回登場の万象亭(桂川甫周の弟、森嶋中良の著名)が『紅毛雑話』編・刊。驚く事に現在も人体デッサン基本の人体構成比率図を洋書から模写。(写真は:国会図書館所蔵

 明和8年、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らが小塚原の腑分けに立ち会う。その3年後に安永3年(1774)に玄白『解体新書』刊。挿絵は秋田藩の小野田直武。彼は源内が秋田藩の鉱山視察の際に出会った青年。源内が泊まった造り酒屋に良い屏風絵があって、訊ねると直武作。彼に「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」。直武困惑に、源内が洋風陰影を教えたとか。26歳の青年藩主義敦(狭山暁山)も和洋折衷画法の腕を磨いて「秋田蘭画」を形成。藩主は直武に源内の洋画法を学ばせるべく上京させ、その最初の仕事が『解体新書』挿絵だった。

 では源内がいかに洋画を学んだか。彼の長崎遊学は宝暦2年、25歳の時。2回目は明和7年で「阿蘭陀翻訳御用」で長崎へ。だが源内は語学不得手。翻訳勉強をせずに『陶芸工夫書』などを書いていた。だが長崎で観た油絵・ガラス絵・銅版画、そして技法も訊いて「ヨシ!」とばかりに自ら描いてみたのが油絵『西洋婦人図』。手製キャンバスに油絵具で模写。素人の初油絵とすれば上出来だろう。

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