SSブログ

司馬江漢8:源内と直武はゲイ? [北斎・広重・江漢他]

gennai1_1.jpg 江漢が天明8年(1788)に長崎へ旅立ったので休憩余談。

 江漢出立の12年前、安永5年(1776)に平賀源内はエレキテル復元に成功。エレキテル=電気治療器に江戸中が大騒ぎ。だがその3年後に源内は獄中死。翌9年に小野田直武32歳も死去。蘭学・蘭画史の謎。

 それを探って平野威馬雄『平賀源内の生涯』を読めば、解説文が田中優子先生だった。優子先生(現・法政大総長)は自著『江戸の恋』で<源内と直武はゲイだった>と記している。

 ~源内『根南志具佐』は、女形役者の二代目・瀬川菊之丞に捧げた小説。源内は実生活でも役者に溺れた。源内宅には常に男性複数が同居。そのなかで直武は特別な存在。相当の美青年ではなかったかと記していた。

 『解体新書』挿絵をはじめで江戸滞在4年。安永6年に一時帰郷。江戸に戻って1年後に謹慎処分(理由不明)で急きょ秋田に戻された。彼が帰途についた直後に源内の殺人事件~獄中死。直武も半年後に死去。病死とされるも血染めの裃が残されていたとかで、自害ではないかと推測していた。

 「やむにやまれぬ理由で人を斬らねばならぬとしたら、源内はやはり直武を江戸から逃がすであろう。殺人の理由を追及されて、それが直武に係わる事であれば、獄中で自害するかもしれない。一方直武の死が自害ならば、どう考えたって〝後追い自殺〟である」(他に佐竹藩内紛、直武の酒の失敗等々説があるらしい)

 また田中優子先生は平野著の解説で興味深い指摘をしていた。「源内は紙で遊んだ人である。源内が江戸に出てきてすぐに四国高松藩(出身地)で作られた「衆鱗図」が幕府に献上された。源内の関わりは不明だが、これは紙に凸凹をつけて感触も愉しむ絵。春信の「錦絵」が源内アイデアなら、春信の「空摺り」(凹凸付け)も源内の発案だろう。

 源内の有名な「金唐革」も紙に凹凸を付けて革を模して煙草入れ、壁紙などになった。源内の「火浣布」も燃えない不思議な紙のようなもの。彼は紙で遊ぶことを教えてくれた人だった、と記す。

 また源内の油絵、直武や秋田藩主・佐竹曙山らの「秋田蘭画」は、日本と中国と欧州の絵がそのまま混在した奇妙な東洋画。それは模倣ではなく完璧に混合形態で、それを阿部公房は「文化のクレオーレ現象」と言っている。秋田蘭画もクレオーレ変異の産物だろうと記していた。

 自分の基礎がしっかり出来ているから、単なる模倣ではなく消化する力が強い。その系譜が源内~直武~鈴木春信~江漢へと繋がった。同様指摘は黒田著にもあった。「当時の洋画家は、それまでの和漢画の素養を放棄せず、むしろ駆使し折衷して独自の画風を生み出している」。小生はさらに続け加えたい。北斎はじめ浮世絵に刺激を受けた印象派らのジャポニスムもまた然りと。

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。