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ジャポニスム16:北斎の戯作&画 [北斎・広重・江漢他]

tokitaro2_1.jpg 今回は〝おまけ〟で、北斎が「時太郎可候」名で戯作者&絵師で仕上げた『竈将軍勘略巻』の巻末「舌代」文と自画像の模写遊び。

 同作の刊は寛政十二年(1800年)。北斎四十一歳。「戯作者&絵師」は山東京伝が絵師・北尾政寅でもあったように当時は特別珍しいことでもなし。この世で隠居中の小生も、現役期はライター&デザイナーだった。以下、参考原画は国会図書館デジタルデータベース。「漢字くずし方辞典」を久々に紐解いての筆写です。

 舌代 不調法なる戯作仕差上申候(つかまつりさしあげもうしそうろう)。是ニ而(にて)、御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々當年評判すこしもよ路しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(早々=急ぎ書き、不具=気持ちを充分に言い表わせていませんがの意の手紙結文) 十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 参考:鈴木重三校注

 作者名「時太郎可候」の時太郎=幼名。可候=かこう(そうべく、そうろうべく)。北斎が勝川派から離脱して「春朗」から琳派「宗理」改名が寛政七年頃。そして「宗理」を捨てて「可候」へ。「北斎」に至る狭間期で未だ前途厳しく、絵一筋の心持に至らずの「戯作&絵」だったのだろうか。未だ馬琴と大喧嘩をしていない。

 だが自画像を見れば、江戸時代の四十歳らしく?すっかりお爺さん姿。しかし本領発揮はこれからで、相当に奥手(大器晩成)だったと再認識です。

 これでシリーズ終了と思ったが、北斎について知りたいことが幾つも出てきた。北斎は〝遠近法〟をはじめの新画法をどのように身に付けてきたのだろうか。次はその辺を探ってみる。(続く)

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