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ジャポニスム8:林忠正とはⅡ [北斎・広重・江漢他]

tadamasa1_1.jpg 「忠正の店」「ビングの店」活況で、日本の浮世絵は根こそぎ海外へ流出。「浮世絵の生命は実に風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外へ輸出せられたり。悲しからずや」(荷風)

 当時の日本では浮世絵は庶民のもの。F.ブリンクリーが銀座の夜店で〝紙屑扱い〟の歌麿、師宣らの一枚一銭に十銭払って、店主が腰を抜かしたとか。それがまぁ、パリでは数百フランで飛ぶように売れた。国内価格も跳ね上がって十四、五銭に。

 1888年(明治二十二年)のゴッホの記録では1枚3フラン。それが数年後に250~300フラン。当時のパリの小市民一ヶ月生活費が100~200フラン。それで浮世絵500フランの高値にも。浮世絵バブルだな。

 かくして忠正は巨万の富を得た。一方で浮世絵が欲しいドガ、ルノアールなどには絵と交換か購入で〝印象派コレクション〟を充実。日本で西洋美術館を建てる計画だったとか。

 フェノロサはパリの〝北斎絶賛〟に「彼は町絵師に過ぎず伝統的日本画は~」と寄稿して一蹴された過去あり。しかし1898年(明治三十一年)の小林文七主催「浮世絵展」カタログに「浮世絵は中国の影響を受けた官学派の絵画と違い、純粋に日本の風土から生まれた絵画で、その版画は最古の傑作」と立派な浮世絵解説を記したとか。

 1889年、日本では洋風画家らが「明治美術会」を発足。忠正も賛助会員になって、多額の寄付とコレクションを参考作品として展示。また黒田清輝をラファエル・コランに紹介。黒田は帰朝後に「明治美術会」出品で認められるようになった。

 1891年(明治二十四年)、ゴングール『歌麿~靑楼の画家』を刊。1896年に『北斎~十八世紀の日本美術』を刊。忠正は日本資料の仏語翻訳で協力した。しかし次第にブームは低迷。忠正はシカゴ万博などに参加も不成功。1900年(明治三十三年)のパリ万博の事務官長就任。仏国政府、日本政府から受勲。

 これを機にパリの店仕舞い。「売り立てカタログ」は三冊。1905年に帰国。現・新橋演舞場の二千坪の地に自邸を建てたが、翌年に五十二歳で没。印象派コレクションを帝国博物館で引き取るよう望むが、印象派の価値が認められずニューヨークで競売になる。

 長くなったので荷風『江戸芸術論』の引用で終わる。~林氏は尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に古美術品を競売に附するに際し浩瀚なる写真版目録を出版せり。この書今に到るもなほ斯道研究者必須の参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひ取りてこれを欧州人に紹介し以て欧州近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりというべきなり。

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