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松本清張(2)『半生の記』 [読書・言葉備忘録]

seicyosyonen1_1.jpg 松本清張はスル―しようか。まずはお馴染み半藤一利の書『清張さんと司馬さん』を手にする。こんな逸話が紹介されていた。清張さんが朝日・森本哲郎へ「作家の条件って何だと思う?」「才能でしょう」「違う。原稿用紙を置いた机の前に、どれくらい長く座っていられるかというその忍耐力さ」。

 また「理解力・直観力・集中力」の項で、「(清張の)本の読み方の速いこと。こっちがコーヒーを一杯飲む間に、三百ページくらいの本を三冊読み終わった、なんて経験をした担当編集者は山ほどいる。(中略)大事な個所の活字が、さぁ読んで下さいと立ってくるそうな」

 ふむ、小生にそんな忍耐力はないが、本を読み飛ばすことは出来る。まずは彼がどんな人物かを知るべく『半生の記』を読む。以下、同一冊をブログ一回分に私流抄録。

 明治42年(1909)生まれ。小学高等科卒。最近の弊ブログ登場人物は、概ね官僚子息で高学歴かつ欧米留学の方が多かった。42歳先輩の夏目漱石は官費留学。30歳先輩の永井荷風、21歳先輩の九鬼周造は官僚子息で親がかり遊学。8歳後輩の建築家・吉阪隆正は官僚の親と子供時分から海外暮し。そんな彼らとは真逆の人生だ。

 清張の父は、鳥取・伯耆の寒村・日南邑(日南町、旧・谷戸村)生まれ。祖母は妊娠中に離縁され、父は貧乏所帯の他家へ養子。彼は長じて養子先から出奔。広島の底辺で暮した。広島の農家の娘で紡績女工をしていた岡田タニと結婚。タニは先生に怒られて通学拒否。「眼に一丁字のない母」(文字が読めなかった母)。

 両親は広島から小倉で暮し、清張誕生。姉二人が嬰児死亡で、一人息子として育てられた。小倉から下関へ。街道沿いの家で餅家を開業。夫婦喧嘩絶えず。父は新聞の政治記事に関心を寄せ、歴史(講談)を清張に語る。米穀取引で金が出来ると遊郭の女に入れあげた挙句はジリ貧。家に戻れず木賃宿暮し。(この辺は『父系の指』に詳しい)

 父が戻って小倉へ移転。両親は露天商、今川焼やラムネ売りの店を営む。小倉の尋常小学校高等科卒で川北電気・小倉出張所の給仕へ。15歳、11円の給与も家計の足しになった。(この辺は『河西電気出張所』に詳しい)

 19歳、同社倒産で失業。手に職をと石版印刷の見習い職人へ。連夜帰宅は11痔。九州で一番大きい博多のオフセット印刷所へ転職。昭和4年、非合法出版の「戦旗」を読み〝アカ〟と疑われ、拷問は竹刀程度で20日間ほど留置。(これも小説になっているかも)。

 両親は飲み屋失敗で魚の行商。27歳、昭和11年に内田ナヲと結婚。祖母・両親・妻子の大黒柱。昭和12年、朝日新聞が小倉に西部支社設立で、同社嘱託版下描きになる。画用紙に墨で描く版下制作。33歳、昭和17年、正社員になるも小卒で昇進見込みなし。いつしか4人もの子持ち。一家7人の生活を支えるも35歳で召集。カット絵は16歳の給仕・清張少年。写真を見たら意外なる〝美少年〟で、驚き描いてみた。(3に続く)


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