SSブログ

半藤一利の漱石と荷風(漱石7) [永井荷風関連]

kafubannen2_1.jpg 江藤淳の他に「漱石と荷風」両人に取り組んだもう一人の代表が半藤一利だろう。氏は荷風死去の報にいち早く同宅へ駆けつけ、創刊間もない「週刊文春」の特集記事を書いている。「中央公論」のサイトで、氏は嵐山光三郎にその経緯を語っていた。凡そこんな内容。

 ~「荷風死去」の報に編集長が〝荷風宅を知っているヤツは〟に手をあげた。なぜ知っていたか。最晩年の荷風さんを浅草で見かけ、足どりが覚束なかったのでタクシーで後をつけた。押上の駅まで行って電車に乗り換えた。そこから家に入るまでを見届たことがあった。嵐山は〝まるでストーカーですね〟。それほど好きだったと語っていた。

 半藤さんは向島生まれ。東京大空襲に遭って長岡市で終戦。江戸っ子に加え、長岡藩の薩長への恨みも加わった筋金入り薩長嫌い。荷風、漱石も薩長嫌い。さらに夏目漱石の孫・夏目末利子と結婚。「荷風と漱石」を書くことが宿命とも言える昭和史探偵家。

 ついでに記せば半藤・嵐山の二人はテレビ番組「荷風と谷崎 終戦前夜の晩餐」に出演。偏奇館の空襲炎上で東京脱出した荷風さんが、谷崎潤一郎の疎開先、岡山県勝山の元酒楼の離れで〝すき焼き〟を食したのを、二人で再現映像を撮ったとか。半藤さん、荷風さんと同じく長身で馬面。同じ丸眼鏡で出演したらしい。

 さて、手許に氏の『永井荷風の昭和』と『荷風さんの戦後』、そして『漱石先生ぞな、もし』と『漱石先生 お久しぶりです』がある。江藤淳と違って、幾皮も剥けた洒脱な文章。まず『永井荷風の昭和』の小見出し「夏目漱石」を読む。

 荷風さんが漱石を二度訪ねていると、『荷風書簡集』の明治43年3月の手紙を紹介。「拝呈 先日は御多忙中長座致し失礼仕り候。其の節お話し有之候小宮豊隆氏の事、昨日慶応義塾の方より是非とも近代独逸文学の講師として招聘致し度き旨来り候に付き~」。

 さらに荷風の慶応教授について。森鴎外が最初に白羽の矢を立てたのが漱石で、漱石は朝日新聞が辞め難く、また京都帝大や早大からも教授依頼の先口があったので断った。そのお鉢が荷風さんにまわったことを、荷風さんも知っていたのではなかろうかと書いていた。

 漱石は、荷風『冷笑』で展開された文明開化のうさん臭さへの鋭い批判精神に同感。荷風『新帰朝者の日記』と漱石『それから』の両者記述例を挙げて、二人が同じ〝明治観〟を持っていたと記す。また二人は江戸っ子。権勢富貴に対する敵視と嫌悪感、徒党を嫌い、自分の好みを貫こうとする姿勢も同じ。

 あえて二人の違いを言えば、漱石は怒りと共に悲しみがあり、常に自分のうちに向けられたぎりぎりの懐疑から脱することが出来なかったのに比し、荷風さんはそれらへの侮辱があって、漱石のように笑いでまぎらわすやさしさはなく、世から孤立しようとも微塵もたじろがぬ強さがあったと記していた。

 そして半藤氏は、漱石に「荷風論」のなかったことが不思議で、荷風さんに「漱石論」がなかったのが不思議だと記していた。長くなったのでここで区切る。

 挿絵は荷風さんのベレー帽姿。荷風さんがこのベレー帽をいつ買ったか、なぁ~んてことも半藤氏はしっかり調べている。それを引用すればいいが、小生も荷風好きゆえ、自分で調べなくては気が済まない。文庫の『摘録 断腸亭日乗』は省略なので、全集の二十四巻を引っ張り出す。「昭和二十二年十一月十五日 晴。午後海神。帰路市川の町にてベレーを買ふ。弐百五拾円也。細雪批評執筆」。荷風さん69歳。京成線「海神」駅にある知人別宅を借りて執筆していた時期だ。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。