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「山海図絵」の秘密:不染鉄(1) [週末大島暮し]

sannkaizue_1.jpg 「東京ステーションギャラリー」で開催「没後40年 幻の画家 不染鉄(ふせんてつ)」へ行った。ギャラリ―には東京駅竣工時(大正3年)の煉瓦壁あり。まずは代表作「山海図絵」(伊豆の追憶)に注目。

 この絵、なんと大島・野田浜から見た伊豆の風景だというから驚くじゃないか。同作の元になったスケッチ「伊豆風景」(下)も展示で、不染の文が紹介されていた。「大正十二年十二月廿五日 大島野田浜海岸にて伊豆を見て描く。暖かい冬の日向の下、枯草のそよぐ上に、煙草を吸ひながら海を見る。はるかに富士山に雪がふってるのを見、寒い国の冬を想ひ出す。枯木山や、かさかさした笹にふりつむ雪、霜の道。(中略)~数日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない」

 伊豆から島に渡ったのだろう。その時に見た伊豆の風景を、大島・野田浜で蘇らせつつ描いている。見えるはずもない汽車まで走らせて、富士山の奥には雪降る日本海の漁村まで描いている。「山海図絵」は大正14年の第6回帝展入選で不染鉄の代表作。

nodahamafuji1_1.jpg 小生も絵を描き始めた2年前に乳ヶ崎(野田浜)を数度描いた。乳ヶ崎トンネル越しに見える海と富士山を描いた際には、ハッキリ見えぬのに伊豆の町並を描き込んだ。小生の想像力はそこまでだったが、不鉄は時空を超えた。

 図録解説文には、同作品に不染の特質=中心性、俯瞰構図、マクロ的視線とミクロ的視線の混淆、多視線のすべてがここに現れていると指摘されていた。あの<バベルの塔>を描いたブリューゲルと共通点が多いとも指摘。

 図録より不染鉄の経歴を読む。明治24年、小石川・光円寺(現存、茗荷谷駅の近く。大田南畝と共に活躍した狂歌師・鹿都部真顔の墓あり)生まれ。浄土宗の名門・芝中学入学もワルで放校。画家を目指し、小石川の川端画学校の日本画家・山田敬中の門下生から大正3年に日本美術院の研究会員へ。だが金も自信もなく行き場も失って、妻(はな)と共に霊岸島から汽船に乗った。〝行き場も失って〟の裏には、図録年譜に18歳で母を亡くし、22歳で父を亡くしたことの影響があろう。

「廿七の秋(正しくは大正3年23歳)東京に住むところのなくなった私は病ひ上りの家内と二人東京を小さな汽船に乗って話にきく大島へまいりました。途中風雨夜中からはげしく目的地まで行く事が出来ず、岡田村という淋しい村につきました。そこで三年程都を忘れて漁師と遊びくらしました」

 その後、京都市立絵画専門学校日本画予科から本科を首席で卒業。その年(大正12年、32歳)に大島を再訪して描いたのが「山海図絵」。彼は妻を亡くした晩年も、共に暮した岡田村を思い出して実に多くの大島を描き遺している。次回は〝不染鉄にとっての大島とは〟、その次に〝岡田村で暮した3年間の様子〟を探ってみたい。(6月下旬の島暮しの思い出6:付録・不染鉄1)

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